いえば、「異国船の出没がしきりになってからは江戸に出張即刻ご一読を。 を命じられて、そのまま在勤」し、江戸湾防備の任務を負う シークレットブーツ作戦 浦賀奉行所詰とされていたからなのでした。 。ヘリー来航から、明治新政府が樹立されて江戸が東京とな翌嘉永七年、幕府はアメリカと日米和親条約を結んで鎖国 るまでの、いわゆる幕末は疾風怒濤の時代です。わずか十五を脱し、わが日本は国際社会にデビューして近代の幕開けと 年間ですが、登場人物は多く、事件も目白押し。幕末もののなるわけですが、今にいたるまでアメリカと因縁あさからぬ 小説は西郷隆盛、高杉晋作、坂本龍馬らの志士や、幕臣の勝間柄であるのは周知のとおり。日本国憲法がアメリカ製であ 海舟、榎本武揚、あるいは新選組ら大物、セレプが主人公にるなど、その強い影響下にあります。それ以前、つまり古代 なるのが普通ですから、裏方である通訳を主人公とした『黒から近世までの長いス。ハンで日本に最も影響を与えた国とい えば、これはもう異論の余地なく中国でしよう。 船』は異色といっていいでしよう。 では、そのつぎは ? でも考えてみれば、幕末をあくまでも開国へのプロセスと いう面のみから照射すると、通訳は裏方どころか立派な主役韓国もしくは朝鮮だーーーと回答なさったあなた、プー、残 です。彼らがいなければ諸外国とコミュニケーションがとれ念ながら不正解です ! そう答えた人は二つに分類できます。一つは、筋金人りの ないのですから。そうした意味で『黒船』は、従来の志士も のや新選組ものの幕末小説に食傷した向きに、新鮮でかっ知親韓派で、韓国・朝鮮の歴史ならまかせておけ、というタイ プです。この手の人たちには、どうか視野狭窄におちいるこ 的な面白さをあたえてくれる傑作だとわたしは思います。 それでも「通訳が主役ではなあ。地味なんだろ ? 」とお思となく、広く世界史をも学んで、日韓交渉史を相対化する柔 いの方もいらっしゃいましよう。ご安心ください。堀達之助軟な歴史眼を養うよう努めましようね、と老婆心ながら申し 儀の生涯は有為転変、地味どころか波乱万丈で、飽きることがあげておきます。いま一つは、韓国・朝鮮にさほど関心がな 、韓国・朝鮮史の本も読んだことないんだけど、ただ何と のありません。その証拠といってはなんですが、さきほど引用 なくそう思った、という人たちです。なぜそう思ったかとい 小した達之助の述懐は、驚くなかれ、こう続くんです。 「そのような自分が、褌まではずされた裸体で屈辱的な仕打えば、そう思わされているから。 ちょっとでも歴史を学べば、韓国・朝鮮と日本は隣国であ 史ちをうけたのが情なく、悲しかった」 いかなる悲運が彼を見舞ったのか ? 興味を抱かれた方は、りながら昔から「近くて遠い国」だったということがわかり
ます。なぜ遠いかといえば、歴史的に韓国・朝鮮は中華帝国に日本を圧倒していた」とか、よく耳にしますよね。なぜで を中心とする華夷システム、べつの言葉だと冊封体制なるもしようか ? 韓国に関心がない人たちの無知につけこみ、そ のに属し、日本は属していなかったからです。うーんとひらう思わせたい勢力が、わが国でずーっと幅をきかせてきたか たくいえば韓国・朝鮮はずっと中華帝国の属国で、歴代の新らです。これは一種の情報操作であり、わたしは個人的に韓 羅王、高麗王、李氏朝鮮王は中華皇帝の臣下、家来だったの国シークレットプーツ作戦と名づけています。 に対し、日本はそうではなかったということ。 虚飾は、それが虚飾とわかった瞬間、侮蔑がめばえますか 「とはいっても古代は、朝鮮半島から文明がやってきたのでら、百害あって一利なし。シークレットプーツは、はいては は ? 」とお思いのあなた もとい、そう思わされているあならず、はかせてもならず、はかせられてもなりません。