178 ただし大名の家来でも「その主人が格別に見込んだ者」なればゆるされる。 が、竜馬は、土佐藩士であっても、郷士である。上士でなければ藩では推薦してくれ ないし、たとえ郷士でもいいとしても、脱藩の身である。 「重さん」 と、ふりかえった。 「勝なんそを殺すよりも、人おのおのが志を遂げられる世の中にしたいものだなあ」 「ふむ ? 」 単純な攘夷論者である千葉重太郎にはわからない。 ばんやり立っている。 二人の眼の前に、練習艦観光丸の黒い船体が、山のように盛りあがっている。 ものし 「重さん。おれは、故郷で河田小竜という物識りの絵かきから聞いたのじゃが、アメリ 力では、木こりの子でも大統領になれるし、大統領の子でも、本人が好きなら、仕立屋 になっても、たれも怪しまぬというぞ」 「それがどうした」 重さんは不機嫌だ。 「どうもせぬ。士農工商のない世の中にしたい、 とふと思うただけじゃ。武士、武士と いっても、色わけが百とおりほどある。その色分けの中から出ることができぬ。それは なぜか。将軍一人の身分をまもるために、日本では、三千万人の人間の身分をしばっち
( すごい男だ ) 竜馬は、酒をのみながら観測した。 ( しかし、策が顔に出すぎた策士だな ) 竜馬なりに、重みをはかっている。 たずもの 清河は、幕府のお尋ね者である。 江戸にいたころ、柳橋の万八楼で同志とともに痛飲し、帰路、事件をおこした。 酒楼で天下を談じたあとでもある。 酔ってもいた。両方で、気分が昻揚していたのだろう。 むこうから、町人がきた。 遊び人らしい ぞうごん このころの遊び人は、まったく武士を軽侮していた。路上で武士にむかって雑言をあ にんじようぎた びせたところで、武士というものは容易に刀を抜かないことを知っている。刃傷沙汰 をおこせば、藩では待っていたように禄を召しあげ、暇をとらせてしまう。どの藩でも、 藩士を養いきれぬほどに窮迫しているのだ。 転 遊び人は、むこうから来る清河八郎を大藩の相当な身分の藩士とみたのだろう。 あさか いむた 流なにしろ、従者をつれている。安積五郎、伊牟田尚平、村上俊五郎、といった清河を 盟主に立てている浪士たちである。
ら、闇へ駈け去った。 ( 馬鹿 ) ぎようあん 童馬は、暁闇の天を見あげた。 星が出ている。 ( まだ、早すぎたのだ、時期が。 無駄に命をすてた連中への、言いようのない怒りである。 夜明けとともに詳報が入ってきた。薩摩藩士団が、薩摩藩士団を斬ったらしい ( よし、見て来てやる ) とせ 竜馬は藩邸を出、伏見へ出かけた。さいわい、船宿寺田屋のおかみお登勢とは、竜馬 は旧知の仲である。 見舞、ということもあった。 とむら 勇士の霊を弔うという気持もある。 寺田屋騒動の真相については、竜馬はこのあとでさらにくわしく知るのだが、凄惨苛 烈なものであった。 京都錦小路の薩摩藩邸内の「御殿」にいる島津久光は、八人の藩士をよんだ。 動 とんしゅう 「寺田屋に屯集して暴発を企てているわが家 ( 薩摩 ) の者に告げい。よいか。一味の 寺浪人どもはかまわでもよし。わが藩士にのみ告げよ。即刻、京の藩邸へきて、予の話を きけ、と申し伝えよ。予がじきじき慰留する」
