232 耳に手をかざし、もう一度言ってみろ、と促す若者がいた 「これ以上、過去を嗅ぎ回ったら命はない。そう言えと八尋に頼まれたんだろう、君たち 「やっちゃ駄目ですか、ねえ駄目ですか : : : 」 群衆の後ろからわななく声が聞こえる。まるで八尋と交信しているかのようだ。 若者たちと、一一メ 1 トルの間隔で包囲された赤松と長坂。睨み合いは続く。やがて誰かの 動きによって静寂に終止符が打たれた。先頭の人間が一歩下がると、若者たちは潮が引くよ うに後ずさりを始めた。それでも憎悪と殺意に緩みはない。もし八尋の許しが得られれば、 今にも飛びかかってきそうな一触即発の空気が漂っている。 両側のスナック街の出口。若者たちが視界から消えると、その後はパタバタと遠ざかる足 立日が聞こえた。 赤松の緊張は解かれたが、心臓の鼓動がせりあがり、こめかみがずきずきと脈打つ。 「今のような連中が : : : 増え続けているんだ」 八尋と彼らをつなぐ電脳ツール。八尋のカリスマに心酔しているコアのファンが、次々に 仲間を増殖させているのか。 「どうしますか」 さっきの女将に話を聞いても、恐れおののいて「今のはただの客」と口を閉さすのは目に
会話の間、若者たちはビールのコップを持ったまま赤松と長坂を上目遣いに見ていた。憎 悪の眼差しで。 見ろ」 長坂の声に振り返る。外の闇を見ていた長坂の横顔が強ばっていた。赤松は店を出て、視 線の先を辿る。 この界隈の店という店から、今、若者たちがぞろぞろと出てくる。闇が人影を絞り出して きたように見える。それは瞬く間に、飲み屋街を埋め尽くす人数になった。六十人。いや、 百人はいるだろうか。店の主たちは客を装った彼らに威圧され、貸切り込態を拒むことがで きず、言われた通りに店の明かりを消したのだろう。 赤松と長坂は後ずさった。女将の店でも若者たちが立ち上がり、のらりくらりとした足取 臨りで店を出てくる。 降 取り囲まれた。しかし若者たちは決して、一一人に触れる距離には近づかない。 四「八尋だ」 「どこですか」赤松は群衆の一人一人に目を凝らす。 章 「そうじゃない、八尋の差し金だ」 第 だとすると、古谷めい子を殺したニュース・キャスターは、まさに餌食だった。赤松は長 坂の前に立ちはだかる。彼の楯になるのが赤松の役目でもあった。八尋の周辺を嗅ぎ回って こわ
見えている。 冒厖ろう」 スナック街を出て、ワゴン車を止めてある百円パーキングに急いだ。 若者たちの憎悪のはけロはそこにあった。車は無残な有り様になっていた。窓は割られ、 ライトは破壊され、タイヤは切り裂かれ、スプレーで彩色されていた。 警察に通報し、レッカ 1 車で移動してもらうしかなかった。ビデオに撮った若者たちを警 官に見せ、こいつらの仕業に違いないと大騒ぎをしても、時間の無駄になるだけに思えた。 西麻布のバーに倉科は来てくれた。 奥のテープル席に三人が座る。赤松と長坂は、デジタル・ビデオカメラの小さな液晶画面 臨を見つめ、音声をイヤホンで聞いている倉科の表情を窺う。 降 センター街の若者たちへのインタビュー。八尋の故郷の通学路と出身高校の風景。暗闇に 浮かび上がる若者の集団を捉らえた光量不足のざらついた映像。破壊されたワゴン車。会社 章役員になりすました < 氏のインタビューは機で聞いてもらった。 = 一倉科は全てを見終わり、イヤホンを耳から外すと、まだ手をつけていなかったジントニッ クを喉に流しこむ。慎重に一 = ロ葉を選んでいる。 長坂が倉科のリアクションを先回りした。
「ひょっとして、その人 : : : 」 おずおずと赤松に言った。「三河の方の人、じゃないですか ? 」 「そう、豊橋」 何か知っているのだ、この若者は。赤松は純朴そうな若者の目を射抜くように見返した。 「そうか、タカシも愛知県人だったよな」主人が思い出したように言った。 全員の注目を浴びて首を沈ませるように頷いた若者に、赤松は詰め寄った。「聞いてくれ ないかな、この声」 ラジカセのスイッチを押した。赤松と女のやりとりが流れた。 出身は ? 女 : : 豊橋です。 れ 訛かありませんね。僕の友人にも愛知県人がいるけど、なかなか凄いイントネーショ さ 殺ンだった。 それがコンプレックスでした。示に出てきて、訛はすぐなくなりました。経理に配 属された一一年目だったでしようか、彼と出逢いました。 一「似ている、ような気もする : ・・ : 」 「常連の人 ? 」 芻「タ方、会社帰りの時間に何度か。いつも買うのは、一人暮らしの部屋に飾るにしては豪華
