山崎豊子の〈男〉 【第六回】男の定義 悪の諸類型 の悪の類型は、最もわかりやすく、ありふれたもので、人間 山崎豊子が最初に描くことに成功した男は、財前五郎だつの弱さ、意思の弱さに由来するものだ。その人は、自分が何 た。だが、その男は、後の山崎作品の男たちとは、決定的なをなさなくてはならないのか、自分に課せられている義務が 点で異なっている。ある時期から後の山崎作品の男たちは皆、何であるかを、完全に分かっている。しかし、この義務には 善や正義を体現している。しかし、財前は悪の野心家である。反する快楽への欲望があり、そうした欲望をはねのけるだけ さて、ここで、懸案の問いに答えてみよう。ここまでずつの強さが備わっていないとき、人は、悪に手を染めることに と、山崎豊子の作品の主人公の男らしさについて論じてきたなる。たとえば、私が、他人の物を盗ってはならないことを が、そもそも、「男」とは何か、「男らしい」というときの男知っているのに、誰かの所有物が欲しくなり、それを奪って とは何か、あえて回答せずにきた。つまり、ここまでは、 しまったとすれば、それは私の弱さゆえの悪である。悪の原 人々の「共通感覚」を頼りに議論を進めてきた。しかし、真因は、人間の本性のうちにある弱さであるとされる。 の「男」が登場したところで、何が男らしさを、つまり 第二の悪の類型は、第一の類型をベースにしてはいるが、 「男」を定義する条件なのか、を明確にしておく必要がある。はるかに狡猾なものだ。第一の類型においては、人は、自分 そのためには、そもそも悪とは何か、から考え直しておく が義務を履行できていないことを認めている。もし他人から とよい。カントによれば、悪には三つのタイプがある。第一指摘されれば、その人は自らの罪を認めるだろう。それに対 大澤真幸
男 の 1 イマヌエル・カント『たんなる理性の限界内の宗教』 ( カント全集 豊 ) 北岡武司訳、岩波書店、 2000 年。 2 かって、鶴見俊輔はこんなことを言っていた。人間のどんな性質も、 山 善い面と悪い面とがあるが、ひとつだけ、どこからどう見ても純粋に悪 を創作するタイプで、この作品についても、登場する人物やいだけの性質がある、と。鶴見によれば、それは「男の嫉妬」である。 東教授たちは、その男の嫉妬に駆り立てられて行動している。なぜ、男 企業に関して、実在のモデルがあると言われている。しかし、 の嫉妬だけが、特別なのか。おそらく、それは、「男らしさ」の本性に 小が大を喰うということだけが、リアリズムを裏切っている悖る、と感じられるからだ。つまり「男の嫉妬」は撞着語法である。だ が、はっきり言えば、実際には、嫉妬から完全に自由な男もいない。 ことになる。どうして、そうする必要があったのか。 3 定言命法とは、絶対的に無条件に、つまり普遍的に妥当する道徳法 そうしなければ、主人公の万俵大介を男にすることができ 則である。定言命法の反対語は仮言命法で、それは、「のときには ないからだ。大きい方の企業が小さい方を取り込む当たり前をせよ」という条件付きで成り立っ道徳法則だ。この「のときには」 という限定がないのが、定言命法である。 の合併には、「男」は登場しない。男らしさが生まれるのは、 4 逆に、男が、家族を犠牲にするような過酷な任務は嫌だ、とあっさ 何ごとかを得ようとする義務への、妥協なき執着が、本来の りと仕事を放棄したときには、家族の観点からも、その夫や父はスケー 欲望や願望の自己否定をももたらすほどにまで徹底されたとルが小さくつまらない男に見え、さらに男の自分たちへの愛も底が浅い ものに感じられてしまう。こんなこともあるだろう。 きである。実際、小が大を喰おうとすれば、小の側は、とき 5 『白い巨塔』と『華麗なる一族』の間には、ほんとうは、もうひと に自己矛盾的なことをあえて手がけなくてはならなくなる。 っ長編小説がある。『仮装集団』である。