「お手前たちの御主人の容堂公は、天下の賢侯といわれ、ご自身でも、尊王攘夷をおロ になさる。しかし実際のご行動には不審あり。どうやら、尊王攘夷をオチャラカシなさ れているのであろう」 言いおわるのを待たず、土佐藩士山地忠七がばっと白刃をぬいた。 剣をぬいた山地忠七。 「周布どの、料簡ならぬ。馬をおりろ」 とさけんだ。この若者、片眼である。 おそばづとめ 容堂公の御側勤で、このとき二十二歳。うまれつき豪胆で、片眼が一倍ひかってい こだかさ 高知城下小高坂越前町に屋敷を拝領する百五十石の上士の家にうまれた。 十三歳のとき、隣り屋敷の子とあそんでいて、誤ってそぎ竹で眼をついた。眼球がっ ぶれ血がふきだして半顔を染めたため、泣き叫んで屋敷にもどったところ、母親が、 「武士の子にうまれ、わずか一眼をうしなったために泣くことがありますか」 と叱りつけた。 も , っ ~ 泚かなかったとい , つ。 とばふしみ 。もとはる かれはのち、鳥羽伏見で土佐藩の小隊司令として戦い、維新後元治と名をあらためて 陸軍少佐。 る。
ようい ました。洋夷の一人や二人を叩っ斬って幕府を慄えあがらせてやればよいのでござる。 シン、 ) く 神奈川、横浜の洋夷どもも、清国でやりおるふるまいと同然、日本人を虫ケラのようにし か思うておらぬ。長州武士の白刃をあびれば、すこしは眼が醒めるでありましように」 といった。暗に、高杉ら過激連中の機嫌もとっている。長州のばあい、重臣に周布の ような男がいたから、高杉らま、、 よ、よ過激粗暴になってゆき、ついには幕末、藩は 暴走に暴走をかさねることになるのである。 若殿も、この周布の暴言癖にはもてあまして、 「政之助、話はまたいずれ」 と立ちあがった。 梅屋敷の門前には、土佐藩士が四人いる。 暴発をおとめなされ、と長州侯へ忠告したのは、土佐の御隠居の容堂である。それで 責任上、長州の世子にカ添えをさせる、という意味で、容堂はこの四人の土佐藩士を梅 屋敷に派遣しておいたのである。 ずきん 酔っぱらいの周布政之助は、防寒のため宗十郎頭巾をかぶり、馬上、戛々と門を出て かみしも 前くると、そこに裃をつけた土佐藩士がいる。 の「やあ、土州のお歴々か」 嵐周布は無礼にも馬上でいった。じつのところ、事をぶちこわしにした容堂の態度は腹 にすえかねている。 かっかっ
という巧みなことばで、薩摩の士風をたたえている。 この「事件」は、天下の攘夷志士を沸きたたせ、幕末における薩摩藩の株は、大きく あがった。 竜馬も、多少、あいまいなところのある攘夷主義者だが、かといって、御多分にもれ 小、 0 、 オししや、もれないどころか、本来が剣客だから、この「事件」のうわさにはすっか り昂奮し、 「詳しいことはわからんものかな」 と、手づるをさがしていた。ざんねんなことに、竜馬は、薩摩藩士を知らない。後年、 まのところ、ど 西郷吉之助 ( 隆盛 ) をはじめ薩摩藩士と緊密そのものになるのだが、い ういう関係もなかった。 そこへ、例の嵐の日、清河八郎から使いの者がきた。嵐がすむと、すぐ道場をとびだ したのは、そのためである。 ( 清河は天下の事情通じゃ。例の一件、くわしく知っちよるじやろ ) それに清河は、話術の名人である。事件を活写するだろうと、それが楽しみで、竜馬 件は清河の誘いだしに応じた。 わちがいや 事 場所は、ほんの近所の南伝馬町二丁目の輪違屋惣五郎という質屋で、あとできけば亭 麦 生主は、清河の郷里の村の出だそうで、清河のことを、若様、若様、とよんで、かげでは ずいぶん尽しているらしい
