長坂 - みる会図書館


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1. 砦なき者

208 こういう素直な言葉も言えるのだ、と赤松は素朴に感動していた。 「長坂さんが俺を突き動かしたんです。ひょっとしたら、同じ熱病にかかっているだけかも しれないけど」 微笑みかけると、長坂も同じような微笑を返してくれた。昨夜の今頃は気弱な虫に気分を 塞がれ、 ーポン・ソーダで喉を焼くことしかできなかった長坂だった。別人に思えた。 「じゃ、明日」 赤松がペこりと頭を下げると、長坂はひょいと手をあげた。マンションの廊下に出ると、 住人の生活音はまったく聞こえず、あたりは静まり返っている。長坂にとっては二カ月以 上、この建物は外界と遮断されたシェルターだったに違いない 外に出ると、植込みから鈴虫の声が聞こえた。事件直後は他局のテレビカメラや雑誌記者 とえはたえ が十重一一十重に取り巻いていたという玄関前にも、秋風が吹いている。 放っておけば、テレビや大衆は長坂を忘れてくれる。長坂が一言うところの「恥の上塗り」 はしなくて済むのだ。だが長坂は戦うことを選んだ。砦をなくした者の徒手空拳の戦いだ。 機材バッグは昨夜ほど重くは感じない。 長坂が作ってくれたスパゲッティ・ナポリタンの味がロの中に甦ってきて、赤松は不思議 な懐かしさを噛み締めて家路についた。

2. 砦なき者

260 長坂の話と照らし合わせると、ジグソー・ な咸見だった。 「森が原点なんだ」 赤松は確信した。「八尋樹一郎を殺人者に育てた、森 : ・ 赤松と長坂が身の危険にさらされた以上、一一人を救うには『ナイン・トウ・テン』で八尋 との対談企画を成立させるしかないと倉科は判断した。 長坂が状況証拠を突きつけて八尋を窮地に追いこむことで視聴者が八尋の本性に気づく、 という展開を期待しているわけではない。むしろその場で、八尋によって長坂が完膚なきま でに叩き潰されることを望んだ。 そうなれば、八尋とその信奉者たちにとって長坂と赤松は殺すに値しない存在になり下が る。長坂はしばらく放送界に復帰することはできなくなるだろうが、少なくとも命は守るこ とができる。 倉科には苦渋の選択だった。 長坂の携帯電話に伝えた。もちろん、対談の場で華々しく散ってくれ、とは言えない。五 日後の『ナイン・トウ・テン』で放送するため、翌日の午後一一時、首都テレビのスタジオで 対談の収録を行なう。テーマは報道被害。 パズルのピースとピースがびたりと合ったよう

3. 砦なき者

行は先を目指す。本立の向こうから声が聞こえた。八尋さんと長坂の声だ。 少年を車に乗せてくれた毛糸の帽子の男は、ロ 1 プの束を握っている。長坂はどんな命乞 いをするのだろうか。宙に浮き、どんな苦しみ方をするのだろうか。 長坂が少年たちに気づいた。虚を突かれた表情だったが、すぐに事態を飲みこんだよう まるで自分の死刑台を見た顔つきだ。 八尋は倒木から立ち上がると、それつきり長坂を見ようとはしなかった。 まだ話は終わっていない。終わらせないでくれ。長坂は叫んでいた。自分でも哀願めいて 聞こえる。見捨てないでくれ。すなわち命乞いだった。 臨入れ替わりにやってくる集長坂が咄嗟に守ろうとしたのは、三台の録画中のデジタ 降 ル・ビデオカメラだった。最後に守ろうとしたのはこんなオモチャのようなカメラだった か。自分の一生が、その時、透けて見えた。 章カメラがもぎ取られた。のしかかってくる集団に両手両足の自由を奪われる。アーミー・ 第ナイフを手にしている少年もいる。長坂は叫ばうとした。ロも塞がれる。集団の隙間から、 遠ざかる八尋の後ろ姿が見える。一一度と長坂を振り返ろうとはしない。 「吊るしてやる」