これは、『白い巨塔』の正篇を イエの繁栄を目指しているはずなのに、その傘下の最も大き完結させ、続篇を書くまでの間に書かれている。すなわち、この作品は、 昭和年から年にかけて週刊誌で連載され、貶年に、文藝春秋から単 な企業を平然と倒産させ、長男を自殺するほどにまで追い詰 行本として出版された。『仮装集団』は、音楽界の背後にある左翼的な めなくてはならないのだ。万俵大介は、今回提示した、男政治活動を扱ったもので、後の『沈まぬ太陽』などにつながる種子があ るという意味で興味深いが、社会的成功という点では、彼女の全作品の ( らしさ ) の定義を、端的に実現している。私生活のレベル 中で最も小さい。『仮装集団』は、山崎豊子にとってーー未完の遺作を での ( 悪としての ) 男らしさの表現は、もちろん、妻妾同衾別にするとーー ( 映画としてもテレビドラマとしても ) 映像化されなか った唯一の長編小説なのだ。前回の注 2 で言及した『花紋』でさえも一 の異常で倒錯的なスタイルである。 度はドラマ化されている ( 私は未見だが ) 。『花紋』を扱わなかったのと 同じ理由で、『仮装集団』は、ここでは考察の対象に含めない。 6 大介が鉄平の出自に疑いをもっているという設定は、大介の冷酷さ を薄めるための工夫である。そうした設定がなければ、大介の仕打ちは あまりにも悪魔的で、読者には耐え難い。物語では、鉄平の自殺の後、 血液型から鉄平はやはり大介の実子であったことが判明し、大介がショ ックを受けることになっている。こうした感傷的な展開で、大介の悪は 矮小化される。 ( つづく )
とする。その中には、当然、価値ある仕事をもち、家族が豊逆に、極限に、その「すべて」に反するような例外を見出す かな生活を送るための収人を得ること、そして家族にーー父ことになる。その例外をあえて遂行する情熱や勇気をもつ者 や夫が立派なことをしているというーー自尊心を与えること、に、人は「男らしさ」を感じることになる。 等も含まれる。だが、あるとき、その仕事の上での使命を果「男」を、このように形式的に定義すると、ただちに次のこ たすためには、家族を犠牲にしなくてはならなくなったとすとに気づくだろう。この条件は、本来は、性的差異とは関係 る。家族と長く離れて暮らさなくてはならないとか、命を落がない、と。つまり、女が、このような条件を満たすことも、 とすかもしれない危険な任務を遂行しなければならないとか。論理的にはありうるし、実際にもある。ただ、われわれの文 このとき、もし彼が、家族を犠牲にするくらいならばそんな化は、ーーというより人類は どういうわけか、長い間、 仕事をしたくないと、たいした懊悩や迷いもなくあっさりと、 このような条件を、男と結びつけてきたのだ。山崎豊子の小 職務を放棄してしまったとしよう。このとき、われわれは、説も、こうした文化の歴史的蓄積の上にある。 そしてまた家族自身は、この男はそれほどまでに家族を愛し ていた、と判断するだろうか。必ずしもそうではあるまい。 なせ小が大を喰うのか 逆に言えば、この男が、家族に犠牲を強いる使命を遂行した 同時に、「男」という条件が、悪と必然的に結びついてい としても、このことが、彼の家族への愛の小ささの証明とはるわけではない、ということもあらためて確認される。同じ ならない場合もあるのではないか。それどころか、家族への条件を、「善」によって満たすことも論理的には可能だ。だ 愛が深いがゆえにかえって、家族を犠牲にせざるをえなくなが、財前は、悪によって、「男」の条件を充足させた。どう ることさえあるのではないか。また家族も、自分たちに犠牲して、この時期の山崎作品の「男」は、悪を代表しなくては を強いるような大義や使命をもっ父や夫をーー・そうした大義ならなかったのか。このような疑問にわれわれが拘っている や使命を難なく放棄してしまうような父や夫よりもーー・ますのは、山崎の後期の有名な作品を見るならば、あるいはすで ます深く尊敬し、誇りに思う、ということもあるだろう。決に検討してきた初期の作品を読むならば、彼女が特に、悪を して、「そんな父 ( 夫 ) は私 ( たち ) を愛してはいないのだ」描くことに執着しているようには思えないからだ。いや、明 などと簡単に感じはしない。 らかに逆である。山崎の作家としての全生涯を振り返るなら、 このように、何ごとかをすべて十全に果たそうとすると、彼女は、善や正義を体現する、男らしい男を描きたいという、
