では、善を代表する男の存在感がずっと大きくされ、悪の側かったのだろうか。なぜ、彼女は、悪を代表する男を圧倒的 の男と均衡するように変更されているのだ。 な中心にすえたのか。 このことは、キャスティングを見ただけでも明らかだ。 2 この連載の中で暗示してきた仮説は ) これは、時代精神の 003 年の『白い巨塔』の里見脩一一役は、江口洋介である。 無意識の影響の結果ではないか、というものである。日本の これ以前の映像作品では、この人物は、田村高廣、山本學、戦後のこの時期、何らかの理由によって、前回定義したよう 平田満といった、渋い脇役タイプの俳優によって演じられてな「男」を、善を体現する人物によって表現することは困難 きた。江口洋介のような、派手な俳優が演じる役ではない。 というより不可能 だったのだ。そもそも、戦後一貫 山本學は、 2003 年のドラマに関して、「役者の感情表現して、この国では男らしい男を造形することが難しかった。 や演出が大袈裟すぎる」という批判的な感想を述べているとそれでも、山崎がまさにそうしたように、あえて「男」を描 のことだが、彼が主に念頭においていたのは、自分自身も演けば、その男は、悪の方へとーーカントの悪の範疇をはみ出 じた里見脩二だったに違いない。善の男の存在感を高めたとしているような過剰な悪の方へとーーー大きく旋回してしまう。 いう点では、『華麗なる一族』の方がより徹底している。 2 このことを、山崎や、他の作家たちが意識しているわけでは 007 年のテレビドラマで、万俵大介の息子鉄平を演じたのない。だが、そうなってしまうのだ。これが仮説である。今 は、木村拓哉である。俳優起用が示しているように、このテ回は、山崎作品を少し離れ、つまり同時代の別の作家の文学 レビドラマ版は、主人公を変えてしまっている。 2 0 0 7 年作品を素材にして、この仮説を補強しておこう。 の『華麗なる一族』の主人公は、万俵大介ではなく万俵鉄平 であり、主演は、北大路欣也ではなく木村拓哉である。 もう一つのベストセラー小説 こうした変更は、幻世紀の脚本家や演出家には、悪を象徴三浦綾子の『氷点』は、いくつもの理由から、このような する「男」 ( だけ ) を中心に作品を構成することが難しいと考察の対象にふさわしい。この作品は、昭和 ( 感じられていたこと、幻世紀の視聴者は、善のヒーローが活年肥月から翌年Ⅱ月まで、つまり『白い巨塔』の週刊誌連載 躍するもっと標準的な展開を望んでいる ( と制作者は予想しとほぼ重なるかたちで、新聞に連載された。連載中から反響 崎ていた ) ことを意味しているだろう。それでは、どうして、 が大きく、単行本が大ベストセラーになった点でも、『白い 山崎豊子は、善の側に立つ人物の存在感をもっと大きくしな巨塔』と共通している。作者の三浦は、山崎豊子と同世代に
虐待事件の「元凶」を追って 石井光太『「鬼畜」の家わが子を殺す親たち』 福田ますみ 一向に減る気配のない幼児虐待。先ごろ 2 。 15 年度の児このうち嬰児 2 人を殺害した女。彼女は法廷で、殺した理由 童虐待の対応件数が万を超えたと発表されたばかりだ。本を問われてたどたどしくこう答える。 書は、まさに「鬼畜」の所業としか思われない 3 件の子殺し「なんとかなるって思っちゃってたんですけど、そうならな 事件を、オムニバス形式で取り上げている。 かったから、困って : : : でも、私が悪いって思います」 の一室で、 2014 年 5 月、神奈川県厚木市のア。ハート 足立区の夫婦は、 3 歳の次男を、しつけと称してウサギ用 さな男の子の白骨遺体が見つかった。男の子の名は齋藤理玖のケージに監禁した末に死亡させた。いまだに遺体が見つか 君。 5 歳半で亡くなった後、 7 年以上もこの部屋に遺棄されっていないが、夫婦の記憶は定かではない。