その蛤御門ノ変で、馬上真っさきに突入して死んだ。 「私が、来島です」 と、その豪傑の来島が、山地忠七ら若い土佐藩士の面々にむかい、平身低頭してわびた。 「周布は酒乱でござる。土佐の御老公に対する失一一 = ロ、万死に値いしまするが、なにぶん にもあのような人間にて : : : 」 「いや」 と山地忠七がさえぎった。 「周布殿がいかようなお人柄であろうとも、われわれにはかかわりがござらぬ。また、 周布殿を責めに参上したのでもござらぬ。ただ拙者どもの眼の前で、主君が辱しめられ たること、この一事でござる。主はずかしめらるれば臣死す、と申す。われわれ、周布 殿を討ち果たした上で切腹つかまつるつもり」 「、こもっとも」 来島は頭をさげるほかない。 「とまれ、周布殿をこれへ。それとも、御不在でござるか」 「在邸いたしております」 と、来島は正直に答え、 「しかしながら、このたびの不祥事、私闘ではこれなく、尊藩、弊藩の大事にかかわる ことゆえ、拙者一存では参りませぬ。世子 ( 若君定広 ) にも相談つかまつって」
容堂、顔色をかえた。 が、おとなげないと思い、すぐ話題を変えて談笑したが、周布、久坂ら長州の過激派 を憎むこといよいよはなはだしくなった。 「周布を斬れ」といった言葉には、そういう感情もある。 長州藩邸では、大騒ぎになった。 「、や、はり , 、来わ ~ か」 こっち という、そんな表情である。長州の周布政之助がわるいのだから、どうしようもない。 ていちょう 「鄭重にお通しするのだ」 と、長州勤王派では最年長のひとりである来島又兵衛が、取次ぎの士にそう指図した。 来島。四十七歳。 利ロ者の多いいわゆる長州型のなかでは、めすらしく豪放胆大な男で、戦国時代の武 者絵からぬけ出してきたような骨柄である。 余談だが、かれが東奔西走して家庭をかえりみなかったため、つねに妻に苦情をいわ 前れることが多かった。後年、兵をひきいて長州を発し、いわゆる蛤御門の大騒動をおこ のしたときも、出発にあたって妻に、 嵐「こんどだけ。こんどだけだ。以後はおとなしくするから」 と頭をかかえて頼んだという。豪傑肌ながら愛すべき人柄だったのであろう。しかし、
と忠七、駈けだそうとするのを、土佐側の年長者の小笠原唯八が抱きとめ、 「きようは君命をおびた大事の使者としてわれわれは来ている。復命のうえ、周布を討 となだめ、一同、江戸鍛冶橋藩邸に駈けもどった。 きようそく 容堂は、脇息にもたれている。当時、これほど賢明な大名はないといわれた男だが、 この殿様の欠点は、自分自身の利口さ、度胸に陶酔しきっているという点だ。 「馬鹿者」 と、どなりつけた。 はずか 「君辱しめらるれば臣死す、という義を知らぬのか。なぜ周布政之助をその場で討ち果 たさなんだ」 四士、ただちに桜田の長州藩邸にむかい、周布を討っために駈け出した。 山地忠七ら四人の土州藩士が、刀のコジリをあげて鍛冶橋藩邸の門をとびだしたとき、 「おれもゆく」 おも きようしんみようちりゅう と、さらに五人の若侍が加わった。その重だった者は鏡心明智流の名手本山只一郎 「あわや、遅れたるか」 と、みなよりすこしあと、いまひとりの若侍が門を飛びだした。 いめいたいすけ 乾退助である。
