まん 「お前、乙女を貰うてくれんか」 というと、意外にも新輔は頬を染めて、 「わしのようなちんちくりんじゃ、乙女さんのほうがいやがるじやろ」 といった。なるほど新輔は五尺足らずの小男だから乙女とならぶと、異様な夫婦がで きあがる。 そのあと権平は乙女を説得するのに苦労した。 「医者や学者はいやだ」 というのである。乙女は武張った男がすきであった。 りようけん 「これ乙女、よう料簡しろ」 と権平は叱りつけた。 「武張った男ちゅうもんは、お前さんのようなぶばったおなごが好きではない。優しい おなごに感心するものぞ」 「それでは嫁かぬ」 「嫁かいでどうするんじゃ」 「竜馬が帰ってくれば、竜馬を相手に一生送りまする。あれはわたくしが育てた者じゃ 「ばかめ。竜馬も年ごろになれば嫁をもらうんじゃ。子でもうまれると、お前さんのす わる場所がなくなるぞ」
竜馬は大きく両手をつき、だまったまま頭をさげていたが、やがてヒョイと顔をあげ た。乙女はおどろき、 「どうしたのです」 「あいさつはやめた」 いきなり右足を出し、ふとももを両手でかかえて、 「乙女姉さん、足すもうをやろう。こどものときから二人でやってきたんだから、お別 れはこれがいちばんいい ) 。それとも、坂本のお仁王様といわれたほどの姉さんが、逃げ ますかね」 「逃げる ? 」 乙女は、竜馬のロ車に乗せられた。 「逃げはせぬ。勝負は、何本です」 「今日がお別れだから、一本こっきり」 乙女は、盛装のすそをめくり、白いはぎを出して両手でかかえた。あられもないかっ こうになったが、竜馬はこどものころから、この姉のそういう姿を見なれている。 花 きようだい の十分ばかり、姉弟は秘術をつくしてあらそったが、勝負がっかない。最後に乙女の 足が、竜馬の内またをはねあげようとしたとき、 「乙女姉さん、・ : ・ : 御開帳じゃ」
さすがに乙女はおどろいて足をつばめたとき、竜馬の足がすばやくすくいあげ、乙女 をあおむけざまにころがしてしまった。 またのつけねまでみえた。 「、ど , った」 ひきよう 「卑怯です」 「なにしち一よる」 兄の権平が、こわい顔で立っていた。 「乙女姉さんの御開帳を見ていたんです」 権平もおかしさをこらえ、 したく 「もう、そろそろ夜明けじゃ。竜馬は支度せよ。乙女も御開帳をしまえ」 と神妙に申し渡した。 当時、土佐の高知城下では、家の者が旅にたっとき、奇妙なまじないをする。これを、 からたちのまじない というのだ。いつごろから、はじまったものかはわからない。道中、苦難なことが多 いために、ふたたび家郷へ生きて帰ることをいのるためのまじないなのである。 乙女は暗い路上に出、門の雨だれが落ちる場所に、 / 石をひとっ置いた。
やがて、竜馬は、旅装で出てくる。 竜馬の旅着は、針仕事のにが手な乙女が十日も夜なべして縫いあげたもので、紺の筒 。しトっ」く 袖に紺の野ばかまをうがち、いかにも剣術修業の若侍らしい装束だった。 このときの坂本竜馬の旅装を記念して、明治後高知で開学した「中学海南学校」 ( 山下奉文などの母校 ) では、ながく月。糸 、—匱よ甘の筒袖、紺の野ばかまであった、という。 乙女はしやがみながら、 「竜馬、まじないですから、この小石をお踏みなさい」 「こ , つですか」 竜馬は、ちょっとふんでみて、 「姉さん、お達者に。こんど土佐にもどってくるときは、乙女姉さんは、他家のお人に なっておられますな」 乙女はそれについてなにもいわなかったが、竜馬は知っていた。乙女には去年の冬ご ろから縁談があった。はなしが進み、この夏には、高知から半日ばかりの田舎の山北と おかのうえしんすけ いう村の医者の家にとつぐことになっている。名は岡上新輔といい、長崎がえりの蘭 医だった。ただ背たけが乙女より八寸もひくいのが、彼女の気に入っていない。それで 花 出 門「こんどもどったら、山北へあそびにいらっしや、 , つ、れし挈」 , つに、つこ。 し」
「竜馬は、わしは乙女姉さんがおるきに一生嫁はもらわん、と申しておりました」 。いまはあの者も別の考えをもっちよるぞ。 「他愛もない。あれは子供のころの一一 = ロ葉じゃ それに姉弟なんば仲がようても、子孫は出来ん。出来たら大変じゃ」 ぐすっと権平は笑った。変なことでも想像したのだろう。 「嫁け匸 ということで、とうとう乙女は岡上新輔のもとにきて一年になる。 その日、たまたま乙女が岡上家の裏で下男数人に薪を割らせていると、竜馬がぬっと 入ってきた。 「あら、竜馬」 乙女は、急に娘々した声をあげた。 ただ、眉を落し、歯を染めて、すっかり初々しい新造すがたになっている。 「こんどの地震で、帰ってくれたのですか」 「そうです。姉さんもすっかり若奥様になられましたな」 変「頼りない亭主でもね」 大 「立派な義兄さんですよ。いまご在宅でしような」 の 寅「ほら、山田村の中山さんのお祖父さまが、すこし悪くて、朝から出かけているのです よ。ほどなくお帰りのはずですから、まずまずおあがりなさい」