夫は河口湖の湖 ていたのだ。 畔に埋めたと言い、妻は、死んだ飼い犬を捨てた荒川に次男 我が子を監禁して餓死させたとして、逮捕されたのは父親も捨てたとほのめかす。死なせた子はその程度の存在でしか である。妻の失踪後、ひとりで育てていたが、ライフ一フィンないのだ。 がすべて止まったゴミだらけの真っ暗い部屋に理玖君を閉じ しかし驚いたことに、 , 三つの事件の親たちは異ロ同音にこ 込め、次第にア。ハートに帰らなくなった。やせ衰え、歩くこ う言うのである。 ともできなくなった理玖君はそれでも、たまに父親が帰って「子供のことは愛していた」 くると「。ハハ 。ハ。ハーと喜び、小さな手で体に触れてきたと著者が取材を進めると、確かに子供が憎くて殺したわけで いうから、あまりに切ない。 はなさそうだ。彼らなりにうそ偽りなく発した言葉ではある 高校 2 年の時から年あまりの間に妊娠を 8 回も繰り返し、が、一般の感覚とは絶望的なまでにずれている。 ク彡 2 ー
属しているーー・厳密には二つ年上の大正Ⅱ年生まれだ。昭和目したいのは、『氷点』の内容である。その主題が、まさに 年に、朝日新聞は、自社の記念事業の一環として懸賞小説人間の善 / 悪なのだ。いやもっとはっきり言えば、『氷点』 を募集した。このときの人選作が『氷点』である。この時点に作者がこめた主題は、人間の普遍的な罪、原罪である。主 で三浦はすでに四十歳を超えていたが、まったく無名であっ題設定から直ちにわかるように、この作品はキリスト教の観 た。『氷点』は、だから三浦の事実上のデビュー作であり、 点から書かれている。登場人物たちは必ずしもクリスチャン かっ代表作でもある。このときの賞金が、一千万円と破格にではないが、作者はキリスト教の立場で書いている。 高かったこともあり、作品は公表前から話題になっていた。 『氷点』の筋は次の通りである。主人公の辻ロ啓造は医者で 『白い巨塔』は、連載中に社会的事件となり、財前を応援すある。ここでまた、われわれは『白い巨塔』との共通点を見 る側、患者を応援する側の両方から筋に介人するような要求るわけだ。ただし、辻ロは、権威ある大学病院に属している が出されたと述べたが、『氷点』の場合も似たようなことがわけではなく、旭川の病院の院長である。物語は、戦争が終 起きる。新聞連載の終盤に人ると、重要な登場人物の運命にわってから一年弱の頃、つまり昭和幻年 7 月から始まる。辻 ついて希望を訴える電報が新聞社に届いたらしい。 ロの妻夏枝は美しく、夫妻の間には、幼い二人の子がいる。 『氷点』は、映画にもなり、また今日に至るまで繰り返しテ五歳の徹と三歳のルリ子だ。この日、病院の若くハンサムな レビドラマ化されたという点でも、山崎作品と対比するにふ医師村井靖夫が、啓造が旅行中で不在の辻ロ家を訪ねてきた。 さわしい。ちなみに、映画版の『氷点』の監督は山本薩夫で、彼は、夏枝に好意をもっているのだ。夏枝も、自分が若い男 彼は田宮一一郎主演の映画『白い巨塔』の監督でもある。山本の恋の対象になっていることに心地よさを覚えている。二人 は、『氷点』を撮り、ほとんど間をおかずに『白い巨塔』をが中途半端な恋の駆け引きをしている間に、悲劇が起きる。 さいし 撮ったに違いない ( 公開は同じ昭和年 ) 。さらに、登場人母親から家の外で遊ぶように言われたルリ子が、佐石土雄と 物の「その後」を知りたいという強い読者の要望に屈するよいう日雇人夫に誘拐され、殺害されてしまったのだ ( 佐石は うなかたちで、続編が書かれた点でも、『氷点』と『白い巨留置所で自殺する ) 。 塔』は似ている。 辻ロ夫妻は悲嘆にくれた。と同時に、啓造は、夏枝と村井 このように、『氷点』は、昭和年代の山崎豊子の作品との関係を疑うようになる。ルリ子の死からまもない頃、夏枝 並べるに適したいくつもの条件を備えている。特にここで注が突然、ルリ子の代わりになる女の子を強く、執拗にねだる
