れた瞬間、リーダーの田宮が叫んだ。 な理念があるわけではない。北朝鮮で生活を始めたよど号の てのひら 「平壌じゃない。騙そうとしているー メン・ハーたちは、金日成という稀代の革命家の掌の上で踊る コックピットにいたサプリーダーの小西隆裕が外を見ると、以外になかった。 空港にはノースウエスト航空の z> マークをつけた米国機が待遇は悪くはなかった。朝鮮労働党は生活に必要なものを とまっている。そこはソウルの金浦空港だった。 すべて与え、専属の料理人や接待係までがついた。かって赤 「すぐに降りてきてください。私たちは日本帝国主義に反対軍派の塩見や田宮に賛同し、行動をともにしたこともあるジ たかざわこうじ する皆さんの到着を歓迎しています」 ャーナリストの高沢皓司の労作『宿命』 ( 新潮文庫 ) には、 あべきみひろ こうアナウンスし、色鮮やかなチマチョゴリ姿の若い女性メンバ ーの一人、安部公博が北朝鮮に渡った当初に語った話 たちが花束を抱えてタラップの下で出迎えている。タラップを次のように紹介している。 に横づけされたバスの運転手に田宮が「ここはソウルだな」 〈こんなことで懐柔されてたまるかとも考えていた。しかし、 たず と英語で尋ねると、答えは「イエス」だった。 そうしたわれわれも全員、背広を作ってもらったときは感激 そうして、よど号の人質たちは金浦空港で三日間足止めさした。一人ひとり寸法をはかってもらうとき、うれしくて皆、 やまむらしんじろう れてしまう。この間、運輸政務次官の山村新治郎が人質の身笑いをおさえきれないようだった。 代わりを買って出た。田宮たちはそれを受け人れた。身代わ「おい、背広かい。俺ははじめてやで」〉 りに人質となった山村は、よど号犯に拘束されたあと、田宮 北朝鮮では、主席の金日成がマルクス・レーニン主義を発 あが たちに「これで次の選挙はだいじようぶだ」とジョークを飛展させたという「主体思想」が金科玉条のように崇められて おとこ ばしたという。実際、「男山新」と異名をとり、死ぬまで国いる。よど号犯たちも主体思想に学び、従うことを義務づけ 民的な人気を得ることとなった。 られた。案の定、主体思想に傾倒していったようだ。 事件発生から四日目の四月三日、よど号犯たちは改めて北 生死すら不明だったよど号犯のメンバーの動向が初めて日 朝鮮に向けて飛び立った。 本に伝わったのは、事件からまる二年経過した七二年四月二 「金日成をオルグしてやる 十七日だった。金日成がや朝日新聞、共同通信の日本 資本主義を排除し、労働者や人民のための世界同時革命を人記者を招いて会見をした折、赤軍派のことに話がおよび、 謳い、北朝鮮を経てキューバに亡命する予定だったリーダー その四日後、記者とよど号犯の会見が実現したのである。 の田宮は、そう意気込んだ。田宮たちは武力闘争を目指し、 そして会見からほどなくよど号犯たちも金日成と会談した。 まず北朝鮮で軍事訓練を受けることを望んだという。しかし北朝鮮の首領はリーダーの田宮の肩に手を乗せて言った。 新左翼の活動家といっても、人生経験も少なく、真に思想的「君たちは〃金の卵だ〃」 だま チュチェ
暗黒事件史日本を変えた犯罪者たち 生や旅行者をかどわかし、北朝鮮に連れ出す工作を担ったのの実家に届いた。まさに命の手紙である。 その後の捜査により、森や黒田と石岡がいっしょにおさま だった。彼女たちの被害者の一人と目されるのが、神戸市出 身の有本恵子である。八三年、留学先のロンドンで消息が途っているスナップ写真をはじめ、拉致の痕跡が明るみになっ 絶えた彼女が、実は北朝鮮にいると判明したのは、八八年九た。金正日に小泉純一郎が日本人拉致を認めさせた二〇〇一一 年からさかのぼること十年以上前、すでに動かぬ証拠が存在 月のこと。それは一通の手紙がきっかけだった。 〈私と松木薫さん ( 京都外大大学院生 ) は、元気です。途中していたのである。 で合流した有本恵子君 ( 神一尸市出身 ) 供々、三人で助け合っ実は、くだんの手紙はよど号犯の田宮のもとにももたらさ て平壌市で暮らして居ります。