鹿児島 - みる会図書館


検索対象: 波 2016年8月号
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1. 波 2016年8月号

鹿児島の私学校で教えるのは、漢学、兵学、語学といった「では、よろしいですね、薩摩の皆さんも」 座学と、あとの実技は専ら銃か大砲である。剣術の時間はな駄目だとは、誰もいわない。逃げたと思われたくなくて、 い。が、そこは士族が集う場所であり、暇があれば校庭で稽いわない。薩摩隼人の性分からも絶対いわない。それでも私 古もする。試合をやろうともなるが、その日は特に対抗戦と学校の生徒たちは塊になった。どけんしもそ。藤野、おはん、 いうわけではなかった。とはいえ、負けん気を口走られれば、続けてやったもんせ。無理じゃ。もう疲れてしもた。あげな まっすぐ応える豪気が薩摩隼人にはある。 短かか立会いで、疲れるはずなか。それに藤野、おいの斬り 「決勝戦やるちいいもすか」 下ろしは誰もかわせんち、いつも自慢しちよるじやろう。 「よかね。文句などありもはん。じゃっどん、三人目は誰「おいがやりもそ」 と、不意の声が飛びこんできた。大股の足取りで近づくの 「庄内いうてん、伴と榊原の二人しかおらんでごわんそ」 は、中背ながら、がっしりした体軆の男だった。それで暑苦 端から対抗戦という頭にならなかった所ルである。現に伴しい感じがないのは、目元の造りが涼やかな細面のせいか。 きりの など苦笑するばかりだが、榊原のほうは迷わず答えた。 「桐野先生 ! 」 おきた いとう 「沖田殿がいます。伊藤殿はもう鶴岡に帰られましたが、か 一兀の陸軍少将にして熊本鎮台司令長官、今は吉野開墾を率 としあき わりに沖田殿が鹿児島に来てくれました」 先する鹿児島県士族の重鎮ーー桐野利秋の登場に、薩摩の若 とたん校庭の空気が、ざわと波立った。これが二度目の鹿者たちは俄然盛り上がった。かたやの榊原はといえば、頬を よしじろう 児島であり、芳次郎の強さは知れ渡っていた。前回も開校間強張らせて固まった。伴も慌てて、芳次郎の袖を引いた。 もない私学校に、ちよくちよく顔を出していたのだ。 「大丈夫ですか、沖田殿」 「はは、ははは、さすがに厳しいかなあ」 「んにゃあ、待ってたもんせ。沖田殿は東京の人でごわす」 なかむらはんじろう 「生まれは確かに東京だけれど、今は鶴岡県の士族です。で桐野利秋は、幕末には「中村半次郎」を名乗りに用いてい あだな なければ、こうして鹿児島にいることもないわけです」 た。そのため、ついた綽名が「人斬り半次郎」である。薩摩 あかまっこさぶろう 「榊原さあ、そいはそうじゃが : : : 」 藩の軍学者赤松小三郎を、幕府の間者として惨殺した一件を なまぐさ 「沖田殿も異存ありませんよね。やってくれますよね」 はじめ、あの血腥い時代に白刃を振るい続けたひとりだ。 「庄内だとしても、僕は私学校の生徒ではないわけで、それ で、実際すごいな、これはーー木刀ながらも構えて向き合 訓でも構わないっていうんなら、まあ、一試合くらいは」 えば、その圧倒的な剣威に芳次郎は驚嘆の念を禁じることが 芳次郎が頓着せず答えると、いよいよ榊原は相手に迫る。 できなかった。 ね」 はやと