Coming Soon photograph OWSOY/JussiVierimaa Tommi Kinnunen, Ⅳ e 〃″ en 廰 teys [ 2014 ] 北の国の人々の 秘められた情熱 トンミ・キンヌネン 『四人の交差点』 古市真由美訳 2016 年 9 月刊行予定 フィンランドで記録的ベストセラーとなった ある一家の三代にわたる物語。 古市真由美・文 text byFuruichi Mayumi 2016 年 10 月 来日予定 ! 百年ほど前のフィンランド北東部。マリアは、 ロシアとスウェーデンに挟まれて、そのどちら 村で最初の助産師として多くの赤子を取り上け、 とも違う言語を持ち、独自の文化を育んできた 自分の娘も女手ひとつで育て上げる強い女性だ。 フィンランドで、いま最も旬な作家のひとりだ。 そんな母とは違う生き方を望む娘ラハヤは、写 初めて本書を読んだとき、なんとフィンラン 真技師として自活しながら、母が持たなかった ド的な物語だろう、と思った。登場人物はみな、 ものを手に入れようともがく。歳月が流れ、ラ あふれるほどの心の痛みを抱えているのに、そ ハヤの息子の妻となったカーリナは、意固地な れを口には出そうとしない。鍵をかけた部屋に 姑に苦しめられる。一方、ラハヤの夫オンニが、 閉じこもるように、ひとり黙って耐えようとす 焦がれるように求めた幸せとは。三つの世代、 る。しかし秘められたその思いは、ときに激し 四人のたどる道が交錯するとぎ、その交差点に く燃え上がりもするのだ。彼らの深いむの傷も、 ひとつの物語が立ち現れる。 情熱も、物語の空気が温かく包み込んでいる。 本書は著者トンミ・キンヌネンのデビュー作 物語の中でひとつの家系が世代交替していく 百年のあいだに、馬車が自動車に替わり、大き だが、フィンランドでは発表直後から大きな反 響を呼び、ベストセラー・ランキングのトッフ。 な戦争が起き、冷蔵庫やテレビが家にやってく に躍り出て、のちに舞台化もされた。現在まで る。深い森に覆われた北国の歴史が、物語の背 に日本を含め十五か国に版権が売れ、海外での 景を川のように流れていく。時の流れの中、四 評価も高い。著者は十代の若者に国語 ( フィン 人がそれそれ部屋の奥に隠したものは一一 ドア ランド語 ) と文学を教える現役の教師でもある。 の向こうの眺めに、読者は息を呑むだろう。
は努力すればできますよ。しかし自分の敵を愛することい。殺された自分の子の代わりに、あえて敵の子を引き取っ は、努力だけじやできないんですね。努力だけでは : : : 」て育てる人物に、「そういうこともありそうだ」という真実 夏枝の父は内科の神様のようにいわれた学者で、そのの断片を与えることができなかったからである。山崎豊子の 人格も極めて円満な人であったから、ひどく悲しげな面側には、悪を体現する「男」がいた。三浦綾子の側には、善 : とはならなかった。ここには 持で語ったその言葉は啓造に強い印象を与えた。 を体現する「男」がいた : 津川教授は、辻ロと高木の恩師である。「内科の神様」と「男」そのものがいない。代わりに、三浦の方にあるのは、 呼ばれたこの教授は、「外科の神様」である財前五郎にちょ罪のない ( 悪くない ) 「女」、純粋に犠牲者であるような うど対応する人物であろう。辻ロ啓造は、この人物に感化さ「女」である。 れたのだ。ここで、こんなふうに想像してみたらどうだろう確認すれば、こうした結果から提起しておきたい仮説は次 のことだ。日本の戦後のこの時期、つまり昭和年代 か。