は手間をかけてしているのでしようか」 「原田さんはどう思います 逆に訊き返された。環が疑問にストレ 1 トに答えてくれることは、極めて少ない。 「わかりません」 原田は首を振るだけだった。環に対抗して考えを明かさないのではなく、これだけでは推 論すら導き出すことができなかった。むしろ謎が深まったと言える。 「では次に、武藤さんの報告を聞きましよう。そちらは住民票の移動はありましたか . 環が話の矛先を向けると、それまで黙り込んでいた武藤がようやく口を開いた。 「いえ、私が当たった相手は、両親が実家へと住民票を移していました」 まずそう断り、武藤は訥々と自分の調査結果を報告し始めた。 原田が和光市の自宅に帰ったのは、午後九時を回った時刻だった。都内の移動の間に暇を 見つけることができず、夕食はまだ摂っていない。青山から電話を入れ、残り物でもいしカ ら用意しておいてくれるよう、妻の雅恵には頼んであった。 10
「小沼君とは、それほど深い付き合いがあったわけではないんだ ? 」 相手の答えが気になり、原田は尋ねた。すると大内は、「ああ、もちろん」と強く認めた。 「なんで彼のことでここに来るわけ ? おれはなんにも知らないよ」 「小沼君の消息について、噂なり何なり、耳にしたことはない ? 「ないねえ」 さほど考えもせず、簡単に答える。隠し事をしているようには見えなかった。 「小沼君が、ここに出入りしていたバンドと付き合いがあると、そういう話を聞いてきたん だけどね」 「ああ、それで」 言われて初めて思い当たったように、二度ほど頷く。悪気があるのではないだろうが、ど うも反応が鈍い男だった。いちいち具体的に答えを示唆して質問してやらないと、的確な返 事ができないらしい。原田は多少苛立ったが、素直に答えてくれようとしている姿勢だけは わかるので、それを表に出すわけにはいかなかった。黙って大内が次の言葉を発するのを待 っ ? 」 0 「ーー確かに以前ここに出入りしていたバンドと彼が付き合ってるのは見たけど、でもそれ 以上は何も知らないよ。どういう付き合いだったのかも知らないし 「バンドのメン バーに加わってたのかな」 「どうだろうね。よくわかんないけど」投げやりに大内は応じた。「あんまり彼のカラーに
国道十七号線を渡ってすぐに見えてくる遊歩道に沿うように、そのアパートはあった。 《コーポ別所》というアパート名を確認して、武藤隆は目指す部屋に向かった。 先日全員で集まったときの報告で、調べた相手は住民票を移動していないと武藤が告げる と、環はその場で調査の中止を命じた。そこで新たに下された指令は、失踪者リストの中で 蒸発後に住民票を頻繁に移動している人物を洗い出せ、というものだった。例によってその 理由を環は説明しなかったが、武藤にそれを質す気はなかった。環は倉持と原田の調査結果 を聞き、瞬く間に推理を紡ぎ上げたに違いない。武藤にそんな真似は不可能だったし、また 自分にできないことを誰かに補足して欲しいとも思わなかった。環は必要があるときにはき ちんと自分の考えを話してくれるだろう。それまでは、彼が何を考えようが武藤にはどうで もよいことだった。 武藤は資料をまとめ、区ごとに段取りよく住民票を請求した。たいていの場合は移動して いないか、あるいは親が実家へと移しているかのどちらかだったが、まれに奇妙な動きをし ているものもあった。武藤はそうした人物が見つかるたびに環に報告し、環はそれを受けて 166
「面白い会話をしているようですね」手早く着替え終えた環は、戻ってきて楽しそうに言っ た。「原田さんの推理どおり、吉住計志は小沼豊の関係で殺されたということですか」 「どうもそのようです 北赤羽のアパートを訪ねた原田は、その後もしばらく粘り、小沼が戻らないことを確認し た。やはり小沼は、吉住計志が殺されたことを知り、身ひとつで逃げ出したのだ。となれば、 吉住の死の原因は小沼関係と考えるのが妥当だった。その考えに基づき、心の隅に引っかか っていた《ゼック》のメンバーに探りを入れたところ、早々に推理を裏づける会話が飛び込 んできたというわけだった。 しばらく黙り、聞こえてくるやり取りに耳を傾けた。《ゼック》のメンバーは、今回の殺 人を巡って意見が分かれているらしい。自分たちのことを心配しているのは、リョウと呼ば れているあの蛇の男だけのようだった。 《手を切るったって、《おにぎり》のやり取りがなくなったんだから、実質切れてるも同じ じゃないか》 それまで一度も言葉を発していない男の声が聞こえた。原田はその台詞の中の《おにぎ り》という単語に虚を衝かれた。 「《おにぎり》 思わず無意識にロ走ると、環がそれを聞き咎めた。 「知ってるんですか , 253
