119 痕跡 ( 下 ) 。いいたくなかった。そこでマリーノのことに話題をかえたが、ことばがうまくでて こない。頭がぼんやりしているうえ、なぜかべントンに対してよそよそしい気分だっ た。彼に会いたくてたまらないのに素直になれず、多くを語りたくないような気がし ている。 「そっちのことを話して」自分のことを話すかわりにいった。「スキーとかスノーシ ューをした ? 」 「雪はふってるの ? 」 「いまはふってる。きみはどこにいるの ? 」 「どこって」だんだん腹がたってきた。何日も前にべントンがいったことが何であ れ、ともかくいま彼女は傷つき、怒っている。「物理的にどこにいるかってきいてる の ? 忘れちゃったの ? リッチモンドにいるのよ」 「それはわかってるよ。そういう意味できいたんじゃない」 「だれかいるの ? 話しあいか何かしているところ ? 」 「実はそうなんだ」 いまは話ができる状況ではないらしい。スカーベッタは電話したことを後悔した。
をベントンにもいってやりたい気がしている。「あんたの別れた奥さんが、いろんな ことをいいふらしてるのよ。そのこと知ってた ? 国土安全保障省のたれこみ屋のド クター ? 」 彼はくちびるをなめた。顔をひきつらせ、目を見ひらいている。 「ギリーが死んだのはあんたのせいだといってるわ。そのこと知ってた ? 」 「バラの件だ」べントンの声が耳のなかできこえた。 「ギリーが急死するすこし前にあんたが会いにきたといってる。彼女にバラの花をも ってきたのよね。知ってるのよ。あの子の部屋にあったものは全部調べたんだから。 ほんとよ」 「あの子の部屋にバラがあったのか ? 」 「彼に説明させるんだ」と、べントンがいう 「こっちがきいてるのよ」ルーシーはドクター・ポールソンにいった。「そのバラは 下 どこで手にいれたの ? 」 跡 「そんなことしてないよ。何の話だかさつばりわからない」 痕 「時間をむだにさせないで」 「へはいかせないからな :
「何かあるだろう。盲腸の手術のあととか。何かない ? 」 「ありません」 「もうじゅうぶんだ」べントンがルーシーの耳のなかでいった。冷静な声のなかに、 怒りが感じられる。 だがまだじゅうぶんではない。 「今度は診察台からおりて、片足で立ってもらおう」と、ドクター・ポールソンがい 「もう服を着てもいいですか ? 」 「まだだ」 「もうじゅうぶんだ」べントンの声が耳のなかでひびく 「さあ立って」ドクター・ポールソンが命じた。 ルーシーは診察台にすわってフライトスーツをひつばりあげ、そでに腕をとおして ジッパーをあげた。時間がないのでプラはつけない。 , 彼女はドクター・ポールソンを 見つめた。緊張し、おびえたふりをするのは、もうやめている。ルーシーの変化に気 づき、彼の目が反応した。ルーシーは診察台からおりて、ドクター・ポールソンに近 ついた
ーノの重々しい足音が廊下にひびき、プラウニングは立ちあがって戸口へいった。 「彼女はインフルエンザにかかっていて、べッドに寝ていた。あとのことははっきり しないんだが、犯人は鍵のかかっていないドアから侵入して、ルーシーが帰ってきた ので逃げだしたらしい。被害者は意識を失っていた。ショック状態だったのか、発作 をおこしたのか、よくわからないけど。本人は何がおこったのかおぼえていないんだ が、発見されたときは裸で、べッドにうつぶせになっていた。寝具はべッドからおち ていたということだ」 「けがは ? 」マリーノとプラウニングが、寝室のすぐ外で話しているのがきこえる。 「骨」ということばが耳にはいった。 「打撲傷をおっただけだ。べントンの話では、両手と胸と背中にあざができていると い一つことの」 「じゃ、べントンもこのことは知ってるのね。知らないのはわたしだけというわけ 下 ね」むっとしていった。「ルーシーはこの件をわたしにいわなかった。どうしてな 跡 の ? 」 痕 ルーディは少しためらってから、 ししにくそうにいった。「個人的な理由じゃない 四、刀オ」
うかべていった。 「ふざけないほうがいいわ」ルーシーが警告する。「冗談いってる場合じゃないの 「スーズはわたしをスイーティと呼んでいた。昔からね。そしてわたしはギリーをス ィーティと呼んでいた」 「これではっきりした」と、べントンがささやく。「もうじゅうぶんだ。そろそろ逃 げだせ」 「子犬なんかいやしない」と、ドクター・ポールソンがいった。「でたらめだよ」彼 は会話をつづけたがっている。つぎに何をいうかルーシーには予想がついた。「おま えはだれなんだ ? そのペンをこっちへよこせ」彼は椅子から立ちあがった。「わた しを訴えるために送りこまれた、ばかな小娘にすぎないんだろう。金をもらうのか ? ばかなまねをしてることが、わかってるんだろうな ? そのペンをよこすんだ」 下 ルーシーは両腕を脇につけ、こぶしをにぎって立っている。 跡 「逃げるんだ」と、べントンがい一つ。「いますぐに」 痕 「おまえらへリの女パイロットが何人かしめしあわせて、小銭をかせごうともくろん だわけだ。そうだろう ? 」彼は目の前に立ちはだかった。つぎに何がおこるかルーシ
