ろ 5 う みなとみらいのイベント会場で発砲事件発生。警官一名が頭部に被弾して殉職。一般客一 名が重神奈川県警からの入電に玉川署の捜査本部は張りつめた。 発砲したのは一一十代前半の女。狙われたのは、殉職した警官に職務質問を受けていた女性 で、茶色のメッシュが入ったショ 1 ト・ヘアでサマーセータ 1 姿という目撃情報が入った 時、益岡だけでなく捜査本部の誰もが、手配中の有働公子だと直感した。 事件発生から三時間後の午後一時、益岡にとっては絶望的な報告が県警幹部から電話でも たらされた。 後頭部を撃たれて即死した警官の体から拳銃が奪われていて、そのプラスチック製のホル スタ 1 から検出された指紋が、有働公子のものと一致したという。 楢崎あゆみちゃん誘拐事件については報道協定が績はれているため、県警は発砲事件につ いて有働公子の公開手配をたった今行なったと益岡に告げた。まったくの事後報告である。 益岡が茫然と受話器を置いた直後、擎視庁の広報担当から電話が入った。桜田門の記者ク 智永の微笑みの顔に固い意志がみなぎっている。車を発進させ、ばうっと立ち尽くす一一人 の若者の前から走り去っていった。
人とその家族は誰でも「誘拐保険」の適用を受けることができた。 治安が悪い史用米などでは、誘拐事件が発生しても現地の警察は介入させず、コンサルタ ント会社が独自に動くことになるが、欧米諸国の一般の地域では擎〕察への通報が義務づけら れ、保険会社は身代金として保険金は支払うものの、事件の解決には擎〔察が当たることにな る。日本もその例外ではない。つまり、誘拐がビジネスとして横行している地域では金は犯 人側に渡るが、それ以外の地域では擎が早期解決にあたり、身代金は無傷のまま保険会社 に返るという見通しである。 契約書には、その社員が本国勤務になっても、一一年以上、海外駐在で掛け金を支払ってい れば誘拐保険の適用を受けられるという条項があるため、あゆみちゃんの身代金も保険会社 が用意することになった。日本国内において誘拐保険が適用されることになったのは、もち ろん今回の事件が初めてである。 同日午後四時、現金が楢崎家に届けられた。一一十四時間以内に用意せよというのが犯人側 の要求であったが、それより十時間早く、全額用意される。海外で誘拐事件に幾度となく遭 遇している九条物産らしく、対応はすこぶる早かったというのが私の印象である。旧札一万 円札で一億は重さ十キロ、ジュラルミン・ケースひと箱分に相当する。 【被害者対策のため両親から聴取した、あゆみちゃんについてのいくつかの事柄】 一九九一年七月四日、あゆみちゃんは埼玉県大宮市の病院で生まれる。母乳で育ち、赤ち
498 けてくれると、主犯の澤松智永は確信していたんでしよう」 「何がおっしやりたいんですか」 香澄は毅然たる表情を崩さない。 「今回の事件は、犯人側と被害者が結託していたという点で前例のない誘拐事件でした」 「主人がどんな関わり方をしていたのか、私も刑事さんから聞きました。ただただ驚いてい ます」 「これは狂一一 = ロ誘拐とは意味が違います。犯人は知恵を絞って身代金奪取を計画した。被害者 側も知恵の限りを尽くして、何とか相手側に身代金を渡そうとした。両者は決して馴れあっ た関係ではなかった。取引が行なわれないとあゆみちゃんの命がないかもしれないという恐 怖を抱えながら、子供を誘拐された親も犯行計画に加わっていたという意味で特殊な事件だ ったのです」 公子は一歩、香澄に近寄る。杖がコトリと鳴った。「犯人側は私を身代金の運び役に指名 した。澤松智永は私の身近に内通者がいることをほのめかした。私が母一人子一人で息子を 育てているという事情も知っていた。はじめ私は、私のプライベートを知っている警察関係 者に共犯がいるのではと疑いました。だから息子を奪われたことを誰にも打ち明けることが できなかった。そうではなかったんです。この婦人擎〕官は子供のためなら何だってする、子 供のためなら職務を放棄し、命まで投けだすに違いないと犯人側に教えた人間は他にいた。