4. 砦なき者

そして長坂はふっと自嘲した。「俺も八尋の魅力に取り憑かれてしまったのかな」 長坂は八尋と「秘密」を共有するため、どこかへ消えたのだとしたら・ : 「どちらかが怖気づいて来ない、というなら分かる。一一人ともドタキャンっていうのはどう いう訳だ ? 」 森島の巨体が苛々と動き回る。 赤松はこれまでの長坂との会話を思いだす。八尋の周辺取材で、ほとんど長坂と行動を共 にしたが、たった一カ所、長坂と別行動を取った場所がある。 赤松が一人で調べてきた場所。長坂は「俺も近々行ってみる」と興味を示した場所だ。 一般道から高速道路に入ったようだ。スピードがあがり、揺れが滑らかになった。 臨八尋には想像がついている。自分はどこへ連れ去られようとしているのか。 降 長坂と赤松は俺の過去を洗いざらい調べ上げた。当然一一人は俺の弱点を突いてくる。俺が 一一度と戻りたくない場所に引きずりこむつもりだ。 章八尋はすでに森の匂いを嗅ぎ、枝にぶら下がった白い亡霊が脳裏に甦り、吐き気がこみあ ゝ 0 第 携帯電話がまた震えた。首都テレビの倉科部長からに違いない。約束の時間になっても局 らち に来ない。一体どうしたのか、と問う連絡だろう。拉致されてから断続的にバイプレーショ

5. 砦なき者

156 挟んだ。そして首都テレビ報道局員と長坂が息を殺して見守る中、夕方の一一ユースで放送さ れたのである。 きい 4 つろ - 、つ 恋人を死に追い詰めた「ある民放番組」に八尋樹一郎は静かに怒りの牙を見せ、全国の視 聴者を味方につけ、首都テレビ報道局の電話は抗議で鳴りつばなしとなり、郵政省の放送行 政局が「またしても報道被害か」と不快感を示す結果となった。 こうして長坂文雄は ~ 療養という名目の有給休暇をとることになった。長坂の妻と娘は ニューヨークで生活をしているため、他局の取材で追われることはなかった。長坂一人が、 首都テレビとは目と鼻の先の赤坂のマンションに閉じこもり、「何の罪もない女子高生を死 に追いやったマスコミ人」と後ろ指を差される日々だった。 報道局長の有川が自ら内部を調査し、あの『事証』は長坂が陣頭指揮に立って、ナレ ーション原稿から編集まで一人でこなしたことを突き止めた。放送一一日前の月曜日、出来上 がったテープを局内で試写した時、倉科は専任部長の立場から「もう少し取材をしてから放 送しましよう」と長坂の先走りを諫めた。 長坂にはよほどの自信作だったようだ。「このまま放送しないのなら、水曜日はスタジオ に来ない」とまで言った。妥協点はなく、倉科は放送を認めるしかなかった。 ささや 放送の反響は高かったが、その一週間後の嵐に比べたら、虫の囁きのようなものだった。 やおもて 長坂と番組が矢面に立たされると、これまで水面下にあった報道局内の力関係がむくむくと

6. 砦なき者

仕事の段取りをつけてきたから手柄を横取りするように、後は森島が取材を指揮し ほの 女子高生が売春組織を仕切っている。会社役員が仄めかした話によると、持ちかけられた のは「月三十万で食べ放題」というシステムだそうだ。 長坂の食指が動いた。この種の取材では、買う側の男性が取材に協力するという例は皆無 だった。その会社役員は「どうせ女子高生に金を払う現場を見られたのなら、すべてを話そ う」と割り切って考えたようだ。会社役員にはひとっ条件があった。話す相手はキャスター の長坂に限る。どうやら長坂が特派員時代からの熱烈なファンらしい 会社役員の携帯電話には、長坂が自ら電話をした。長年のファンだった長坂から直接連絡 をもらって、会社役員は上気した声で「光栄です」と繰り返したという。 臨インタビューの場所は向こうから炬疋してきた。渋谷道玄坂の中華料理店だった。長坂と 降 取材スタッフが時間通りに店に到着すると、会社役員から電話が入った。 しい場面を撮らせてあげますよ」 网「申し訳ないが一時間半ほど遅れてしまう。そのかわり、 章円山町のホテル街に来るように言う。長坂たちは従った。 第土曜の夜。窓にシールを貼ったワゴン車を止めて、長坂たちは指定された路上で、その 「いい場面」とやらを待った。スタッフはカメラマンと <tæだけで、『事蠶証』のディレク ターである赤松は、週替わりのロ 1 テ 1 ションで別の現場に入っていたため、この取材には まるやま