話をするのは危険だと彼が思ったときに、どんな対応をとるかを知っている。電話な どしなければよかった。べントンがオフィスにいるところを思いうかべた。ほかに何 をしているのだろう ? 電子機器で監視されているかもしれないとおそれているのだ ろうか。電話するべきではなかった。あるいはたんに何かで頭がいつばいというだけ かもしれない。だが彼女とまともに話もできないほど、ほかのことに夢中になってい るとは考えたくない。慎重になっているだけならいいが。電話するんじゃなかった。 「わかったわ。電話なんかしてごめんなさい。二日間話をしていなかったから。でも いま何かしている最中だったのね。わたし、疲れてるの」 「疲れたから電話したの ? 」 べントンは彼女をからかっているのだ。しかし冗談めかしてはいるが、すこし傷つ いているようでもある。疲れたから電話してきたとは思いたくないのだろう。スカー ペッタはそう考えてにやにやし、受話器を耳におしつけた。「疲れるとわたしがどう なるか知ってるでしよう」と、ふざけていう。「疲れると自分をおさえられなくなる のよね」うしろで音がきこえた。人の声かもしれない。女性の声のようだ。「だれか いるの ? 」まじめになってきいた。 長い沈黙があった。またあのくぐもった声がきこえた。ラジオかテレビをつけてい
117 痕跡 ( 下 ) 彼女はべッドでワインを飲んだ。あまりいいワインではない。カベルネだが、あと 味がびりつとする。だが一滴も残さずグラスを飲みほした。ホテルの部屋にひとりで いる。アスペンではこちらより二時間早い。べントンは夕食にでかけたか、話しあい でもしているのかもしれない。目下かかえている事件、彼女には話してくれない秘密 の事件のことで、忙しくしているのだろう。 スカーベッタはべッドのうえに身をおこしている。背中にあてた枕をならべなお し、空になったワイングラスを、ナイトテープルの電話の脇においた。電話に目をや り、それからテレビを見て、つけようかどうしようかと考えた。つけないことにき め、また電話を見て、受話器をとりあげた。べントンの携帯電話の番号をダイアルす る。タウンハウスには電話しないようにいわれているからだ。そういったとき、べン トンは本気だった。家には電話しないでくれ。固定電話にはでないから。きつばりと そういったのだ わけがわからないわね、と彼女はいった。もう何カ月も前のことのように思える。
353 痕跡 ( 下 ) べントンと肌をあわせるのは、どんな気持ちだろうと考えている。そして自分自身の 気持ちがどうなのかも、たしかめようとしている。「あれを仕組んだのはマリーノ 「リッチモンドのあのしゃれたたばこ専門店で、あいつがキューバの葉巻を買うとこ ろを見たかったな」 「禁制品のキューバものを売ってるのはそこじゃないのよ。それはそうと、ばかげた 話だと思わない ? この国ではキューバの葉巻がマリファナのように扱われてるんで すものね。そのしゃれたたばこ店で、手がかりになる情報をつかんだの。それをどん どんたどっていって、最後にそのハリウッドの銃砲店にいきついたわけ。マリーノ一 流のやりかたでね。ほんとにたいしたものだわ」 「なるほど」と、べントンはいったが、細かいことにはあまり関心はないようだ。彼 の関心がいまどこにあるのか、スカーベッタには察しがついている。しかしそれに対 して自分がどうしたいのかよくわからなかった。 「お手柄なのはマリーノよ、わたしじゃなくて。それをいいたいだけ。彼、たいへん な思いをしたんだから。ここですこしほめてあげなきや。おなかがすいたわ。何をご ちそうしてくれるの ? 」
265 痕跡 ( 下 ) 「うすい空気には慣れてるわ」彼女は去っていくべントンの背中へむかっていった。
外を見ると、クロトウヒやポプラの木の枝に、雪がうずたかくつもっている。三階 にあるルーシーの部屋の窓から、したの歩道の固い雪をプーツでふみしだく音がきこ えてくる。セントレジスは赤いれんが造りの広大なホテルで、エージャックス山のふ もとにうずくまるドラゴンのように見える。朝早いのでゴンドラはまだ動いていない が、人々は活動をはじめていた。山が太陽をさえぎり、夜があけてもあたりは青みが かったグレーのかげに包まれている。耳にはいるのは、ゲレンデやバスへむかうスキ ーヤーが凍った雪をふむ、寒々とした音だけだ。 昨日の午後、マルーン・クリーク・ロードで無謀なトレッキングをしたあと、べン トンとルーシーはそれぞれの車でべつの方向へむかった。べントンはそもそもルーシ 下 ーをアスペンへこさせたくなかったし、もちろんほとんど会ったこともないへンリを 跡 押しつけられるはめになるとは思っていなかった。しかし人生とはそういうものだ。 痕 おかしなことや、思いもよらぬことがおこる。ヘンリがきて、いまやルーシーもき たべントンは、家に泊めてやることはできない、 とルーシーにいった。もっとも