358 索する、ミクロの世界へいざなわれることになる。 今回、スカーベッタはルーシーの助けをあてにすることができない ルーシーは新 たな同性の恋人がストーカーにおそわれ、殺されかけるというべつの事件にかかりき りになっているからだ。そのストーキング事件と、スカーベッタらがかかわっている 事件とのつながりもしだいに見えてくるが、リッチモンドでの捜査をになうのは、あ くまでもスカーベッタとマリーノだ というわけで、前作『黒蠅』では、捜査のうえではやや影のうすかったスカーベッ タが、本書では存分にその手腕を発揮し、謎をときあかし、犯人を追いつめるため に、マリーノとともに活躍する。 破滅的な生きかたにより、いつもスカーベッタと読者をやきもきさせるそのマリー ノが、今回はいつになくさっそうと登場する。不健康な生活をあらためようと、ダイ ェットに挑戦してスリムになり、禁煙まではたしているのだ。決意のほどを示すかの ように、さびしくなっていた頭を、きつばりと丸めている。だが外見はともかくとし て、やはりマリーノはマリーノ。ロの悪さや傍若無人な態度はあいかわらずだ。しか も今回もまた、女性がらみでひと騒動おこす。懲りないやっ、とスカーベッタはあき れながらも、満身創痍になったうえ、重罪で訴えられかねないという窮状におちいっ
ものだから。すごい雨ね。どうぞなかへはいって。相手がだれかわからないときは、 でないことにしてるのよ」 スカーベッタはしずくをたらしながら居間へはいり、ずぶぬれになった黒いロング コートを脱いだ。髪から冷たいしずくがたれる。顔から髪をはらいのけながら、シャ ワーからでたときのように髪がびしょぬれなのに気づいた 「これじゃ肺炎になってしまうわ」と、ミセス・ポールソンがいった。「あたしがこ んなことをいうなんてね。あなたはお医者さまなのに。キッチンへどうぞ。何かあた たかい飲みものをつくるわ」 スカーベッタはせまい居間を見まわした。冷たくなった暖炉の灰やもえさしの薪、 窓のしたの格子縞のカウチ、部屋の両側の、奥へ通じる戸口に目をやる。スカーベッ タの視線に気づくと、ミセス・ポールソンの表情がけわしくなった。その顔は美しい といえなくもないが、あかぬけておらず、安っぽい 下 「何のためにここへきたの ? 」ミセス・ポールソンの声の調子がかわった。「ここで 跡 何をするつもり ? ギリーのことできたのかと思ったけど、そうじゃないようね」 痕 「ギリーのことを思う人が、だれかここにいたかしら ? 」スカーベッタは居間のまん なかに立ち、木の床にしずくをたらしながら、おおっぴらにあたりを見まわしてい
「考えないわよ、そんなこと。いまはやめときましよう、そのことを考えるのは」会 議室へいき、木製の黒いドアをあけた。 マリーノはついてくるならついてきてもいいし、コーヒーマシンのそばで一日中砂 糖をなめていてもかまわない。なだめたりすかしたりするつもりはない。何が気にな 、 ) ) 。 ) まはドクター・マーカ っているのかさぐりだす必要があるが、それはあとてし スとの捜査官、それにゆうべ約束をすっぽかしたフィールディングとの会合が ある。フィールディングの皮膚炎はこの前よりさらにひどくなっている。スカーベッ タが席につくあいだ、だれも話しかけてこなかった。彼女についてはいってきて、と なりの席にすわったマリーノにも、だれも話しかけない。なるほど、審問というわけ ね、とスカーベッタは思った。 「では、はじめよう」ドクター・マーカスが切りだした。「もう紹介はすんでいると 思うが、のプロファイリング課のウェーバー特別捜査官だ」と、スカーベッタ 師にいった。課の名前をまちがえている。プロファイリング課ではなく、行動科学課 跡だ。「やっかいなことがおきた。ただでさえ面倒な問題をいろいろ抱えているという 痕のに」彼の表情はけわしく、めがねの奥で小さな目が冷たく光っている。「ドクタ ・スカーベッタ」と、声をはりあげた。「きみはギリー・ポールソンの検屍を再度