事情あって、欧州に居た私達れている。 「今は騒がないでほしい」 は、こうして北朝鮮にて長期滞在するようになりました〉 田宮は取材で訪朝したジャーナリストの高沢皓司にそう伝 ( 原文ママ、一部抜粋 ) 手紙の差出人は石岡亨だ。八〇年にスペインのマドリッドえたと言い残し、九五年にこの世を去った。 よど号犯グループ、連合赤軍、日本赤軍と枝分かれした赤 で行方不明になった石岡は、田宮の妻、森順子や若林の妻で ある黒田佐喜子とバルセロナで出会い、松木といっしょに北軍派は、償いようのない大きな罪を残し、自滅していった。 朝鮮に連れ去られたと伝えられる。そこから有本といっしよその過激な新左翼運動の暗部が明るみになるにしたがい、左 に北朝鮮で幽閉されてきたに違いない。それを日本の家族に翼勢力全体が衰退していった。やがて本来あるべき市民運動 知らせるために手紙を書き、小さく折りたたんで常にポケツや労働争議まで下火になり、代わって狂信的な宗教集団や差 別を助長する極端なナショナリズムが出現する。 トに携帯し、北朝鮮にやって来る欧州の外国人に手渡すチャ ンスを窺ってきた。それが行方不明になって八年後に北海道 水一尸黄門天下の副編集長 「国史」編纂のため 光圀公は覚さん介さんど第一【 ′原稿取り立ての旅に出た ! 月村了衛 切りよ 「 ) " 一 ~ 一一四ホ判ハ十様ガバ年☆定価本体 1600 円十税 ( 敬称略、つづく ) 徳間書店 〒 1 05-8055 東京都港区芝大門 2-2-1 TEL.048-451-5960 ( 受注 ) http://www.tokuma.jp
らには日本赤軍の「テルアビブ空港の乱射」や「ハーグのフ準備集合罪の容疑で五十三人のメンバーが一斉摘発された。 ランス大使館占拠」 。赤軍派そのものも「よど号グルー そこで田宮はよど号をハイジャックするにあたり、自分た プ」「連合赤軍ー「日本赤軍」と分派し、「赤軍」と名のついちを何度ダウンしても立ち上がるボクサーになぞらえ、「明 たテロリスト集団が、世界を震撼させた。 日のジョ 1 」だと表現したわけである。当人たちは大まじめ その事件現場では、佐々をはじめ、その部下だった警備第だったに違いないが、世間を震え上がらせたハイジャック事 一課長代理の宇田川信一、後年代議士になった亀井静香たち件の重大性からすると、いかにもアンバランスな軽いノリだ。 が悪戦苦闘していた。のちに私自身、当時の捜査関係者の体よど号犯はこの日午前七時三十三分、七人の乗員と百二十 験を何度も取材することになる。タリバンや ( イスラム二人の乗客を人質に取り、機長に平壌へ向かうよう指示し 国 ) のテロに頭を抱えている現在と同じように、かって日本た。が、燃料が足りない。やむなく福岡空港で給油すること の赤軍は世界で最も先鋭的で大胆な過激派に数えられ、恐れになったが、機長は国交のない北朝鮮に向かう飛行ルートす られていたといえる。 ら知らなかった。そのため福岡空港で地図を差し人れてもら うと、それは中学生用学習地図のコピ 1 という有様だ。よど 一九七〇年一二月三十一日、羽田空港に集まった九人のメン号犯たちは北朝鮮政府への根回しもしていない。まさしく行 バーが、世界中にその名を轟かせた赤軍事件の幕を開けた。 き当たりばったりのハイジャックといえた。 〈最後に確認しよう。われわれは " 明日のジョー〃である〉 治安当局もまた、その対応はいかにもお粗末だった。二〇 羽田発福岡行きの日本航空のポーイング 7 2 7 機、通称〇一年にウサマ・ビンラディンの率いたアルカイダがハイジ 「よど号」に乗り込んだ際、リーダーの田宮がこう書いた手ャック機を使って世界貿易センタービルを破壊した九・一一 テロからさかのぼること三十一年前のことである。空港の金 ち記が話題になった。