7. 砦なき者

がある。番号を非通知にしているため、相手が警戒しているのだ。 「もしもし、さんですか ? 」 「首都テレビ報道局の者です。うちのアシスタント・プロデューサーのところに電話をいた だいたと聞きました。用件は私が承ります。『ナイン・トウ・テン』のディレクタ 1 の赤松 と一一一一口います」 まだ無一一 = ロ。怯えた小動物が樹の陰からこちらを窺っているような光景を想像した。 「替ろうか」と長坂が手を差し伸べる。 「ここに長坂さんもいらっしゃいます。初めての人間が信用できないなら、替ります」 長坂に渡し、耳を近づけた。 「長坂です。渋谷の中華料理店でお話を伺いました」 「ああ・・・・ : その節は」 やっと信用してくれた。安堵の声だった。自称会社役員の氏が長坂の長年のファンとい うのは本当かもしれない。 「もう一度インタビューをご希望していると聞きました。あれから << さんの携帯電話に何度 もかけたのですが、番号はもう使われていないということで、連絡の取りようがなかった。 一体何があったんですか」

8. 砦なき者

ないですか ? 」 「編隹はこっちにあるんだ」 八尋は放送を認めるだろう。長坂がそのディベートで勝利するとは考えられない。報道被 害の極悪人として長坂が血祭りにあげられ、八尋は放送界の粛清をひとっ果たす。そういう 内容になるのは目に見えていた。 「明日はフロアにいてくれ」 堕ちていく長坂を、なるべく近い場所で守ってやるのが赤松の仕事だった。 倉科は八尋に連絡をする。明日の一一時から収録をすることはすでに了解を得てあった。 「対談の企画が決まりました。八尋さんさえ承諾していただければ、予定通り、明日に収録 を行ないます」 「相手はどなたですか ? 」 「うちの元キャスター、長坂文雄です」 一瞬、息を殺すような間があった。 「長坂さんは承知されたんですか ? 」 「是非、直接会って話したいと言っています」 「何を考えているんでしよう、あの人は」 みそぎ 「これが首都テレビが視聴者に対してしなければならない禊だと思っています。古谷めい子

9. 砦なき者

気がする。 倉科が立ち上がった。顔が合った長坂に、こっちでやりましようと手招きした。奥の会議 室だ。 長坂が堂々と立ち上がってついて行く。局員たちは長坂の表情から目をそらす。虚勢に見 える長坂の後ろ姿が会一に消えると、局員たちはのろのろと仕事を再開した。もらい泣き ーを鼻に当てて、鳴った電話を取っている。 をしていたアルバイト職員はティッシュペー 何もなかったような顔は誰もできない。「ある民放の番組」と非難された以上、それぞれに 多かれ少なかれ罪を背負っている。赤松も同様だ。今はただ、粛然と受け止めるしかない。 「始まるぞ」 つぶや 放送センタ 1 をあとにするカメラマンの紀藤が、すれ違いざま、赤松に向かって呟いた。 臨すでに抗議の電話をデスクの女子社員が受けている。東洋テレビの報道に煽られた視聴者 降 の怒号の嵐。そして責任の所在を明らかにしようとする動きが局内で始まる。これから始ま 四る仲間同士の斬り合いについて、紀藤は苦々しい思いをこめて言ったのだ。赤松は溜め息ま うなず じりに頷き返すしかなかった。 章 「今、奥の部屋で専任部長と : : : 」 第 森島が電話に答えている声だ。有川局長からだろう。長坂が役員室に呼ばれているとすれ ば、長坂の行く末が、今、赤松には容易に予想できる。 あお

10. 砦なき者

ないってね」 長坂と同じものを注文した。ジャック・ダニエルズのソーダ割。伝票を別にしてくれと頼 んだら、長坂が「一緒に」と言ってきかなかった。 「長坂さんのお話を聞いて、いくつか気になったことがあって、自分なりに調べてみまし 「調べた ? 何を」 目を丸くする。 「八尋樹一郎についてです」 「どうしてそんなことを : : : 」 冗談を真に受けたのか、と長坂に言われたような気がして赤松は急に不安に駆られる。永 和学院大の事務員に会ったこと、一一年前に八尋の同級生が変死したこと、車椅子の教授が八 尋について語ったことを、時系列に沿って話した。長坂がソーダ割を啜るピッチが早かった ので、彼が酔っ払う前に話さなければならないと、 いくらか早口になってしまった。 「おっしやるように、八尋樹一郎には調べるべきことがたくさんあります。部長はやはり取 材を許可してくれませんでした。そのかわり、一一週間の休暇をもらいました。調べたければ 自分でやってみろと放り出されたようです。いつものクルーはいません。このバッグに入っ ているものしか頼りにできません」