うとする執念があったかどうか、である。東は、公正で道徳 的な医学部教授という自分の社会的な体面を絶対に失わない 財前の悪についてのこうした考察は、「男」とは何か、と限りで、狙った「すべて」をーーこの場合には、自分が就い いう定義をわれわれに教えてくれる。つまり、人が、誰かをていた名誉あるポジションを憎き財前には絶対就かせないこ 「男らしい」と感じているとき、その「男らしさ」の印象がとーー得ようとしていた。分かりやすく言えば、東は、最後 どこから来ているのかが明らかになる。何ごとかについてまで格好を付けている。その結果として、東は、「すべて」 「すべて」を求めるに際して、つまり何ごとかについて普遍を得るまでには至らない。財前は、「すべて」に反すること 性を追求するに際して、その「すべて」に対して矛盾するよまでをも追求したがゆえに、「すべて」を得たが、東は、、「す うな例外までをも得ようとする逆説性があること、これがべて」だけを過不足なく得ようとしたために、結局、それを 「男」の定義である。ここで重要なことは、「すべて」という得るには至らなかった、というわけである。 普遍的な領域は、「すべて」に反する例外によって破壊され ねらった「すべて」を得るために、「すべて」に反する逆 るのではなく逆に、その例外に支えられてこそ可能になって説に到達するまでの情熱をもっことができること、ここに人 いる、ということだ。 は、「男らしさ」を感じる。『白い巨塔』の登場人物の中で、 財前は、大学病院の頂点に立っことで、富と名声を得て、 こうした逆説に到達しているのは、財前だけである。たとえ 人生の幸福を極めたいと欲している。しかし、述べてきたよば、里見は、偶発的に出会った佐々木庸平とその家族への同 うに、彼のやり方は、常軌を逸しており、なりふり構わず高情をもってはいるが、「すべて」への、すべての患者への配 額の賄賂を配ったり、教授会での一票を得るためにあえて自慮や意思を欠いている。善良な佐々木さんのことだけが問題 らを貶めるような態度をとったりと、昇進の頂点に立っことならば、それもよかろう。しかし、「すべて」を配慮したら から得られる満足や幸福を毀損するほどだ。しかし、ここまどうなるのか。里見には、これがない。 でやったからこそ、彼は、得ようとしていたすべてをーーこ財前のケースは、実はそれほどわかりやすくはない。この の場合には大学病院の昇進の階段の頂点 ( 医局のトップ ) まような「男」の定義があてはまる典型的な例は、次のような 崎でもーー獲得することができたのである。東たちと財前を分状況である。ある男が、自分の家族を深く愛し、家族の幸福 けているのは、この逆説的な例外をも妥協することなく得よを実現するためには、あらゆることをする覚悟をもっていた 「男」の定義
強い欲求をもっている。が、彼女が最初に生み出した、真にの重要な長編小説でも、同じことが起きている、ということ だ。今や、山崎は、「男」を描いている。が、それが可能な 男らしい男は、悪のサイドにいる。どうしてなのか。 のは、その「男」が悪を具現する人物として設定されている 前回の最後に示唆したことを、もう一度、繰り返そう。 「男」と「悪」との結びつきには、偶然以上の理由が、つま限りのことである。善の方を担わされる男が別に登場するの り何らかの構造的な原因があるのではないか。つまり、たまだが、その人物は精彩を書いた常識人になってしまう。