332 「とにかく、勝を」 竜馬は、武市に念を押した。 「殺すな」 そういって「丹虎」を出た。 勝はいったん江戸に戻ったが、ほどなく、将軍上洛のことで、海路、上方にやってく るのだ。 当然、京に入る。 京は、長州、土佐藩士をはじめ、殺伐な攘夷志士の巣窟である。かれらのうちの何人 がしら かは、ツカ頭をたたいて勝を待っている、とおもってさしつかえない。 竜馬は、心配だった。 河原町の藩邸にもどると、すぐ 京の春
髪のかたちもかわった。 かっては講武所風に結いあげて月代を細く土佐風に剃りあげていた半平太は、それが しょだいぶまげ 男でも惚ればれするほど似合ったのだが、今は、公卿風の諸大夫髷である。 「半平太、まげがかわったな」 「これか」 杣月左尸 それが半平太の変名だ。こんどの正副二人の勅使のうちの副使姉小路少将の家来、と いう名目なのである。だから公卿の侍らしいまげにかえていた。 むろん、半平太はあくまでも土佐藩士であるが、一介の外様大名の下級藩士では、幕 府の高官に対する工作ができないのだ。それに二人の勅使がしゃべる筋書は、武市が考 えてやらねばならない。 だから、藩庁の許可をえて一時的に、公卿の家来ということになったのである。 半平太は、江一尸城の殿中にもその「格式」で出試りした。しかも殿中では、四位以上 の大名以上でなければ用いられない「烏幗子、直垂」を着用した。 楽ちょっとした天一坊である。 幕府側でも、 ( こいつは土佐の下級武士だな ) と見ぬいてはいるが、勅使の家来だからどうとも言いようがなかった。 さかやき
ただ、師匠武市への盲従だけがある。いや武市半平太の勤王攘夷宗の狂信徒といって . し > ・カ 信仰だけではない。 武市勤王党よ、 。しいかえれば、土佐藩における軽輩武士結社である。その結社が藩政 を牛耳れば、いままで、 「足軽、足軽」 とひとに卑しめられていた身分から、あるいは抜け出せるかもしれない。 それには、功名。 以蔵は本来、異常に功名心がつよい。相談した場所は、住吉陣営での下士長屋である。 住吉陣営の建物敷地の壮大さについては前にのべたが、陣営のなかでも、上士を収容 むね している棟と、下士 ( 郷士、足軽 ) のそれとは、別々になっていた。 けん 下士の棟は、「御殿」と称する建物の右方にあり、棟の長さが七十二間で二階建てと いう大きなものである。 そのうちの一室。 以蔵は、三人のなかまと談笑している。なかまは、久松喜代馬、田内喜多治、村田忠 三郎。どの男も、薄よごれた綿服を着ている。 くにもと 「おンしらア、気がっかんか。国許からのばってきた下横目の井上佐一郎、岩崎弥太郎 のふたりが、どういうわけか、長堀の藩邸にも泊まらず、この住吉陣営にも泊まらず、
「委細はそこできいていたとおりだ。あとはお前ひとりで見張っちよれ」 といった。 「寒いのう岡本」 竜馬は左腕をふところに入れ、いかにも寒そうな恰好で歩きだしたが、 「坂本さん」 と、岡本健三郎がひとり追いかけてきて、 「オンし、本当に捕われる気か」 と、同僚にきこえぬように、小さな声でいった。呼び方も「竜馬」から、坂本さん、 にかわっている。 岡本姓というのは土佐藩士に多い。まぎらわしいから健三郎のことを、同藩の者は、 岡健、岡健、とよんでかろんじていたが、下横目の卑役ながら、勤王の志がある。とい ってべつに学問があってのことではなく、 ( なんそ、世の中に血の騒ぐようなことはないか ) という程度の「志士」である。もっとも同藩ながらも、話にきく竜馬をみたのは、今 楽がはじめてであったが。 「どうなんじゃ」 おそるおそる、肚をさぐっている。 「いや、まだきめておらん。ただ夜中、勝屋敷のまわりを騒がすのは勝家へも近所へも