言う - みる会図書館


検索対象: 波 2016年10月号
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1. 波 2016年10月号

「これは、わたしにではないでしよう」 テープルの下に手を人れて取ろうとしているところに、彼女 「え、あなたによ ! さっきそこで買ったの」わたしは一階が戻ってきた。できれば直接渡したくはなかった。 の店、という意味で下を指さした。 「これ」わたしは持ち重りのする筒型の包みを手渡した。匂 彼女はうなずいたが、何も言わなかった。 いは強烈で、ザクロにもスグリにも似ていなかったし、そも 「じゃあ、誰にだと思うの ? 」しかたなくわたしは訊いた。 そもザクロとスグリがどんな匂いかなんて誰も知らない。開 「あなたは誰にだと思う ? 」 ける前からキャンドルなのが丸わかりだった。この世でいち 「あなたじゃないとしたら ? 」 ばん冴えないプレゼントだ。クリーはテープをはがし、用心 彼女はうなずくかわりにゆっくり目を閉じ、また開いた。 ぶかく匂いを嗅いだ。そしてラベルを読んだ。それから「あ わたしは熱々のジャガイモを持つみたいに、手の中でキャンりがとう」と言った。「どういたしまして」わたしは言った。 ドルを転がした。 いたたまれなかったけれど、もうどうしようもなかった。 「両親とか ? 」 わたしはアイロン部屋に閉じこもり、書かないとと思いな 「それはどうして ? 」 がらずっと先延ばしにしていた、リサイクルと人口過密と重 「さあ、何となく : : ただ、セラピーなんだから、そう答え油についての全職員あてのメールを書き、もうちょっとソフ るのが正解かなって思って」 トな言い方に直し、けつきよく全部を削除した。シャワーの 「キャンドルをあげるとしたら、どんな人 ? キャンドル、 音がした。クリーがシャワーを浴びている。わたしはジムに 炎、光 : : : 輝き : : : 」 電話をして、倉庫のほうのスタッフについて話し合った。 : 芯・ : ロウ : : : 大豆 : : : 」 「クリストフが・ハスケのゴールネットを設置してくれって陳 「誰かしら ? よく考えて」 情してきてるんだけど」と彼は言った。 「クリー ? 」 「その話、前にも出たけれど、結局だめってことになったの 「面白い。どうしてクリーだと田 5 う ? 」 よね」ジムがもっとゴールネットの件でねばってくれればい 「当たりなの ? クリーが ? 」 いと思った。そうすればわたしも負けずに反論して、議論が 続く。でも彼はあっさり引き下がった。うちの奥さんを待た 包み紙は破れていなかったので、そのまままたテープを留せてるから、そろそろ切るよ。 めておいた。クリーがトイレに行っているあいだに彼女の枕「そうだ、そういえばジーナは元気 ? 」 の上に置いたら、転がって床で大きな音をたてた。コーヒー いや、もう本当に切らなきや。 110

