大振りのハンバーグを、ライスをお代わりして平らげると、満腹感とともに満ち足りた気 持ちになっていた。それだけに、道の前方を歩く男には、格別注意を払わなかった。 うつかりしていたらそのまま追い抜いて、男をアパートまで先導してしまうところだった。 男が番地を確認しながら歩いているのに気づき、ようやく茫洋とした幸福から我に返った始 末だった。 と まさかとは思ったが、先日の恐ろしい男のこともある。用心するに越したことはない、 考えて後からついていくと、男はやはり吉住が住むアパ 1 トに向かっていた。吉住は曲がり 角で立ち止まり、電柱の蔭からアパートの開放廊下を見張ることにした。 男は四十過ぎくらいの、至って平凡な外見をしていた。ダークグレーのスーツはくたびれ ていて、生活臭が滲んでいる。その辺を歩いているなんの変哲もない中年男で、危険な雰囲 気はかけらもなかった。後ろから見る限りでは、先日の体中にピンを付けた男とは関わりが なさそうだった。 もしかしたら他の住人を訪ねてきた人かもしれない。吉住は電柱から顔半分だけを覗かせ、 スティールの階段を上っていく男を視線で追い続けた。 中年の男は階段を上りきると、左手に並んでいる部屋の番号を確認するようにゆっくりと 奥へ進み始めた。 男は二〇二号室の前で立ち止まり、呼び鈴を押した。吉住の部屋だった。もう間違いない あの男は吉住を訪ねてきたのだ。
北赤羽のアパートの所在は、コウジを通して《あいつら》に伝わることだろう。彼らはす ぐにも押し掛けてくるはずだ。原田が環から受けた指示は、やってくる人物の顔を確認する ことだった。 その男は、レンタカーの中で待機している原田の横を通り、アパートの中に入っていった。 黒い革ジャンをだらしなく羽織った姿は、紛れもなく《あいつら》のひとりと思われた。原 田はその後ろ姿を、じっと目で追い続けた。 男はアパートの敷地内に入ったきり、なかなか戻ってこなかった。小沼が部屋の中に隠れ ていないかと疑っているのだろう。三分ほど何事もなく過ぎると、突然罵声とともに大きな 物音がした。玄関のドアを力いつばい蹴りつけたようだ。 とたんに静まり返っていたアパートが騒がしくなった。何事だと慌てた人々が、次々に廊 下に顔を出す。革ジャンの男はさすがにそれらの視線を煩わしく感じたのか、険しい目つき を返しながらアパートから出てきた。住人たちは男と目が合うと、関わりになりたくないと ばかりに顔を引っ込めた。 男は路上に立ち、左右を窺うように首を巡らせた。そのとき初めて、原田は男の顔を確認 することができた。男はコウジという名の小柄な男ではなかったが、さりとて初めて見る顔 でもなかった。《》でナイフを握りしめていたもうひとりの男。《あいつら》と繋がっ ていたのは、コウジだけではなくもうひとりいたのだ。 男は右に足を向け、歩き出した。駅とは逆の方向だ。原田は瞬時行動の選択に迷ったが、 291
遠目だったが、男と面識がないことははっきりと確信できた。となれば、親の監視下から 逃げ出した吉住を追ってきた人間か、あるいは先日のピンを付けた男のように小沼某を捜し ているか、どちらかのはずだった。そしてそのいずれにしろ、今吉住が関わり合いになりた い相手ではなかった。 なおも見守っていると、男は部屋の中からの返事がないのに諦めたのか、踵を返して階段 を下り始めた。このまま帰ってくれるかと期待したが、男はその足で一階の大家宅を訪れた。 大家は呼び鈴ひとつで表に顔を出し、男と何やら会話を始めた。気はいいのだがお喋りな大 家は、きっと訊かれるままにあれこれ答えてしまうことだろう。 これはまずい。何がどうなっているのか、事態をうまく理解することができないが、とも かく良くないことが起きつつあるのだけはわかる。どうすればいいのか ? 対処のしようがなく、身悶えする思いでやり取りを見ていると、男は懐から写真のような 物を取り出して大家に示した。それを覗き込んだ大家は、大袈裟に首を傾げて何やらまくし 立てている。どうも男は小沼某を訪ねてきたようだった。 写真をしまうと、男は礼を言ってアパートを出てきた。しばらく周囲に油断ない目を配る。 吉住はひやりとした思いで身を隠し、ひとまずこの場から逃げようと心を決めた。こんなこ とではいずれ引っ越さなければならないが、ともかく今は男をやり過ごすのが先決だ。どこ 明日は早くから出掛 かでしばらく時間を潰し、男が姿を消した頃にアパートに戻ればいい。 け、できればその足で次の住まいを決めてしまおう。敷金や礼金に割ける金はなかったが、