雅恵の言葉尻を掴まえて、真梨子は反駁した。真梨子は、未だ原田が警視庁と繋がりを保 っていることを知らない。それは娘といえども明かせない秘密事項だった。原田は目配せを して、雅恵を黙らせた。 「父さんの仕事のことなんて、知るわけないし知りたいとも思わないわ。どうでも ) ん」 真梨子は言い捨てて、むきになったように食事を続けた。これ以上何も聞きたくないと、 硬く怒らせた肩が雄弁に語っていた。 仕事のことについて言われれば、もはや何も言い返すことができない。確かに真梨子が言 うとおり、原田の業務内容は浮気調査や身許調べが大半なのだ。だがそれを恥ずべき仕事と 考えるのは、真梨子の大きな間違いである。どんな仕事であろうと、社会倫理にもとらない 限りそれは恥ではない。ゝ しくら外聞の悪い仕事であろうと、それを娘に咎められる謂われは なかった。 だがそうした考えを真梨子に理解させるのは、まだ難しそうだった。おそらく真梨子は、 原田の仕事を自分の恥と受けとめているのだろう。そんな真梨子に対し、いくらロで恥じる 必要はないと言っても、それは虚しく響くだけである。親から諭されて知るのではなく、真 梨子が年月をかけて理解すべき事柄だった。 だから原田は、娘の間違いを訂正するのではなく別のことを口にした。それは真梨子が仕 事に言及したために思いついた質問だったが、ある意味では娘の怒りを助長する発言でもあ
解ができている。そのため武藤の過去に何があったのか推測することすらできないが、その 事情が彼の現在に大きな影を落としているのは想像に難くなかった。 「それはわかりません。調べてみないと」 環は顔の筋ひとっ動かさず、そう答えた。環が事前に何らかの考えを述べることは、まず これほど腹の底が読めない人物を、原田は他に知らなかった。 「わかりました。やりましよう 武藤は言葉を切って捨てるように言った。よけいなことはいっさい語ろうとしない。武藤 が一度このような返事をしたからには、すべてが遺漏なく洗い出されることだろう。武藤は その点、機械のように正確な男だった。 「私たちは何をすればいいんでしようかー 原田はロを挟んだ。原田もまた、今回の任務を請け負うことに異論はない。ただ雲を掴む ような話で、どこから手を付けたものか見当がっかなかった。 「取りあえず、誰かひとりに絞って消息を追っていただけますか。まずは足取りの再確認を する必要があるでしよう」 環は丁寧な物腰で応じる。初めて出会って以来、環は原田たちに対して口調を乱したこと がなかった。命令する立場にもかかわらず、必ず丁寧語を用いる。原田を始めとする三人が、 環の私兵ではないことをそれとなく示しているようだった。原田にとって、その環の姿勢は 好感が持てるものと言えた。環のような人間が原田たち捜査のプロを使えば、どのようなこ
先ほどからバーポンをストレートで呷っているが、酔いはいっこうに訪れなかった。内む の苛立ちが、酩酊感に打ち勝っているのだ。これほど神経が逆立っているのも、初めての経 験だっこ。 村木の苛立ちを促進しているのは、《ゼック》の仲間たちの反応であった。以前は一緒に いるだけで心が落ち着き、なんでもできるような気がしていた仲間たちが、今では得体の知 れない生物に思えている。どうしてこれほど平然としていられるのか。あいつらには情緒と しいと思っている いうものが完全に欠落しているのか。それともバンドの将来などどうでも ) のか。 今日もいつもの習慣のように《》に集まってきていたが、会話らしい会話は何もな かった。それは以前からのことでもあり、格別気にする必要もないのだろうが、今の村木に は重い沈黙に感じられる。勢い、酒に手が伸びる回数が増えるのだが、杯を重ねれば重ねる ほど不安が増殖する悪循環に陥っていた。 村木としては、もっとこの事態を全員で検討したいのだった。状況を把握してみて、どう してもャパイようであれば、こんなところに屯している場合ではない。一時《ゼック》の活 動を休止してでも、姿をくらます必要があるかもしれないではないか。 それなのに他の奴らは、村木の懸念を単なる怯懦と捉えているのだ。度胸が据わっている のまゝ ) 。 それは村木からしても頼もしい限りだ。だが現実を認識する力に欠けるのは困る。 考えが足りない奴らと一緒に、警察に捕まるのだけはご免だった。 282