繰り返すまでもなく、劇画「あしたのジ もじ ヨー」の主人公を捩った漫画的な表現だが、反面、そこには属探知装置はおろか、搭乗者のボディチェックすらない時代 犯彼らなりの意義付けもあった。 だ。九人のよど号犯メンバーは悠々と日本刀や鉄。ハイプ爆弾 え折しも、″あこがれのプント〃と呼ばれていた共産主義者を機内に持ち込み、日航機を乗っ取った。 むろん政府もただ指をくわえていたわけではない。空港の 同盟の各派が、警察当局の摘発によって勢いを失いかけ、 日″たそがれのプント〃と揶揄されるようになっていた。新左偽装工作という奇策はその一つだった。だが、それは日韓米 件翼運動復活の期待を担って結成されたのが、赤軍派だった。 合作のあまりに下手な芝居だったというほかない。 黒その赤軍派も、結成から二カ月後の六九年十一月、山梨県の羽田を発ってから七時間半が経過した午後三時過ぎ、機体 大菩薩峠で軍事訓練している最中、爆発物取締法違反や凶器が朝鮮半島の空港に滑り込んだ。タラップが機体に横付けさ とどろ ピョンヤン
角幡ざっくりとした時間感覚なんです界の特殊性。そうしたところにずっと生角幡とにかく驚きの連続でした。最初 きていると、認識というのはきっと変化 は那覇で行方不明船の話をたくさん聞い よ、きっと。細部の記憶がない。決めつ していくんだろうなということがだんだ て驚いた。僕みたいに、海の世界にまっ けてはいけないですけど、だいたいこの ん分かってきた。それと、驚かされたの たく無知な人間にとって、漁師の世界観 時期にこれがあったとか、そういうくら に衝撃を受けました。本村さんの兄弟の が、行方不明になっている船の多さ。 いでいいんじゃないですか。 いずれもが海に関わって死んだり、傷つ 小野北朝鮮の話が出てくるじゃないで 小野僕の田舎にすごく腕のいい漁師が いたりもしていた。佐良浜に行ってもダ います。モジャコヒキと言って、おもにすか。ああいう話は九州でもよく聞く。 イナマイト漁や、沈船あさりの話にひき ハマチの養殖のための稚魚をとるんだけ宮崎県に島浦島という島があって、その ど、去年、稚魚が十五万匹死んだと言っ島の出身者から聞いた話ですが、「子取こまれた。こうしたひとつひとつをどう り船が来るぞ」と言われて育ったそうでやってまとめたらいいんだろうとずっと ていた。でも「なんとかなるだろう」く らいで、あっけらかんとしているんです。す。駄々をこねていると、北朝鮮の船が考えていたんですけれど、そうした間に もすごい話が次々と出てくる。とにかく 実際は、相当大変なはずですよ。そうい来てさらわれてしまうぞと。 取材をし続けていくしかない。 う、海に生きる人たちの独特な人生観は 小野連載分は書き溜めたんですか ? たしかにあると思う。それと、将来に対事実とは何か 角幡はい。北極に長期に行く予定もあ する展望もあまり感じない。あくまで現 りましたし。構成を決めたのは、連載の 小野こんなに多くのトピックを発見す 在時だけを生きているような。 スタート時ですかね。時間軸が三本あり ると最初から予想していたんですか。ま 角幡「海の民ってこういうんだよ」と 説明してくれる漁師なんて当然いるわけず、本村さんの漂流に興味を持って、彼ました。まず佐良浜の郷土史、そして本 の生まれ育った佐良浜に行く。その地で村さんの個人史、最後に僕が旅をした時 はない。ヒントをくれたのが、漁協のお ばちゃんたちだった。困るとよく伊良部強烈な印象を受け、歴史と風土みたいな 間軸。その三本をよじって、よじって一 ものを調べ始める。この集落で重要なの本にしなくてはいけない。それが難しか 鮪船主組合に行って、おばちゃんたちと った。 がカツォ漁とマグロ漁と分かり、漁師た しゃべりました。漁師の世界の特殊性み 小野角幡さんは筆力もありますが、構 たいなことを実に的を得た言い方でして ちの経験や本村さんの半生を織り交ぜな がら漁業史を書く。また、その前史とし成がすごくうまい。後半もびつくりした。 くれるんです。「三日たって見つからん て、戦前、戦後のダイナマイト漁なども本村さんたちを助けたフィリピン人漁師 ければ終わりー「陸は記録に残るけど、 ギニャレスも、実はそのちょっと前に一 海は記録に残らん」とか。過去がすべて調べている。こういう構成はどの段階で カ月近く漂流をしていた : 海の藻くずとなって消えてしまう海の世固まったんですか。
