「お腹が、減ったの : ドアの向こうから洩れている裸電球の明かりが、牢獄の中にも微かに届いている。薄い闇 に、あゆみの丸まった背中がかろうじて見える。 「近くに行って、 あゆみは応えてくれない。ところが貴之がそろそろとにじり寄ると、あゆみは支えを求め ていたかのように貴之のズダ袋の端を握った。 「どうしたの ? 」 「思いだせないの」 荷が ? 「お父さんとお母さんの顔が、思いだせないの」 その気持ちは貴之にもよく分かった。自分が自分でなくなるほうが楽なのかもしれないと 思い始めた頃から、貴之の脳裏でも母親の顔が薄れ始めている。 一一段べッドの下で眠りにつく母の顔も、コーンフレークにたつぶりミルクをかけてくれる 母の顔も輪郭をなくしている。 「もう会えないのかな。会えなくて、どんどん忘れるのかな」 「大丈夫だよ。きっとまた会えるよ。教えたろ。僕のお母さんは婦人警官なんだ。きっと助 けに来てくれるよ」
5 う 4 気を取り戻しつつある。 計画はまだ漠然としている。だが秩序だった思考とは違うもの、原始的な何かが智永を内 側から突き動かしていた。脳袰をよぎるのは、採石工場から逃けのび、みなとみらいで篤志 を追いつめようとした公子の姿だ。変装して逃亡者となり、同時に追跡者となったあの婦警 の存在が今の自分を次の行動に駆りたてているのだと、智永は自分の心を分析できた。 「その前に片づけておかなきゃならないことがある : : : 」 荒れ野のような自分の魂に呟きかけ、智永は二人をおいてセルシオの運転席に戻った。 「部屋に帰って、おとなしくしてなさい」 ゝ、「はい」と泉水も殊勝な顔で続く。 「はい」と篤志が言し エンジンをかけたあと、智永は「泉水」と運転席から顔をだして呼んだ。泉水はまた叱ら れるのかと上目遣いの顔になる。 「人を撃ち殺したのは、あなたが最初ね。私たち三人の中では」 泉水はどう答えていいか分からず、こっくり頷くだけだった。 「心配いらないわよ」 「私も同じ罪を背負うから」 智永は母親のように表情を和らげた。泉水も篤志も意味を汲みとれない顔をしている。 やわ
「じゃ、あとは頼むぞ」 冨家が篤志の肩を叩いた。 「汚れた仕事は、いつも俺たちかよ」 「俺がここにいるところを親に見られたら、まずいことになるだろ」 冨家はにやりとロ許を山け、さっさと雑踏の中を引き返していった。 五十メートル前方から、冨家が若者一一人と別れて公子のほうにやってくる。古賀のカメラ は冨家の顔を捉らえているようだが、公子が促すと体をひねり、顔を見られないようにし 冨家は子供たちの持っ風船をうるさそうにかきわけ、足早に人込みを縫い、公子の横を通 り過ぎていった。 公子と古賀は顔を見合わせる。冨家は去っていく。どうする。公子は迷わず若い犯罪者カ ップルを追うことにした。 「ふた手に分かれましよう。古賀さんはあそこから 会場全体を見下ろすことのできるスタンドが設けられている。見物客はソフトクリ 1 ムを 舐めながらべンチに陣取り、港に話題の帆船がやってくるのを待っている。 若いカップルは何をしようとしているのか、今のところ分からない。古賀には彼らの動き
449 気がつくと世界が逆転していた。車の屋根が地面にある。シ 1 トベルトに助けられ、フロ ントガラスに頭を打っこともなく、膨らんだェアバッグで片野坂の逆立ちした体がシートに 押しつけられていた。 片野坂の逆さの風景に、近づいてくる人影があった。激突した相手の車。その運転席から 降りたったジーンズとシャツの女。 激しい風雨に顔をしかめ、地面に膝をつき、車の中を覗きこんだ女は有働公子だった。 相手が片野坂だと分かって、公子は「奇遇ね」とでも言いそうな顔。 「大丈夫ね 2 水滴の窓の向こうから有働公子が大声で問いかけてきた。隣を見ると、運転手の後輩刑事 」く、つ もエアバッグに包まれて、ばんやりした目で虚空を見ている。外傷は大したことはなさそう 片野坂は窓外の公子を燃えたぎる眼光で見返すしかない。逆さの顔では怒りの表情がうま く作れない 片野坂たちに命に別状がないことを確認すると、公子はさっさと車に戻っていく。片野坂 の手は無線器にさえ届かなかった。捕捉班がやってくるまで、このままの合好で待っしかな
