私を犯人側に推薦した人物は確かに内部にいた。奥さん、あなたでしよう ? 」 香澄は鎧をまとい続けている。表情に乱れはない。 「ご主人が最後に白石さんに語った言葉はこうでした。婦人警官の息子を誘拐することを思 いついたのは、あいつだったんだ、あの女なんだ : ・ : 。私の息子を誘拐することを考えた 『あの女』とは澤松智永のことだったんでしようか。はじめは私もそう思いました。だけど もし、奥さんのことを指しているんだとしたら、どうなるんでしよう」 「どうなるんですか ? 」 香澄はひたと見返す。 「あなたと犯人側の力関係が想像できました。主犯は一一人いたんです。一一人とも女だった。 澤松智永と奥さんです。違いますか ? 一一人は敵対しながら知恵を出しあうという不思議な 関係だった。澤松智永はあゆみちゃんを誘拐し、ふたつのことを要求した。自分たちの臓器 ビジネスに加わること。澤松智永にとって、あなたの力なくしてそのビジネスは成りたたな ) 。もうひとつの目的は九条物産と保険会社から金を引きだすことだった。だけどどうやっ てその金を運ばせるかは、『お前たち夫婦で考えろ』と澤松智永は突き放した。被害者が犯 人側に通じているという大きな利点があったから、彼女は『何とかできるはずだ』と奥さん をせつついた。しかし何度か身代金の受け渡し場所を炬疋して、警察を振り回してみたけれ ど、なかなか突破口は見つからない。 ) しくら被圭暑が犯人と内通していても、厳重な配備を ご 7
だ 12 7 活の友人もさすがに寝入る時間だ。 「私。公子。ごめん起こして」 「どうしたの ? 」 「貴之と今日会った ? 」 「貴之、今日はどうしてた ? 「だって公子、家にいるんでしよ、仕事がやっと終わったんでしよう ? 「誰がそう言ったの」 「タカちゃんからファクスが届いた。いつだっけ。あっそうそう、月曜日よ。お母さんは仕 事が終わって帰ってくるからって。カレ 1 作ってあげようかと思って、肉と野菜、買ってお いたのに」 十四日の月曜日。三日前だ。犯人が貴之にそういうファクスを書かせたのだろうか。 「今どこよ公子。タカちゃん、アパートにいないの ? 」知子は異変の芽を嗅ぎ取ったよう 「ううん、目の前で寝てる」 公子は慌てて取り繕う。「今日も一日、留守にしてたから、貴之は何してたんだろうって 思って : : : ごめんね、起こしちゃって。まだ仕事してるんじゃないかと思って」
立ちあがり、カ 1 テンを開けた。薄い光だと思っていたのは、赤々としたタ陽だった。熱 の引いた智永と篤志の体を、ふたたび赤く燃えたたせる。 北新宿。五階建ての雑居ビルの最上階。下の階には会計事務暫その下には弁護士事務所 が入っている。窓の彼方、タ陽は西新宿の高層ビルをシルエットにしている。高層建築が墓 標のように見える時間帯だった。 十五畳ほどの広さの一室に、黒いセミダブルのべッドと大きな冷蔵庫、地図や写真で埋ま った広いテープル、あとは仕事用の機器が一角を占めている。生活感は薄そうだが、冷 蔵庫を開けると、ありとあらゆる食料品がぎっしりと詰まっている。智永も篤志も、もう一 人の女も、それぞれに得意料理がある。部屋の住人でないのに、篤志ともう一人の女は、こ このキッチンに自分用の鍋さえ持っている。 「なあ先生」 篤志がそう呼ぶ。智永と出会ってから七年間、変わらない呼び方だった。「 : : : どうなん だよ」 荷が」 「よかったか、よくなかったのか」 「曩局」 皮肉にもとれる、突き放した答え方。それでも智永は素直に答えたつもりだった。かって