プに据えて幕僚団を組織し、佐々自身は東大紛争以来の腹心 そして一連の捜査で逮捕した連合赤軍メンバーの供述から、 である警視庁の宇田川を引き連れ、指揮にあたった。 驚くべき事実が浮かび上がる。それが″山岳キャンプ事件〃 せいさん あさま山荘事件では、クレーン車で吊った巨大な鉄球が山と呼ばれる妻惨極まりないリンチ殺人である。 荘の壁をぶち破り、放水とガス弾で犯人たちを追い詰めてい 山梨県の新倉山や群馬県の榛名山などを転々としながら武 そうかっ くシーンがテレビニュースで何度も流れたが、後日談を捜査装訓練をしてきたリーダーの森や永田は、「総括」と称した 幹部に聞くとこう話した。 メンバー批判を始めた。それが長時間の正座や殴打、果ては 「鉄球は一種のこけ脅しの目くらましのようなもの。大した リンチ殺人へとエスカレートしていく。メンバーの供述をも かしよら・ 効果は期待していなかったんです。なにより大事だったのは、とに、捜査員が榛名べースや迦葉べースなど、群馬県内の三 いかにして山荘近くまで接近して犯人たちの動きを探るか、 カ所のアジトで凍った土を掘り起こすと、十二体の遺体が出 そこが最も危険を伴う捜査でした」 てきた。遺体は頬がはれ上がって肋骨が折れ、男女の区別も 事実、放水車の陣頭指揮をとっていた警視庁の特科車両隊つかないほど無残な姿ばかりだった。山岳キャンプ事件の首 の高見繁光、偵察部隊だった第二機動隊長の内田尚孝が銃撃謀者の一人とされる永田は、総括のターゲットとして美人の されて落命し、隊員の大津高幸が散弾銃で撃たれて左目を失女性メンバーを選んだとも伝えられる。 明した。また山荘近くまで立ち人って犯人から頭部を撃たれ これほどまでの妻惨なリンチ殺人を犯してきた新左翼の過 て絶命した民間人も一名いる。 激派に対し、日本の社会は彼らを見放した。と同時に、祖国 圧倒的な戦力の違いがあるように見えた警察と連合赤軍とを捨て、新たに暴力革命の旗を掲げた日本赤軍が、。ハレスチ おとしい の攻防は、その実、要塞のようにそびえ立っ山荘を根城にしナゲリラと手を組んで世界を恐怖に陥れていった。 た敵陣を攻め落とすのに難航を極めた。おまけに佐々たちは、 こうし 長官の後藤田から人質の安全確保はもちろん、銃器の使用ま 一方、赤軍事件の嚆矢となったよど号の犯人たちは七七年 で制限された上、「立てこもり犯の生け捕り」を厳命されて以降、日本人拉致という最悪の作戦に与するようになる。朝 いた。後藤田は「生け捕り」について、犯人を射殺すれば、鮮労働党は「結婚作戦」の下、工作員が日本で活動する金日 活動家として神格化され、新たな過激派を生む土壌になりか成信奉者の「朝鮮文化研究会」や「主体思想研究会」の女性 ねない、と佐々たちを説得した。 メンバーをよど号犯の花嫁として選抜し、北朝鮮に呼び寄せ もりよりこ 攻防は二月十九日から二十八日まで十日間、多くの犠牲をる。森順子はリーダーの田宮と、黒田佐喜子はメン・ハーの若 ばやしもりあき 出しながら極寒の軽井沢で延々と続いた。最後は機動隊が突林盛亮と結婚させていった。 人し、メンバー五人全員の逮捕にこぎ着けたのである。 この「よど号犯の妻」たちが、欧州に出かけ、日本人留学 わか