じめの陽気というのはまったく油断ならない。 公子は駅を目指す通勤通学の人々に幾度かぶつかりそうになりながら、青信号が点滅する たかゆき 横断歩道を足早に渡る。午前八時を過ぎた。急げば、登校する息子の貴之と会えるかもしれ よ ) 。 徹夜明けだった。事件は未明に解決したが、朝一番に提出する調書に手間取った。威力業 務妨害容疑の男の取調べは、捜査一課の別の刑事が担当することになる。三日間、覆面パト カーの中での張込みは、公子から体力の最後の一滴まで奪っていた。 身長百六十一一センチ。不規則な食生活でも太りもしないし痩せもしない体質。大学時代の えりしお ーで手 リーバイスがまだはける。ポロシャツの襟が萎れているのは、署内のコインランドリ 早く洗ったためだ。ショーツの替えは持っていたが、プラジャーはこの二日間、替えていな 。汗で汚れているのが不快だ。 たくわ 疲れが溜まると顎の肉が気になりだし、ストレスが脂肪のむくみとなってそこに蓄えられ る。こういう時に写真に撮られると、顔が一・五倍に膨れあがったように見える。化粧映え ふたえまぶた のする一一重目蓋は、今、眼窩の奥にひっそりと隠れている。襟元までの髪は量が多く、横に い広がる癖があるのでカチューシャは手離せない。そこだけ鈍重な印象を与える丸い鼻は、間 なごり げんこっ 近でよく見ると左にやや曲がっている。留置場勤務の頃に大トラの女に拳骨で殴られた名残 で、顔全体のバランスを微妙に狂わせているが、三センチの至近距離で自分の顔を眺めてく あご がんか
478 貴之。私の声が聞こえますか。 私にはあなたの声が聞こえます。どんなに離れていても、どんな暗い場所に閉じこめられ ていても、あなたが私を「お母さん」と高らかに呼んでくれたなら、私にはあなたの声が聞 こえるのです。 私があなたと知りあって、まだ七年しかたっていません。でも、あなたの顔を実際に見る 前から、あなたと私はひとつの世界で一緒に暮らしていたのですよ。 あなたは私のお腹の中にいました。お風呂に入った時に教えたことがありますね。ここら へんだよって。ここらへんにあなたは逆さまに浮かんでいたのよって。あなたはとても不思 議そうな顔で、脂肪を蓄えただけの私のお腹を見つめていましたね。 みごも あなたがひとつの命として宿った日はいつだったのでしよう。あなたを身籠っているとお 医者さんに教えられたあと、あなたのお父さんと「あの日かな」「いや、きっとあの日だよ」 と話しあったことがあります。お父さんとお母さんは毎日愛しあっていました。毎日、あな たのような子供が生まれるようにと愛しあっていました。だから、いつ、あなたがひとつの 命になったのかさえ分からないのです。
248 官の顔。目の前の女と見比べる。どうやら同一人物のようだが、仕事上の変装にしては綻び が目立つ。髪の色も化粧も本人に馴染んでいないように思える。 『擎視庁捜査一課・巡査部長』と肩書きが写真の下にあり、擎視庁のスタンプが押されてい た。偽物ではなさそうだった。 「どんなご用件ですか」 おかん 手帳を返した時、先ほど粟だった肌が別の悪寒で覆われた。直樹が見つかったのだ。この 女は息子の死を告げにやってきたのだ。おぞましい思いで古賀は息苦しくなった。 父親は死刑判決を待つような顔になった。警察と知って全身で防衛している男の姿だっ た。早く誤解を解いてやらなければ、と公子は思った。 「ある誘拐事件との関連で、息子さんがワンダーランドで失踪した当時のことをお訊きした くて、お邪魔しました」 「直樹が見つかったわけではないんですね」 無精髭を伸ばしている父親は、期待と恐怖がない混ぜになった表情でこちらを探り見てい る。無事で見つかったわけでもなく、死体で見つかったわけでもないことを理解したよう 「違います。申し訳ありません」 あわ ほ、」ろ