もし、啓造が、 ( 妻と一緒に ) キリストのこの破格の命 令の文字通りの実現として、佐石の子を育てていたとしたら、 970 年代前半までの時期ーーに、「男」を造形すれば、そ どうだっただろうか。このとき、啓造は、そして彼をそのよれはどうしても悪の側で実体化するしかなかったのだ。それ うに導いた津川教授は、まさに善の側を代表する「男」としは、善や正義において「男」を表現することが不可能な時代 て造形されていただろう。財前が、悪を体現する「男」ならだった。 ば、啓造はーー津川教授と並んでーーー善を体現する「男」に なっていただろう。しかし、そうはならなかった。となれば、善の「男」の登場 啓造が尊敬する津川教授も、医者には、技術や知識よりも人しかし、山崎豊子は、 1970 年代の中盤に書いた長編小 徳が重要だといった趣旨のことを常々口にしていながら、た説で、つまり『華麗なる一族』の次の小説『不毛地帯』で、 だ有能な財前への嫉妬に悶え苦しんでいるだけの東教授とあついに善を代表するような「男」を造形する。彼の名は壹岐 まり変わらない水準にまで引き下げられてしまう。 正だ。『不毛地帯』は、 1973 年から年にかけて週刊誌 で連載された。前半の単行本は、連載完結前の 1976 年に、 結局、啓造も津川教授も「男」としては描かれなかった。 どうしてか。そんな人物には、リアリティがないからだ。そそして後半の単行本は、 1978 年に出版された。 壹岐正は、関西の大きな商社、近畿商事に勤める、商社マ んな人物を造形しようとしても、ほんとうらしさは出てこな
・スポーッカ かってスー。ハー 畠中恵さんの「しやばけ」シ 新聞紙上で 4 コマ漫画「サザッ 年う 伝載 ち ーに乗るということは、クルマ リーズは、本編は小説新潮に連 追 = さん」が初登場したのは、昭一 外掲 を載し、外伝的な短編は本誌でお 誕で和幻年 4 月日のこと。以来、ボマ好きなら誰もが憧れる輝かしい 行為でありながら、その実、あナ乍読みいただけます。心優しき若 生画長谷川町子は年もの間「サザ しイ だんなの一太郎はじめお馴染み る種の苦痛や忍耐をともなうもよ斤 工さん」を描きつづけた。今月イよ ん原 のだった。なにしろ、岩のよう の登場人物のみならず、物語中 号は連載開始 E 年を記念し、ほ一ア さを やの とんど公開されてこなかった原リ に重いクラッチやハンドルと格 をたまさか行き過ぎる人々の味 工跡 し望 画とともに、ユーモアあふれる。フ 闘しながら、まるで見切りの悪 わい深い横顔も「しやばけ」の ザ軌 世界を改めて読み解く。同じ作 いボディを見た目は優雅に操ら 魅力。夏号掲載の「一つ足りな サの 品なのに、なぜ原画が 3 枚もあ なければならなかったのだから。 い」は、猿の陰謀で窮地に陥っ そ るのか ? その理由も明らかに。 しかし、時代は変わった。最 た九州の河童の王・九千坊が、 号税 ・スポーッカーは、 単行本未収録の幻の「サザ工さ 東の河童の大親分・彌々子の元 円倒新のスー。ハー ら 円価 ん」も特別掲載 ! ちなみに連 へと向かいます。西の王と東の 」中「ンビ = に買い物に行くのに使夏 0 別売 載初期はサザ工さん日町子と混 1 本発えるくらいコンビニエントであ 6 引リ中親分、はたして平和裡に出会え カ 十 体男売 号税 同されたこともあったそうだが、 ると同時に、高級サルーンもか 1 本発るか。マ実は本作、冬号から続 長 くやというくらいに乗り心地も く競作企画「十年交差点」のひ 月淀中町子自身は内気でほとんど外出 快適なクルマとなっているのだ。ム とっとしてもご執筆いただきま 集 9 せず、友人づきあいも少なか 0 た。そんな町子の生涯も紹介。 今月の巻頭特集では、新型アョ した。