で再生したのではありません。「ヘイトスピーチ解消法」なまっとうです。 どという、もっともらしい装いで復活したのでした。これぞ わたしは読売新聞の記者だったころ川崎支局在任中に在日 まさしく「悪いャッらは天使の顔して」です。 韓国・朝鮮人の指紋押捺拒否運動を取材したのがきっかけで 五月一一十四日、衆議院本会議で可決、成立したこの戦後最韓国に興味、関心をもち、韓国語を学び、韓国に留学し、今 大の悪法のことは、わたしとは主張を異にする歓迎論調、祝こうして日韓交渉の歴史を主要テーマに歴史小説を書いてい 福ムードで報道されていますので、ここではくわしく触れまる人間ですが、そういうわたしの三十年におよぶ日韓ウォッ せんし、触れている余裕もありませんが、せんじつめればへチングにかけて、彼らの主張は至極まともだと云いきること イトスピーチを解消するという美麗な名目をかかげて、そのができます。ですから、ヘイトスピーチと決めつけて彼らを 実、言論弾圧につながる大悪法です。言論弾圧とは杞憂では指弾するのではなく、その根源の主張にもっと目を向け、耳 ありません。すでに現実のものとなっています。この悪法がをかたむけていただきたい。 ヘイトスピーチっていやあねえと眉をしかめる人たちの多 施行されて最初の日曜日である六月五日、新聞・テレビの報 道によれば、川崎市でデモが中止になったそうです。同市はくは、とくに韓国に興味関心があるわけでもなく、何も知ろ 川崎区の公園二か所の使用不許可を決定しましたが、その拠うともせず、ただ目の前の事象のみ見て、眉をしかめ、それ り所となったものこそ「ヘイトスピーチ解消法」でした。どで自分は良心的な人間だと自己満足しているのです。なんと んなデモであれ、デモが中止に追い込まれるなど戦後の自由いうあさはかさ ! そういう人間のことを、昭和の名優天知 しげる 民主主義社会では絶対に、絶対に、ぜった 1 いに、あっては茂が名曲『昭和プルース』でこう皮肉っています。 ならないことです。それが何と、起きてしまった ! 「何も知らずに生きてゆくならそれはやさしいことだ けど この国には、彼らの主張が行政やマスコミにおよそ取りあ 喧嘩の「買い言葉」と忠臣蔵 儀 ヘイトスピーチをなくすことは、じつは簡単です。ヘイトげられないという、おそるべき不公平さがあるのです。この のスピーチと一方的に決めつけられている人たちの主張に公平不公平さの正体は、日韓ウォッチング三十年のわたしにも謎 に耳を傾ければいいのです。ヘイトスピーチそのものに、でです。韓国への遠慮、配慮でしようか ? はありませんよ。あれは、自分たちの主張が不公平にもとり みなさん、ご記憶でしようか、日本各地の神社仏閣に油が かけられたというニュースを。大々的に報道されましたが、 史あげられないので、せんかたなく過激な手段に訴えているだ けです。「在日特権を許さない」という彼らの主張は、至極犯人の出自が朝鮮半島がらみだとわかった途端、そのこと自 あまち
『昭和からの伝一 = 日刊行記念インタビュー ノスタルジ 1 郷愁のみでは語れない実感的昭和史 加藤廣 昭和というと、必ずノスタルジーとともに語られる風潮 従来の「昭和史もの」にすっと違和感を覚えてきたという になりました。活力に満ちていたとか、右肩上りを信じられ 著者に、本書執筆の背景について訊いた。 近年、日本の素晴らしさを讃えるテレビ番組が目立つよた時代が羨ましいとか。 加藤それは、たまたま起きた朝鮮戦争による特需があって、 うになりましたね。自画自賛というか。 加藤国力が相対的に低下しだすと、この国はそうなるんで日本が高度成長期を体験できた、その結果に過ぎません。当 す。何だか私の少年期と似たような気配。戦前ののピ時の日本人はひたすら無我夢中だった。それを後になってノ スタルジーめかして語られても、私にはどうもピンと来ない。 ークが、私が十歳の昭和十五年。日本が経済的に怪しくなっ それでも、戦前に加藤少年が過ごした高田馬場の風景は てから国民の間にこういう空気が満ちてきたかと思ったら、 郷愁をそそります。 アメリカ相手に大戦争 : ご母堂をママと呼んでいたら、近所の人たちが押し寄せ加藤高田馬場には農業用の大きな肥溜めがあってね。それ て来て、敵性語を使うなと申入れた話が印象に残っています。が酷く臭うわけですよ。だから地価も安かったんです。近所 の戸山ヶ原には広い空地があり、凧揚げをしてよく遊んだも 加藤だから戦後すぐ、ママと呼べるようになってホッと一 安心。