この たま「悪」の印象の強い男性を描いてみた、ということでは傾向は、『白い巨塔』の次に現れた、重要な長編小説でもう 19 7 0 ) 年か 一度繰り返される。次の作品とは、昭和 ( なく、「男」を描こうとすると、何らかの原因が作用して、 不可避に「悪」性を帯びてしまうのだ。ただし、その原因は、ら昭和町 ( 1972 ) 年にかけて書かれたーー昭和絽 ( 19 男らしさの概念や悪の概念のそのものの中にあるわけではな 73 ) 年に単行本になったーー『華麗なる一族』である。 この小説の「男」は、主人公の万俵大介、阪神銀行頭取で い。このことは、今回のここまでの考察が確認してきた。で 、悪のヒーローである。この小説の は、原因はどこにあるのか。おそらく、書かれた社会的コンある。彼も負のヒーロー テクストに、である。つまり、この頃のーーということは昭主題は銀行合併だ。万俵財閥は、阪神銀行を中心に、阪神特 殊鋼、万俵不動産等からなっており、阪神地方の財界では圧 和四〇年代頃のーー時代精神の中に原因があるのだ。 われわれは、初期の山崎作品に関して、次のように論じた。倒的な力をもっていた。万俵大介は、この財閥の十四代目の 山崎は「男らしい」主人公を描こうとしているのだが、「男当主である。彼は、眼下に芦屋、岡本、御影の住宅街を一望 らしさ」を強調すると、主人公が実際には女になってしまう、する高台にある豪邸で「妻妾同衾」の生活を送るような、私 そんな力学が働いていた、と。『花のれん』がその典型であ生活の面でも破格の人物である。 るように、「男」らしい女が主人公になってしまうのだ。だ大蔵省の銀行再編の方針によって、阪神銀行は、大同銀行 が、今や彼女は、「男」としての男、「男」らしい男を造形すと合併しなくてはならなくなる。預金順位では、大同銀行は ることに成功した。が、時代精神の磁場は、この成功に対し阪神銀行よりも上である。したがって、常識的には、大同銀 て代償を支払わせているように見える。今度は、磁場が、倫行の中に阪神銀行が組み込まれるような形で合併がなされな くてはならない。だが、山崎は、この小説で、現実にはあり 崎理の軸に作用して、主人公は悪の極に偏ってしまうのである。 山 このような仮説的な解釈の裏付けになる事実は、山崎の次えないタイプの合併、つまり「小が大を喰う」ような合併を、
たら、仮に多少道徳的にいかがわしいところがあったとしてントの三つの類型の中に収まらない、もう一つの悪がある、 も、東たちは、喜んで彼を次期教授に推薦しただろう。 ということになる。財前の言動は、もう一つの悪、カントの 『白い巨塔』の登場人物の中で、読者にとって最も魅力に欠視野には人っていなかった四番目の悪を ( も ) 表現している ける人物は、これら東たち浪速大学教授陣だろう。財前にはのである。この、もう一つの悪とは何か。 反発を覚えても、読者は、気づかぬうちに彼に魅了されてい確かに、財前は、本来は、私的な利益や幸福のために、教 る。物語の構成上、財前の反対極に置かれるのは、同級生で授のポストを狙っていた。だが、その執念は、あまりに徹底 善人の里見助教授だ。里見には財前のような迫力はないが、 し、およそ妥協を許さないものであるため、ついには、利益 「里見が一番好き」と言う読者もいるだろう。しかし、東教や幸福に反するところにまで行ってしまっている。とすれば、 授が好きな読者はまずいない。にもかかわらず、現実の社会私的な欲望を満たすために、表向きは偉そうなことーー・善な で最も多いのは東タイプである。 ることに見えることーー - ・をやっている、とは言えない。彼は、 自分の幸福や利益に反してでも追求しなくてはならない絶対 もう一つの悪 の義務であるかのように、教授職を求めているのである。 では、財前はどうなのか。彼もまた、第二類型の悪を表現 ここから得られる哲学的な教訓はこうである。カント哲学 しているのか。財前は、名門国立大学の医学部教授になっての術語を用いるならば、定一一一口命法的な義務と化した「悪」が 医療の発展に尽くしたいかのように言っているが、ほんとうあるのだ。