て、ロがだらんとして、よろよろしながらデビルに連れられてくる。あの薬だ。ハッカの匂 いのする眠り薬をその子も嗅がされたのだとあゆみは思った。 デビルは鉄格子の鍵を開け、男の子をあゆみの目の前に倒す。デビルは扉を閉め、鍵をか け、そのまま部屋を出ていった。 けが 男の子の左手にぐるぐる包帯が巻かれていた。うっすら血が滲んでいる。怪我をしてい 「だいじようぶ ? 」 あゆみは声をかけてみる。同じ年頃の子に話しかけたのは久しぶりだ。男の子は目の玉を 少し動かすだけだった。 またデビルが現われた。いきなりだったから驚いて、あゆみはうしろの壁にあとずさっ た。デビルは注射器を持っている。鉄格子の間から男の子が怪我している腕を掴み、消毒液 がしみこんだ脱脂綿で拭いて、注射をする。男の子は「痛い」とも言わない。まだ夢の中に いる。デビルは注射した場所を何度か揉むと、いなくなった。 部屋を出て、階段を上るデビルの音が遠ざかると、あゆみは男の子の顔をもう一度覗きこ んだ。 「怪我したの ? 」 男の子は答えない。しかし目の玉の動きが止まり、あゆみの顔を捉らえた。
2 ろ 1 を破っていました。有働公子と犯人側に何らかの争いがあったと思われます」 「県警は手配を始めたんだな」 「現場から半径十キロに捜査員を配備しているそうです。特に厚木市内に重点配備です」 益岡は県警の捜査員十人がいるテ 1 プルのほうを振り向いた。捜査本部に出向している彼 らは針のむしろだろう。 そこで益岡は、おやっと思った。あの顔がない。一一度と見たくない顔だったが、その人間 の不在は薄気味悪い思いに駆りたてる。 「片野坂警部補はどうした」 県警の捜査員が立ち上がった。 「昨夜から走り回っています。有働公子が最終的に目指した場所は厚木市近辺ではないか と、今朝の時点で片野坂警部補から報告を受けています」 やや得意げに報告した県警の人間を、益岡は皮肉つばく見返した。 「初耳だね、それは」 。しちいち捜査本部が振り回されるのは忍びないと思いまし 「片野坂警部補一人の考えこ、 ) て」 嘘をつけ、情報の丸抱えではないかと益岡は言いたかった。この期に及んで、県警はまだ せこい縄張り争いをしている。
114 と公子は言い返そうとしたが、曽根の表情が見えた。相手にするな、と目顔で言っている。 公子は無視してやり過ごした。片野坂はまだ何か言いたげだったが、頭がぶつかりそうな 敷居をくぐり、玄関へと歩いていく。 「片野坂さん」 曽根が呼び止めた。靴をはいていた片野坂が眠たげな顔で振り返る。曽根は公子に「扉を 閉めろ」と言った。リビングと廊下を隔てる扉。奥にいる楢崎彰一に聞かれたくない話のよ うだ。公子はそっと扉を閉めた。 荷ですか」片野坂はふてぶてしく、近寄ってくる曽根を見下ろした。 「あんた、そんなに自分の手でホシを取りたいか」 さと 責めるのではなく、諭す口調だった。捜査本部の問題児と話しあう機会を窺っていたよう 「そんな気はさらさらないと一一 = ロえば、嘘になりますが」 「現場を掻き乱しているのはあんただ。俺たちは県警本部があんたを処分してくれるより、 早く子供の顔を拝みたいんだ」 「こっちだって早くヤマを済ませたい。擎〕視庁の尻ぬぐいのようなこんな仕事は早く終え ばんしやく て、家で晩酌にありつきたいですよ」 「尻ぬぐ