・ : と移動場所を指示し、白石氏と配備の警官は転々とさせられたが、犯人らしき人物、不 審車両は見当たらず。 この場所移動から明らかなように、犯人は、擎視庁管内と神奈川県警の管轄を交互に指定 しており、捜査現場を混乱させることが目的ではないかと思われる。 ちくいち 白石氏の移動が逐一楢崎宅に報告される中、香澄さんが緊張状態に耐えられず貧血で倒れ る。救急車を呼ばうとしたが、香澄さんには家から一歩も離れたくないという固い意志があ り、マンションに医師と看護婦を呼ぶことにする。 占治療でひと晩休んでいただく。 【九月十一日】 彰一さんのバンコク時代の同僚であり、現在、本国勤務となっている三名の九条物産社員 の、誘拐事件発生時のアリバイが確認される。三名とも、事件への直接的な関与はないと見 られる。ただし犯行には参加していなくても、内部事情を犯人側に流している疑いはあるた め、交遊関係を調査する。 犯人側は明らかに、九条物産の内部事情を把握している。一億円の身代金が保険会社によ ミって用意されることも計算済みだったと思われる。そうなると、警察が最初から介入するこ とは予想していたわけで、犯人が自ら言っているように、警察に追われるリスクの中で身代 金の受け取りをしなければならない。犯人にいかなる勝算があって、このような状況を作り はあく
思った。 よしのぶ 一九六三年三月三十一日、吉展ちゃん誘拐事件発生の日、澤松智永は東京都大田区大森で 生まれた。 いりや 桜の開花宣言が出されようとしている花曇りの日曜日、タ闇迫る台東区入谷の公園で四歳 の男児が何者かに誘拐された。身代金五十万を要求した犯人は、母親に金を運ばせて上野一 帯を引きずり回し、警察の手配をかいくぐって身代金を奪って逃走した。警察側の大失態だ った。かくして吉展ちゃん誘拐事件は、犯人が身代金奪取に成功した数少ない例のひとっと して知られることになる。 おばらたもっ 犯人の小原保が別件逮捕から吉展ちゃんの誘拐殺人を自供したのは、事件発生から一一年四 カ月後だった。 せいぜっ その頃、智永の両親は血で染まったエプロン姿で凄絶な夫婦喧嘩を繰り返していた。 お互いの流血ではない。経営する肉屋の仕事で付いた血の跡だった。父親の酒癖の悪さと 母親の浪費癖が原因となった夫婦のいさかいは、幼い智水の目には獣同士の掴み合いを思わ せた。 喧嘩は自分のせいに違いない。部屋の隅で震えながら、幼い智永はそう思った。自分さえ いなくなれば家は笑いに包まれるのだ、と思わずにいられなかった。昼は自分の前で殴りあ ふすま っていた。ところが夜になると、襖の向こうで両親は裸の体を舐めあい、歓びの声をあげて
貴之を氷川台の保育園に入れて公子は職場に戻った。大学時代の友人が離婚して隣町に住 んでいたこともあり、防犯課の仕事が忙しい時は子守りを頼むことができる。 しん , 」っちょ、つ 渋谷署では女子高生のデートクラブ摘発で成績を上げたが、公子の真骨頂はやはり調書作 つづ りにある。プランド物欲しさで体を売る女子高生の肉声がそのまま書面に綴られた。 擎視庁捜査一課に上がったのは、今から半年前だった。 捜査一課の中で、誘拐事件や企業恐喝事件を担当するため記者クラブ立ち入り禁止の特殊 犯捜査係、それが公子の職場となった。 桜田門の庁舎六階にある捜査一課の大部屋は、大企業の営業部のように、一面がガラス張 りで陽光溢れる中、事務デスクがずらりと並び、強行犯係、火災犯係、特殊犯係と、ロッカ 1 で区切られている。捜査一課長の下に、参謀格の理事官、さらに八人の管理官が総勢一一百 八十人の捜査一課を指揮しているが、普段部屋にいるのは、書類決裁や連絡係に残っている 係長か、持ち回りで事件発生のスクランプルに備える「在庁」の捜査員だけで、閑散として しよかっしょ いる。どの係も所轄署の捜査本部に出張っていて、昼間はほとんど誰もいないのだ。 捜査一課の刑事たちは、苛酷な捜査が終了すると十日前後の休みが与えられる。休暇が終 われば係ごとに交代で事件待ちとなる。これを「在庁」と呼び、その初日には大部屋の神棚 おみき に御神酒を捧げるという習慣がある。犯罪が起こらない在庁期間ができるだけ長くなるよう に、という願いがこめられる。 あふ
115 「おい、母親」 片野坂は曽根から顔をそらし、公子を狙いすましたように見た。 「何でしよう」 ほアごき こちらに矛先が向かっているようだ。公子は身構える。 「なぜ、母親は警察の介入を認めた。警察に通報したかとホシに訊かれて、なぜあっさりと 認めた」 九月十日、朝の電話のことを一一 = ロっている。その数時間前の深夜、捜査本部は駅前に白石に 金を持たせて待機させ、犯人が現われるのを待った。肩透かしを食らわされた夜があけ、か かってきた電話である。犯人は現場付近で警官らしき姿を見たと言い、母親役の公子にその ことで問い詰めたのだった。 「ホシは九条物産の内情に詳しい人間です。会社が警察に誘拐事件として通報しなければ一 億円が出ないことを知っている。隠しだてをしても仕方がないと思いました」 しかも日本における誘拐事件では、ほば百パーセント、被圭暑は警察に通報するという現 実がある。シラを切り、警察には知らせていませんと嘘をつき続けることは、犯人を余計に 苛立たせて事態の悪化を招くというデータもある。 「腹芸で切り抜けろとは教えてもらわなかったのか」 公子を見る片野坂の目に、くつきりと敵意が浮かんでいる。
