405 「あのテレホン・カードはおそらく、有働が楢崎あゆみの部屋に置いたものです。先ほど、 有働の自宅から検出した子供の指紋と小指の指紋が一致しました。あれは有働の息子の小指 だったんです。有働が送られてきた小指が息子のものではないかと思い、鑑識にテレホン・ カードの指紋を照合させて確かめようとしたんです」 「どういうことだ。なぜ、有働公子の息子が : : : 」 「分かりませんか」 片野坂はすぐに理解できた。有働公子の息子が犯人グループに拉致された。だから有働公 子は職務を逸脱した。警官であることを捨て、母親であることを選んだ。 「有働が現金を持って逃走したのは犯人側の指小だったんです。金を届けなければ子供を殺 すと脅したんでしよう。有働は共犯ではない。みなとみらいでも、この学校でも、有働は犯 人と遭遇し、息子を取り返すために銃撃戦に及んだに違いありません」 「ならなぜ、捜査本部に報告しない。一人で行動しているのはなぜだ。それほど同僚が信頼 できないとい , っことかフ・ 曽根は言葉を詰まらせる。益岡の一一 = ロうことはもっともだった。犯人像に辿りついているの なら、有働公子は捜査本部にすべてを打ち明けるべきだ。 がタ、び 片野坂は益岡と捜一の刑事が雁首を並べている教室をあとにして、弾痕だらけの階段をゆ
有働公子と有働貴之。母と子が一度に消えた。彼らの身に何が起こったのかと、曽根はど さいな んよりした不安感に苛まれた。 片野坂は玉川署の捜査本部にいた。 捜査員たちは上古沢の採石工場と本厚木のパソコン・ショップに散っている。捜査本部は 県警と静かな綱引きをしながら有働公子の足どりを追っている。連絡係として会議室に残っ ている数名は皆、片野坂を遠巻きにして近寄ろうとはしない。 片野坂はファクス機の前で三本目の煙草に火をつけた。覚醒剤中毒者の禁断症状に似てい ると後輩に揶揄された左手が、開いたり閉じたり、それ自体が独立した生き物のように片野 坂の体の末端で激しくうごめいている。 擎視庁の情報処理センターからのファクスを待っていた。有働公子がパソコンで閲覧した 捜査資料は何だったのか。それが分かれば彼女の足どりが掴めるという確信があった。 三十分前にこの捜査本部に戻った時、擎視庁に戻る益岡と廊下で鉢合わせになった。 「君には期待していたんだけどね」と、キャリア本部長はあからさまな皮肉を片野坂に投げ かけた。本厚木のパソコン・ショップで有働公子を取り逃がした件だった。それは部下を鼓 舞する時の上司の物言いだ。この男は何を勘違いしているのか、と片野坂は失笑してやり過 わごした。
ろ 10 していた。足を棒にして地取りから帰ってきた捜査員たちが、担当課長に一日の報告をして いる。片野坂は玉川署の刑事課長に報生曇務があった。 有働公子が端末から閲覧していた連続幼児失踪事件の捜査ファイルをもとに、三件の被害 者宅を訪問したことをかいつまんで報告した。横浜在住の親は終日不在。川口と入間の親に は会うことができたが、有働公子らしき人間を見たことはないし、過去に会ったこともない と言われた。 「有働の写真を、君たち県警の連中は交番の警官にも持たせているそうだな」 報告のあと、刑事課長が片野坂に皮肉を言った。 その話は高津署の後輩から聞いていた。擎視庁から取り寄せた有働公子の写真を一一一千枚コ ピーして外勤警官に配った。外勤警官がもし職務質問で有働公子を逮捕できたとしたら、表 彰に値する。開けてみたら千円札一枚の「金一封」だろうが、擎視庁の婦人警官に手錠をか けた警官は後世までの語り草になるに違いない。気分的には賞金稼ぎだろう。 報告を終えて帰宅を許可された片野坂は、テープルの一角で自分を手招きしている曽根に 気づいた。 「埼玉まで歩き回ったそうだな。ま、一んでけよ」 片野坂の分も麦茶がある。曽根の向かい側に座った。 「どうですか、被害者対策のほうは」