国 なた、そんなあなたには、時事通信のソウル特派員をつとめと国の友好は、さげすみも、おもねりも排し、等身大の実像 た室谷克実さんの名著『日韓がタブーにする半島の歴史』を見つめ合うに如かず、です。 ( 新潮新書 ) を是非ご一読なさるようお薦めします。歴史観、 古文という教科は国語にカテゴライズされていますが、あ 歴史認識というものが、どれほど史料をねじまげてご都合主れは立派な歴史教育だと思います。わたしたちは「こ・き・ 義的に捏造されやすいものかを知ることができます。 く・くる・くれ・こよ」だの「あり、をり、はべり、いまそ 早い話、韓国には古典がないのですよ。だがら「古文」と かり」だのを学び、「花の色はうつりにけりないたづらに」 いう教科もない。古典はその国の文化的資産で、文化的コンだの「春はあけぼの」「行く川の流れは絶えずして、しかも、 テンツで、文化の・ハロメータです。古典のない韓国が、日本もとの水にあらず」「いづれの御時にか、女御、更衣あまた に文化的影響を与えるなど、お日さまが西から昇ったとしてさぶらひたまひける中に」「つれづれなるままに、日暮らし、 もありえないことです。もう、ただそれだけの話です。韓国硯に向かひて」などと暗誦することで、ある意味リアルな歴 史上には紀貫之、清少納言、紫式部、鴨長明、吉田兼好らに史に触れ、歴史観、歴史感覚、歴史認識を養っているのです。 さんか 相当する人物がおらず、『山家集』のような歌集もなく、『十歴史をファンタジックなものに堕さしめない歯止めにもなっ ざよい 六夜日記』みたいな日記紀行文学もなく、『平家物語』ふうています。韓国にそんな国民的古典はありません。これこそ の軍記もない。世阿弥もおらず、西鶴、近松もいない。まさ が日本人と韓国人の決定的な違いです。韓国人の歴史観、歴 に「文化ないないづくし」の国が韓国です。それなのに「日史感覚、歴史認識がいきおい「ましかば、まし」的な反実仮 本は武の国、韓国は文の国」とか「近世以前、韓国は文化的想の色合いを深めるのは、ここに原因があるのですね。 さくう
過激思想に染まった青年たちのテロが続発する頓挫状態に陥ったことから、米国外交の影響力が ヒ機見なか、欧米世界において反イスラ 1 ム感情が拡が低下するなか世界最大のイスラーム国インドネシ アの民主化は、米国にとって、イスラームと民主 イ変危画りつつあります。イスラームとどう向き合うかが ムのな企 司われる時代に、私は国際交流基金ジャカルタ日主義の両立の成功事例として注目に値するので 国た金尸 一大新流本文化セ一ター所長として、本年一一一月まで四年半す。 一フムす交 かたや中国の習近平国家主席は二〇一三年、初 際インドネシアに駐在し、世界最大のイスラーム人 口を抱えるこの国で進行中の巨大な変化を目の当の東南アジア歴訪の皮切りとしてジャカルタを訪 ス一ら ラオ 問しました。滞在中、習氏は中国明代の墸名な航 イスも巾 5 たりにしてきました。 すなわち、どちらかといえば、従来はさほど戒海家、鄭和の大航海について熱く語りました。 のイ 鄭和。十五世紀、明の最盛期に永楽帝の命によ アア躍律にこだわらな」「ゆる」イ = ラーム」として知 、東南アジア、インド、中近東、アフリカ東岸 まで大航海した航海家は、雲南出身のイスラ 1 ム 識が鋭敏化する「イスラーム化」現象が大きなう 、ネ ねりをみせており、政治・経済・社会・文化に影教徒だったのです。鄭和が生きた時代は、東南ア ジアにおいてイスラーム化が進んだ時期であり、 響を及ぼしつつあります。 ンイ 「イスラーム化」のインドネシアに、米国、中国そのイスラーム布教において、華人も一定の役割 を果たしてきたと語る研究者もいます。 