三十四日夜十時頃、京王世塚駅の下りホームで電車を待っていた、永和学院大学社会学 部教授の多島芳之さん ( 五十九きが、特急電車が通り過ぎる直則、ホームから線路に転落 した。迫りくる電車から咄嗟に逃けたが、右足を轢かれ、大腿部を切断するという重傷だっ た。ホームにいた人から目撃情報が寄せられ、耳に携帯用ステレオのイヤホンをはめた若者 が教授の背後に立っていたということだったが、その若者が教授を線路に突き落としたのか どうかは不明である』 続報はないかとスクロールする。教授を突き落とした若者がいたという警察発表がないと いうことは、病院で意識を回復した教授は、誰かに後ろから突き落とされたのではなく、自 分の不注意による事故だったと警察に話して一仕洛着したことを意味する。 携帯用ステレオで音楽を聞きながら、教授の背中に忍び寄る若者の姿をイメ 1 ジすると、 あのテレビ映えのする清潔な笑顔が思い浮かんでくる。いけない。これこそが悪意なのだと 頭から追い払う。 赤松はそれ以後のデ 1 タから「永和学院大学」を検索項目にして記事を呼びだそうとした が、何も出てこなかった。ふたつの転落事件は殺人事件の捜査にはならず、迷宮に葬られた ことを意味する。 パソコン画面の黒みに自分の顔が映っている。長坂の瞳に宿っていた種火が、自分の眼差 しにもともっているのが分かった。 とっさ
ビの無限の可能性に驚き、同時に突き上げるような憎しみを抱き始める。 「ナイン・トウ・テン」が育てたとも一一一口える八尋青年が、一転テレビ局という「砦」に籠も る人間たちに復讐を始めるのだ。 八尋青年は首都テレビの「ナイン・トウ・テン」が放送した企画をめぐって涙ながらに報 道被害を訴え、時の人となる。その後八尋はテレビに次々と出演して大衆の心をつかみ次第 に若者のカリスマになっていくが、長坂と赤松が八尋に疑いを抱き過去を調べ始める。八尋 を疑うのは自らの「マリス」ゆえかと自問自答しながらも赤松は取材を続け、ついには殺人 鬼であることをつきとめた。キャスター生命を絶たれたことでテレビ局という「砦」を失っ た長坂は、ひとりで八尋と対決する道を選び、物語は意外な結末を迎える。 息もっかせぬストーリ ー展開の中で、八尋青年がテレビによってモンスターになっていく 姿が不気味に描かれている。長坂と赤松は取材中に大勢の若者に取り囲まれる。八尋が送り こんだ人間たちだった。 「彼らの表情に読み取れるのは、爆発寸前の憎悪だ。殺意だ。うす笑いを浮かべている者も いる。 ( 中略 ) 鑞人形のようにのつべりした顔から、ぬらぬらと潤んだ眼光を投げかけてく る若者がいた」 せをとう 八尋が煽動するこうした若者たちは、目に見えない「謎の存在」である大衆の姿と重なり 合う。大衆の総意がゆがめられ変容した時の危険性を野沢氏はこう書いている。 こ
なった。 0co 放送で集めたコアのファンが、インターネットなどで情報を交換し、地上波の 番組に出演するようになった八尋を熱烈に後押ししているのは明らかだった。 テレビによって恋人を殺された青年が、テレビを許し、自らの手で報道被害のない番組を 作ろうとしている。「清貧の騎士」といったイメージが大衆に浸透してゆくにつれ、持ち前 の素朴さとユーモアで社会の荒波を渡っていく若者の代表として認知された。 適度に攻撃的、適度に守りの姿勢、それこそが都会でたった一人で生きる若者が身に付け なければならない処世術であり、八尋はそれを実践していると、あるコラムニストが八尋を 評した。 八尋より上の世代の視聴者は、昔はこういう清潔な若者が多くいたものだと、懐かしく思 いだすようだ。 別のワイドショーでは、管理教育の権化のような中学校の現場教師との対談が企画され 司会者やアシスタントも口を挟めないほどの激論となり、翌日のスポーツ紙が一斉に取り 上げた。 子供を管理するためには体罰も辞さないという信念の教師に、八尋は「制圧された子供 は、大人になれば、同じように次世代の子供たちを制圧します。この暴力の連鎖から子供た ちが解放されない限り、学校に平和は訪れません」と真っ向から議論を挑んだ。
