物だが、天下危難のときにはなくてはならぬ妙薬だ。人間の毒性ばかりをこせこせと見 しようじん たいじん るのは小人のすることで、大人はすべからく相手の効能の面を見ぬかねばならん」 「そういえば竜さんも毒物だな」 「毒物と毒物の対面だったよ」 「いやンなるねえ」 重太郎はもう、刺客の剣呑さは脱れて、市井の人のいい若旦那になっている。 「まったくいやンなるよ、竜さんの変節ぶりには。だいたい私は、築地の軍艦操練所を 見に行ったときから様子がおかしいとおもっていたんだ。勝の屋敷へ私にくつついて行 ったのは、私をとめようという策だったんだね」 「いや、場合によっては斬ろうとおもっていたんだ、しかし」 「うそうそ。だけどもういいんだ。私は竜さんが好きだからもうこのことは忘れるよ、 そのかわり竜さん、おねがいがあるんだ」 重太郎は、かたちをあらためた。 「私を弟子にしてくれないか」 「弟子 ? 」 竜馬は笑いだした。 「あんたはこの千葉家の世継ぎだ。そっちこそ師匠筋ではないか」 「それは剣術の上でのことだ。人間として、また国事に奔走する上において、あんたの しせい
よる」 「竜さん、声が大きい」 操練所構内を巡察している訓練生らしい数人が、むこうからやってきた。 「重さん、おれは、天子様のもとに万人が平等の世の中にしてみせるぞ」 「竜さん」 そう 「なあに、おれにこの軍艦三艘もあたえてみろ、三百年、日本人を縛りあげてきた徳川 家をぶつつぶしてやる」 「竜さん、なにをいう。将軍、大名あってこその日本だ」 「あっははは、おれにこの軍艦三艘をあたえれば、大名などはけしとんでしまうわい」 「竜さん、今日は帰ろう。あんたはどうかしている」 「そうかね」 二人が歩きはじめたとき、巡察中の訓練生の群れが、よびとめた。 「そこで、何をしておられる」 「見物じゃ」 舟竜馬と重太郎はいいすてて、歩いた。その足どり、腰のすわり、たれがみても一流の 海使い手だとわかる。 勝みな怖れ、それ以上、声をかけなかった。 安芸橋を渡りはじめると、むこうから辻駕籠が一挺やってきて、二人の前にとまった。
「お、お、、 竜さん」 「なんだえ」 「おれをわざわざ大坂へつれてきたのは、勝の用心棒をさせるためかい」 「わるくとるな」 「とるよ」 ぶっと重太郎はふくれた。 なんといっても北辰一刀流の別家千葉貞吉の御曹司が用心棒とあれば、日本一の護衛 だろう。 「いやだなあ」 「な社 ) ? ・」 竜馬はおかしそうに重太郎の顔をのぞきこんだ。重太郎はいよいよふくれつつらで、 「そりやそうだろう。おれは最初勝を斬りにゆこうとしたんだぜ。それが護衛にまわる とは、軽薄すぎるよ」 「まあ、頼む」 へ 「竜さん、おれはまだ攘夷はすてきれんぞ。勝の開国論はやはりいやなんだ」 「とにかく頼む」 海「仕様がないなあ。竜さんとっきあっていると、なんだか、自分がわけがわからなくな るよ」
218 ものをみるカンも、異常なほどにすぐれている。 そういう人物が、鎖国時代に、「漂流」という偶然の機会で北米大陸の文明を見、し かも、ペリー来航さわぎの寸前にもどってきたというのは、日本の幸運というべきだっ たろう。 土佐藩は最初士格に列せしめ、ついに幕府は幕臣にとりたてた。 この江戸封建社会では、奇蹟といっていい抜擢である。しかしそれだけに、万次郎に 対する白眼もあって、万次郎は、その実力のほどには、さほどの活躍もなくておわった。 はすいけまち 竜馬は、高知城下蓮池町の海外通の画家河田小竜の塾にかよっているころ、河田から 中浜万次郎のことはよくきいていた。 ところが、意外にも万次郎が笑って、 「おンしが坂本君か」 と、知っていた。 河田小竜が、江戸の万次郎のもとへ竜馬のことを手紙で書き送っていたようであった。 なにしろ河田小竜は、万次郎が土佐に帰ってきたころ自分の屋敷に泊めて海外事情を ひょうそんきりやく くわしくきき、「漂巽紀略」という書物をあらわした。 「土佐偉人伝」という書物の河田小竜の項には、この書物について、 「 : : : 珍書にして、かの海南の俊傑坂本竜馬が、他日航海の志を起し、日本海軍の首唱 をなせしは、実にこの書物の感化にもとづくと称せらる」
をあらわすことばがない。 さらに竜馬は、手紙でいう。 たいけ 「年は二十三。もと十分大家にて、花生け、香を聞き、茶の湯などは致し候へども、一 ばうこう 向かしぎ奉公 ( 炊事仕事 ) などすることはできず」 と評している。 お田鶴さまは、ちらりと竜馬をみて、軽痛っと腹が立った。竜馬が、娘の美しさにば んやり見惚れているのである。 それこ、 しいま一つ腹の立っことがある。娘は、だまったきり、名も名乗らないのだ。 たしなめるように、 「名はなんと申されます」 、竜と申しまする」 これには、竜馬のほうがおどろき、 「わしと同じ名じゃ」 と、馬鹿声をあげた。 春よほど、感嘆したのである。 の 京お竜。 ただしくはそう書くべきだが、 どうも竜馬の名とまぎらわしい。竜馬自身でさえ、乙