に入った蹴りは、脳天に直接響くほどの痛撃を吉住に与え、そのあまりの激痛にうめき声す ら出せないでいた。 頬を砂利に付け、身をよじりながら痛みと闘っていると、頭上に数人の人影が立っ気配が した。食いしばった歯とともに固く閉じていた瞼を恐る恐る開けると、そこには三人の男が 立っていた。街灯を背負っているため、逆光で顔は見分けられない。だが男たちが、体中に ピンを刺しているのだけは見て取れた。 あの男だ。土足で部屋に上がり込んだあの不気味な男が、今自分を後ろから蹴り上げたの 言葉にならない根元的な恐怖が、背筋を走った。理由などない、ただ本能的な恐れが吉住 の身裡で飛び跳ねた。紛れもない生命の危険が、今そこまで近寄っているのをはっきりと感 じ取った。 痛みも忘れて飛び起きようとすると、今度は左の肩口を蹴られた。吉住がもんどりうって のけぞるのを、背後の男は軽くよけた。その男はごみ箱に近寄ると、そこからごそごそと新 聞紙を取り出した。吉住は尻をついたままその場から遠ざかろうとしたが、視線だけは男た ちに釘づけにされ逸らすことができなかった。 新聞を持った男は、近寄ってくるとそれを丸め、強引にロの中に押し込んだ。そのときに なってようやく悲鳴が喉をつんざいて飛び出したが、それは汚い新聞紙に阻まれて中途で立 ち消えた。耐え難い味覚に嘔吐感がこみ上げたが、相手は容赦のないやり方でぐいぐいと新
こには人間性が滲む。いい意味でも悪い意味でも、感情の起伏が表に出るからだ。だが眼前 の男は、妥協の余地のない殺意をストレートに原田にぶつけてくる。なんの躊躇もなく、思 考回路が原田を殺すことを選択したようだ。その短絡さが、原田に恐怖を植えつけた。 男はポケットからナイフを取り出し、刃を立てた。夜の微かな光が刃を青く濡らし、原田 の視線を奪った。その瞬間、男は体をぶつけるように原田に襲いかかってきた。 かろうじて身をかわすだけで精一杯だった。とてもナイフを奪い取ることなどできない。 原田は男の虚無的な眸の中に、数分後に自分に訪れる死の色を見た。 三度攻防が交わされ、相手の鋭い動きに原田が絶望を覚えたときだった。突然に甲高い音 が鳴り響き、男の注意を逸らせた。その瞬間、原田は路上に頭から飛び込み、転がって男か ら遠ざかった。 「何をしてるんだ , 全速力で自転車を漕ぐ警官が、笛を鳴らしながら近づいてきた。男は「ちっーと舌打ちす ると、土手に飛び下りて走り出した。警官はそれを追おうかと迷う素振りを見せたが、結局 アスファルトに坐り込んでいる原田の傍らに来て自転車を停めた。 「何があったんですか。大丈夫ですか」 遠目からでも尋常でない命のやり取りがあったことがわかったのだろう。警官も興奮し、 声が上擦っていた。 原田はしやがみ込んだまま答えず、逃げてゆく男の後ろ姿をじっと目で追い続けていた。
車を乗り捨てて徒歩で追うことにした。男が進んだ道は一方通行で、車では入ることができ なかったのだ。 環の指示はやってくる者の顔を確認しろというだけだったが、原田はできることなら《あ いつら》の他の仲間も探り当てたかった。《おにぎり》なる物がいったい何なのか、自分の 力で見極めたいという思いがあったのだ。 男は先を急ぐでもなく、ゆっくりと歩を進めていた。散策していれば小沼豊が見つかると . 沼を掴まえられなかった憤りはもはや見 思っているわけでもなかろう。男の足取りには、、 られなかった。 やがて男は、荒川を眼下に望む路上に出た。そのまま土手に踏み込み、河川敷の公園へと 下りてゆく。公園には川からの冷たい風が吹き、くつろぐ人の姿もなかった。男の眼前には、 誰もいない野球場が開けていた。 男が人気のない方へ向かうのを見て、原田は危険を感じた。男は一度も振り返らなかった が、自分を追う者を誘い出すために河川敷まで下りたのは明らかだった。原田の尾行は気取 られていたのだ。 それを見極めると原田は、土手の道を何食わぬ顔で通り過ぎようとした。さっさと車に戻 り、ここを離れた方がいい。だがその原田を、突然の大声が追ってきた。 「どこ行くんだよ、おっさん」 原田は聞こえないふりをしたが、そんなことが通じる相手ではなかった。「待てよ . とい 292