トの構図を決めた。 中継レポーターという役割を演じながら、八尋は「すぐそこまで迫っている危機」とどう 戦おうとしているのだろうか。 「樋口です」 インカムに奈々の声が聞こえた。「今、警察の立入禁止テ 1 プの外にいます。群衆の中で 頭上を各社のヘリコプターが旋回していて聞き取りにくい。地元警察の対策本部がある駐 車場を黄色いテープが遮断している。その彼方、ハンディ・カメラを率いて周辺取材に出て いる奈々の姿が見えた。 「携帯電話を手にしている若者たちが、しきりにメ 1 ルを打っています。分かりますか」 「ああ、見える」 野次馬の帯が、道からコンクリの土手までびっちり連なっている。若者たちが小刻みに指 を動かしている様子が、赤松のいる場所からでも見てとれる。 一一年前、八尋が利用したのはパソコンやモバイルといった情報ツールだったが、今では携 帯電話のメール交信が主役になっていて、八尋の心酔者たちが電波をたぐり寄せるようにし て続々とこの現場に集まってくる。 「最寄りの駅は浅草駅ですが、そこから携帯電話を手にした若者たちが長蛇の列を成してこ
5 ースにうごめく影を見た。さっきの若者と同じような服装の一一人がヘッドライトを見て、の っそり立ち上がった。赤松は駐車場に車を入れかけていたが、咄嗟に車をバックさせた。ハ ンドルを切り、車を道に戻した。赤松を待伏せていた若者一一人が駐車場を飛びだしてきた。 手に黒光りするものを持っている。レンチだ。 赤松はアクセルを踏みこみ、タイヤを里咼く鳴らして国道 246 に入った。ミラーの視界 から若者たちが消える。 もう間違いない。八尋がよこした連中だ。 携帯電話を取る。長坂の誉石を押す。長坂の身にも危険は迫っている。早く知らさなけれ ば。電波はまだ届かない。 あるいは、もう手遅れなのか。 ーを出たところでコール音が鳴った。三杯のバーポン・ソーダで両足に浮遊感を覚えっ っ螺旋階段を昇る長坂は、ジャケットの内ポケットから携帯電話を取りだして通話ボタンを 押した。 「赤松です。今どこですか」 せつば詰まった赤松の声が聞こえてきた時、長坂の目の前にふたつの黒い影が出現した。 ペアルックのジーンズ。どこかで見た顔だった。先日、このバーに飲みにやってきた学生カ
154 に乗り込んできて、「てめえ、言いがかりをつけるとタダじゃおかねえぞ」と取材班に迫っ 世界の内戦地帯で数々の修羅場をくぐってきた長坂は、ひるむ様子はなかった。 くらもらってる」 「君たちが彼女の用心棒か。い 取材班の四人と若者三人が入り乱れた。店長がすぐに一一〇番をして警官が駆けつける くも と、若者たちは蜘蛛の子を散らすようにいなくなった。あとには、長坂の楯となったために 頬に二発パンチを食らって鼻血だらけのが倒れていた。 この模様は、が回し続けていたアタッシェ・ケースの中の小型デジタル・ビデオカメ ラが全て収め、番組でも使用された。放送中に最も分別視聴率が上がった場面である。もち ろん若者たちの顔にはモザイクがかけられ、声も電気的に処理された。 古谷めい子にも同様の扱いを施したが、いくら顔を隠し、声質を変えても、センター街の 住人に彼女の素性は筒抜けだった。 放送後、が第一一弾の取材をしようと渋谷センター街を訪れると、古谷めい子の姿は忽 と消えていた。ショップの前でたむろしている女子高生の一群に訊くと、放送の翌日 から彼女はパッタリと姿を現わさなくなったと一一一口う。 「テレビであんなふうに言われちゃ、生きてけないよね、もうこの街で」 一人がそう言った。 は古谷めい子の自宅にも電話をした。母親は報道された「女子高生売春の一兀締め」が こっ