子という彫像がある。 「こんにちは」ーーーと小谷先生は呼びかけた。 「ちゃんとまっていてくれましたね」 小谷先生はほほえんだ。 あいかわらず善財童子は美しい眼をしていた。ひとの眼というより、兎の眼だった。そ れはいのりをこめたように、ものを思うかのように、静かな光をたたえてやさしかった。 小谷先生は小さなため息をついた。 長い時間、善財童子を見つめていた小谷先生は、ほっとつぶやいた。 「きてよかったわ」 本堂の廊下は涼しくて広い。ときどき、ここでぼんやり考えごとをしている人がある。 小谷先生もそこにすわりこんだ。きようはだれもいない。五重塔あとや正門が緑にかこま れて涼しそうだ。 「どうしてあんなに美しいのでしよう 小谷先生の眼のおくに、まだ善財童子の姿がやきついてはなれない。 の「美しすぎるわ、どうしてあんなに : 兎どうしてだろうと小谷先生は思った。 とっぜん、なんのつながりもないのに、高校時代の恩師のことばが思い出された。その 教師は生徒たちから東大ポケといってバカにされていた。まるで風さいのあがらないこと
せ、ちらちら窓の方に眼をやっている。 「ちょっとションべンしてくるワ 四郎がいうと、みんなうたがわしそうな眼つきをした。 「ションべンやでえ」 口をとがらして四郎がいう。 四郎がかえってきて、ふたたび歩回しがはじまったが、だれも身を入れてやっていない。 「おれもションべンいってくるワ こんどは功がいった。 「おれもいくワー 功と純はならんで小便をした。よこ眼で屋根の上を見ている。 「おまえ、ションべンあんまり出てへんやないかー 功にいわれて純はこまったような顔をした。ふたりはならんでかえってきた。どちらも 監視しあっている。 三度目の小便のとき、徳治はたまりかねていった。 眼 「ずるいそ、おまえらー の 兎それがきっかけで、みんな、わあと、先をあらそって外へ走り出た。 キンタロウはまだ屋根の上にいた。じっと風に吹かれていた。子どもたちにはキンタロ ウが別の鳩かと思うほどさびしそうに見えた。四郎が石をおもいっきりけった。
折橋先生はうらめしそうにいっている。 「小谷先生、すこし飲みますかあ」 折橋先生に、酒をついでもらった小谷先生は、コップの酒を一息に飲みほした。折橋先 生と太田先生は顔を見あわせた。 「ごめいわくかけてすみません」と小谷先生はいった。 「元気出しゃーと太田先生はなぐさめた。 「足立先生、眼のところ痛くないですか」 「ひとのことをいう前に自分の眼を見たらどないや」 と足立先生にいわれて、小谷先生はコンパクトを出した。まっ赤にはれあがっている。 「小谷先生はいい人やけど、そのめそめそ泣くのだけはなんとかしてんか。おれ、かなわ んねえ」 「ごめんなさい」と小谷先生はまた涙が出そうになった。 「そらそら。まるで女学生やな。あんたが学校にきてから、おれは、はらはらしどおしで 眼三キロほどやせたね」 の「足立先生がですか」 兎折橋先生はひやかし半分にいった。 よく日、臨時の職員会議がひらかれた。 さいしょに校長先生が発言した。
「そのお肉はどうするんですかー バクじいさんは牛肉にニンニクをすりこんでいた。 「これはストロガノフという料理に使うんですが、ま、名まえはややこしいが、ロシア風 牛肉ケチャップ煮というところですかな」 小谷先生はますますおどろいてしまった。そんな料理、名まえもしらない。 これでは手 伝うどころか、バクじいさんにあらためて料理をならいたいぐらいだ。 「どうして、そんなむずかしい料理をたくさん知っているんですかー 「なあに、たいしたことはない。長いこと船にのっていたら、バカでもかってにお・ほえま すわい」 「お船にのっていらっしやったんですかー 「そうですわい。外国の船にも日本の船にもなあ : : : 」 そういって、・ハクじいさんは遠い眼をした。 しばらくしてでぎあがった料理は、けんらんごうかであった。舌ビラメのムニエル、マ 眼ッシュルーム入りストロガノフ、ポルシチスープにシバエビのサラダといったあんばいで、 のどこかのレストランにいって食事をしているようだった。 兎「鉄三ちゃん、あなた、いつもこんなごちそうをたべているの」 眼を丸くして小谷先生はたずねた。 「いつもこういうぐあいにはいきませんわい。けんど、たべるものはだいたい、ちゃんと
小谷先生はどきっとした。それから、この子どもたちにはずかしいと思った。 「鉄ツンはかわりもんやから苦労するやろー 功はおとなのような口のききかたをする。 「そうなんよ。苦労してんねんよ」 小谷先生もくだけた調子になっていった。 「先生、ええにおいするなあ」 純がすこしはずかしそうにいっこ。 子どもたちがついてきてくれたので、小谷先生はだいぶ気がらくになった。バクじいさ んに会う前に、鉄三に会おうと思って、そうっとうらにまわった。 鉄三は壁にもたれてすわっていた。腕を曲げて眼の高さにまで上げ、じっとなにかをな がめていた。 小谷先生は眼をこらした。 鉄三の腕に無数のハエが遊びたわむれているのだということを知ったとき、小谷先生は 思わず声をあげそうになった。 眼 そんなことってあるだろうか。 の 兎巣にたかるミッパチのように、鉄三の腕にハエが群がっている。ハ〒はとびもしないで、 まるで鉄三にあまえるかのようにからだをこすりつけている。羽根でもちぎってあるのか と思ってよく見たが、羽根はちゃんとついていた。