のぎまれすけ 日清戦争では、東京第一師団長として乃木希典らをひきいて旅順要塞をわずか一日で どくがんりゅう おとし、独眼竜将軍の名をあげた人物である。 「主人の」 と、山地忠七はいっこ。 「悪口をきいた以上、貴殿を討ち果たさねばこの場は去れぬ」 他の三人の土佐藩士はみな抜きつれた。小笠原唯八、林亀吉、諏訪助左衛門 これには、長州藩きっての乱暴者の高杉晋作もおどろいた。ここで紛争をおこしては、 長州・土州のせつかくの友藩関係がぶちこわしになってしまう。 高杉は機転のきく男だ。それもとっさにきく。しかもつねに、奇略である。 山地ら土佐藩士にむかい、 「おおせのとおりだ。弊藩の重臣とはいえ、周布政之助の不敬、拙者もゆるせぬ。貴殿 らのお手をわずらわさずとも拙者の一刀で成敗つかまつるわ」 というなり、長剣をぬいて周布に斬りつけた。 が、奇略である。本気で斬るつもりはないから、刀の切先が、馬の尻にあたり、わす 前かに傷をつけた。 のおどろいたのは、馬である。 嵐啼いて前脚をあげたかとおもうと、周布を乗せて一散に駈け去ってしまった。 「逃げるか」 せい・は、
ようい ました。洋夷の一人や二人を叩っ斬って幕府を慄えあがらせてやればよいのでござる。 シン、 ) く 神奈川、横浜の洋夷どもも、清国でやりおるふるまいと同然、日本人を虫ケラのようにし か思うておらぬ。長州武士の白刃をあびれば、すこしは眼が醒めるでありましように」 といった。暗に、高杉ら過激連中の機嫌もとっている。長州のばあい、重臣に周布の ような男がいたから、高杉らま、、 よ、よ過激粗暴になってゆき、ついには幕末、藩は 暴走に暴走をかさねることになるのである。 若殿も、この周布の暴言癖にはもてあまして、 「政之助、話はまたいずれ」 と立ちあがった。 梅屋敷の門前には、土佐藩士が四人いる。 暴発をおとめなされ、と長州侯へ忠告したのは、土佐の御隠居の容堂である。それで 責任上、長州の世子にカ添えをさせる、という意味で、容堂はこの四人の土佐藩士を梅 屋敷に派遣しておいたのである。 ずきん 酔っぱらいの周布政之助は、防寒のため宗十郎頭巾をかぶり、馬上、戛々と門を出て かみしも 前くると、そこに裃をつけた土佐藩士がいる。 の「やあ、土州のお歴々か」 嵐周布は無礼にも馬上でいった。じつのところ、事をぶちこわしにした容堂の態度は腹 にすえかねている。 かっかっ
とやった。横にいた薩摩の大久保一蔵が、 「これ、なにをいう」 と、堀のそでをひいたが、もうなにもかもぶちこわしだった。 周布は、眼がすわっている。立ち上がった。大剣をぬいた。 「いや、抜いたは余興。余興にて長州の剣舞なと馳走する」 と舞いはじめた。 まっしゃ 芸者、末社が、蒼くなったほどのすごい剣舞で、舞うごとに、 ぶん、 と太刀風がおこるほどに白刃を旋回させ、ときに、堀次郎の鼻先へ、きらつ、きらっ と切先が触れそうになる。 桂は立ちあがって、 「周布さん」 と抱きとめた。 「剣舞など不粋ですぞ」 だんがんとうそう はやと 「不粋 ? 小五郎。薩摩隼人というのは、弾丸刀槍が酒のサカナじゃと頼山陽も讃えた きよう ではないか。おれは薩人にサカナを饗するために白刃の舞をしておる」 「まあ、それはいずれあとで」 「小五郎。おれはやめんぞ」
「君は土佐人だからいうが、薩摩人というのは、性根こそって奸佞じゃ」 「ほっほっ 竜馬は妙な笑い方をした。 「むこうも、長州をそう考えつろうで」 「どうか知らんが、僕はこの年になるまで、あんな無法無茶な酒席に列したことがない」 桂の話すところでは、ここは、柳橋「川長」の楼上。 ひとわたり酔いがまわったあたりで、酒癖のわるい長州側の周布政之助が、 「少々、ごあいさっ申しあげたい」 と、末席にすわった。 「とにかく薩長は仲がわるい。これを機会に大いに貴藩 ( 薩摩 ) と懇親をふかめ、両藩 手をとりあって国家の難事にあたりたい。 もし万が一」 とここまではよかった。 なかたが 「わが長州の罪にて両藩仲違いになるようなことがあれば、この周布政之助、切腹して 前お目にかけまする」 の「では」 嵐と、刀を引きよせたのは、これも酔っている薩摩側の堀次郎である。 かいしやく 「拙者、介錯をつかまつろう」 かんねい