「お腹が、減ったの : ドアの向こうから洩れている裸電球の明かりが、牢獄の中にも微かに届いている。薄い闇 に、あゆみの丸まった背中がかろうじて見える。 「近くに行って、 あゆみは応えてくれない。ところが貴之がそろそろとにじり寄ると、あゆみは支えを求め ていたかのように貴之のズダ袋の端を握った。 「どうしたの ? 」 「思いだせないの」 荷が ? 「お父さんとお母さんの顔が、思いだせないの」 その気持ちは貴之にもよく分かった。自分が自分でなくなるほうが楽なのかもしれないと 思い始めた頃から、貴之の脳裏でも母親の顔が薄れ始めている。 一一段べッドの下で眠りにつく母の顔も、コーンフレークにたつぶりミルクをかけてくれる 母の顔も輪郭をなくしている。 「もう会えないのかな。会えなくて、どんどん忘れるのかな」 「大丈夫だよ。きっとまた会えるよ。教えたろ。僕のお母さんは婦人警官なんだ。きっと助 けに来てくれるよ」
2 ろ 1 を破っていました。有働公子と犯人側に何らかの争いがあったと思われます」 「県警は手配を始めたんだな」 「現場から半径十キロに捜査員を配備しているそうです。特に厚木市内に重点配備です」 益岡は県警の捜査員十人がいるテ 1 プルのほうを振り向いた。捜査本部に出向している彼 らは針のむしろだろう。 そこで益岡は、おやっと思った。あの顔がない。一一度と見たくない顔だったが、その人間 の不在は薄気味悪い思いに駆りたてる。 「片野坂警部補はどうした」 県警の捜査員が立ち上がった。 「昨夜から走り回っています。有働公子が最終的に目指した場所は厚木市近辺ではないか と、今朝の時点で片野坂警部補から報告を受けています」 やや得意げに報告した県警の人間を、益岡は皮肉つばく見返した。 「初耳だね、それは」 。しちいち捜査本部が振り回されるのは忍びないと思いまし 「片野坂警部補一人の考えこ、 ) て」 嘘をつけ、情報の丸抱えではないかと益岡は言いたかった。この期に及んで、県警はまだ せこい縄張り争いをしている。
124 「そうではありません」 電気音の声が公子の誤解を嘲笑っていた。「あなたからいただこうとは思っていません。 九条物産と保険会社が楢崎あゆみのために用立てた一億円を、あなたの手で、こちらに届け ていただければ結構です」 噛みあわせの悪かった頭の歯車が、今や大車輪のように回転している。公子は犯人の狙い が読めてきた。 「そこに他の警官はいますか ? 」 「いない : : : 私一人」 あなたが他言す 「上司にこのことを報告したいでしようが、それだけはやめたほうがいい。 ればすぐ私に伝わるようになっている。あなたの身近な人間があなたを見張っています」 身近な人間 ? 捜査本部の人間か。犯人と通じている警官がいるのかと公子は咄嗟に考え る。 「リビングのテ 1 プルに電話機が三台。それを取り囲むようにして娘の両親が座り、警視庁 の特殊犯捜査係の人間が一一一名いる。父親と母親は別々の部屋で睡眠をとる。母親は娘の部屋 に入り浸って、あなたはっきっきりで慰めている。昨日の午後、捜査本部長が取り巻きを連 れて慰問に訪れた。神奈川県警は身代金受け渡し現場をビデオ撮影し、警視庁は周辺の様子 を写真におさめたが、楢崎彰一に見覚えのある人物は写っていなかった。どうですか、間違
247 奥のダイニングから女が現われる。妻の変わり果てた姿かと一瞬思った。短い髪をところ どころ茶色に染めている。サマーセーターをさつくり身にまとった年齢不詳の女だった。自 分は別の家に間違って足を踏み入れたのか。いや、家を間違えたのは女のほうだ。 「どちら様ですか」 玄関にいる人間が、廊下に立っている人間にそう問いかける。お互い立っている場所が逆 」っ ? 」 0 「古賀英寿さんですね」 風貌に似つかわしくない、低く落ち着いた女の声だった。女はズボンの尻ポケットから黒 革の手帳を取りだした。金文字で「擎視庁」とある。ますます似つかわしくない。 「鍵がかかっていなかったので、もしゃ何かあったのではないかと思いまして : : : 。失礼し ました」 廊下に突っ立っている女は、緊張した表情にぎこちない照れ笑いを浮かべた。古賀は家に あがり、女と相対した。 「見ていいですか」と警察手帳に手を差し伸べた。 黒革の表紙だけでは信じられなかったのだ。中身を見せてもらうことにした。女は「どう ひも ぞ」と差しだす。長い紐で手帳と女の体がつながれていた。 証明写真があった。制服と制帽。駐車違反をしても、いかにも融通のきかなそうな婦人警