だけど大学教育の現場が、一転して民主主義を叫んでのです。今からは想像もできないでしようが。 ご母堂が作中にしばしば登場されますね。 左翼思想に染まったことには閉ロしました。自分たちがそれ まで何を教えてきたかについては頬かむりして。「転向」と加藤私の母は東洋英和の出で、いわゆるモダンガール。家 いう言葉はもはや死語になりましたが、上の意向、当時はに、社会主義者やインド独立の闘志なんかをよく匿っていた ものです。母の旧友たちが集まって茶話会がしばしば開かれ、 ですが、それが変わったら民間も即転向する。こうした 私も分からないながら耳学問をしたものでした。満州事変勃 日本人の過剰適応というやつは、今も昔も変わりませんね。
よしだきんたろう よど号メンバーの九人のうち、吉田金太郎だけは今もって連合赤軍の五人が管理人夫人の牟田泰子を人質にとって立 消息不明だが、少なくとも他の八人はすでにこの時点で北朝てこもると、警察庁は長野県警軽井沢署に「連合赤軍軽井沢 鮮に取り込まれていた。そして日本人妻を娶り、日本人拉致事件警備本部」を置き、六百三十一一人の警備部隊を編成して 山荘を包囲した。そこから″警察史上最悪〃といわれる過激 工作まで担うのである。 派との死闘が繰り広げられた。 もともと彼らの動向が判明したのは、日本人記者団がその ちなみに、人質をとってあさま山荘に立てこもった坂口た 消息を金日成に尋ねたからだが、そこには前段があった。こち犯人の要求には、連合赤軍中央委員会委員長の森恒夫と副 の年の二月、「連合赤軍」を名乗る武装集団による「あさま委員長の永田洋子の釈放があったといわれる。二人はたまた 山荘事件」が起きている。よど号犯が生きているとすれば、 ま活動資金を調達するためにいったん下山したあと、事件の それをどのようにとらえるか。記者たちが、金日成との会見二日前の十七日、山岳キャンプに戻ろうとしたところ、身柄 で尋ねたのである。 を拘束されていた。このあさま山荘事件で、事実上、現場の 七一年末から七一一年初めにかけ、爆弾闘争を仕掛けてきた捜査指揮を執ったのが、前述の佐々である。 いさお 「赤軍派」と銃器攻撃を得意とする「京浜安保共闘」という「野中君 ( 注Ⅱ長野県警本部長の野中庸 ) はなあ、こういう 二つの極左グループが合流して連合赤軍が結成された。主導警備、やったことないでなあ。君、ちょっと軽井沢行って、 もりつねお ながたひろこ したのは、赤軍派の森恒夫と京浜安保共闘の永田洋子だ。 指揮してこいや」 その連合赤軍メンバー四人が七一一年一一月十九日、軽井沢駅警察庁長官だった後藤田正晴から直々に呼び出され、そう で逮捕された。それがあさま山荘事件の発端となる。 - 銀行や命じられた、とのちに佐々自身が語っている。このとき佐々 郵便局を襲う強盗や警察幹部宅を狙った爆弾テロを繰り返しは「警察庁警備局付警務局監察官」という日本の警察組織上、 ち てきた連合赤軍に対し、手を焼いてきた警察は、この頃群馬例のないポストについていた。行政の中でも都道府県の縦割 罪 県内の山岳アジトを見つけ出した。山狩りをしている最中、 り色の強い警察組織にあって、後藤田らが米国のを模 して地方の重大事件で捜査指揮をとらせるべく設置した肩書 え網に引っ掛かったのが、軽井沢駅の四人のメンバーだった。 オオカそんな肩書など現場には浸透していない。なに を色めき立った警察はさらに大規模な山狩りに乗り出し、軽どっこ。く、 井沢レイクニュ 1 タウンという別荘地域の「さっき山荘」でより課長級の警視正だった佐々にとって、長野県警本部長の 被坂口弘ら他の連合赤軍メンバー五人を発見。長野県警の機動野中は警視監という二階級も上の立場だ。さすがに野中を差 黒隊と銃撃戦になった末、逃げ込んだ先が河合楽器の保養所だし置いて指揮を執るわけにもいかない。そのため佐々の提案 こう ったあさま山荘だったのである。 で、野中と同格の警視監である警備局参事官の丸山昂をトッ めと