2. 波 2016年8月号

明治八年十一一月のうちに、芳次郎は鹿児島再訪を遂げた。 それでも人の目ということはある。よかったといえば、私 たかつぐ 伴兼之、榊原政治を引率してきた伊藤孝継は、師走のうちに学校が城の界隈なこともよかった。 鶴岡に戻りたいということだったので、ちょうど人れ替わり 薩摩藩島津家の居城、いうところの「鶴丸城」も、もちろ だった。護衛というか、いくらか歳も上なので、柄でもないん廃城になっている。もう建物すらないというのは、明治六 が、平素は世話役の立場である。 年に火事で焼失していたからである。が、何かに転用される 伴と榊原の両名も、あっという間に鹿児島に溶けこんだが、のでなく、まったくの城跡というなら、それこそは結構だっ 芳次郎の場合をいえば、すでに前回の逗留で馴染んでいた。 た。人は少なくなりながら、なお方々に堤や築山、並木は残 いない間に私学校の生徒も増えて、なつの弟もそのひとりだ るので、意外なほど隠れやすいのだ。 ったが、できたばかりの頃にいた身としては、古株めいた思 みつけたのが、その桜並木が続く堀端の土手陰だった。人 いも抱かないではなかった。というのも、下手な薩摩隼人よ心地つけられるほどに、芳次郎となっは二人ながら腰を下ろ り勝手がわかる。 し、長話をするようにもなっていた。 なつのことも、やはり芳次郎がみつけた。 「まあ、確かにね。庄内でも秀でていたよ、伴殿と榊原殿は。 「ほら、いた」 土台が選ばれて来たわけだからね。鹿児島の私学校に人学し やはり私学校の石垣から覗いていて、そこを捕まえたときたいって希望者は、鶴岡にはごまんといたんだからね」 は、やはり怒ったような顔になった。 「どげんして決めたとですか」 「もう、ないごて、わかるとですか」 「玄蕃様が決めた」 芳次郎が構わず喋りかけると、なっは男らしくないとか、 「ああ、あの方。試験か何かされたとですか ? 」 鹿児島では考えられないとか、庄内でもこうではないはずだ「いや、ただ見たり、話したりだね。それで、今鹿児島にや とか、東京者だから軟派なのだとか、ずいぶんな悪態を返しるとすれば、伴と榊原ですねって決めて」 たが、そんなこんなで話が途切れることはなかった。 「そいで終わりですか」 「ほら、またいた」 「うん、それで終わり。庄内じゃあ、文句も出ない。玄蕃様 「じやから、芳次郎さん、ないごて、わかるとですか」 のことは、みんな知ってるからね。間違えることなんかない 何度か繰り返すうちに、普通に話せるようになった。私学って、絶対の信を置かれて : : : 」 訓校の近くに来れば、芳次郎が察するので、会おうとか、話そ 言葉が続かなかったのは、喉奥から出てくる塊があったか うとか、特に構えた約束が要らないこともよかった。 らだ。うっと短く呻いたきり、芳次郎は洩れ出る声を我慢し

3. 波 2016年8月号

桐野は左の中指と薬指がない。江戸で三人の刺客に襲われ、は気絶してしまったのか。いや、そうじゃない。とっさに目 そのとき相手の命を奪うかわりに飛ばされたと聞く。その分をつぶっただけだ。恐る恐る目を開けると、芳次郎から数歩 だけ握りは弱くなっているはずなのに、この荒々しく猛るよの彼方で、桐野は木刀を下ろしていた。 うな妻みときたら、なんなのだ。 「沖田殿、気が乱れちよる。今日は止めにせんね」 じげん けんこんいってき これぞ薩摩示現流という乾坤一擲の初太刀も、「人斬り半そう感じて、桐野は剣を振るわなかったらしい。発せられ 次郎」のそれは、相手の肩から臍まで斬り下げたと伝わるが、 たのは、乾坤一擲の気合いばかりだった。それに襲われ、芳 さもありなんと納得する。一口に示現流といってしまうが、 次郎は打ちのめされた。見抜かれた通り、気が乱れていた。 鹿児島に来てみると、別に「野太刀自顕流」もあると教えら注意が散漫になっていて、なにひとつできなかった。 れた。いっそうの豪剣と恐れられていたが、あるいは桐野が「申し訳ありません」 遣う剣は、こちらのほうなのかもしれなかった。 「こげんときじゃ。無理せんでよか」 それにしてもーー芳次郎は記憶も刺激された。どこかで、 「そうですか。では、失礼して、ちょっと厠に」 みたことがある。というより、似ている。真冬の鶴岡で対峙 した妻腕の剣客、あの男の剣に通じる風がある。天津から北 薄桃色が水面に渦の模様を浮かべる 9 鹿児島では桜の花が さかいげんば 京に向かう夜行でも、酒井玄蕃と一緒にまみえて・ 散り始める季節である。 ぶるると、芳次郎は身震いした。落ち着け。あの妻腕と似「新しく庄内から来られた御一一人、とても評判よかですね」 なかはら ているなら、太刀筋は読める。むしろ、読みやすい。だから芋けんびの袋を開きながら、中原なっは始めた。 といって容易に外せる剣撃ではなかろうが、動き出しさえ捕「銃もうまい、剣もできる、外国語も達者だ、まさに文武両 らえられれば、なんとかなる。その動き出しを、どう読むか。道の逸材じゃいうて、うちの弟もずいぶん騒いじよりもし ああ、そうだ。今このとき、なんとか桐野の剣撃を押し留めた」 るのは、こちらが発する気組みである。それを抜けば、刹那揚げ菓子をつまみながら、芳次郎も答える。 に木刀は振り落ちる。ならば抜くと同時に、こちらも身を翻「逸材じゃなくたって、今の伴殿と榊原殿なら張りきるよ」 す。かわすこと自体は造作もない : 「フランス留学が決まったとですもんね」 「やられた」 「鹿児島の人だって、まだ五人かしか行けてないのにね。庄 あれこれ思案している間に、やられた。そう芳次郎は確か内の者だから特別扱いだ、なんていわれてたまるかって、そ に感じた。脳天をしたたか打たれた。現に目の前が暗い。僕ういう気分もあるらしい」 かわや