2. 波 2016年10月号

つらい、気詰まりな沈黙が流れた。わたしは彼と出会うた ということは、これは彼女の温もりだったのだ。わたしは びに感じる哀しみをうまく伝える言葉を探した。ポケットのレザーを指で押しながら、どこから話そうかと考えた。 中でメールが振動した。 「あなたがプロイヤード先生とやってる、あれ「ー何て呼べ ばいいのか」 チョット待ッテテネ。 〈キアステンが僕の前でストリップしてくれた。おつはいも 「役割 ? 大人のゲーム ? 」 ブッシーも全部見た。ああー・でも指一本触れなかった〉。 「そう、それ。それ、って、すごく変わったことだと思う ? 」 わたしの祝福はまだ効力を失っていなかったらしい。もちろ「″変わったこと〃の定義にもよります」 んそうに決まってる。もっと彼のことを信じてあげるべきだ「つまり、世間では一般的なことなの ? 」 った。わたしたちはずっといっしょだった、原始時代も、中「そうね、あなたが思っているよりはずっと普通のことよ」 世も、王と王妃だったときもーーーそして今回はこれだ。その わたしはこのあいだの出来事を話した。ミシェルの言った すべてが彼の発した「僕ら、どうして何度もめぐり会うんだ ことから始まって、キッチンの床の上にいたるまで、すべて ろう」という問いへの答えだった。彼はまだわたしと終わっを。 ていなかったし、わたしもまだ彼と終わっていなかった。個「そしてヒステリ 1 球、なんとまだ消えたままなの ! 外か 別のディテールは , ーー、このメールしかりーーー単に世界からのらじやわからないかもしれないけれど」 , ーーわたしは首を突 謎かけにすぎなかった。答えへのヒント。クベルコのほうにき出し、音をたてて唾を飲みこんでみせたーー「飲みこむの 向き直ると、妊婦はもういなくなっていた。 もずっと楽。みんなあなたのおかげよ、ルースアン」わた しはバッグの中から箱を出した。 ソフアには前の患者の体温がまだ残っていた。ル—ス日ア こういうとき、中を見るより先にありがとうと言う人がい ンは血色がよく、顔つきも晴れやかだった。 る。感謝されたことへの感謝だ。でもルースアンはちがっ 「いい治療だった ? ーとわたしは訊いた。 た。彼女は腕時計にちらりと目をやりながら、事務的な手つ 「え ? 」 きで包みを開けた。中身はソイ・キャンドルだった。よくあ 「なんだかうれしそうな顔をしてるから」 る小さなのじゃなく、円筒形のガラスに人っていて、木の蓋 男 がついているやつだった。 悪「ああ」とルース日アンは言って、少し表情を引きしめた。 初「さっきまで昼休みだったので、ちょっと昼寝をしていたの。 「ザクロとスグリの香り」とわたしは言った。 調子はどうです ? 」 彼女は匂いを嗅ぎもせずに、キャンドルをわたしに返した。 セッション 109

3. 波 2016年10月号

最初の悪い男 アイロン部屋を出ると、日が暮れかかっていた。彼女はソ唾を吐いた。 フアの端に、股を大きく広げて座っていた。濡れた髪を後ろ「それに関しては、わたしも " 同じ舟の上〃よ」言った瞬間、 になでつけ、首からタオルをかけて、まさにボクサーといっ頭の中に小さなポートに乗っているわたしたちの絵が浮かん ど。暗くて広い大海原に彼女とわたし、オトコ好きのポート た感じだった。顔の前で両手を組み、眉間にしわを寄せ、目オ はまっすぐ前を見ている。テレビは消えていた。わたしを待に乗って。 「あたしはそんな生易しいもんじゃないの」片方の膝を無意 っていたのだ。 居間のアームチェアにちゃんと座ったことはほとんどなか識にゆすっていた。「たぶんあたし、″ミソジニスト〃ってや つだから」 った。なんだか落ちつかないからだ。 この言葉がこんなふうに、性的志向の一つのように使われ 話し合いの席についたわたしを迎えるように、彼女が頭を るのを初めて聞いた。 がくんと落とし、喉の奥で痰を鳴らすような音をたてた。 「もし嫌だったら、もうやめる」彼女はそう言って、漠然と 「もしかしたらあんたに : : : 」ーー彼女は一一一一口葉を探した 遠くに目をやった。最初わたしは話のことだと思った。もし 「誤解させちゃったかもしんないんだけど」 そう言って、その言葉を知っているかというように、わた嫌なら話をやめるという意味だと。でもちがった。 「あなたはどうなの ? ーわたしは訊いた。 しのほうを見た。わたしは黙ってうなずいた。 「え ? 」 「プレゼントはうれしいんだけど、でもあたしは、ほら : 「やめたい ? 」 オトコが好きだからー彼女はしやがれた咳を一つすると、コ ーヒーテープルの上に置いてあったペプシの空き瓶の一つに彼女はどうだっていいというように肩をすくめた。そのし O ショップ店員がこそこそ集まって、 い音楽を教えあっているらしい C D ショップ店員がつくる音楽サイト 全日本 CD ショップ店員組合 www.cdshop-kumiai.jp 111