あんどうきようこ 刑事部長補佐官からの内線電話を引き継いで、安藤京子はちらりと横目で相手の顔を盗 み見た。 京子が所属する警務部人事一一課は、警視庁内のスタッフ部門に当たるから、最前線とも言 える刑事部からの連絡などほとんどない。たまにある人事考課に関する連絡事項でも、受け たまきけい′」 るのは人事二課長であって、環敬吾が直接関わることなどあり得ない。なにしろ京子が見 る範囲では、環が重要な仕事を任されている様子などないのだから。 実際環は、人事二課内において不思議なポジションを占めていた。そもそも警部以上の人 事を司る人事一課とは違い、警部補以下の人事及び採用試験についてが管轄である人事二課 は、警視庁内でそれほど中枢に位置する部署というわけではない。閑職とまではいかないが、 採用と人事異動の時期以外は比較的楽な仕事をしている。だからこそ、環のような何をして いるのかわからない人材が存在しても許されるのだろうが、天下の警視庁の、それも人事課 に窓際族がいようとは、一般市民は考えもしないに違いない。 もともと京子は、ミニバトに乗って駐車違反の車を捕まえる婦人警官に憧れて、警視庁に
う。業界に知り合いなどいない吉住には、ただ羨望の的でしかなかった。 吉住がそのような仕事があることを知ったのは、ちょうど五年前のことだった。雑誌でモ ニターの人がインタビュ ーに答えているのを見て、自分が進むべき道はこれしかないと思い 込んだ。 それまで何かになりたいという夢を持ち合わせていなかった吉住は、やっと巡り会った目 標に小躍りし、親にその考えを打ち明けた。当然賛成してくれるものと思っていた。 ところが両親は、最初こそ呆れたように耳を傾けていたが、吉住が本気な様子を見て取る と、難しい顔になって黙り込んだ。ゲームをやること自体は咎めないが、将来の夢にはもう 少しきちんとしたものを考えられないのかという意見を口にした。 吉住には親の言葉はまったく心外だった。、 ケームのモニターのどこがきちんとしていない のだ。好きなことをしてそれでお金がもらえるのなら、こんないい商売はないではないか。 好きでもない仕事をあくせくとして人生をすり減らしていくよりは、よっぱど素晴らしい生 活に違いない。 吉住は言葉を重ねて、己の主張を親に伝えようとした。両親はますます顔を顰め、そして そのうちわかるだろうなどと投げやりな言葉で会話を打ち切った。息子の言うことはとうて いまともに聞くに堪えないといった態度だった。 両親は吉住に、東京の一流大学を卒業して一流会社に就職して欲しいと願っていた。父親 が地方のしがない会社員で終わってしまうのを、息子に埋めあわせて欲しいと望んでいるか
うちの五十万じゃねえのか」 なおも田中が尋問を繰り出す。池上と羽田は、無表情に腕を組んで長谷を見下ろしていた。 「何を言ってやがる ! てめえらに馬橋のふざけた手紙を見せてやったじゃねえか ! あい つは本当に五十万しか払わなかったんだ ! 騙されんじゃねえ ! 」 叫び続ける長谷に、羽田が近づいた。組んでいた腕をほどくと、手にはナイフの青光りす る刃が見えた。羽田は左手で長谷の耳たぶを掴むと、付け根にナイフを当て、軽く振り上げ た。同時に長谷の絶叫が響きわたった。羽田の左手には、切り取られた長谷の耳朶が残って 「がああああああああっ」 わめく長谷のロに、池上が靴の爪先をぶち込んだ。鈍い物音が響き、前歯がごっそり折れ たことを村木は知った。池上が爪先を抜くと、栓を開けたように血が迸り出た。長谷の悲鳴 は、もはやくぐもって聞こえなかった。 村木は坐り込んだまま、その場で失禁していた。三人の振るう暴力は、まさしく噂どおり のものだった。相手が仲間であろうがなんだろうが、手加減などまったくない。命を保たせ てやろうなどという考えは、最初から欠落しているようだ。まさしくカマキリの共食いだ。 田中たち三人は、長谷の尋問にかまけて村木の存在を忘れているようだ。だが長谷が白状 すれば、次は村木が暴力の標的とされる。自分も耳を削がれ、目を潰され、あげく殺される と思うと、意識が遠のくほどの恐ろしさに締めつけられる。村木は失禁していることにすら 330