イ も注目し戦略的な一手を打って来ていることは、 習氏が鄭和の大航海に言及したのは、インドネ 両国首脳発言からもうかがい知ることができます。 シアのイスラームへのメッセージだったのでしょ 二〇一〇年、ジャカルタにやってきた米国オバ う。習氏はこの発言とあわせて、有力イスラーム マ大統領は、経済大国であると同時に世界最大級 目 の民主主義国、多民族国家であるインドネシアの指導者を中国に招くことを明言しました。習主席 注 重要性を説きました。独裁制から民主化した経験のジャカルタ訪問にあわせてイスラームにアピー は東南アジア地域において重要であり、腐敗撲滅ルする中国の文化外交が展開されたのです。 さらば日本はどうインドネシアと向きあうのか。 や人権擁護に闘うインドネシア市民社会を米国は 支援していくとオ。ハマ氏は語りました。 日本にとって最も身近なイスラーム大国の変貌、 そのプラス・マイナス様々な諸相を、あるがまま インドネシアの民主化は、中東世界の民主化を 推し進める米国の世界戦略にとって、重要な意味に理解していただきたい。それが筆者のささやか 9 をもつものです。「アラブの春」による民主化が な願いです。 ていわ
裏方が主役になる疾風怒濤の時代 席通詞として幕府の高官とペリーとの会談の席で通弁を果 嘉永六年六月三日 ( 一八五三年七月八日 ) 、。ヘリー艦隊が浦 し、その功績によって褒美まで下賜されている。ペリーの 賀にやってきました。旗艦サスケハナ号に乗りこんでファー 再来航には、主席通詞を大通詞森山栄之助にゆずりはした つうじ スト・コンタクトをとったのは浦賀奉行所所属の与力と通詞 ものの、条約文や双方で交換される覚書、書簡の訳文作成 も担当した。多くの通詞たちの中でオランダ語の理解力で の二人。与力の中島三郎助は、十六年後の明治一一年五月、五 稜郭で新政府軍を対手に奮戦し、息子たちと壮烈な戦死を遂は屈指と評され、英語についても会話力は森山栄之助らに げたことでも知られますが、吉村昭さんが長編『黒船』 ( 中公及ばぬとはいえ、英文の和訳、さらに日本文の英訳につい 文庫 ) の主人公にえらんだのは通詞の堀達之助のほうでした。 ては高い評価をうけ、自信もいだいている。 堀達之助、そは何者ぞ ? 作中、吉村さんが達之助自身に こう述懐させていますので、まずはそれを引用しましよう。 オランダ通詞とは、これも『黒船』から引用すれば、「長 崎にいてオフンダ商館との間の通訳、オランダ書の和訳と日 オランダ通詞の名門である中山家に生れ、堀家の養嗣子本文のオランダ訳を仕事としていた」とあって、では長崎を となって通詞の階級もあがり、ペリー艦隊の初来航には主活躍の場とする達之助がどうして三浦半島の浦賀にいたかと 歴史の極意・小説の奧儀 ー近くの韓国より遠くのオランダ 荒山徹
令に逆らうのは古か、こだわる意味はなかちいうても、捨て河野の脅すような声に問われれば、ないと後ずさりする者 てしもたわけではなか。ただ家に置いてあるだけじゃ。賛同はいなかった。 の声が続けば、芳次郎もよしと拳を握る思いだった。 二十、事件 「しかし、南洲先生は私学校におられるわけではありもはん。 御宅におられっともかぎらず、そいどころか一所にジッとし ウィリアム・ウィリスは、鹿児島県に雇われているイギリ ていてはくいやれん」 ス人の医師である。そのウィリスに西郷は聞かされた。 「おいどんらが、ついて回ればよか」 欧州でロシアの動きが活発になっている。キリスト教徒弾 「問題は別じゃ。護衛がつくなんちこっ、恐らく南洲先生は圧の阻止を名目に、イスラム教を奉じるトルコに南下する素 喜ばれん」 ぶりがある。 「きっと止めろち申されもすな」 列強がこぞって干渉し、ロシアの野望を阻むかと思いきや、 「こっそり、お守りすればいいんです」 そうなる様子でもない。