鎌首をもたげた。 番組開始から十三年、海外特派員を経てメーン・キャスタ 1 になった長坂は、視聴者の支 持をバックに報道局に君臨してきた。コメ問題では外圧を利用する政府の弱腰を皮肉り、弱 体化した政治の世界を見下ろし、与党の政策には徹底的に刃をかざしたため、永田町では 『ナイン・トウ・テン』への取材拒否が続いた。長坂は「それこそが政治家の度量の狭さだ」 と、番組内で余裕の笑顔で切り返した。 有川にとっては、長く番組を牛耳ってきた長坂を切るいい機会だった。番組は当分、上智 大学卒の女子アナと系列新聞社の論説委員のコンビで続けられるが、後任キャスタ 1 の人選 は着々と進んでいた。 噂によると、伝説的なドキュメンタリー作家と言われるタカ派ジャ 1 ナリストが候補にの 臨ばっているらしい。この男にもセンセーショナルな一一 = ロ動は多い。有川が常にコントロールで 降 きると取締役会で判断されるまで、もうしばらく時間がかかりそうだった。 長坂は半年間をメドにした謹慎処分となった。『ナイン・トウ・テン』のチ 1 フ・プロデ ューサーの倉科は一一十パーセントの減俸処分、取材責任者の森島は十パーセント・ダウン、 章 三最初に取材を始めた例のは他の報道番組に異動になった。 あとは大衆が事件を忘れるまで、息を潜めているしかなかった。
354 松原耕一一 ( ジャーナリスト・ 元『ニュースの森』キャスター ) 私は野沢尚氏に軽い嫉妬と深い思を抱き続けてきた。 1960 年生まれの同じ歳、ドラ マと報道と分野は違えども同じテレビに関わる仕事をしているということもある。だが何よ りも野沢氏の「物語を紡ぎ出す力とその幅の広さ」にいつも驚かされ、惹かれていたから 2003 年夏に野沢氏は川年ぶりの舞台脚本を書き下ろした。『ふたたびの恋』だ。舞台 ふうび 。かっては一世を風靡したがいまは下り坂の中年テレビ脚本 は沖縄のリゾートホテルのバ 1 家と、脚本学校の彼の生徒で一兀愛人、いまは売れっ子シナリオライターとなった女性が、沖 解説
288 チャンネルで始まるわけだ。ニュース・キャスターは誰だと思う」 「八尋ですか」 すぐに察しがついた。一一十代の若者たちの熱狂的な支持を得て、放送界に正義の騎士がや ってきた、というイメージを宀させるつもりだ。真裏の時間帯にぶつけず、一時間ずらし たことにも狙いがある。『ナイン・トウ・テン』が何かを報じれば、すぐに反論できる態勢 が用意されたのだ。 「これからが本物の戦いだな」 合料の煙草は吹きこむ雨で消されてしまう。握りつぶし、灰皿に捨てた。長坂の死後、初 めて見た倉科の怒りの仕啅だった。 赤松は今まで長坂の棺が横たわっていた寺の査星を見つめる。彼の魂はもう旅立っただろ カ 自分はまだあなたの死に泣けません。赤松は心の中で呟きかける。長坂は聞いているだろ 、つカ 泣いてはならない、と彼も一 = ロうだろう。 戦いはまだ、始まったばかりだ。
ないですか ? 」 「編隹はこっちにあるんだ」 八尋は放送を認めるだろう。長坂がそのディベートで勝利するとは考えられない。報道被 害の極悪人として長坂が血祭りにあげられ、八尋は放送界の粛清をひとっ果たす。そういう 内容になるのは目に見えていた。 「明日はフロアにいてくれ」 堕ちていく長坂を、なるべく近い場所で守ってやるのが赤松の仕事だった。 倉科は八尋に連絡をする。明日の一一時から収録をすることはすでに了解を得てあった。 「対談の企画が決まりました。八尋さんさえ承諾していただければ、予定通り、明日に収録 を行ないます」 「相手はどなたですか ? 」 「うちの元キャスター、長坂文雄です」 一瞬、息を殺すような間があった。 「長坂さんは承知されたんですか ? 」 「是非、直接会って話したいと言っています」 「何を考えているんでしよう、あの人は」 みそぎ 「これが首都テレビが視聴者に対してしなければならない禊だと思っています。古谷めい子
Ⅷ「古谷めい子の恋人になりすまして、テレビカメラの前で涙の演技をしたって言うんです か ? 目的は何ですか」 「こうなるためだ」 今の八尋の込態を言っている。テレビに出て大衆を味方につけ人気者になるために、古谷 めい子を追いつめたニュ 1 ス・キャスタ 1 を糾弾し、成り上がった。長坂はそう言いたいの 「だからといって」言いかけて、赤松はロをつぐむ。 「だからといって、何だ ? だからといって虚偽報道をした罪が消えるわけではない。そう 言いたいんだろうな」 「彼女は僕たちの報道がきっかけで首を吊った。八尋がどんな嘘つきだったとしても、この 事実は変わりません」 「変わるとしたら、どうだ ? 」 長坂の瞳に種火が燃えている。アゼルバイジャンの紛争地帯で、銃弾に倒れたカメラマン に替わってべーカムを肩に担ぎ、マイクに喋りながら戦場を撮影したという男だ。赤松は学 と、つレ」、つ 生時代に見た、曇則線から帰還したサファリ・ルックの長坂が滔々とキリスト教武装勢力の 暴挙を非難しているニュース映像を思いだした。 「何がどう変わるっていうんですか ? 」