4. 波 2016年8月号

狂熱の演出家、 遺訓 いつも最初は腹なんだ。清国にいたときも腹痛だった。東京でもないと知りながら、もう自分の内だけに秘めていること に帰ってきても、そのまま伏せって、だから鶴岡で養生に努はできなかった。誰彼となく明かせる話でなかったが、誰か めて、大分よくなったんだけど、また東京に呼び出されて。 に聞いてもらわないと、もう気が狂ってしまう気もした。 そうすると、また腹痛が始まって : : : 」 「毒殺されたんじゃないかな、玄蕃様は」 「食べ物ちいうこつですか」 「けど、毒殺なんて、誰が」 芳次郎は無言のまま頷いた。大きな目に臆した表情を映し「天津でも、北京でも、東京でも、玄蕃様、やたら接待され ながら、なっは続けた。 てたんだよね、政府の高官たちに」 「馴れない土地の食事がよくなかったと」 「じゃっどん、玄蕃さまは政府のために働いておられたので 「そういうわけじゃないと思う。ああ、馴れている、馴れてしよ。そげん役に立っ御人ば、どげんして : : : 」 いないは関係ない。だって玄蕃様、この鹿児島に来たときは、「最初から役に立てるつもりなんかなかった。そんなような なんでもなかったんだ。カステラとか、豚肉とか、庄内じゃ ことを玄蕃様も仰ってたけど、今になって納得するよ」 あ食べないものも食べたけど、ぜんぜん平気だった」 「しかし、殺す理由もなかでしよう」 「そうすると、どげんな食事が悪かですか」 「わからない。いや、なんとなくだけど、それもわかる気が 「食事というか、毒。こっそり食事に混ぜられていた毒」 するかな。殺す理由はあったというか、うん、とにかく殺す なつが息を呑むのがわかった。怯えさせて済まないとは思っもりはあったよ。そのこと、玄蕃様も気づかれていたと思 いながら、芳次郎は止められなかった。憑りついた疑念を、 う。だから、この僕のことも鹿児島に向かわせたんだ。毒殺、 こんなところで言葉にしても仕方がない。なんの解決になる刺殺、撲殺、絞殺、とにかく暗殺の魔手から守らなければな 役者がウケてんじゃねえ、オレがウケてんだ " " , つかこうへい正伝 唯一無ニの評伝。 u 5 『熱海殺人事件』が、『蒲田行進曲』が、 伝説の″つか芝居〃が今、蘇る ! ◎定価 ( 本体 3000 円 + 税 ) 0 藤ー男 ⑧新潮社