すこぶる逆説的なことに、定一一一一口命法的な義務は、 は自分の名誉欲を満足させたいだけではないか。このようにカントの倫理学では、本来、善の定義そのものである。した 解釈すれば、財前も、東たちと同じタイプの悪に属している、 がって、カントは見逃しているが、形式の上では善と区別が ということになる。浪速大学の医学部教授会を舞台に、二つできない悪がある、ということになる。財前が、このような の「第二類型の悪」が対決している、というわけだ。 悪を体現している : : とまでは言うまい。財前の悪には、第 だが、そうだとすると、疑問がわく。それならば、どうし二類型の範囲で説明できる部分もある。しかし、彼の行動や て、財前には男らしさを感じるのに、東たちには逆に、男ら態度には、そこから逸脱する部分もある。彼の悪は、カント しさの欠如を感じてしまうのか。財前の悪には、悪の二番目も見ていなかった四番目の類型に接近しており、そこから、 の類型には回収できない側面があるのだ。言い換えれば、カ東教授たちにはない、男らしさの印象が出てきているのだ。
男のク母殺しをが始まったー 小島ずっと安冨さんにお会いしたかっ たので、お目にかかれてうれしいです。 安冨私もお会いできて光栄です。 ところで小島さん、私のメイクはどう ですか ? 小島素敵、でもちょっと目元が寂しい かな。 安冨じゃあ、つけまっげを付けてみま す。小島さんは付けてますか ? 小島私は地毛です、目元が毛深いから ( 笑 ) 。「撮影のときは、アイラインはは み出てもいいから濃くしておけ」ってい われたことはありますよ。 安冨なるほど、参考になります。 ( っ 縛母の苦しみ、女の痛み 次は男たちの「解縛」がはじまる やすとみあゆみ〈女性装〉の東大教授と語り合った、 4 島慶子安冨歩生きる苦しみ、そして そこからの解放について ( タレント、エッセイスト ) ( 東京大学教授 ) こじまけい こ 文庫化記念対談 けまっげ装着完了 ) さんの言葉に救われて。どうして今まで 小島だいぶ華やかな目元になりました誰も教えてくれなかったんだろう、と思 いました。 安冨ありがとうございます。これで撮 そしてもう一つお会いしたいと思った 影です ( 笑 ) 。 理由は、安冨さんが「母親の罪」を告発 『解縛』、本当にすごい作品だと思いま した数少ない男性だということです。 した。母娘関係の本はたくさん出版され「とうとう男の″母親殺し〃が始まった てきましたが、これほどまでに深く分析な」と思ったの。 された本はないかもしれません。あまり 安冨かって岸田秀先生が『母親幻想』 に強烈で、読んでいて気分が落ち込んだ で母親の支配を書いたことがあったけど、 ほどです ( 笑 ) 。 確かに少ないですね。私は " 女性装の東 小島すみません ( 笑 ) 。でも読んでい大教授〃という特殊な立ち位置だから、発 ただきありがとうございます。 言が注目されたところもあるでしようし。 私は安冨さんの『生きる技法』を泣き 小島日本では「母親の悪口を言う男は ながら読ませていただきました。「自立最低」っていう刷り込みがあるから、男 とは、人に依存できること」という安冨性は母親に象徴される「男らしさを強い 0 強一 母の苦しみ、 、女の痛み
明治八年十一一月のうちに、芳次郎は鹿児島再訪を遂げた。 それでも人の目ということはある。よかったといえば、私 たかつぐ 伴兼之、榊原政治を引率してきた伊藤孝継は、師走のうちに学校が城の界隈なこともよかった。 鶴岡に戻りたいということだったので、ちょうど人れ替わり 薩摩藩島津家の居城、いうところの「鶴丸城」も、もちろ だった。護衛というか、いくらか歳も上なので、柄でもないん廃城になっている。もう建物すらないというのは、明治六 が、平素は世話役の立場である。 年に火事で焼失していたからである。