オーストリアは自らのポスニア・ヘ と、芳次郎はいって出た。自分から喋るほうではなかった ルツェゴビナ占領を容認させ、そのかわりに中立を守る見通 が、今度ばかりは黙っていられなかった。これこそは酒井玄しだ。イスタンプールとエジプトの保全を条件に、イギリス 蕃の遺志だと思うからだ。鹿児島に行けというのは、つまりまでが黙認の構えを示しそうだという。 は西郷南洲を守れということなのだ。 露土戦争は、もはや開戦前夜である。それがウィリス医師 「というより、こっそりやるしかありませんよ。私学校で公が加えた寸評でもあった。 然と護衛隊なんか作るわけにはいきませんよ」 事件である。まさに由々しき事態で、遠い西方の話では片 「篠原先生や村田先生は、許してはくれんじやろか」 づけられない。 「仮に許してくれもしたら、そいはそいで問題じゃ。なにか西で攻勢に出られるのは、東、つまりはアジアが楽になっ あれば、私学校が責めを負うこつになる。次第によっては、 たからだ。韓国、清国は、もとより相手ではない。問題は他 政府に懲罰の名分を与えるこつにもなる」 でもない、日本なのだ。千島・樺太交換条約を結んで、その 河野がいえば、芳次郎も言葉を足す。 実力行使に備える必要がなくなったのだ。 「刺客が来たなら、それを斬らなければならないわけだから アジアの余裕で、ロシアは欧州を攻める。西で得られたも ね。私学校として、政府の人間は殺せない。けど、私人としのがあれば、その新たな力で再び東を攻めるだろう。千島・ て葬るなら、ただ僕らが人殺しの罪に問われるだけだ」 樺太交換条約を結んだからといって、日本は安穏としていら 「おはんらに、その覚悟があっとかち聞いとると」 れない。それでロシアの脅威がすぎたと考えるべきではない。
「じやから、おはんら : : : 」 「阿呆抜かせ、じゃっで、そげんなったら : : : 」 「篠原さあまで、なんじゃ。奸臣を討ち、もって民の疾苦を「おいどんらが起っ」と、西郷は宣した。「外敵に術もない 救う。そいが丈夫の本意じゃなかとね」 政府じゃったら、そいこそ二、三の大臣の首を飛ばせば、い 「そいでも、時機はみらんとなりもはん」 つでん倒すことができもす。時機が来たら、迷わずやりもそ。 西郷は自分も口を開くことにした。私学校の幹部たちは、 じゃっどん、おいどんらは、そのまま外国と戦うのでごわす。 こん鹿児島で鍛えちよるは、そんためではごわはんか」 その声を耳にすると、一斉に鎮まった。 「奸臣を討つのはよか。有司専制は確かに倒されるべきでご 一同は声もなかった。異論反論は出てこない。しかし、皆 わんそ。じゃっどん、そいが天子さまのためにならん、民草が釈然とした顔でもない。「しかし」と言葉を始めたのは、 のためにならんでは、やる意味がなか」 篠原国幹だった。 「天子さまのため、民草のために時機をみる。その時機いう「しかし、私学校の者はどげんしもそ」 ち、今なのではなかとですか」 「そいじゃ。若い者は長くは待ちもさん」 桐野が確かめれば、やはり別府、辺見と続く。 思い出したように、桐野も続けた。西郷とて聞いていない 「肥後中国のこと、すでに平定されたちいいますが、なお地わけではなかった。 方の民情は憤々たるものがありもす」 「鹿児島では砥ぎ屋が儲かっちよるらしいな 「また近く変動は起きもす。必ず起きもす」 簟笥の奥から刀を取り出し、若い士族が集まっていた。熊 「そん通りじゃ」と、西郷も受けた。「じゃっで、急がんで本、秋月、萩と反乱が続き、鹿児島にも賊が来襲しないとは よかいうちよる。逆に急いで、徒に兵を減らすことはなか」 限らない、警備のための武器だと唱えて、さらに銃器刀剣を 「先生、そいは : : : 」 買い求め、あるいは倉から引き出しては修繕し、それらを公 「新八さあ、今こげんな状況で、列強いずれか、例えばロシ然と担いで、街中を闊歩しているというのだ。 