同に「御酒下され」があった。 ( 世子に出馬されてはどうもならん ) 高杉らは、こ、 しがい顔で酒をのんでいる。 場所は、大森の梅屋敷である。当時江戸の近郊の梅林にはこういう茶亭が多かった。 かまた かめいど とくに亀戸の梅屋敷、それにこの蒲田郷大森の梅屋敷が、もっとも有名だった。 梅林が、そのまま庭になっている。しかしまだ花には早すぎる。 そこへ周布政之助。 ーこ、この男が薩摩藩士の前で剣舞をやって大騒ぎになったことを書いた。藩の重役 でありながら、高杉らの暴発組の親分であり、後援者であった。頭もよく度胸もある男 なのだが、しかしおだてに乗りやすく、気が短く、おっちょこちょいな点、名門の子ら しい欠点は、みなそなえている。 それに、酒癖がわるい 周布は江戸屋敷から馬をとばして梅屋敷にかけつけ、酒席には遅れて出席した。すで に酒が入っている。 さらに飲んだ。 「高杉、仕損じたな」 かか 呵々と笑い、世子定広にむかって、 「若殿様の御前なれど、高杉らの壮挙、仕損じたのはかえすがえす惜しいことをいたし
と勝がきりだしたころには、容堂はすっかり酔っている。 「御家来のなかで、坂本竜馬という者をご存じですか」 「竜馬 ? 」 おおよせ 薄っすら、記憶がある。かって江戸鍛冶橋藩邸における大試合で勝ちのこった北辰一 刀流の使い手ではないか ? しかし容堂は豪儀な男だ。いや事実、その才能、器量の豪儀な男なのだが、たった一 っこの男の欠点は、自分の豪儀さを見せびらかそうとする臭味のあるところだった。 「知りませんよ」 ととろりとした眼で、勝をみた。二十四万石の太守だ、家来のはしばしまで知るはず がない、といった顔つきである。 ふき ちょっと勝と似ている。へそまがりでひとがみな馬鹿にみえ、事実、豪胆不羈。 例の長州藩の周布政之助の無礼事件のすこし前のことだ。やはり長州の周布、久坂、 高杉一派の過激な尊王攘夷主義者が、容堂の佐幕勤王主義をからかって、ある日、「日 本魂」という銘酒をとどけてきた。 容堂、色をなし、 「退助、返礼にこれをもってゆけ」 ばっこん と、紙一枚を渡した。墨痕あざやかに、 「大べら棒」
ひょうたん かって容堂は、瓢簟が逆立ちした絵を描いてみせ、長州はこれだ、といったことが ある。下が上になっているというのである。 容堂にもそんな感情がある上、周布らは周布らで、 「勤王を看板にかけた公武合体主義こそもっとも悪質だ」 という頭がある。 宴が進むにつれ、容堂は久坂玄瑞を指さして、 「そちは詩吟が上手じゃという。ひとっ聴かせてもらえんか」 ごうがん といった。態度傲岸。 久坂はむっとしたが、自藩の若殿様も、 「おめでたい席である。おおせに従うよう」 すおうのくに げつしよう とすすめたので、やむなく、周防国の勤王僧月性の憂国の詩を吟じはじめた。 、っ力しカ 言々、火を吐くような攘夷勤王の詩で、慷慨家の久坂が吟ずると、堂内に電光がはた めき、風雨がおこるかと思われるほどすさまじくきこえる。やがて、 せっし びようどう ほうがい 「われは方外 ( 俗外 ) に居りてなは切歯す。廟堂の諸老 ( 政界の実力者 ) なんぞ遅疑する」 と吟じきたったとき、久坂にわかに立ちあがり、容堂を指さし、 「公もまた廟堂の諸老の一人でござる」 と、席を去ってしまった。他家ながら大名に対し、これほどの無礼を働いた例は三百 年なかったであろう。