三旦覗こんな会話があった。 「・ : : ・もし、有働さんが私の立場で」 この部屋であゆみのアルバムをめくっていた香澄が、淡く浮かんでいた笑みを消し去り、 いきなり公子に質問した。「もし子供が殺されて帰ってきたら、有働さんだったらどうしま すかフ 何と答えたらいいのか、公子はロごもった。 「息もしてなくて、冷たくなっていて、目は一一度と開かなくて : ら」 「よしましよう、そんな想像」 「聞きたいの。有働さんだったらどうする ? 」 ためら にじり寄るように詰め寄ってくる。答えはあったが、ロにしていいものかと公子は躊躇っ 冫しし力もしれないと思っ た。それは掛け値なしの本音だった。下手な慰めを口にするよりよ ) ゝゝ 「犯人を見つけだします。見つけだして、この手で殺してやります」 「刑事さんなのに ? 「犯人が逃けていたら、どこまででも追いかけて、子供が味わったと同じ苦しみを与えてや Ⅲります」 。そんな姿で帰ってきた
242 面持ちでカメラに向かい、巡査部長の階級章を胸につけている。最近撮られた人事資料の写 真だった。 「いえ」と、一度見ただけで店員は首を振った。 似ても似つかない女だったという。もっと若く、髪を茶色に染め、高価な服には見えなか ったが流行のファッションに身を包んでいたと店員は語った。 「変装だ」 片野坂は独りごち、職務質問をする対象の年齢を一一十代半ばまで下げるよう無線で連絡を した。 有働公子は単独で行動している。犯人側に協力した人間がなぜ、犯人と別行動をとってい るのか。採石工場跡の様子から見ても、有働公子と犯人グループには何らかの争いがあっ た。仲間割れということか。 そして新たなる疑問が片野坂に芽生えた。有働公子は変装している。つまり逃亡者である ことを覚悟している。なぜアクセスの場所が特定される危険性がありながら、パソコンで警 視庁のデータベ 1 スに入ったのか。そもそも彼女が見ていた捜査資料は何だったのか。 「片野坂です。有働公子は逃走したあとでした。現在、付近一帯に緊急配備をしています」 淡々とした口調で携帯電話で玉川署の捜査本部に連絡を入れた。逃がしたことで嫌味を投 げかけられる前に、片野坂は用件を言いきった。「警視庁の情報処理センターの管理者に、
419 奪計画と比べたら正攻法で、不確定要素も絡んでくる。警察が台風直撃という悪条件でも頑 張りを見せ、身代金受け渡しを阻止するようであれば、あっさりと計画を中止するつもりだ つつ」 0 智永の狙いは今や、金ではない。 あの婦人警官はすでに冨家と楢崎彰一のつながりに気づいているに違いない。一一度目の計 画では、楢崎彰一が被害者づらをしてこちらに金を届けにくることも分かっているだろう。 こちらが楢崎彰一と接触する時を狙い、婦人警官は必ず逆襲に転じてくると智永は確信して 指名手配中の婦人警官が、いかにして警察に追跡された楢崎彰一の動きを捉らえることが できるものか。お手並み拝見、という気分だ。 婦人警官をあぶりだすことが今の智永の最優先課題だった。 名則は有働公子というらしい 有働公子は智永のうなじに唇を押し当てて「子供はどこ」と囁き、首に腕を絡めてきた。 呼吸ができなくなった時に、一瞬、セックスの高みにも似た咸覺が智永を襲った。それは快 ぎんみ 感なのか恐怖なのかをゆっくりと吟味する余裕もなく、有働公子を背中から振り落とした。 有働公子を征服したい。 この感情は何なのか。母親の強さに畏怖しているのだろうか。立ちはだかるあの女を倒さ
405 業を煮やし、銃撃された状況をめんめんと語っている練馬署の警官につかっかと歩み寄る。 「男女三人のグループと有働公子が、校舎の中で撃ちあいを演じていたということか ! 」 髪にフロントガラスの破片が光る練馬署の外勤警官は、直立不動になって「はい、そうで あります」と答えたものの、「実際に目撃したわけではありませんが」とつけ加えた。 片野坂は益岡たちの輪を通り過ぎて校舎の中に足を踏み入れる。大勢の鑑識係員が壁や床 から弾丸の摘出をしている。漆喰にはクレ 1 タ 1 のような弾痕が無数ある。散弾銃とニュー ナンプの戦いか。有働公子は圧倒的不利の状況をはねのけ、引き分けに持ちこんだのだろう かと片野坂は思った。 この小学校は確か、有働公子の息子が通っている学校のはずだ。彼女の自宅官舎もここか ら徒歩十分の距離。なぜ息子の学校が銃撃戦の舞台になったのかと片野坂は考える。 益岡が破壊された玄関ドアをくぐり、取り巻きを連れて入ってくる。 緊急配備を敷いても犯人グループと有働公子は引っかからなかった言い訳を練馬署の幹部 そろ から聞いている益岡は、今にも「揃いも揃って馬鹿ばかり」と言いだしかねないような渋い 顔だ。犯人グループと目の前で遭遇したにもかかわらず取り逃がした現場警官の不手際に、 そもそも呆れ返っていた。 「いたのか。早いな」 片野坂を見るなり益岡は眉をひそめ、ハイエナを見るような目で一一一一口う。