4. 波 2016年10月号

吸いこんでから、彼は言った。「先週、お宅のゴミバケツを高く突きだしていた。 出しておきました」 「カタッムリが要るんです」彼は話題を変えようとして言っ 「ありがとうーわたしは笑った。「すごく助かるわ」嘘じゃ た。「庭用に。アフリカ産のやっ , ーー土を掘り返してくれる なくそう言えた。本当に助かったのだ。「できれば毎週お願から」 いしたいくらい」 ノックの音が聞こえなかったとすれば、それはクリーが大 「そうしたいんですけど」彼が小声で言った。「僕、ふだん声でわたしに罵詈雑言を浴びせていたからだ。 は火曜日には来ないんで」それからわたしの顔を気づかわし「べつに何も危険なことはないのよ。あなたが思っているよ げに見た。「ゴミの日は水曜。でも僕が来るのは木曜でしょ うなことじや全然ないの」 う。あの、もし何か危険な目にあってるんなら、言ってくだ「はい、わかってます。あの人はあなたの : : : とにかくそれ さい。僕が守ります」 はあなたのプライベートだから」 何かよくないことが起こりつつある。あるいは、もう起こ 「ちがうちがう、プライベートとかそういうのじゃなくて ってしまったのか。わたしは芝生の葉を一枚ちぎった。 「どうして先週は火曜日に来たの ? 」 彼は特殊な靴で芝生に穴をあけながら、急いで遠ざかりは 「いつもは第三木曜日だけれど、今月だけ火曜日に来てもいじめた。 いかって、前に訊きましたよね。覚えてます ? 」彼は下を向「ゲームなのよ ! 」わたしは追いかけながら必死に言った。 いた。顔が赤かった。 「健康法なの ! カウンセラーにも通ってるし」彼は聞こえ 「そうね、思い出した」 ないそぶりで庭を見まわした。 「トイレを借りたかったんです。人る前に裏のドアをノック「四、五匹いればじゅうぶんなんで ! 」彼が叫び返した。 したけど返事がなくて。でもいいんです、あなたのプライベ 「七匹買う。ううん一ダース。もひとつおまけで十一二匹 ートなことなんだから」 それでどう ? 」彼は小走りに家の横にまわりこみ、歩道に出 火曜日。火曜日、わたしたちは何をしただろう ? 何もした。「百匹 ! 」わたしは叫んだ。でも彼はもう行ってしまっ 男なかったかも。何も見られていないかも。 悪「カタッムリ」とリックが言った。 初火曜日の朝。彼女がわたしを床にねじ伏せたときだ。わた しは何とかのがれようと、うずくまった姿勢のままデカ尻を ( つづく ) Copy 「 ight ◎ 20 一 5 Miranda July と一「 ights reserved 117