480 占の針を手の甲に刺したあなたがとても可哀そうで、私も病室で一緒にクリスマス・イプ を迎えました。あなたのお父さんが仕事の帰りこ、 ) つよ ) お菓子の入った赤い長靴を買っ てきてくれました。 あなたの咳が喘息のものだと分かった時、私は本当にショックだったけど、この病気を征 服するために私も一緒に頑張ろうと思いました。ひとっ咳をするたびに体の力が搾りだされ ていくような、とても辛い病気です。あなたを見失うようになって、久しぶりに私もこの病 気に苦しめられました。 お父さんが死んでしまって、私はあなたをどうやって育てていけ。いいのか、とても悩み しか ました。時にはあまやかしたり、時には激しく叱り飛ばしたり、父親と母親を一緒にやらな くてはならない私は、あなたという人間の愛し方が分からなくなりました。子供の愛し方が 分からなくなることほど、母親にとって辛いことはないのです。 だから、とにかくあなたを抱きしめようと思いました。 喧嘩をしたあとでも、わがままなあなたに腹を立てても、あなたを強く抱きしめました。 あなたはあなたで、いつも怒ってばかりの私に腹を立てていたから、私の腕から抜けだそう ともがいていましたね。でも私は離さなかった。 あなたがかって私の肉体の一部だったことを思いだすまで、あなたの華奢な体が折れそう になるまで抱きしめ続けました。そのうち私たちは同じ体温になりました。怒りの熱はそう
374 「 : : : 分かりました。ちょっと待たせておいてください」 電話を切って、困惑の面持ちで公子に伝える。「受付に刑事が来ている。僕に何か訊きた いことがあるらしい」 県警の刑事。片野坂かもしれない。 「出口は他には ? 」 「この時間はひとっしかない。どこかで刑事をやり過ごして脱出するしかない」 「四カ旦則の事件を調べている私が、古賀さんに接触したんじゃないかと警察は疑ってるん です。もう古賀さんにお会いすることはできないでしよう。ここまでありがとう。あとは私 一人でやります。息子さんの行方も必ず突き止めます」 くじゅう 古賀は苦渋の顔つきになる。刑事が訪ねてきた以上、公子を一人で逃がすしかないと納得 したのか、頷い 「また逢えるね ? 「ええ : : : それを信じてます」 「気をつけて」 「古賀さんも、どうか気をつけて」 今、通じあっているこの気持ちは何だろう、と公子は思った。これまでは子供を奪われた 親同士として、精神の固い部分だけで通じあっていた。
512 「警察の人に頼んでも、なかなか逢わせてくれなかった」 「まだ重要参考人の身だから」 「息子さんは ? 」 「病院の庭で看護婦さんとサッカ 1 をしてる」 入院しているんだからほどほどにしなさいと叱ると、貴之は病室のべッドに戻って手紙を せっせと書き始めた。楢崎あゆみに宛てたものだった。そっと覗きこんだら、こんな一文が 見えた。 し」っ・・ ばくたちの街を早く見つけに ) 「怪我はどう ? 」 うず 「脚のほうは、季節の変わり目に疼くかもしれないって。顔の傷は : : : 残るみたい」 「そう・・ : : 」 「車を駄目にしちゃって、ごめんなさい。ロ 1 ンで弁償しますから」 。それに、しばらく日本には戻れない」 「来年で車検切れの車だ。気にしなくていし 「行くのね、バンコクに」 「ああ。直樹がどんなルートに乗せられて、体を切り売りされていったのか、分かるところ まで追いかけようと思う。息子の臓器を得て健康になった子供の姿をもし見ることができた ら、僕も直樹も、少しは救われそうな気がする」