で、所々破れてすらいる。異様なのは、その服の至る所に付けられた、無数のピンの数々だ っ , 」 0 「えつ、どうなんだよ」 男は顎をしやくって、再度吉住に尋ねた。ロの端を吊り上げてはいるが、それは笑みには なっていない。むしろまったく笑顔など想像できぬ、爬虫類のような表情だった。 「そ、そうですが」 吉住は男の発散する暴力的な気配に圧倒され、どもりながら認めた。白を切ることなど考 えもっかなかった。振り向いた瞬間に、この男が先日大家が言っていた訪問者に違いないと 確信していた。 「小沼豊が住んでるだろ」 男は前置きもなく、唐突に尋ねた。ノーという返事はあり得ないとでも考えているような、 断定的な質問だった。 「こ、小沼 ? 」 とばけるわけではなかったが、吉住は尋ね返さずにいられなかった。男に気圧されて、ま ともな返事ができなかったのだ。 「ここに辿り着くまで時間がかかったぜ。妙な小細工しやがって」 男は腹立たしそうに、ぶつぶっと呟いた。吉住に聞かせるというより、完全に己の中で思 考が完結しているような口振りだった。吉住に話しかけているにもかかわらず、吉住の存在 い 4
など歯牙にもかけていないようだ。 「な、なんのことだか、ばくにはわからないんですが」 精一杯の勇気をかき集めて、吉住はそう言葉を返した。実際、男の言葉は吉住の理解を超 えていた。男はいったい、何を言っているのか ? 「痛い目に遭いたくなければ、つまらないとばけ方をするな。小沼は今、部屋にいるのか , 男は機械的な口調で、淡々と言った。なまじ語調を荒らげないだけに、言葉の底に潜む凄 みがひしひしと伝わってきた。吉住は自分の足が震えているのに気付いた。 「そ、それは勘違いです。ばくがここに引っ越してきたばかりの頃にも、何人かその小沼さ んを訪ねてきた人がいましたが、ばくは会ったこともないんです。たぶん、このアパートに 以前住んでいた人じゃないでしようか」 ともかく言うべきことを言わなければならないと思った。小沼豊という男に会ったことも ないのは事実なのだ。小沼某が何をしたか知らないが、そんな見知らぬ男のためにとばっち りを食うのだけはご免だった。 「引っ越しただと ? おれは奴の住民票を手繰ってここまで来たんだ。奴は今でもここに住 かくま 民票を置いている。下手に匿うと、耳を削ぐぞ」 男はまるで感情を込めず、恐ろしい恫喝を口にした。この男なら必ずそれを実行する、吉 住は疑うことなく脅しを信じた。 「本当です。ばくは小沼なんて人に会ったこともないんですよ。住民票はここにあるかもし
舐めた真似しやがって。 店を飛び出した長谷宏治は、怒りのあまり眩暈すら覚えるほどだった。他人にこれほど屈 辱的な言辞を吐かれたことはかってない。誰もが皆、ひと睨みするだけで怯え、こちらの意 のままに従ってきたのだ。それなのにあいつは、平然とこちらの言葉を無視した。許せるこ とではなかった。 絶対に殺してやる。 瞬時に心を定め、いつもポケットに忍ばせているジャックナイフを握って店を出たが、す でに男は姿を消していた。ほんの一瞬遅れただけなのに、不思議なことだった。長谷はもど かしい思いで階段を駆け下り、男の後を追った。 一階に辿り着き、ビルを出て左右を見回す。六本木の裏道は人通りも少なく、通行人の姿 はまばらだった。そのため、先を行く男の背中はすぐ見つけることができた。 長谷はポケットの中でジャックナイフを固く握り、男を追った。男は道を左に曲がり、人 気の少ない方へと向かった。
馬鹿め、死にに行くようなもんだ。 長谷は内心で舌なめずりしながら、猫のように足音も立てず後を尾けた。刃で相手の喉元 を切り裂く感触を想像すると、それだけで震えるほどの恍惚感が身裡から湧き上がってきた。 先を行く男はさらに右折し、大福坂を下り始めた。道の両脇は学校で、六本木の喧噪から は切り離されている。追いついて背後から襲うには好都合の場所だった。 長谷はナイフをポケットから取り出し、地面を蹴った。そのまま一息に男に飛びかかり、 喉をかき切ってやるつもりだった。自分の喉から噴き出す鮮血を見て呆然とする顔が見物だ っ」 0 そのときだった。突然背後から肩に手を置かれ、長谷は驚愕して振り返った。 , 後ろは数秒 前に確認したばかりだ。誰もいないはずだった。 振り向いてさらに驚いた。そこにいたのは、数時間前にバイクに乗る長谷を車で巻き込み かけた男だった。なんでこいつがこんなところにいるのか。 「てめえー 考えるより先に体が動いた。振り向きざまにナイフを閃かせ、男に切りかかった。だがナ イフは空しく空を切り、長谷は大きくバランスを崩した。 そこに容赦のない蹴りが襲ってきた。男の爪先は綺麗に鳩尾にり、長谷の呼吸を一瞬止 めた。白くなった長谷の脳裏に、男の声が届いた。 「危ねえ坊やだなあ。少しおねんねしてもらおうか」