カーベッタを見つめた。暗く重苦しい気分になり、枕にもたれた。つぎにおこったこ とが心に黒々とした影をおとしている。その暗闇に足をふみいれたくなかった。 「それで ? 」と、スカーベッタがいった。「気分はどう ? もうすこし紅茶を飲む ? 食べるものは ? 」 マリーノは首を横にふり、錠剤がちゃんと飲みこめているかどうか、またたしかめ た。のどにひっかかったら、そこがただれてのどに穴があくのではないかと心配だっ た。体のあちこちがひりひり痛む。だから小さな傷があとふたつできたところで、気 にもならないだろうか、できないにこしたことはない。 「頭痛はよくなった ? 」 。「 ) まそんな気 「精神分析の医者にかかったことあるか ? 」マリーノは突然きいたし 分なんだ。そういう医者といっしょに診察室にすわってるみてえだ。といっても、精 神分析医にかかったことはねえから、こんな感じかどうかはわかんねえ。あんたなら 知ってると思ってさ」なぜこんなことをいったのか自分でもよくわからなかったが、 ことばが口をついてでた。彼はスカーベッタを見た。無力感にひたり、腹がたってい た。ふくれあがっていく心の暗闇にふれずにすむなら、どんなことでもするつもりだ
彼女にそんなつもりがまったくないだけに、よけい始末が悪い 「そのサム・スタイルズってやつだが」マリーノはの黒い野球帽をかぶった 頭をぐいと動かして、とまっているクレーンと解体用鉄球をさし示した。クレーンの 先からぶらさがった鉄球がかすかにゆれている。「テッドが轢かれたとき、どこにい た ? 近くにいたのか ? 」 「いや。ばかげてるよ。テッドが鉄球でトラクターからたたきおとされたなんて話 は、あんまりばかげていて、思わず笑っちゃうよ。笑いごとじゃないけどね。鉄球が 人にぶつかったら、どうなると思う ? 」 「あんまり見たくはねえな」 「脳みそがとびだしちまうよ。そのうえトラクターになんか轢かれる必要はない」 スカーベッタはこのやりとりをすべて書きとめている。ときどき何か考えている様 子であたりを見まわし、べつのことを書き加える。マリーノは彼女がいないとき、デ スクのうえにメモがだしつばなしになっているのを見つけたことがある。スカーベッ タはいったいどんなことを考えているのだろうと思って、それをじっくりながめた。 だが判読できたのはひとことだけで、それは彼の名前、マリーノだった。スカーベッ タは筆跡が読みにくいだけでなく、メモをとるとき、秘書のローズにしか解読できな
て訴えられるかもしれない、とびくびくしているのだ。すでに訴えられている可能性 すらある。マリーノは窓の外の灰色の空をながめ、リッチモンド警察の覆面パトカー のクラウン・ヴィクトリアが街を流して、彼をさがしているところを想像した。ひょ っとすると逮捕状をもっているのはプラウニング刑事かもしれない 「それからどうしたの ? 」と、スカーベッタがきいた。 マリーノはクラウン・ヴィクトリアの後部シートにすわっている自分を想像した。 プラウニングは彼に手錠をかけるだろうか ? 同業のものへの敬意から、マリーノを 拘束せずにすわらせてくれるかもしれない。それとも、そんなことはおかまいなしに 手錠をかけるだろうか。たぶんそうせざるをえないだろう。 「七時ごろからビールをすこし飲んで、ステーキとサラダを食べたのね」スカーベッ タは例のごとくおだやかな、しかし断固とした調子で彼をうながした。「ビールは何 杯飲んだの、正確にいうと ? 」 「四杯かな」 「かな、じゃなくて。正確にいって」 「六杯だ」 「ジョッキで ? それともびんか缶で ? 大きいもの ? ふつうの ? つまりサイズ