が、何かに転用される 伴と榊原の両名も、あっという間に鹿児島に溶けこんだが、のでなく、まったくの城跡というなら、それこそは結構だっ 芳次郎の場合をいえば、すでに前回の逗留で馴染んでいた。 た。人は少なくなりながら、なお方々に堤や築山、並木は残 いない間に私学校の生徒も増えて、なつの弟もそのひとりだ るので、意外なほど隠れやすいのだ。 ったが、できたばかりの頃にいた身としては、古株めいた思 みつけたのが、その桜並木が続く堀端の土手陰だった。人 いも抱かないではなかった。というのも、下手な薩摩隼人よ心地つけられるほどに、芳次郎となっは二人ながら腰を下ろ り勝手がわかる。 し、長話をするようにもなっていた。 なつのことも、やはり芳次郎がみつけた。 「まあ、確かにね。庄内でも秀でていたよ、伴殿と榊原殿は。 「ほら、いた」 土台が選ばれて来たわけだからね。鹿児島の私学校に人学し やはり私学校の石垣から覗いていて、そこを捕まえたときたいって希望者は、鶴岡にはごまんといたんだからね」 は、やはり怒ったような顔になった。 「どげんして決めたとですか」 「もう、ないごて、わかるとですか」 「玄蕃様が決めた」 芳次郎が構わず喋りかけると、なっは男らしくないとか、 「ああ、あの方。試験か何かされたとですか ? 」 鹿児島では考えられないとか、庄内でもこうではないはずだ「いや、ただ見たり、話したりだね。それで、今鹿児島にや とか、東京者だから軟派なのだとか、ずいぶんな悪態を返しるとすれば、伴と榊原ですねって決めて」 たが、そんなこんなで話が途切れることはなかった。 「そいで終わりですか」 「ほら、またいた」 「うん、それで終わり。庄内じゃあ、文句も出ない。玄蕃様 「じやから、芳次郎さん、ないごて、わかるとですか」 のことは、みんな知ってるからね。間違えることなんかない 何度か繰り返すうちに、普通に話せるようになった。私学って、絶対の信を置かれて : : : 」 訓校の近くに来れば、芳次郎が察するので、会おうとか、話そ 言葉が続かなかったのは、喉奥から出てくる塊があったか うとか、特に構えた約束が要らないこともよかった。 らだ。うっと短く呻いたきり、芳次郎は洩れ出る声を我慢し
カー物 六月一日 ったタバブックスという出版社のさん が、ご本人は静かでちゃんとした人のよ ミスタートー ナツで仕事をしようと、 も来て下さる。栗原さんが書いた『はた うだった。栗原さんはイケメンと言うよ カウンターで注文の順番を待っていると、 らかないで、たらふく食べたい』という り男前と言った方がびったりくる。昭和 後ろの男子一一人組が買ったばかりの本に、本を読んだトムちゃんが、その内容にい の感じがするのだが、しゃべってみると、 丁寧に丁寧に透明のカバーをつけている。 たく感動し、きったない字で読者カード 年寄りの我々から見たら、やはり先端を いつもカ・ハーを持ち歩いていて、買うと を送り、それが縁で、増刷のとき帯を頼走っておられる方で、何を聞いてもすぐ すぐっけるのだろう。本の人っていた袋まれたのである。うちは、ケータイもメ さま答えてくれて、こちらまでテンショ は、私が見たことのない店のもので、ほ ールもやめてしまい、電話も留守電にし ンが上がる。トムちゃんは、ほんまもん ぼ毎日、三宮を歩いているのに、私の知ていないので、よほど運がよくないと直 の人が来ると決まると、自分のニセ教養 らない本屋があるのか、とちょっと驚く。 接話すことはない。仕事もプライベート がばれぬよう予習をする。この日も、あ もファックスだけである。なので、さ れこれ用意していた球を投げては打たれ 六月二日 んとは、ほとんど声をかわしていない。 る。ずいぶん前に、私たち二人の間で流 栗原康さんがやって来る。関西で用がやって来たさんは、ずっと律儀に出版行った「だめ連」の人たちのこともよく あったらしく、せつかくだからと神戸ま の仕事を続けてきた女の人という頼もし知っていて、その後の活動を教えてもら で足をのばしてくれたらしい。会いたか い感じで、出版する本は相当ヘンなのだ う。「だめ連」というのは、最低限の労 働しかしない人たちの集まりで、私が見 題字・絵たテレビでは、週に一度銭湯にゆき、帰 大西洋 りに川風に吹かれながらソ 1 セージでビ ールを一缶あけるのが楽しみで、その他 はずっと仲間たちとしゃべっていた。栗 原さんいわく、彼らは健在で、会えば 「まだ生きてます」というのが挨拶だそ うだ。まだ資本主義がここまで行き詰ま づていなかったときからある。彼らは、
