245 痕跡 ( 下 ) たの家の裏に住んでる男だけど。ミセス・アーネットが住んでいたところよ」 「ミセス・アーネットは知っていた。わたしの患者だった。体のことをやたらに気に 病むたちでね。いやな女だったよ」 「これは大事だ」べントンがいわずもがなのことをいう。「彼は本音をいいはじめて いる。つきあってやれ」 「リッチモンドこ 。いたときの患者 ? 」と、ルーシーはドクター・ポールソンにきい た。彼につきあうのは気がすすまなかったが、声をやわらげ、興味をもったふりをし た。「いつごろの ? 」 「いつごろ ? もう大昔のことだ。リッチモンドのあの家はミセス・アーネットから 買ったんだ。彼女はリッチモンドにいくつも家をもっていてね。二十世紀のはじめ に、彼女の実家はあのプロックを全部もっていて、あの一帯がひとつの大きな地所だ った。それが家族のあいだで分割されて、その後売りにだされた。わたしの家も彼女 から買ったんだ、割安にするというんで。それが割安かという値段だったが」 「あまり彼女が好きじゃなかったみたいね」自分とドクター・ポールソンは仲よしだ といわんばかりに、ルーシーはいった。ついさっき、彼にあんなことをされたのを忘 れたかのように。
356 スカーベッタがリッチモンドへ帰ってきた。といっても、残念ながら検屍局長とし てではない。石もて追われるごとくバー ジニアを去ってから五年。生まれ故郷のフロ リダで法医学コンサルタントとして活動しているスカーベッタのもとに、後任の検屍 局長から、ある少女の怪死事件の捜査に協力してほしいという依頼がくる。なぜいま 自分に、といぶかしみながらも、スカーベッタはマリーノといっしょにリッチモンド へおもむく。 かってスカーベッタたちの仕事の本拠だったこの町は、ふたりをあたたかく迎えて くれるだろうという彼らの、というよりわたしたち読者の期待は、手痛く裏切られ る。そもそも町へはいったとたんにスカーベッタが目にするのは、就任から新しいビ ルへ移るまでの長い年月をすごした、思い出深い旧検屍局ビルがとりこわされている 場面だ。 ・訳者あとがき
に、身づくろいしなきゃならない」 彼は家のなかへもどって、ドアをしめた。新人たちに話をしているあいだに、ベル トにつけた双方向無線電話が二回、振動していた。だれがかけてきたのかチェックす ると、二回ともコンピューターマニアの仲間からだった。ルーディはすぐにかけなお 「何かわかったか ? 」 「例の人物は、ステロイド剤のプレドニソンが切れかかっているようだぜ。最後に調 剤させたのが二十六日前。ファーマシーのチェーン店のひとつで」彼はルーデ イにその店の住所と電話番号を教えた。 「問題は、やつがもうリッチモンドにはいないと思われることだ」と、ルーディはい った。「だから、つぎにどこで薬を手にいれようとするか、見当をつける必要があ る。やつがまた薬を買おうとすればの話だが」 「これまで毎月、リッチモンドの同じドラッグストアで調剤させてるからね。その薬 が必要か、必要だと思ってるようだ」 「かかりつけの医者は ? 」 「ドクター・スタンリー・ フィルポット」そういって、ルーディに電話番号を教え
ペッタは心配したり疑ったりせずにはいられなくなることがあり、そんなときはいっ も、ルーシーが人と良好な関係をきずくのが苦手なのは、自分のせいではないかとく よくよする。べントンがアスペンにいることから、ルーシーは察しているにちがいな い。スカーベッタとべントンがしつくりいっていないことを。再会して以来、ずっと そ一つだとい , っこと ) スカーベッタがルーシーの番号をダイアルしているとき、玄関のドアがあき、かげ になった暗いポーチにマリーノがでてきた。スカーベッタは彼が手ぶらで犯行現場か らでてくるのを見て、違和感をおぼえた。リッチモンドで刑事をしていたときは、車 のトランクにつめこめるだけの証拠の袋をもたずに、現場をあとにすることはなかっ た。だがいまは、何ももっていない リッチモンドはもはや彼の管轄ではないから だ。だから、証拠を集めてラベルをはって検査室へひきわたす作業は、警官たちにま かせるのが賢明だ。たぶん彼らはきちんと仕事をして、重要な証拠を見逃したり、不 下 要なものをやたらにもち帰ったりはしないだろう。しかしマリーノがれんがの歩道を 跡 ゆっくりたどるのを見ると、やはりむなしさにおそわれ、ポイスメールが応答する前 痕 に電話を切った。 「これからどうする ? 」マリーノがそばへくるときいた。「たばこが吸いてえな」彼
259 痕跡 ( 下 ) 「やつがどこかよそで調剤させた記録はないか ? 南フロリダでは ? 」 「リッチモンドだけだ。全国をあたったけどね。さっきいったように、ゝ しまの薬はあ と五日分しか残っていない。それがなくなったら、困るはずだ。ほかに手にいれる方 法がないかぎり」 「よくやってくれた」ルーディはキッチンの冷蔵庫をあけ、ミネラルウォーターのポ トルをつかんだ。「あとはまかせてくれ」 る。