5. 波 2016年10月号

的なところからの問いかけというものが、両作品に共通してルができるなんて思ってもみませんでした。「風と木の詩」 あるのでしよう。私は大体、メッセージ性が強すぎて嫌われのような物語は二度と描かないと決めて表明もしていたので、 てます ( 笑 ) 。伝えたいことが強いほど描くことに熱心にな周りも全く要求しませんでしたしね。 れる。だからポテンシャルがありすぎると、短編の読み切り 今回、表紙のためにジルペールを描き下ろしてください では収まりきらない。マンガとしての完成度はともかく、物足ました。先生にとってジルペールはどんな存在ですか ? りなさが残ります。やつばり短編は得意じゃないですね ( 笑 ) 。竹宮ジルべールって、絵に描こうとするとちゃんと現われ 少女マンガの変革を求め常に先頭を走ってこられて、こてくれない不思議なキャラクターなんです。気まぐれで危う の年で少女マンガは、実際、変わったでしようか ? さを持っ少年ですし、いつも同じ顔は見せてくれません。彼 竹宮私はこうなってほしいという形があって変えようと思は別の世界に実際に生きていて、それを私が写し取っている、 ったわけではなくて、とにかく変革が必要だというふうに考という感覚なんです。だから描けたり描けなかったりする。 えていただけ。普通は認められないようなことを描きたい。 一方で「地球へ : ・」のジョミーやソルジャー・プルーたちは だから、私が描きたいことを描くⅡ変革になるわけです。 私が自分でつくったキャラクターで、不安定なところが全く 竹宮先生はの祖、とよく言われてしまいます ない。だからいつでも描きやすいんです。 竹宮そう言われてしまうのはもう仕方がなくて、逃れられ ジルべール、ちゃんと美しく現われてくれましたー ない部分だとは思います。自分の描いた作品から、とい竹宮そうですね。表紙となると、いろいろと責任重かった るうものが : : : おそらく必要があって育って行ったものだろう、です ( 笑 ) 。 ( たけみや・けいこマンガ家 ) なと思っています。その成長には付き合っていないので、その 竹宮惠子原田マハ石田美紀寺山偏陸さいとうちほ勝谷誠彦 後のことはわかりませんが ( 笑 ) 。そもそもそういうジャン 『竹宮惠子力レイドスコープ』 ( とんぼの本 ) 602269 ー 2 発売中 熱 に 描 い 強 い た え 伝 株式会社本の雑誌社 頭のよさそうな本を、 手にとっては挫折してきた。 WEB 本の報誌 いい本に出会おう。 いい本を読もう。 www.webdoku.jp

6. 波 2016年10月号

キリスト教は縁の遠い洋服だった。しかし、それを脱ぐこと たりから私が築いてきたものが、『侍』で固まってきたと思 はせず、どうにかして自分の身に合った和服に変えようとしっています。逆に言うと、『侍』の欠点は考えが固まったこ てきた人生でした。それが私の運命です。でも、こんなこと とです。「読め」なんて言っておいて、欠点をあげるのもお って、みなさんの人生にもあるのではないでしようか ? かしいけどね ( 会場笑 ) 。『侍』は自分が今日まで生きて、考 『侍』で強虫と弱虫を追いかけるように書いていくと、史実えてきたことの総決算、総結集の作品ですが、何と言うか、 も実際そうなのですが、強虫と弱虫が互いにオー ーラップ自分の考えが出来あがったのが不満なんですよ。 していったのです。富士山に西から登る人と北から登る人が だから、次の小説では自分自身へガタガタと揺さぶりをか いて、頂き近くになって初めて互いの顔が見えてきて、声をけてみたいのです。『沈黙』から『侍』まで、お前が築いた 掛け合う。目指す頂きが同じだということも分ってくる。そという信念は本物なのかどうか、揺さぶってみたい。 うやって強虫と弱虫が出合う接点が『侍』の最終章に向けて そこでは、私のような小説家が出て来て、ふとした不安に 出てきます。 かられて、 トーマス・マンの『ヴェニスに死す』の小説家の 書く前は、強虫と弱虫の区別があったけど、強虫の弱い部ようにおちていくでしよう。おちていっても、なお今日まで 分、弱虫の強い部分が私に分かってきました。これは傲慢なかかって彼が考えてきたことは彼自身を支えていけるのか、 言い方かもしれませんが、人間というのは誰しも変わりがなという小説を書いてみたい。書かなくちゃいけない。 いんだ、という気が今はしているんです。 ご承知のように、私は清潔ムードで売っている作家で ( 会 最終章で、強虫が死ぬ前に弱虫のことを思い浮かべながら、場笑 ) 、あまり男女のことを書いてきませんでした。『侍』で 「同じところで会うことが出来る」という意味の言葉を呟きも『沈黙』でも女性はほとんど出てきません。でも、今度は ます。これは、私にとって、とても重大な言葉なのです。読肉欲のことも書きたいのです。「不潔な本 ! 」とか「これ以 んで頂けたら嬉しいです。 上、読みたくない」とか言われて、壁に放り投げられるよう 「遠藤は『読め、読め』と言いすぎる」って、友達が言うんな小説になるかもしれない。まあ、不潔ってことはないだろ ですよ。「お前は、そんなに自信がないのか、読まれて困るうな、人格が立派な男が書くのだから ( 会場笑 ) 。ともあれ、 ものを書いているのか」などと反論するのですが、正直に言今そんな小説を考えています。また五年くらいかかるでしょ うと、私にも読んで貰いたくない作品はあるんです。でも一う ( 注・この構想は『スキャンダル』〈年〉として結実した ) 。強い 生懸命書いて、訴えたいことがある作品は読んで貰いたいの揺さぶりをかけても自分を支えられるのなら、今日まで考え です。『侍』はそんな小説です。 てきたことが本物だと思えるのでしようか。まず、これまで もう、次の小説も準備しているんですよ。『沈黙』の前あの私の総決算として『侍』を読んでみて下さい。