長谷川うーん、あえて残す必要はない大好きで。金貨が最も美しく見えるのは のと一緒。そしてその原稿につかさんか ・ : なんて思いはあったかな。 水に浸かっている瞬間なんだって。 ら大量に赤字が人る。またそれが最高に 樋口つかさんが自分の芝居を記録に残長谷川全くのフィクションね ( 笑 ) 。 面白いのよ。少し近いのは、漫画家とア さなかったように。 樋口えーー シスタントの関係かなあ : : : つかさんの 長谷川そう。芝居なんてものは、その長谷川当時も皆、信じてたらしく、事「ネーム」に僕らが背景を足すような。 場限りで消えてしまうからいいんだって務所に来た人間はまずトイレに行きたが博士さいとう・たかをプロだ。 ね。それに僕が語れるのはせいぜい劇団る。で、必ずガッカリして出てくる ( 笑 ) 。長谷川つかさん、あとになって「オレ 解散の年ぐらいまでで、実際つかさん樋口どうせ私を騙すなら、死ぬまで騙の本なんて全部長谷川が書いてたんだ」 のキャリアはそれからの方がうんと長い。 して欲しかった : みたいなことよく言って、周りは驚いて その人間や人生を語るなんて、おこがま長谷川いや、この本の中で、そこはか たけど、本当にそうなら言えないよね。 しい。 なり誤解されてるみたいだから、ちゃん つかさん自身も、稽古場で役者相手にし 博士いや、結果、相当語ってますよ ! と説明しておくと・ : ・ : 僕とっかさんは、 て芝居作るのと同じ感覚だったと思う。 『つかこうへい正伝』、 5 7 6 頁ですよ ! 世間を騒がせた作曲家たちのような関係樋口つかさんの文章は本当に素晴らし 樋口僕たちにとってつかさんといえば、 では決してなくて ( 笑 ) 。まず、演出家いですよ。僕は『ロマンス』『蒲田行進 とにかく『つかへい腹黒日記』。虚実人と役者、という関係性が前提にあるんで 曲』といった小説より、虚実入り混じっ り混じった内容が面白くて面白くて。そす。つまり稽古場で台詞を言わされるの た『腹黒日記』『男の冠婚葬祭人門』な の面白さを伝えたくて、博士が編集長の と、同じ感覚で文章を書かされるわけ。 どのエッセイが好きなんですけど、文章 「メルマ旬報ーで「ひぐたけ腹黒日記」 博士つか芝居は「ロ立て」といって、 に無駄がなく、スピード感があって読み を連載しているほどで、どれだけ影響を つかさんが稽古場で台詞を役者に伝えなやすい。「難しいことをわかりやすく た受けているか : がら芝居を作っていくんですよね。 わかりやすいことを面白く、面白いこと 博士その『腹黒日記』を、実は長谷川 長谷川まあ原稿の場合は設定の説明が を深く」が全部出来てる。上手さを分か 何さんが書いていたということを、僕らは あって、「で、〇〇がこういうこと言う らせない上手さなんです。僕はつかさん 広『つか正伝』で知るんです。 んだ」とっかさんが語りでやってくれる。 の本で文章を学びました。高尚で難解な い 樋口大衝撃ですよ ! 僕は『腹黒日記 それを女章にしていくんだけど、そのと蓮實重彦の本を読んでも、絶対文章なん へ う』の、税務署から逃れるため き自分は「つかさん」なのね。絶えず、 て上手くならないから ! かにクルーガーランド金貨を事務所のトイ つかさんがやりたがっていることを考え長谷川 : このトーク、『波』に載る レの貯水タンクに隠してたっていう話が て表現していく。役者が台詞を声に出すらしいよ ( 笑 ) 。