今号は原田ひ香さんの 編 目日本初の女流漫画家として弱冠 ウディをはじめとする毎日ム 「君が忘れたとしても」も加え ・スポ 1 ッカー 卓新歳でデビ、ーを飾るまでの過 使えるスー。ハー 豪華一一本立て。そして『十年交 ョ ・スポーツ 程、 3 姉妹の協働作業、「いじ から、逆にスー。ハー 差点』は早くも八月末に、新潮 わるばあさん」や「エプロンお カー並の動力性能を持ったセダ 文庫 nex 二周年記念アンソロジ ばさん」への思いなど、創作の ンや > 、すなわちキャデラ ーとして発売されます。マほか ックØ—> やジャガーペ 裏側までもが見えてくる。 にも万城目学さんの不思議な神 イスまで、注目の " エプリディ・ 様スト 1 リー「当たり屋」や、 一 }----- 第 2 特集は安野モョコ。代表 作の原画大公開、作画に密着し スポーツ ! 〃なクルマたちを集 魔術的な幻想性が際立っ恒川光 たルポなどこちらも盛り沢山。 めた。その見どころを編集部員 太郎さん「母の肖像」など、夏 特にファンからの質問に答える とジャーナリストが対談・座談 号は読み切り作品がいつも以上 誌上トークショーは必読だ。 に充実しました。 会形式で分りやすく解説します。 ( 編集長・吉田晃子 ) ( 編集長・村上政 ) ( 編集長・西村博一 ) ENGINE 晉 yom yom 139
~ な . ャ二年 、「音楽する」小澤征爾 写真集『小澤征爾 Seiji OZAWA 』 小澤征爾写真・大窪道治 大江健三郎
当 : チイナ・メン 、 China Men Kingston, Maxine Hong 柴田元幸氏を先頭に、この国に新しい翻訳の時んな厄介なしごとをよくやりとおしたものだね。 代をもたらした方々がこぞって、その第一走者と若いといえば、もともと藤本和子は私の大学時 8 して藤本和子の名をあげている。彼女の最初の編代の劇団仲間だった。卒業後、渡米した彼女はエ 集者だった人間としては、うれしいのだけれども、 ール大学の演劇大学院でまなび、同校で知り合っ いささか情けない気がしないでもない。 たディヴィッド・グッドマン ( のちィリノイ大学 「最初の」というのは、一九七五年に品文社から教授 ) と結婚。来日して、ふたりで創刊した英文 でたリチャード・プローティガン『アメリカの鱒演劇誌『コンサーンド・シアター・ジャ。ハン』の 釣り』の、という意味だが、その後、何冊かの訳編集にたずさわる。 ま 書をへて、一九八三年に、やはり品文社からこの そのグッドマン氏に「いまアメリカの若い連中 作品を『アメリカの中国人』というタイトルでだはどんな本を読んでるの ? ーときいてみたことが ( と したころも、そこまでのことは考えていなかった。ある。そのときかれがあげたのが、カート・ヴォ いや、いまはちがうのですよ。三十数年ぶりにネガットの『スロータ 1 ハウス 5 』、イヴァン・ 藤本訳の『チャイナ・メン』を読み、うへえ、こ ィリッチの『脱学校の社会』、そして『アメリカ グ んなに途方もなくすばらしい作品だったのか、との鱒釣り』の三冊だったのだ。 キ あっけにとられた。情けない。なぜ、もっと早く たしか一九七三年だったと思うが、ヴォネガッ ) メ 気づいて、『アメリカの鱒釣り』並みに、ばんばトとイリッチの本はすでに他社が翻訳権をとり、 ン ン 太、」ん売る努力をしなか 0 たのだろう。 さいわい一点だけ残っていたプローティガンを晶 メ 下層労働者層の中国人移民 ( チャイナ・メン ) 文社でだすことになった。そのとき和子さんは翻 海 たちゃその幽霊たちの、おびただしい語り。それ訳者として小笠原豊樹氏の名をあげ、「新しい人 野 ャ材シ和 が織りなす爆発的な家族史・集団史ーー のほうがいい、きみやれよ」と私がいいはって、 チ「藤津 その混沌たる中国人の時空を作者が英語で苦心けつきよく、そういうことになった。 