アでん攻めてくれば、日本はどげんなるち思うと」 鹿児島県庁を襲う、熊本鎮台の兵器を奪う、西郷大将は有 「そいは一巻の終わりでごわそう」 志輩を率いて上京する、等々の流言も飛び交うと聞く。 「じやろうな。今の政府に列強と戦う能も気概も何もなか」 「暴発もありうべきでごわす」 桐野、別府、辺見は吠えるようにして嘆く。 「じゃっで、篠原、おはんと新八さあで、私学校は押さえて 「やつばりじゃ。血税徴集の兵隊では、皇国を守ることかなくれんね。おいは鹿児島には帰らん」と、西郷は話を結んだ。 いもはん」 「日本は植民地になるしかなかとですか」 「担ぐ神輿がないちなれば、祭りにはならんでごわそ」 みこし ( つづく ) 102
保阪御召列車といっても、種類がある須田町にあった交通博物館時代に、車両鉄にはこうした細かい資料というのが残 っているんですか。 の中に人ったことがあります。 んでしよう ? 天皇が乗る列車のことを 保阪明治時代の列車ですと、たとえば原残っていますね。 指すんですか ? 保阪公開されているんですか ? 時速どのくらいだったのでしようね。 原時代によって変わりますが、天皇・ 皇后・皇太后が乗る列車で、皇太子を含原表定速度 ( 走行距離を時間で割った編集部もちろん全部が公開されている わけではないと思います。調査をしてい 値 ) 三十キロぐらいでしようか。明治二 める場合もありました。 十四年の大津事件の際、明治天皇は事件て感じたのは、天皇は個人として日本で 保阪車両は日本製ですか ? 一番記録されている人なのでは、という 原明治初期は日本製ではなくて、車両の翌日急遽列車を仕立てて京都に行くん ことですね。資料を探しに行くと、必 はイギリス製、機関士もイギリス人、 ですけど、朝六時半に新橋を出発して、 ず何らかの新しい資料が出てくる印象で 運行の基本となるダイヤグラムもお雇い夜九時十五分には京都に着いています。 外国人が引いていました。日清戦争の頃新橋—京都間十四時間四十五分。表定速す。 から、国産の機関車が製造され、ダイ度は三十五キロぐらいです。その程度の原そうですね。行幸があるとその県と スピ 1 ドでした。 か郡とか市が奉迎記録を作ります。もち ャグラムも日本人が引くようになりまし こ 0 ろん鉄道の記録だけではありませんが、 保阪ロシアのニコライ皇太子はどこか かなり詳細です。写真もあります。 保阪なるほど。明治三十年代に当時皇に入院していましたつけ。 保阪御料車の中はどんな内装だったの 太子だった大正天皇が全国をまわります原京都の宿泊先に戻ります。 ね。あの時も御召列車に乗ったのです保阪明治天皇はそこに駆けつけたわけでしようね。ソファーがあり、寝台もあ ったのかな。 ですね。 旅原必ずしも御召列車ではなくて、一般原基本的には明るいうちにしか御召列原休憩室はあっても寝室はありません でした。さきほども言いましたが、御召 車は走りませんから、いかに異常事態だ 皇の乗客が乗る列車にも乗りました。 ったかがわかりますね。この時期は途中列車は、夜、走りませんから。 保阪御召列車の車両は現在でもどこか た 保阪厨房はあるんでしよう ? で一泊するのが普通でした。 なに保存されているんですか ? に 原はい。たいていの御料車には大膳室 原大宮の鉄道博物館には歴代の御料車 洋風好みたった昭和天皇 が付いていました。食堂の付いた御料車 蝴 ( 天皇・皇后・皇太后が乗車する車両 ) もありましたが、食堂車として製造され 保阪年表のひとつひとつの列車に駅の 貌が展示されています。九州鉄道がドイツ から輸人した 2 号御料車には、東京神田発車と到着時刻が人っていますけど、国た 9 号御料車を除けば、それほど広くは