172 だから、いつも愚のごとくにこにこ笑っている。 や 「竜さん、いっ勝を殺る」 「おお、いつでもいいぞ」 竜馬は景気よくいった。 大賛成した、というのだ。どういう心境だったか、こういう野放図な人間の心境など、 臆測するだけむだである。 かどで 「軍陣の門出だ、門出だ」 といって、竜馬はその夜、大いに飲んだ。 軍艦奉行並の勝麟太郎は、五日に一度は、築地の軍艦操練所へでかける。 「その途中で待ち伏せて斬ればよい」 と、千葉重太郎はいった。 「どうだ、竜さん、妙案だろう」 「そのとおりだ」 竜馬は、なぜか、眼を輝かせはじめた。 翌朝、眼がさめると、ふすまごしに、さな子の声がした。 「あの、お眼ざめでございましたら、兄がちょっとお部屋まできていただきたい、 しておりますけど」 と申
もっとも、英語でいったわけではなかったから、相手の水兵には通じなかった。 「それで、ど , っした」 と、竜馬。 「いや、あとの二人は、意気地がない。投げられたなかまをかばいながら逃げたよ。竜 さん、あんたは存外な物知りだからきくが、せえらあ ( 水兵 ) てなア、あれは足軽かね、 士分かね」 「どっちならいいんだ」 「それア、士分よ。せつかく日本武士の面目を見せてつかわしたのに相手が足軽じゃ、 千葉重太郎の名にかかわるとおもうんだ」 「お兄様」 さな子までが笑っている。 「そんなに気になさるのなら、相手に、足軽か士分か、お訊きなさればよかったのに」 「そうそう、そうだった」 件重太郎は、肩で笑って、膳の上の杯をとりあげた。 事 それをぐっと干してから、竜馬に渡し、 麦 生「ところで竜さん、相談がある」 「どんなことだ」
「人間、運などがあるものか」 と。 竜馬は、 いちじよう 「人生は一場の芝居だというが」 と、かっていったことがある。 「芝居とちがう点が、大きくある。芝居の役者のばあいは、舞台は他人が作ってくれる。 かな なまの人生は、自分で、自分のがらに適う舞台をこっこっ作って、そのうえで芝居をす るのだ。他人が舞台を作ってくれやせぬ」 どうやら、竜馬がその上で芝居をすべき舞台が、そろそろ出来あがりつつあるらしい 後年、伝記作者がこの時期からの竜馬を、 ばんりようひとう 「坂竜飛騰」 といった。坂本竜馬という竜が、にわかに雲を得て騰るという意味である。 さて、この物語はその飛騰の寸前 ある日、勝の屋敷へゆくと、 「おい、軍艦で大坂へ連れていってやろう」 といった。足もとから鳥がとび立つような話で、乗艦はあすだという。 ( そいつはありがたい ) あが
「しかし北辰一刀流ではあの軍艦は動かせないよ。動かせなきや、国が守れないし、幕 府も倒せない」 「竜さん」 不快な顔をした。 重太郎は、ご多分にもれず、大の西洋ぎらいである。幕府が外国に媚びてあんな洋船 を仕入れているということも許せないし、その西洋化の元兇が勝だと思っているのだ。 「竜さん、あんた、腰がくだけたか」 「わしの腰はいつでもくだけている」 竜馬は、重太郎の相手にならず、練塀にそって岸壁へゆっくり歩いた。 この軍艦操練所が、維新後、海軍兵学校に発展するのだが、それはどうでもいし 竜馬は、軍艦を学びたい。 が、それをはばんでいるものがある。 幕府である。 家康以来の、極端な門閥主義であった。 舟 海 ( おれは、ここへ入所れぬのじゃ ) 勝竜馬は、胸を締めつけられるおもいで、歩いた。 幕府の軍艦操練所は、幕臣の子弟にのみ門戸をひらいている。
竜馬は、さな子に注がれながらいった。 「重大なことだ。賛成してくれるか」 「ああ、するとも」 「簡単だなあ。事は人の一命にかかわることだぜ」 いのち 「それアそうだろう。武士が重大なこと、というのは、みな生命にかかわったことだ。 わしの命をとる、ちゅうのかね」 「それでも賛成するか」 「わしは何にでも賛成する男だよ」 「あっははよ 重太郎もばかばかしくなった。 「竜さんにはかなわない。何にでも賛成して何にでも命を投げだしてしまうのか」 「ああ、どんどん投げだしてしまう」 「いや、おどろいた。風呂桶の焚きロへむけて薪ざっぱうでもほうりこむようないい方 なんたば だな。しかし竜さん、薪は薪屋に行けば何束でもあるが、命は一つしかないんだぜ」 つばがね 「一つしかないからどんどん投げこむんだ。一つしかないとおもって尼さんが壺金でも 抱いているように大事にしていたところで、人生の大事は成るか」 「一一 = ロ , つねえ」 重太郎は竜馬から杯をかえしてもらった。 まき