して書きあげた大作を質の高い日本語に移してゆ かくして私は「彼女の最初の編集者」になった 。作者とその両親をもまきこんだ集中的な作業のだが、いまやその和子さんが「新しい翻訳の時 のさまがあとがきにしるされている。大げさにい代の第一走者」とみなされている。その間にプロ えば、作中で語られる北米大陸横断鉄道の建設に ーティガンもヴォネガットもイリッチも世を去り、 動員されたチャイナ・メンさながらの過酷な労働私よりずっと若いグッドマンまでがいなくなった。 の日々。いかに若かったとはいえ、和子さん、こチャイナ・メン史のひとこまのごとし。 つの・かいたろう ( 編集者、作家 ) ・ 0 ・村よ彙 0 物
偉大な物理法則をもってしても、どの人間が あいだのバランスに気を使いすぎていると不 生きるべきか死ぬべきかを決めることはでき 安になったり、どちらかの人生のほうがいろ ません。ホロコーストは、その恐ろしい秩序 いろな出来事に溢れているような気がしたり を押し付けようとする試みだったと思いま しました。結局は、 < , ・・、過去 す。 現在というリズムを破ってもいいだろうと判 この作品は、ごく短い、数多くの章から成っ 断しました。僕はノートカードで章を色別に ていますね。章から章へ、ニ人の主人公の間、過 分けて、読者がどの視点で読むのかがわかる 去と現在の間を行き来するのは、どんな作業でし ようにして、しよっちゅう順番を変えていま した。 巨大なパズルに取り組むようなもので、楽 それに加えて、一九四四年と、そこにいナ しいと同時に、とてつもない忍耐が必要でし るまでの歳月のあいだでの行き来がありま た。大きな模型の家を作っているような気分す。僕なりに読者を導いていこうと手を尽く でしたね。百八十七の章があって、視点や時 しましたが、同時に、どの時代と場所が描か 代が次々に変わるわけですから。 れているのかは読者がわかってくれるだろう ときどき、マリー 日ロールとヴェルナーの と信頼する必要もありました。 photog 「 aph by Mitsuteru ー・ドーア機片ん訳 Anthony Doerr 1973 年、オハイオ州クリーヴランド生 まれ。 2 ( )( ) 2 年に短篇集『シェル・コレク () ・ヘンリー賞、バー ター』でデビュー ンス、 & ノーーフ。ノレ・ティスカノ気一 : 賞 ' 、ローーマ 賞等、数々の賞を受賞。 2010 年刊行の 二冊目の短集『メモリー・ウォール』は ストーリー賞を受賞した。現在、妻と 二人の息子ととにアイダホ州ポイシ に在住。『シ・エル・コレクター』および『メモ リー・ウォール』は、岩本正恵訳で新潮 クレスト・ブックスより刊行されている。 短い章には、物語を中断するという効果も あります。 < の物語をいったん止めて、の 物語に移っても、 << は読者の頭のなかでまだ 生きています。デイケンズから『ゲーム・オ 、、フ・スローンズ』まで、大長篇はそうやって 緊張感を作り上げていくんです。 章が長いよりも短いほうが、詩的な文章や 言語による実験をうまく取りこめそうですよね すきまがたくさんあると消化しやすくなる それはよかった ! 確かに分厚いですが、 空白も多いから読者には親切な本だと思いま す。次々にページをめくっていけるはすです。 僕の文章は濃密になりがちです。細部を積 み重ねていくのが大好きなんです。読者には、 登場人物の感情に入りこんでもらうよりも、 その人物の周囲にあるものを描写すること で、内面を直感的にわかってもらいたいんで す。それはなかなか厳しい要求だという自覚 はありますから、章を短くするのは僕なりの 親切心みたいなものです。読者にこう言って いるような感しです。「気持ちはわかるよ、 多くの読者にはちょっと叙情的すぎる文章だ けど、空白がいつばいあるから、そこで立ち 直れるでしよう」ってね。 Fi 「 st published on Powells. C0ョ・ A ℃ュ一 23-2014 http://www.powells.com/
