市中に下宿して、ただときどきこの陣営に遊びに来よる。眼つき、油断ならぬ。あの眼 つきから察して、何のための上坂じゃとおンしらは見るか」 おお、そういえば」 みな、思いあたる。 「探索じゃな」 「よう見た」 東洋を斬った同志那須信吾ら三人を探すためにやってきたのであろう。 「斬るか」 と、以蔵は、無表情にいった。が、手は小きざみにふるえている。臆したのではない。 昂奮したのだ。 「斬ろう。尊王攘夷のためだ」 念のため、住吉陣営に駐在している藩の重役平井収二郎まで申し出た。平井は、上士 にめずらしく勤王派で、武市と交遊し、こんどの吉田東洋暗殺の黒幕の一人であり、そ の後の政変芝居では、武市とともに主演役者でもあった。 「よし、片づけろ」 者 跡と、平井はいった。もし那須信吾らが捕まれば、折角藩を勤王色に塗りかえようとし 追ている努力が水の泡になりかねない、と思ったのだ。
さな子は、眼が切れ長のひとえで、きりつとした少年のような顔立ちだから、十八 九だといっても、それで通るのである。 さな子は、部屋のすみの腰屏風のそばまでさがり、火桶から鉄瓶をはずした。煎茶の 支度をしている。 「ちかごろは、うちの重太郎までが、天朝様がどうの、攘夷がどうの、と、 「鳥取藩 ( 池田家 ) は勤王の御藩風ですからな」 「千葉一門もそうだ」 そのとおりである。死んだ千葉周作やその子供たちが水一尸家から禄を受けていたため に門人に水一尸侍が多く、江戸の道場としては、早くから尊王論議のやかましい塾風だっ 。りしまう 「それにしても、わが竜さんは、のんきなものさ。なあ、さな子」 さな子は小さな声でいった。 転「ところで、竜馬、こんどはどういう目的の出府だ」 「脱藩したんですよ」 「当分、かくまって頂こうと思いまして」 ? ) 0 てつびん
372 ができあがりそうな勢いであった。 この間、かっての勤王先鋒だった薩摩藩は、しずかに兵備をととのえて時勢を静観し ている。かれらは、長州藩が天皇を擁して幕府にとってかわるのではないかと疑っていた。 さらに、将軍上洛。 自然、幕府首脳部は京都に移った。 京都の情勢はこんとんとし、たとえば新選組が誕生するのも、このころである。 「竜馬どのは、御屋敷に来る諸藩の有志 ( 志士 ) のかたがたのあいだでも、よくおうわ さにのばりますよ」 公卿の三条家は、故主実万、当主の権中納一言実美、父子一一代っづいて尊王攘夷の家だ から、京の志士の希望の星であった。 自然、屋敷は志士のサロンになり、過激世論の中心になっていた。 そのなかで、 「土佐の竜馬が」 とか、 「海南の坂本竜馬」 とかいったうわさが出る。かれら攘夷志士は、竜馬に期待するところが多い その竜馬が、ひそかに開国論者に変色しているのである。
乱世である。 「半平太も大変だな」 と竜馬がいった。 半平太には、半平太の壮大な野心がある。土佐藩というものを将軍の統制から脱せし めて天皇の親藩にしようという野望である。しかし将軍あっての大名というのが徳川の 法則だから、そんな手品のようなことができるかどうか。 第一、江戸屋敷でぎよろりと眼をむいている藩主の父容堂がゆるすまい。容堂は勤王 家であるとはいえ、まったく精神的なもので、政治的には徹底的な佐幕家である。それ に天下の法律秩序をあくまでもまもるという強烈な保守主義者である。 ( いつまで江戸の御隠居がこの武市のにわか芝居をだまってみているか ) 竜馬は、あぶなっかしく思うのだ。 が、武市は武市の考えからみると、竜馬の行動のほうが、えたいが知れない。事もあ ろうに幕臣、開国論者 ( すなわち、奸賊、とみるのが尊王攘夷論者のがわ ) の勝海舟の門 人になったというではないか。 「どうなんだ、その点」 と、武市半平太は、刺すような眼で竜馬を見つめた。 「半平太、まあ、ながい眼で見ろや」
0 4- 勤王派の重役の黙許をえたので、岡田以蔵は、殺人計画に没頭した。 ( おれはやるぞ ) こおど 雀躍りするような気持である。 や ( 斬れば、平井様も、武市先生もおよろこびになる ) 以蔵らしい功名心である。 が、相手の下横目井上佐一郎は佐一郎で、東洋殺しの下手人をつかまえれば立身がで きると考えていた。双方、べつに主義思想があるわけではない。勤王派、旧吉田東洋派 の、それも末輩同士の異常な功名心が、日ならずして衝突することになるだろう。 土佐は、真二つに割れている。見様によっては三つにも四つにも割れているかもしれ ぎようそう ないが、さしずめ、互いに悪鬼の形相で対立しているのは、勤王派と、故東洋が抜擢 した新官僚派とであった。 勤王派足軽以蔵は、住吉陣営詰めの下横目の中にも勤王派がいることを知っている。 名は、吉永亮吉、小川保馬。 「御両所、密議がある。ちょっと来てくれ」 と、以蔵は、この二人に計画をうちあけ、協力を乞うた。 「なあ御両所、井上、岩崎は、おンしらには同僚だが、何事も、天下のためだ」 こういう無智な狂信者が、天下国家のためだ、と昂奮するときは、ろくなことがおこ らない。