バクじいさんがいうんです。そらそうやとみ れた者より裏切った者の方がつらかろうと、 てつど んなもさんせいして、それであんなとこへ、・ほうと立っとるんです。手伝うてもつらがる やろし、手伝わんのもこっちの気イがすまんし、なんやヘんなぐあいです」 折橋先生も太田先生もことばがない。 みんなは浩二の家の前にひきかえした。タンスをはこんでいた浩二の父と足立先生の顔 が合った。 とっぜん浩二の父は地べたに土下座した。 「すんまへん、先生すんまへん、すんまへん、すんまへんー あまりにも無残な光景だった。思わず小谷先生は眼をそむけた。 足立先生は浩二の父の手をとった。なんどもうなずいて、しずかにかれの肩をたたいた。 足立先生の眼に涙が光った。 荷物はつみおわった。 「浩二、こい」ーー浩二の父がいった。 眼浩二はがらんとした部屋のすみで、発泡スチロールのロポットをだいて背を向けていた。 の「浩一一ー 兎「いけへんわい」 浩二は撃たれた鳥のようにさけんだ。 母親はむりやりかれをひきずってきた。
足立先生があまりあっさりいったので、子どもたちはしばらくその意味をとりかねてい 「先生のおにいちゃんは、みさえのおにいちゃんみたいに本を読むのが好きやった。死ん だとき、文庫本の『シートンの動物記』がポロポロになってポケットにはいっとった。な ん回も読んだんやろなア 足立先生は遠いところを見るような眼をした。 「ドロポーして平気な人間はおらんわいな。先生は一生後悔するような勘ちがいをしとっ たんや。先生はおにいちゃんの命をたべとったんや。先生はおにいちゃんの命をたべて大 きくなったんや」 子どもたちはしーんとしている。 「先生だけやない。いまの人はみんな人間の命を食べて生きている。戦争で死んだ人の命 をたべて生きていゑ戦争に反対して殺された人の命をたべて生きている。平気で命を食 べている人がいる。苦しそうに命をたべている人もいる」 眼足立先生はそういってまた眼をとじた。 の「先生のおにいちゃんがかわいそうやー 兎みさえがしくしく泣きだした。 足立先生はやさしくみさえをだきしめた。 「みさえは心のきれいないい子やな。ほら見てごらん。また流れ星がながれた。あの星は
149 兎の眼 「わたしのためですー 小谷先生は、きつばりいった。母親たちはざわめいた。 「おどろきましたわ。学校の先生は子どものために仕事をなさるのではありませんの」 「わたしは自分のために仕事をします。ほかの先生のことは知りませんー 話にならないわ、と親たちはあきれて口ぐちにいった。 ( クじいさん助けてください。わたしは正直にしゃべりました。おじいさんのあやまち を、わたしのものにしたら、そんなふうにしかいえなかったのです。おじいさん、わたし 小谷先生は、じっと眼をつぶつ はまちがっていますか、おじいさん、教えてください : さすがにその日は、子どもたちの家をたずねる気はなかった。 鉄三ちゃんごめんね、きよう先生をなまけさせてね。
おくれるだけですみます。その考えもひとつありますが、もうひとつの考えは、ふりかか った火の粉は自分ではらえということだす。埋立地にいって苦労するのは子ども自身です。 自分のことは自分でたたかえと、わしらは子どもに教えとるんです」 つづいて瀬古という主婦が立った。 「おこたえします。わたしの子どもが埋立地から通学するようなことになったらどうする かというおたずねですが、わたしだったら、それはそれ、これはこれときつばり区別をつ けてたたかいます。大衆運動の中に私情をもちこんで問題の本質をぼやかすようなことは ぜったいいたしませんー 勝一の父がつづけて発言をもとめた。 「どっちの意見ももっともだんな。けれど、わしが感心したのは処理所の方の意見です。 当世はやりの教育ママにきかせてやりたいような話ですワ。ゴミというもんはもともと、 ひとりひとりの人間、ひとつひとつの家庭から出てくるもんです。自分のことは自分で始 末せないかん。そう思うておっても都会生活はそれを許さんから処理所がある。もともと カ 眼は自分が出したゴミだということをいつでも頭においとかんと、人間は勝手なことばっ のりいうようになりまんな。処理所は移転してもらわんとこまるという考えだけでこりかた 兎まっているから、そのためにめいわくをこうむる人がでてきたということに眼がいかん。 自分さえよかったら他人はどうなってもええと考えとる人間はこの会場にひとりもおらん はずや。そやのに、処理所の人たちの不幸に眼がいかん。なんでかというたらわしがはじ
「先生、しんどいかー 純がおそるおそるという感じでいった。 「うん、苦しい」と足立先生は眼をつむった。 子どもたちはどうしていいのかわからない、じっと足立先生の顔を見た。 「いま、空を見とったら流れ星がいきよった」 足立先生はぼつつりといった。 「あの晩も流れ星が多かった」 「あの晩いうて」 「先生が生まれてはじめてドロポーした晩や」 「先生がドロポーしたの」 足立先生の前にしやがみこんでいたみさえはびつくりしていった。 「いまみたいに腹がへって死にそうなときに先生はドロポーをした。みさえ、びつくりし 眼「うん」 のみさえはこっくりうなずいた。 兎ははは : : : と足立先生は小さく笑った。 「むりもない 足立先生はみさえの頭をなでた。