7. 波 2016年10月号

カー物 八月八日 てくるのだが、私がふと、ロがすつばく ずっとそのことばかり考え続けていると、 なって、耳にタコができるんやったら、 私は何か頼み事をされても、緊急じゃ 何歳になっても考える習慣がぬけないみ たいだ。 それで酢だこができるのではないか、と ないと判断したら全くやらない。なので、 ダンナのトムちゃんは、何度も同じこと トムちゃんに言うと、「それ今考えた オリンピック選手も、ふとした瞬間に、 を言わねばならない。それも、「ロがすん ? ようできた漫才のネタやん」とほ練習した光景がよみがえるんだろうなあ つばくなるまで言うてることやけどお」 めてくれた。ダンナは漫才作家をやって と思う。体が宙に浮いているときの体育 とか、「耳にタコができてるかもしれん いたので、今でもギャグを考えつくと嬉館の天井とか、ポ 1 ルがこちらにやって けどお」と、こちらに気をつかいつつ、 しいらしい。私は短大で染め物をやって くる感じとか、その選手しか知らない光 私に頼む。トムちゃんは体が不自由なの いて毎月作品の課題に追われていたせい景を、例えば横断歩道を歩いているとき で私に頼むしかないのはわかっているが、 か、それから四十年ぐらい経とうという に、頭の中でチラッと思ったりするんじ のに、作品のアイデアを思いついて「こ ゃないだろうか。そして、こうすればい 本の整理や、タンスの中をひっかきまわ して何かを探すといったことは、時間が れいけると思ったりする。今は染め物けるんじゃないかなとか、もう現役引退 かかり過ぎるので、後でね、と言ってそ とは全然関係のない仕事をしているので、 しているのに思いついたりするのかもし のままになってしまう。それでもトムち何の得にもならないのだけど、思いつい れない。私が死ぬとき、すごいドラマの ゃんは、諦めることなく同じ頼み事をし たときは、ちょっと嬉しい。ある時期、 アイデアが浮かんでしまったらどうしょ う。アインシュタインが死ぬとき、何か 題字・絵言ったらしいが、側にいた人がその国の 大西洋人ではなかったので、何を言ったかわか らずじまいだったらしい。 八月十二日 小説「カゲロボ」を、小説新潮に連載 するという話をすっかり忘れていた。締 め切りは今月の末だ。四十枚という約束