になってしまった。 「まあ、捨てちよけ」 というぐあしになった。 ひとつには、藩の支配層に、勤王同情のいろあいが出はじめたからである。 武市半平太の努力によるものだ。 文久一一年四月、「土佐の井伊大老」といわれた参政吉田東洋を城下帯屋町で暗殺して 以来、武市のクーデターはやや成功した。 むろん、御一門、保守、それに勤王、といった複雑な門閥の連立内閣ではあったが、 とにかく土佐藩は、 「薩長土」 と三藩並称される勤王藩として風雲に乗りだしはじめていた。 いわゆる勤王決死の志士の人数は、土佐藩が最も多かったのだが、藩は佐幕である。 志士はいずれも郷士、軽輩の出身で、藩政を動かすことはできない。 それを、わずかでも武市は動かした。巨岩を素手で動かすような困難さと無理が必要 であった。その無理の一つが、東洋暗殺であった。 武市は、その黒幕である。 しかし国許の官僚機構をにぎってしまった以上、死んだ吉田東洋派の旧官僚たちは、 腹の中で、
と勝がきりだしたころには、容堂はすっかり酔っている。 「御家来のなかで、坂本竜馬という者をご存じですか」 「竜馬 ? 」 おおよせ 薄っすら、記憶がある。かって江戸鍛冶橋藩邸における大試合で勝ちのこった北辰一 刀流の使い手ではないか ? しかし容堂は豪儀な男だ。いや事実、その才能、器量の豪儀な男なのだが、たった一 っこの男の欠点は、自分の豪儀さを見せびらかそうとする臭味のあるところだった。 「知りませんよ」 ととろりとした眼で、勝をみた。二十四万石の太守だ、家来のはしばしまで知るはず がない、といった顔つきである。 ふき ちょっと勝と似ている。へそまがりでひとがみな馬鹿にみえ、事実、豪胆不羈。 例の長州藩の周布政之助の無礼事件のすこし前のことだ。やはり長州の周布、久坂、 高杉一派の過激な尊王攘夷主義者が、容堂の佐幕勤王主義をからかって、ある日、「日 本魂」という銘酒をとどけてきた。 容堂、色をなし、 「退助、返礼にこれをもってゆけ」 ばっこん と、紙一枚を渡した。墨痕あざやかに、 「大べら棒」
もともと徳川時代の藩というのは、他藩に対してつねに疑いぶかく、競争心がつよく、 つねに自藩中心主義で、「おなじ日本人」という思想は皆無といってよかった。 仲のわるいのは、薩長だけではなかったのである。 ただ薩長は、おなじ水一尸学による勤王倒幕思想をもち、しかもどちらも徳川家には恨 みこそあれ、恩はない。自然、三百余藩のなかではもっとも行動的で、藩主以下、国家 改造の選手という意識がつよい いわば、おなじ穴のむじなである。 それだけに競争心がつよく、勤王活動も、 「薩摩に負けるな」 と長州人がカめば、薩摩側も、 「長州はなにを仕出かすかわからぬ藩じゃ。勤王と申しても本音は、天皇を擁して京都 で旗を立て、毛利将軍になろうとたくらんでいるふしがある」 と、かんぐる。 てきがいしん すでに競争心というより敵愾心である。この感情は、理屈ではない。戦国以来の武士 ふう 前の風である。しかもこの傾向は、長州の桂小五郎、薩摩の西郷吉之助 ( 隆盛 ) といった の指導者にさえ、 ( いや指導者ほど ) 濃厚にあった。 嵐そこで、 「一度、話しあってみよう」
ひょうたん かって容堂は、瓢簟が逆立ちした絵を描いてみせ、長州はこれだ、といったことが ある。下が上になっているというのである。 容堂にもそんな感情がある上、周布らは周布らで、 「勤王を看板にかけた公武合体主義こそもっとも悪質だ」 という頭がある。 宴が進むにつれ、容堂は久坂玄瑞を指さして、 「そちは詩吟が上手じゃという。ひとっ聴かせてもらえんか」 ごうがん といった。態度傲岸。 久坂はむっとしたが、自藩の若殿様も、 「おめでたい席である。おおせに従うよう」 すおうのくに げつしよう とすすめたので、やむなく、周防国の勤王僧月性の憂国の詩を吟じはじめた。 、っ力しカ 言々、火を吐くような攘夷勤王の詩で、慷慨家の久坂が吟ずると、堂内に電光がはた めき、風雨がおこるかと思われるほどすさまじくきこえる。やがて、 せっし びようどう ほうがい 「われは方外 ( 俗外 ) に居りてなは切歯す。廟堂の諸老 ( 政界の実力者 ) なんぞ遅疑する」 と吟じきたったとき、久坂にわかに立ちあがり、容堂を指さし、 「公もまた廟堂の諸老の一人でござる」 と、席を去ってしまった。他家ながら大名に対し、これほどの無礼を働いた例は三百 年なかったであろう。
「竜馬、男とはむずかしいものだな。お前とおれなら、肚を割って話せば意見があうと おもったが、そうではない。竜馬、お前はひとりでゆくやつだ」 もくねん 竜馬、黙然。 「そうだろう」 きゅうごう 「いや、やがては天下の同志を糾合する。しかしながら、いまはその時期ではない。 幕府の屋台骨はまだまだ頑丈なものだ。一藩や二藩のカではどうにもならぬ。時という ものがある」 「時まで、竜馬は寝て待つのか」 「待たん」 「どうするんじゃ」 「海軍をつくる」 「おれの艦隊をつくってそのカで勤王藩を握手させ、十分に用意をととのえた上で、京 都を中心とした国家の統一をとげ、しかるのちにおれは身をひく。大事は一朝一タには 成らぬ。これには五、六年の歳月が要るだろう。半平太、勤王決死の士だけの集りでは、 天下の事は成らぬそ」 ( 法螺め。言うことが遠大すぎるわ )