「 : : : 実香がいなくなったと分かった時、町までそのオモチャを買いに行ったのかもしれな いと最初思いました。私がちゃんと忘れずに買っておいたら、実香はこんなことにならなか ったんじゃないかって : : : 」 さいな 徹底的に自分を責め苛む母親の顔だった。 「これは : ・・ : あれか ? 」 蓮見が口を開いた。「今インタビュ 1 に答えてるのを、映しているのか」 「いえ、取材です」 「今じゃないんだな」 ュ 「撮影したのは一一日前だと思います。それがどうかしましたか ? 」 ン蓮見は再び口を固く閉じた。液晶画面では西山千草が涙声を振り絞っていた。「私が悪い 占んです、あの子の父親にどう詫びたらいいのか : : : 実香を返してください。お願いします インタビューは終わり、映像はスタジオに切り替わった。一一旦則に独占取材した映像であ 章ることをキャスターが説明し、重要参考人の蓮見が首都テレビ取材班と共に消えたことを伝 一一え、「同じマスコミ人として、首都テレビの暴挙を非常に恥ずかしく思います」と顔を歪め る。 赤松の思考回路に引っかかるものがあった。
道を荒々しくターンする。アパートへの道を戻る。 「消していいぞ」 紀藤が奈々に言った。奥田志保のテ 1 プが終わって、長坂キャスタ 1 が何かコメントしょ うと口を開きかけた時、奈々はスイッチを消してテレビは暗黒になった。リビングもべラン ダも薄い闇に包まれた。 上原一一丁目界隈は、煮詰めたような熱帯夜の静寂。彼方の低い空に花火が上がった。子供 たちが市販の打ち上げ花火で遊んでいるらしい ハン、と安つばい音が弾け、女の子 の嬌声も微かに聞こえてくる。 アパートを遠巻きに包囲している警察車両でも、刑事たちはじっと息を潜めているに違い ない。車が行き交うたび、狭い車内に緊張が走る様子が思い浮かぶ。 赤松の携帯電話が鳴った。 「俺だ」と倉科の声。 「見ました」 「責任は俺がとる。お前はとにかく画を撮ってこい。明日から忙しくなるぞ。俺たちがなぜ 捏造のテープを放送したのか、それがどんな結果をもたらしたか、来週の『事延で放 送しなくてはならない」
「上はそれで通ったのか ? 」 長坂は半信半疑だった。 「局長は、一一人の和解の場になるだろうと思ってます。つまり、あなたが謝り、八尋が許 す、という内容です。その通りにならなくても結構です」 「中身はまかせてくれるんだな ? 」 「誹謗中傷のレベルで喧嘩をふつかけてもらっては困ります。生放送ではなく録画にしたの はそのためです。あとで編集させてもらいます」 翌日の午後一時にスタジオ入りしてもらうことになった。 長坂の息の根を止める番組を作ろうとしているのだ。電話を切った後、倉科は激烈な悲し みを覚える。一兀海外特派員のキャスターと、元ドキュメンタリー番組のディレクター。『ナ 臨イン・トウ・テン』の立ち上がりから長坂と共に歩んだ十三年。戦友だった。 降 電話が鳴る。誰か察しがついた。 「本当に対談企画は通ったんですか ? 」 章赤松は長坂から連絡を受けたようだ。 「明日の昼、お前も局に来い。休暇は終わりだ」 「長坂さんは捨身です。これまで調べてきたことを全て八尋に突きつけて、返答を求めま す。そんな内容になったら、八尋は録画したものをポツにさせるよう局に働きかけるんじゃ
218 変わりはありません」 副社長も有川も身を乗りだし、その言葉に食いつく 「そう言っていただけるのであれば、どうでしようか。近い将来、私どものカメラの前にご 登場願えないでしようか」 あかし 八尋が『ナイン・トウ・テン』を許した証として、そのワンコーナーに出演をする。視聴 率だけでなく、局のイメージ回復のためにはこれほどの企画はない。 「そうですね。前向きに考えさせていただきます」 話がトントン拍子に進む中で、倉科は妙な居心地の悪さを感じていた。 気になって仕方がない。八尋は何故、応接室に座ってもそのコートを脱がないのか。偉ぶ った喋り方ではないのに、八尋の外見から醸しだされるこの威圧的な空気は何なのか。倉科 は百肋に不快な汗を感じていた。 「では、具体的なことは倉科から連絡をさせますので」 有川にふられてしまった以上、倉科は「よろしくお願いします」と頭を下げるしかなかっ た。八尋は携帯電話の誉万を教えてくれた。 「噂を小耳に挟んだのですが」 友好的な雰囲気になったところで、八尋が切りだすタイミングを計っていたかのように言 う。「長坂キャスタ 1 とこちらの若いディレクターが、私の過去について何かと詮索をなさ
204 例の『事件検延を最初に立ち上げ、今は他の番組に回されたから連絡が入ったの は、長坂の自宅マンションで今後の取材方針を考えていた時だった。 調度品が少なく機能的な十五畳ほどのリビングに機材を置き、大型ワイドテレビに今日撮 影したビデオを映しだしていた。 三日に一度はハウス・キー パーが掃除をするということで、堕ちたニュース・キャスター すさ の荒んだ独身生活、という雰囲気はない。ちょうど夕飯時だったので、長坂が自らスパゲッ ティ・ナポリタンを作ってくれた。学生街の喫茶店でよく出てくるような、ケチャップの色 が際立った、どこか懐かしい味。男一一人でずるずるとスパゲッティを啜っている時、赤松の 携帯電話が鳴った。 「休暇中に、申し訳ありません」 赤松が八尋の周辺取材のために有給休暇を取ったとは、まだ局内で噂になっていないよう 「構わないよ。どうした ? 」 「他の番組に移ったので、情報の引き継ぎはどうしようかと森島さんに相談したら、じゃあ 赤松の携帯にかけてみろと言われたもので」