8. 波 2016年10月号

な主題になったのです。強虫にはもちろん敬意を払いますが、も殺されると怯えたからです。このへん、踏み絵をつきつけ 私は強虫になれないだけに、弱虫への共感をずっと持ち続けられて「足をかけないと殺すぞ」と脅されて踏んだ江戸時代 ました。そして、なぜ強虫は強くなれたのか、弱虫は生まれの日本人と同じでしょ ? ベトロはまだマシな方で、他の連 持った性格的なものなのか、そんなことを考え続けてきた。 中は蜘蛛の子を散らすように逃げて行きました。 その結果、『イエスの生涯』 ( 年 / 新潮文庫 ) と『キリストの 私にとって『聖書』のいちばん面白いポイントは、こうし 誕生』 ( 衵年 / 新潮文庫 ) を書くことになったんです。読者にた弱虫の弟子たちがまた集まってきて、自分が裏切ったイエ とってキリスト教は縁が遠いし、ア 1 メンものは売れないのスという人のことを喋って、教えを広め、結局は迫害されて ですよ。でも、自分の課題だから書かずにはおられなかった。死んでいく、というところなのです。つまり、弱虫が強虫に もう少し詳しく言うと、それまで私でも『聖書』は何千回なっていった。なぜ、そうなれたのか ? そこが気になった と読んできました。でも何千回読んでも、いつも自分とは縁ので、私は『イエスの生涯』と『キリストの誕生』を書いた が遠いなと感じる部分がたくさんあったのです。 のです。あんなの、新潮社はよく出してくれたと思いますよ。 それが『沈黙』を書いた後くらいから、ふと、私と同じよもっとも、出すたびに講演させられましたけどね ( 会場笑 ) 。 うな人間ーー弱虫ーー。が『聖書』の主人公だという視点で読 そうやって〈強虫と弱虫〉という主題を、私は大事に持っ み返してみようと思い立った。勉強もし始めました。、すると、て、育ててきました。いろいろ見ていくと、強虫というのは 『聖書』が〈どうやって弱虫が強虫になれたか〉を書いた本確かに強いのですが、他人を傷つけるのです。他人を傷つけ として捉えられるようになったんです。 ても信念を曲げないためならやむをえない、というところが ご存じのように、『聖書』では、イエスという男がいて、 ある。その結果、自分が苦しまないでいるかというと、すご いろんな弟子がついてくるけど、最後は十字架にかけられてく苦しんでいる強虫もいる。 死にます。仮にイエスは強虫としましよう。弟子たちは弱虫 一方、弱虫は周囲を傷つけたくないのです。傷つけたくな です。イエスの言っていることをさつばり理解しないで、たいから弱いのだ、とも言える。 だ人間的な魅力に惹かれてついてくる弟子もおれば、社会的長患いの女房を持っ男がいた、としましよう。幸か不幸か、 に何かいいことがあるんじゃないかと思ってついてきた弟子私の女房はピンピンしているけどさ ( 会場笑 ) 。お笑いにな もいる。彼らは全員、イエスが捕まると、慌てて姿を隠そうるけど、強い女房を持って、こっちが弱虫だと悲劇的ですよ とします。イエスの最初の弟子で、まあ弟子の中でリーダー ( 会場笑 ) 。 的存在だったベトロなどは、鶏が鳴く前に三度も「イエスな長患いの女房がいて、外にも行けず、毎日のように「死に んか知りません」と言った。イエスの弟子とバレたら、自分たい」と訴えてくる。夫も、可哀そうで仕方がない。とうと