る。本当のことをいっているようだが、うそのうまい人間ならそう見えるだろう。ス カーベッタは彼女のいうことを信じなかった。 「やつはこの家にきたことあるのか ? 」マリーノは追及の手をゆるめない 「とんでもない ! 」彼女は首を大きく横にふり、腰の前で両手を組んだ。 「へえ、そうかい ? だれのことかわかんねえのに、どうしてそういえるんだ ? 牛 乳屋のことかもしれねえぞ。あんたの例のゲームをするためによったんじゃねえの か ? だれの話をしてるかわかんねえのに、なんで一度も家へきたことがねえといえ るんだ ? 」 「こんな口のききかたをされたくないわ」彼女はスカーベッタにいった。 「質問に答えて」ミセス・ポールソンを見ていう 「ほんとなのよ : ・・ : 」 「ほんとなのは、やつの指紋がギリーの寝室から見つかったことだ」マリーノは語気 下 を荒らげ、彼女のほうへ近づいた。「あのちびの赤毛やろうをここにいれて、ゲーム 跡 をやらせたのか ? そういうことか、スーズ ? 」 痕 「ちがう ! 」涙が頬を流れおちた。「ちがうわ ! あそこにはだれも住んでなんかい 0 よ ) 2 / し おばあさんが住んでたけど、もう何年も前に亡くなったわ ! ときどきだれ
356 スカーベッタがリッチモンドへ帰ってきた。といっても、残念ながら検屍局長とし てではない。石もて追われるごとくバー ジニアを去ってから五年。生まれ故郷のフロ リダで法医学コンサルタントとして活動しているスカーベッタのもとに、後任の検屍 局長から、ある少女の怪死事件の捜査に協力してほしいという依頼がくる。なぜいま 自分に、といぶかしみながらも、スカーベッタはマリーノといっしょにリッチモンド へおもむく。 かってスカーベッタたちの仕事の本拠だったこの町は、ふたりをあたたかく迎えて くれるだろうという彼らの、というよりわたしたち読者の期待は、手痛く裏切られ る。そもそも町へはいったとたんにスカーベッタが目にするのは、就任から新しいビ ルへ移るまでの長い年月をすごした、思い出深い旧検屍局ビルがとりこわされている 場面だ。 ・訳者あとがき
きれいに雪かきした小道をベントンが歩いてくるのを見て、スカーベッタは足をと めた。その小道はべントンのタウンハウスから、除雪したばかりの道路へとつづいて いる。彼女はよい香りのする深緑色の木のしたに立って、べントンがくるのを待っ た。彼がアスペンへいってしまってから、ふたりが会うのはこれがはじめてだ。ヘン リが家にきて以来、べントンは電話もあまりかけてこなくなった。そうした事情を、 当時スカーベッタは知らなかった。たまに電話で話しても、彼はあまり多くを語らな かった。だがいま、スカーベッタはすべてを知り、理解している。彼女は理解するこ とをおぼえた。それはもはやスカーベッタにとって、それほどっらいことではなかっ 下 べントンが彼女にキスした。彼のくちびるは塩からかった。 跡 「何を食べてたの ? 」と、スカーベッタはきいた。常緑樹の太い枝のしたの雪のなか 痕 で、べントンをしつかり抱きしめ、もう一度キスをする。 「ピーナツだよ。猟犬なみに鼻がきくんだね」べントンは彼女の目をのぞきこみ、そ
81 痕跡 ( 下 ) レンタカーに備えつけの傘はなく、帽子ももっていなかった。車からでると急に雨 音が大きくなり、雨粒が顔を打った。スカーベッタはすべりやすい古びたれんがの歩 道を急いだ。その先に、死んだ少女と、性的倒錯者であるその母親の家がある。彼女 を性的倒錯者ときめつけるのはいきすぎかもしれない。スカーベッタはそう思いなお した。だがスカーベッタの怒りは、マリーノが思っているよりはるかに大きい彼は スカーベッタが怒っていることに気づいていないかもしれなしし : ナれども彼女ははげ しい怒りをおぼえていた。そしてミセス・ポールソンは、スカーベッタが怒りにから れるとどうなるかを、目の当たりにしようとしていた。スカーベッタはパイナップル しんちゅう の形の真鍮のノッカーで、玄関のドアを強くたたいた。ミセス・ポールソンがフィー ルディングのように居留守を使ったらどうしよう。もう一度、こんどは間隔をあけ て、さらに強くたたく。 豪雨のせいで、黒いインクを流したようにあたりは急速に闇に包まれていき、吐く 息が白く見える。はね散る水に囲まれてポーチに立ち、何度もドアをたたいた。ここ から動かないわよ、と心のなかでいう。逃しはしないわ。わたしがあきらめて帰ると 思ったら大まちがいよ。コートのポケットから携帯電話と紙切れをとりだし、かきと めてある番号を見た。昨日ここへきたとき、まだあの女に同情し、やさしく接してい