が用意するべきかどうかが議題にのばった。 本来ならば楢崎彰一氏への貸し入れという形で処理するところだが、役員の一人が、これ は昨年度から設けられた「誘拐保険」を適用する状況ではないかと意見を述べたことによ り、この件について一一時間の討議があった。 九条物産が海外での誘拐ビジネス対策に保険金を導入することになったのは、一昨年、メ キシコのティファナ支社長が地一兀マフィアに拉致されたという事件がきっかけである。 ティファナ市は、メキシコが輸出振興のために設けている保税加工区の代表的地域で、輸 入に税金がかからないうえ、輸出がいずれもドル建てでできるなどの経済的メリットから、 六十社に及ぶ日本企業が進出している土地でもある。一方で、この地は麻薬の密輸基地とし ての裏の顔も持っていて、メキシコの二大麻薬マフィアのひとつ、アレャーノ・フェリック スの本拠地もここにあり、三千ドル出せば人殺しが雇える街としても名高いという。 地元のゴルフ場からの帰り道で、ロールスロイスに乗った九条物産ティファナ支社長が覆 面の三人組によって連れ去られた。 この事件は地一兀の有力紙にスクープされ、犯人側と水面下で交渉をして極秘に解決するつ もりだった九条物産ティファナ支社は、記者会見を開いて誘拐の事実を明らかにするよりな かった。 身代金の運搬車両をスクープ狙いのマスコミが追いかけ回している状況で、現地の警察は
も不倫も勝手にどうぞ、というムードになりやすいのだ。 かいむ それまで恋愛関係が皆無に等しかった二十四歳の智永は、学校帰りのラプホテルで生活指 導の教師と逢瀬をかさね、快楽のバリエ 1 ションを少しずつ覚えていった。そこに愛があ る。ここにも愛がある。肉体から覚えたことを「愛」と呼ぶことで、智永は細胞がただれて しまいそうな教師生活に何とか踏みとどまっていた。 しかし学校は一一人の関係に気づき、生活指導の教師を他の学校に追いやることで事態の解 決をみた。そういう形で愛人関係が終わったことに、智永はむしろホッと胸を撫で下ろし た。快楽と愛との齟齬に気づき始めていた頃でもあった。 一一十六歳の時、智永の教師生活を根底から揺さぶる事件が隣町で起きる。高校中退の少年 りようじよく グループが、千葉県在住の女子高生を監禁して、一カ月に及ぶ凌辱の末、死体を埋立地に 捨てたという猟奇事件だった。 加害者の少年の一人は、智永の一一年前の教え子だった。クラスの副担任をしていた頃、 「智永先生」と、まだ声変わりしていない声で自分を呼ぶ小柄な男子生徒が残虐な殺人者に 変貌したことがどうしても信じられない一方で、加害者クループの心の変遷と被害者の絶望 ミが手に取るように理解できた。 監禁された少女は当初四十九キロあった体重が三十三キロになっていた。少年たちはだん だん彼女に性的魅力を感じなくなってきた。風呂にも入らない。生傷が化膿して悪臭が漂
と打ち解け、気持ちの通った調書を作ると認められた公子には、誘拐事件における「被害者 対策」という仕事が期待されている。 身代金目的の誘拐事件が発生すると、犯人は必ずといっていいほど「母親を電話に出せ」 と求める。腹を痛めていない父親よりも、母性愛を揺さぶろうと考えるためだ。 すると本物の母親では冷静に対処できない。電話の逆探知のための時間稼ぎもしなくては ならない。そのため担当となった婦警は、取り乱している母親から子供についての情報を事 前に聞きだし、犯人から電話があった時は、悲しみと恐布に震えた母親役を演じなければな らない。これが「被害者対策。の主な役目である。 誘拐事件発生時のマニュアルについては、特殊犯捜査係は日頃から訓練を積んでいる。警 視庁管轄外の地方で事件が起こった時にもタスク・フォースとして派遣され、県警の捜査を 陣頭指揮することも多い ばかず 誘拐事件に対処する訓練は、企業恐喝事件で場数を踏むしかない。企業恐喝とは、商品を 人質にとった誘拐事件と一一一一口えるからだ。 「食品に青酸カリを入れた。金をよこせ」と電話してくるような単純な威力業務妨害で、特 殊犯捜査係は奔走させられる。公子がこの三日間、車の中で張込みに明け暮れた事件もその 類だった。電話の逆探知で逮捕できるのが大部分、残りは金の受け取り現場で必ず逮捕でき る。企業と犯人の裏取引がなければ百パーセントの検挙率といってよい。 たぐい