9. 波 2016年10月号

が、枕ほどの大きさの袋を開けるとそれは砂糖だったという。 とは、やはりいつだって堪えきれないほど可笑しいのだ。 そう言えば東日本大震災の時、私はみつともないほどうろ「砂糖はうどん粉の何倍もの価値がある。でも親父はそれを たえた。東京にも風に乗って放射能がやってくる。いますぐ売らないんだよ ! 欲がない。だから俺たち兄弟は、毎日茶 ここから逃げなければ大変なことになる。恐ろしい話ばかり封筒に砂糖を人れて学校へ持っていって舐めてたね。俺だっ がワイヤーのように私の体に食い込んだ。この苦しさから逃たらすぐ売りに行って、何倍もの金にしたのに。見つかった げられるなら、東京を捨てることもやむを得ないと思った。 ら捕まっちゃうけどさ」 父に相談すると、「なんとかなるよ。まだ住むところもあ なるほど。目の前に座る爺は、茶封筒から砂糖を舐めて生 るし」と言われたのを覚えている。なにをのんびりしているき伸びたというわけか。子ども姿の父がペろペろ砂糖を舐め んだと腹が立ったが、いま思えば沼津の一件に比べればたいる姿を想像する。笑えない話なのに笑える。なにもかも不謹 したことはないと思ったのだろう。沼津から東京へ戻ったら、慎で、どうしたらいいかわからない。 本郷の家も焼けてなくなっていたらしい。震災後の私はそん「ねえ、戦争のあとはひどい不景気だったと思うけど、回復 なことも知らず、正しい方向もわからずに、見知らぬ誰かのしたなって体感できたのはいっ頃だった ? 」 あとを着いて逃げようとしていたわけだが。 「そうね、朝鮮戦争が始まってからだね」 なんとも後味の悪い話だ。戦争の痛手から立ち直る起爆剤 「終戦」と私が言うと、「敗戦」と父が言い直す。 は、次の戦争だったのか。 「敗戦の翌日からいきなり『これが自由です。そして自由に 「しばらくは貧乏だったねえ。親父は戦後でも二億ぐらい持 は義務がついてきます』なんて言われて面喰ったねえ。もうってたはずなんだよ。戦争が始まるまえにおじいちゃんの商 ちょっと大人だったら、もっと混乱したと思う。教科書の売の権利を売った金が五億ぐらいあって : : : 」 『鬼畜米英』の文字をおふくろが墨で消してさ。ほら、情報「は ? 」 親開示なんて言いながらマジックで真っ黒になった書類をニュ 「あ、ごめん。五万だ」 カースで見たことあるだろう ? あんな感じ。日本人は大人し「でしようね」 「それで池袋の闇市がさあ」 皿いんだよな、どっから見たって変なことでも議論にならない」 戦後は食べるものも十分になく、お腹を空かせた伯父たち話がだいぶ横道に逸れてきた。 きは米軍の手伝いをしていた祖父に食べ物をもらってくるよう「その話は、また次にね」 詰め寄った。祖父は米軍からうどん粉を横流ししてもらった 私は父に礼を言い、伝票を手に席を立った。 ( つづく )

10. 波 2016年10月号

「花びらめくり』 ( 新潮文庫 ) 自著解説 私の仕事はセックスを書くことです 花房観音 「よくもまあ、それだけずっとセックスのことばかり考えてともよくある。作家と言っても、官能小説を書いていると、 いられるなって感心するわ」 あちこちで風当りがキッいし、セクハラも受ける。しかも、 私の Tw e 「を見ている男の友人に、呆れたようにそう言もう四十も半ばの、もうすぐ閉経するんじゃないかというよ われた。 うな女が。いっから私はこんなになってしまったのだろう。 別の男性には、「あなたの書くものを読んでいると、本当に けれど考えてみれば、自分は変わらない。小学生の頃、少 セックスで頭がいつばいなんだなと思います」とも言われた。年漫画をきっかけに性に興味を持つようになった。ネットの 小説家になりたくて、いろんな新人賞に応募し、たまたまない時代、漫画もだが、小説でもセックスを匂わせるものを 官能小説の賞を受賞して、思いがけず官能小説を書くように好んで読んでいた。中学生の頃は、図書館にある日本文学の なって、セックスのことを、いやらしいことを考えるのが仕名作といわれるものを読んでいて、「学校で一番、本を読む 事になったから : : : と、自分にも他人にも言い訳をしている子」として、全校生徒の前でスピーチをさせられた。「文学 が、私も、毎日、これだけセックスセックス言ったり書いた少女」だと感心されていたが、要するにスケベで、活字の中に りできるものだと、ふと我に返ると頭がおかしいんじゃない性的なものを探すことに貪欲だっただけだ。文学と呼ばれる かと思うし、ときに自分でも自分が気持ち悪い。男性経験が小説は、私にとってはエロ本みたいなものであったのだから。 なかった二十代初めの頃から、アダルトビデオやエロ本を買 い集めていたし、未だに部屋はそんなものだらけだ。 本書は、近代文学を代表する文豪たちの名作を元に、私の 「恥ずかしくないの ? 」と、他人から呆れられたり、得体の妄想をくわえて現代が舞台の官能小説にしたものである。 知れないものを見るかのように怖がられたり、嘲笑されるこ「文豪官能」と名付けて、様々な媒体に書いたものがこうし - 房観音 をびらめくり