119 痕跡 ( 下 ) 。いいたくなかった。そこでマリーノのことに話題をかえたが、ことばがうまくでて こない。頭がぼんやりしているうえ、なぜかべントンに対してよそよそしい気分だっ た。彼に会いたくてたまらないのに素直になれず、多くを語りたくないような気がし ている。 「そっちのことを話して」自分のことを話すかわりにいった。「スキーとかスノーシ ューをした ? 」 「雪はふってるの ? 」 「いまはふってる。きみはどこにいるの ? 」 「どこって」だんだん腹がたってきた。何日も前にべントンがいったことが何であ れ、ともかくいま彼女は傷つき、怒っている。「物理的にどこにいるかってきいてる の ? 忘れちゃったの ? リッチモンドにいるのよ」 「それはわかってるよ。そういう意味できいたんじゃない」 「だれかいるの ? 話しあいか何かしているところ ? 」 「実はそうなんだ」 いまは話ができる状況ではないらしい。スカーベッタは電話したことを後悔した。
「むごい死にかただわ。ほんとにひどい」 「ごめんなさい、わたしの知らないことが何かあるのかしら ? 」と、ウェーバー特別 捜査官がいう 「あの子は殺されたんだ」と、マリーノが答えた。「それ以外には、知らないことは とくにねえと思うよ」 「ほんとにもう、こんなことをいわれてもがまんしなきゃいけないのかしら」彼女は ドクター・マーカスにいった。 「ああ、そうするしかねえだろうな」マリーノは彼にいった。「あんたが自分でおれ をこの部屋からつまみだすならともかく。そうでなきや、おれはここにちんまりすわ ししたいことをいわせてもらうぜ」 「こうしてみんなで腹をわって、率直に話しているあいだに、ぜひあなたの口から直 リー・ポールソンの事件にかかわっているのか」と、 接ききたいわ。がなぜギ スカーベッタがウェー ー特別捜査官にいった。 「ひとことでいえば、リッチモンド警察から応援を要請されたからよ」 「な、せワ・」 「それは彼らにきいたほうかいいんじゃない ? 」
313 痕跡 ( 下 ) わっていた。その日、ルーシーがそこにいるとき、その短いあいだに何かがおこった のかもしれない。何だったのだろう ? シジュウカラは粒餌をついばみながら、ガラス越しにまっすぐこちらを見た。スカ ーベッタがコーヒーマグをもちあげると、小鳥ははばたいて飛んでいった。淡い日の 光が白いマグにあたっている。 ノージニア医科大学の紋章のはいった白いマグだ。彼 女はキッチンテープルから立ちあがり、マリーノの携帯電話にかけた。 「よう」と、マリーノが答えた 「彼はリッチモンドへはもどってこないと思う」と【彼女はいった。「わたしたちが ここで彼をさがしていることは、とっくに承知してるわよ。それに、呼吸器疾患をか かえている人間にとって、フロリダはすごしやすいところだし」 「じゃ、そっちへいったほうがよさそうだな。あんたはどうする ? 」 「もうひとつだけやることがあるの。それが終われば、もうこの町に用はないわ」 「手助けはいるか ? 」 「あり・カと , つ。でも、けっこ , つよ」
て訴えられるかもしれない、とびくびくしているのだ。すでに訴えられている可能性 すらある。マリーノは窓の外の灰色の空をながめ、リッチモンド警察の覆面パトカー のクラウン・ヴィクトリアが街を流して、彼をさがしているところを想像した。ひょ っとすると逮捕状をもっているのはプラウニング刑事かもしれない 「それからどうしたの ? 」と、スカーベッタがきいた。 マリーノはクラウン・ヴィクトリアの後部シートにすわっている自分を想像した。 プラウニングは彼に手錠をかけるだろうか ? 同業のものへの敬意から、マリーノを 拘束せずにすわらせてくれるかもしれない。それとも、そんなことはおかまいなしに 手錠をかけるだろうか。たぶんそうせざるをえないだろう。 「七時ごろからビールをすこし飲んで、ステーキとサラダを食べたのね」スカーベッ タは例のごとくおだやかな、しかし断固とした調子で彼をうながした。「ビールは何 杯飲んだの、正確にいうと ? 」 「四杯かな」 「かな、じゃなくて。正確にいって」 「六杯だ」 「ジョッキで ? それともびんか缶で ? 大きいもの ? ふつうの ? つまりサイズ
353 痕跡 ( 下 ) べントンと肌をあわせるのは、どんな気持ちだろうと考えている。そして自分自身の 気持ちがどうなのかも、たしかめようとしている。「あれを仕組んだのはマリーノ 「リッチモンドのあのしゃれたたばこ専門店で、あいつがキューバの葉巻を買うとこ ろを見たかったな」 「禁制品のキューバものを売ってるのはそこじゃないのよ。それはそうと、ばかげた 話だと思わない ? この国ではキューバの葉巻がマリファナのように扱われてるんで すものね。そのしゃれたたばこ店で、手がかりになる情報をつかんだの。それをどん どんたどっていって、最後にそのハリウッドの銃砲店にいきついたわけ。マリーノ一 流のやりかたでね。ほんとにたいしたものだわ」 「なるほど」と、べントンはいったが、細かいことにはあまり関心はないようだ。彼 の関心がいまどこにあるのか、スカーベッタには察しがついている。しかしそれに対 して自分がどうしたいのかよくわからなかった。 「お手柄なのはマリーノよ、わたしじゃなくて。それをいいたいだけ。彼、たいへん な思いをしたんだから。ここですこしほめてあげなきや。おなかがすいたわ。何をご ちそうしてくれるの ? 」