ンである。山崎のこれまでの作品の流れの中に置けば、『華 麗なる一族』の万俵大介を、「善」へと変換すれば、壹岐正 になる、と言ってよいだろう。『華麗なる一族』で、船場の 関東の平均視聴率も % に近かった。また最終回の関西での視聴率 商家が、日本を代表する大資本に置き換えられた。が、その は、ほとんど % と非常に高かった。 2 三浦綾子『「氷点」を旅する』北海道新聞社、 2 0 04 年、頁。 代償は、主人公の「男」が悪に傾くことだった。『不毛地帯』 幻世紀になってからも、二回 ( 2 0 01 年、 2 0 0 6 年 ) 、テレビ で、彼女は、日本経済の中心にある大資本という条件を保つ ドラマになっている ( どちらもテレビ朝日系列 ) 。 たまま、今度は、「男」を善の側に取り戻したのである。 4 船越英一一等、出演者も一部重なっている。 結局、高木の告白から、陽子は、戦中に、辻ロ啓造と高木の学友だ 壹岐は、近畿商事で、次々と大きなプロジェクトにかかわ った男が人妻ーー彼女の夫は出征中だった との間につくった子であ り、それらに成功し、勝利する ( ときには小さな敗北を挟み ったことが判明する。陽子は不倫の関係から生まれたのだから、これも ながら ) 。近畿商事の拡大と発展のために。そしてそれ以上罪深いと言えばそう言えなくはないが、殺人犯の子ということに比べれ ば圧倒的にたいしたことはない。それでも、『続氷点』で陽子は、この に、日本の国益を思って。壹岐は、その能力と実績のゆえに、 ことにこだわり悩む。だが、この程度のことであったら、われわれは彼 短期間で昇進し、周囲から嫉妬される。しかし、彼は、財前女にこう言 0 てあげることができる。「君の両親が不倫の関係だ 0 たな のように、自分の出世だけを自己目的としているわけではなんてこと気にすることはないよ。君が悪いわけじゃないのだから。君は 君だよ」。しかし、もし陽子がほんとうに佐石の子だったとしたら、仮 い。壹岐は、近畿商事を拡大させるが、それは、万俵大介の に陽子に非がないとしても、われわれはこんなに気楽に陽子を元気づけ ように、己の私的野心を満たすためではない。壹岐正は、山ることはできまい。「君の実のお父さんが、君の両親の子を殺したなん てこと、気にすることないよ」とアド・ハイスしたら、あまりにも鈍感だ。 崎の作品に初めて登場した、真に善へと方向づけられた 6 前注にあるように、「殺人犯」と「任意の人」の間に、「不倫の男 「男」である。 女」が人る。いずれにせよ、このような一般化は、信仰抜きには納得し がたい。ところで、この場面で、このことを最初に言うのは、高木であ だが、どうして、これが可能だったのか。われわれは、 E る。これは、しかし、とんでもない言い逃れととられても仕方がない。 年代の前半まで、善において「男」を実現することを阻む構 高木は、友人が不倫してつくってしまった子を別の友人に育てさせるた 造的な障害があ 0 たのではないか、と述べてきた。間年代のめに、嘘をついた。その嘘は、周囲の人を十数年の間苦しめ、最後に 後半へと差し掛かるこの時期に、なぜ、山崎は、善の「男」は、その子の自殺の原因にな 0 た。このとき、高木は「この子は、結局、 生まれたこと自体を罪だと感じるような子だから、どうせ自殺すること 崎を造形することに成功しえたのだろうか。 になったんだよ」と言っているのだ。啓造が、「それもそうだな」と思 って、怒らないのがふしぎである。 ( つづく )