新輔は上機嫌で自分の妻をそう呼んだ。 「」 , つじやろ」 「必」 , つでー ) よ , つか」 乙女は、相手にならず、 「竜馬はどう思います」 「やはり武士ですからな」 酒をぐっと飲んで、 あなど 「侮られれば、すなわち剣をぬいて恥をすすぐのは武士の武士たる道です。無学無智と いうことより、もっと根本の事です」 「そうです、竜馬のいうとおりです」 といったのは、乙女である。 「お医者にはわからぬ心事ですよ」 「おいおい女房どの」 新輔は善い人だし、乙女に忽れきっているから怒らない。 変「お前まで攘夷党か」 大 「武士党です。蘭医党じゃありません」 の 寅「しかしお前はわしの女房だろう」 「女房でも、それとこれとはちがいます」
やっさがり 大食いの権平はちょうど午後三時のかゆを食っていたときだったが、めしつぶを噴きだ して笑い 「乙女の欲目じゃ。世間ではそういう者を茫洋といわす薄のろというちよる」 「でも、ほかのこどもとくらべると、どことなしに目の光がちがいますよ」 ちかめ 「あいつは、父上ゆすりで近眼なんじゃ。その証拠に、遠くをみるとき、シバシバと目 を細めちよる」 「細めちよりますが、近眼ではありませぬ」 「近眼じゃ」 乙女には、竜馬が目を細めているとき、この少年だけがわか 権平はそういうのだが、 る未知の世界を遠望しているようにしかみえない。 乙女のほかに、もうひとりだけ竜馬の支持者がいた。ひょうきん者の源おんちゃんで ある。もっともこの老僕は乙女と竜馬のことなら、なんでも味方になるくせがあった。 ばん 「坊さんは、きっとえらくなる。いまははなたれじゃが、大きゅうなればきっと日本一 の剣術使いになられまする」 源おんちゃんのりくつは単純で、竜馬の左の腕に一寸ほどのあざがあるからいいのだ 花 のという。このあざの持主が剣をまなべば天下に風雲をおこす、という相学を、どこかで 門きいてきたらしい 「たれからきいたの」
「小嬢さまよ」 げんおん、、、 と、源爺ちゃんが、この日のあさ、坂本家の三女の乙女の部屋の前にはいつくばり、 芝居もどきの神妙さで申しあげたものであった。 「なんです」 と、乙女がうつむいて答えた。手もとが針仕事でいそがしい。あすという日は、この りようま 屋敷の末っ子の竜馬が、江戸へ剣術修業に旅立つ。 「えらいことじゃ。お屋敷の中庭のすみの若桜が、花をつけちよりまする」 「そんなの、わかっちよる : ・・ : 」 しようじ の乙女は、障子のかげで笑った。 黜「またいつもの源おんちゃんの法螺じゃ。三月もなかばというのに、また桜が咲くとい , っことが、」 , っしてあり - 士ましょ , っ絜」」 門出の花 おとめ
でなにもならん。ただ竜馬が男なら、この国を一人で守れ、というのじゃ。大ぜいでわ いわい論ずるよりも、たった一人で守るほどの気概をもてというのじゃ。そうじやろ、 乙女」 「そうですとも」 乙女も、新妻だからそこは他愛はない。 せんぎいせいし 「義兄さんのおっしやるとおりですよ。千載青史に坂本竜馬の名を刻むような男におな りなさい」 「乙女、もう寝よう。寝支度をしてくれ」 と立ちあがった風情や呼吸は、さきほどまであんなに嶮悪だったのに、さすがに夫婦 で、なんとなく艶めいてみえる。竜馬のわからない機微である。 翌々日、竜馬は高知城下の屋敷に帰った。その後、毎日、人が訪ねてきた。 田舎というのは、都会の生活者の想像がっかぬほどに物見高い 変 ( 竜馬がどういう顔になっちよるだろう ) 大 というのが、かれらの興味である。 の 寅つぎに、 ( 江戸の様子はどうじゃ ) つや
五尺八寸は優にあった。ころげると、すしりと畳がしなう。よくふとってもいたか ちず ら、兄の権平や姉の千鶴がからかって、 にお、つ 「お仁王様に似イちゅ」 といった。これがひろがって高知の城下では、 「坂本のお仁王様」といえば、百姓町人まで知らぬ者はない。そのうえ大きいわりには しない 動作が機敏で、竹刀をつかわせれば、切紙ほどの腕はあった。末弟の竜馬に幼少のころ 剣術の手ほどきをしたのは、この三つ年上の乙女である。 「源おんちゃん、つまらぬことをする。これは、紙ではありませぬか」 と、乙女は気づいた。わけをきくと、不器用の源おんちゃんはその紙の一輪をつくる ために、ゆうべはひと晩かかったという。乙女はおかしくなったが、途中であわてて笑 いをとめた。涙が出そうになったのであろう。 ほんちょうすじ 竜馬が、いよいよあす発っときいて、城下本町筋一丁目の坂本屋敷には、朝からひ つきりなしに、祝い客がつづいている。 はつべい 祝い客たちは、父の八平、嫡兄の権平にそれそれお祝いを申しのべたあと、かならず の末娘の乙女の部屋にもやってくる。言うことばも、きまっている。 ばん 出「小嬢さまは坊さんがお発ちになったあとは、さそさびしゅうござりましよう」 「なに、左様なことはありませぬ。洟たれが手もとにおりませぬと、さばさばいたしま きりがみ