497 「少し気分が悪くなったので、席を離れただけです。もうすぐ出棺ですから戻らなきゃいけ ません : 「手早く済ませます。よろしければ今、少しお時間をいただけないでしようか」 低姿勢だが、公子には有無を言わさぬものがある。 「有働さんは今、謹慎中と聞きましたけど」 いくつかの職務逸脱行為も止むに止まれぬ事 「査問委員会で事情聴取を受けてる最中です。 情があったからと認められるまでは、まだ時間がかかるでしよう」 公子は淡く微笑んだ。 「まだちゃんとお礼を言ってませんでしたね。有働さんのおかげであゆみは何とか : 香澄は咸齟の表情を浮かべた。 「あゆみちゃんに関しては、私は何も : : : 。林の中に隠れて、ご主人と犯人グループの取引 を見届けただけですから」 「有働さんが警察を振りきって、身代金を相手側に運んでくれたおかげです」 「息子の命がかかってましたから。それに、身代金要求はあれだけで終わらなかった。一一度 目は予想外でした」 采当に : 「よほど楢崎さんは犯人側に信頼されてたようですね。この被圭暑一家なら必ず金を送り届
482 って断ち切られることはなかったものの、ところどころ板が欠け落ち、修繕が必要だった。 親子鯨の旗はちぎれることはなく、ポールの上でたなびいている。 智永は台風のピークがこの地を席捲していた深夜に到着した。有働貴之を含めた三人の子 供は、船が高波に襲われそうな間だけ、セルシオの中に退避させた。 みみざわ 有働貴之の咳は耳障りだった。この少年はタイに辿りつくまで命がもたないかもしれな 。海に捨てられる少年の死体に鮫が群がる光景を想像した。 グレイ・ウオンは風がおさまりつつある未明から、日本海をやってくる蛇頭の船と無線で 連絡を繰り返している。 「そろそろ船を出さなきや」 子供たちを船の檻に戻したグレイ・ウオンは、朝の光を一身に浴びて浜辺の方角を眺めて いる智永に声をかけた。 篤志と泉水をひと晩待ち続けた。 「連絡がないということは、その婦人擎〕官にやられたんだ」 「・ : ・ : なら、あの女はここに来る。必ず来る」 智永が待っているのは篤志と泉水ではなく、むしろ婦人警官のほうだった。 智永は一度、有働公子のドコモにかけてみた。相手は電源を切っているか、電波の届かな いところにいるようだった。
「が閉ざされた二は廃墟を思わせた。奥の部屋には一一段べッド。子供のパジャマが無雑作 に脱ぎ捨てられている。 外階段の足音に振り返ると、持田が学校での聞き込みを終えて駆けつけた。 「・・・・ : どういうことだ、これは」 部屋の様子に持田も怪訝な顔になる。 「子供は家にいるはずだと担任教師が言ってました。昨日母親から電話があって、風邪で寝 こんでいるということです。家にいないということは : : : 入院でもしているんでしようか」 もし重病なら有働から何らかの相談があったはずだ、と曽根は思う。事件の真っ只中であ っても便宜を図ることはできた。公子はそんなことで遠慮をする婦警ではない。 「ランドセルがないな」と持田が気づいた。学校に行ったまま帰ってこなかったことを物語 っていた。 有働家の緊急連絡先として、特殊班の名簿にはもう一カ所、電話番号が記されていた。 相沢知子は小竹町に住んでいる公子の友人だった。ここから徒歩で十五分ほどのマンショ ンに住んでいて、公子が仕事で徹夜の時は、有働貴之の面倒は相沢知子が見ていたという。 曽根は電話で朝一番に訪問したい旨を相沢知子に伝え、持田とともに覆面車両で小竹町に 向かった。 し」っしゃ 環七沿いの瀟洒なマンションだった。曽根は部屋に上がらず、玄関で話を聞く。相沢知子