5. 波 2016年8月号

そうやって芳次郎がこだわるのは、韓国のことだった。一 たが、それでも自分の顔ばかりは手で押さえなければならな くろだきょたか かった。 月六日、全権弁理大臣黒田清隆は朝鮮に渡り、一一月一一十七日 「あいたたた、また涙だよ。おかしいね。男のくせに泣くなには日朝修好条規に調印した。開戦を回避して、和平に運ぶ んてね。薩摩隼人は泣かないよね。庄内の男だって泣かないと同時に、懸案となっていた国交を樹立、しかも治外法権を けど、僕は江戸の生まれで、つまりは東京者だから、やつば認めさせるなど有利な条約を結ぶことに成功して、壮挙と讃 える声があったことは事実である。 り軟弱なのかなあ。はは、ほんと、嫌になっちゃうよ」 「そげなこつは : : : 。酒井玄蕃さま、敵ながら素晴らしか方「でも、戦争にしないんだったら、鶴岡から呼び出すことは なかったんだ。東京で具合が悪くなって、それでも韓国だけ だったとは、鹿児島でも語られちょいもす」 「うん、あんな妻い人はいないね。ちょっと常人離れしてるじゃない、清国とも戦わなければならないかもしれないなん っていうか。一種の天才だっていうか。孔子とか孟子とかにて騒がれて、だから苦しいところを曲げて働き続けて、あげ くに玄蕃様は : : : 」 出てくる、大昔の支那の君子みたいな風もあってね。同じく おえっ らい妻い人がいるとすれば、あとはここの西郷南洲先生くら芳次郎の言葉を遮る嗚咽の波に、なつの声は優しく寄り添 うようだった。 いのものさ。それなのに : : : 」 「肺病いうとは、ほんのこっ恐ろしかものですね」 また芳次郎は涙に沈んだ。酒井玄蕃が死んでいた。 十二月から伊豆熱海で湯治に専念したが、体調は悪くなる「そうかなー ばかりだった。土地の医者に診せると、のつけから匙を投げ答えたとき、芳次郎の声は抑揚なく一変していた。 「玄蕃様、本当に肺病だったんだろうか」 られた。もっと詳しい医者に診せろと勧められ、もう一月に 「じゃっどん、芳次郎さん、前に肺病ちいうて : : : 」 は東京に戻ったが、そこで昏睡状態になった。 息を引きとったのが、明治九年二月五日のことだった。付「確かにいった。玄蕃様の肺病は、明治になる前からの持病 まつだいらごんじゅうろう かつやましげよし だった。疲れたり、体調を崩したり、体力がなくなったりす き添い続けた勝山重良、たまさか上京していた松平権十郎、 そして近衛兵、鎮台兵、あるいは巡査として在京していた多ると、必ず顔を覗かせる。それは、そうなんだ。死んだとき も、息が詰まって、呼吸が苦しくなったというよ。けど、誰 くの元庄内藩士らに見守られながらの臨終だった。 だって最期は呼吸が苦しくなるものじゃないか 鹿児島には、その東京から直接手紙で知らされた。 「玄蕃様、さぞや無念だったろうな。結局は報われなかった・「そいはそん通りですが、他に何かあったとですか」 「この一年、二年のことをいえば、うん、あったね。玄蕃様、 わけだからね。やつばり徒労に終わらされたわけだからね」

6. 波 2016年8月号

第八回 安 ーこれまでのあらすじ 明治七年。戉辰の役で「鬼玄蕃」と恐れられた酒井玄 蕃は、沖田総司の甥で天然理心流の使い手・芳次郎と共 に清国の河北地方を視察。清国と交渉中の大久保利通に 開戦を思い止まらせた。しかし、帰国後も静養ができな い玄蕃の体調は、悪化の一途をたどっていた 十五、試合 さかきばらまさはるやぎゅう しんしん むねのり 榊原政治は柳生流の剣を遣う。心信柳生流ーー柳生宗矩の 高弟、小泉三郎兵衛の末が庄内に伝えたもので、それを鶴岡 城下の道場で熱心に学んだのだ。それでも、だ。 「いたっ、いたた」 呻き声に乾いた音が重なった。カ一フランと鳴いたのは、地 面に弾んだ木刀だった。強烈な初太刀で籠手を捕らえ、榊原 に得物を落とさせたのは、鹿児島県士族の藤野久平だった。 「ははは、榊原さあ、こいは見事な無刀の構えでごわすな」 せきしゅうさい 出された「無刀の構え」というのは、流祖柳生石舟斎が達 したと伝えられる、剣技究極の境地である。流派の奥義まで 茶化されて、榊原は当然ながら悔しい。まだ痛む手の甲をさ すりながら、歯噛みする表情ばかりは高く上げる。 「まだ負けたわけじゃありませんよ。いえ、私は負けたが、 鶴岡県士族が負けたわけじゃない。さっきの試合では、うち ともかねゆき の伴兼之が勝ちました。一刀流だけど、勝ちました。庄内と 薩摩の戦いでは、まだ一対一です」 ふじのきゅうへい 92