最初の悪い男 っ 体で つえ ノ を の な こ っし めケ ル愛確け の 灰てた 体かたるそ た がは ひ ト スかた なな 。のん 。ノ と い こ つ い り かか硬 ヒ も な イ の る と た ル め じ く イ本 と レ リ ス よわ っ い 、自 アかけ わ た た に ノ や て の い そ分座リ わ、な たび か 。ぎほ と リ つで ら 今く 願 う っウた、い た か し ク ) 世て の球 だま け ム し、 ! い つし し て 界 膝イ や部が 、の 。で て の、 い 自 の同床 そ気く分消ど だ た の フ ツ 上ニた分中 じ にえ 、ん のが し に イ て神去余 離 週 だ のツむ こ 目 リ にナ つ 中 月寸 い つ韻れ の を ッろ カゝ ク に ツ 床 ~ い わ なて がてがば を タ う の へ 洛 フ 。愛てを か 、向み消 と な ル た つ 、見 マアを つ人く き るえれ し , し . ア見 愛 ・彼 つ つよ た と れに 、タ 、たを 重ア ポは て う 、ばな め ち の 選評を受賞者インタビュー い注た く ンわ いナ は は いに つ て 頭 、ぎだ 彼 ま デた 、てなれま 金井美恵子 / 円城塔 る 愛 つまた余 こ ろ 女ほ 楽 を ヲ イ し で 何 のかしたで闘韻 がむう 滝ロ悠生 / 宮本輝 こ コ の 。人 祝 、あ相 い に 手ノ 出 に い のわ福 に 腕ワ る手そ 勤比容いわ う がの 第 24 回萩原朔太郎賞発表 つ時ち の女たを こ を う タ た べれ ィヨ受賞作】 3 ず 抱 と 見ーがし待 しかだ震 にる物 シ 一日和聡子 。「砂文長 で 舞 ぐ毎 プ 精 り意 っ生だの ラたも た ル白な ゲ う 。う す味なてんろ ウ に 日 小野正嗣 い家そ けが小け よ ス わ ぎ 、で う は い 「東京スカイツリーの麓で オ麦れう 。 : 夫 を つをれ 。ムれ てわ い あるコンゴ人難民の受難の物語」 . 人のる親を ム粉ば に買し し出を ど いか か い ょたや っ ら の代か レ と っ は 大城立裕 ツ白 自 く を たな数わも じ い こ て 「韓国の読者へ」 っ 歩 い体た のを し 分て り カゝ いだ 佐々木敦 い人食糖も る と く そ に み 。け にれ の 「黒沢清論」 気 ゲみな子る へ のわれも 心土 ん が曜 供のちさ使豆頁た を い な 見 フ は ん 大竹昭子 のだだ つがし そ しほ 日 が ム な イ 「荒木経惟論序論」 ぐに に夫子 回 リ な った の み屈は に る ツかれも 償 に 供他て ま こ ケ 亀山郁夫 んそあ フ。 い 先 ま ってや のた のわ 「辻原登「籠の鵡」論」 な う し の つ せ着がた充っ てを立よみぶて ル な キ に 連載 を ・ヘて 。電て て気 い 男 、求た う ん ん / 朝吹真理子 / 黒川創 、る食 い 店 に話カ どめれにな わ スや 島田雅彦 / 天童荒太 完終 を人 の 同 日女れたたふ べせく し の り妻る は僚を な り た了わ つ出 アがも て 石川直樹 / 大澤信亮 眺がわも ン車本しがま どや た そ しる い 大竹伸朗 / 前田英樹 親めら の 。う て た て と 人 つん こ ので 、し頭髪な いんてな兄た しわ と よ つ に 10 月 7 日発売・特別定価 980 円 。隣ががも柿もまた 、ふ弟 う ぎ る だ し 内容・表題等は変史されることがあります の歩回切色なえ と 信 つかか夫不う し に つのかばは 紙ぎそもに幸な大 じ カ つ ⑧新潮社 ッたたたプ 〕重のしなをん , 人 の 0 0 受賞作】 鴻池留衣 「ニ人組み」 古川真人 「縫わんばならん ロ ロ ロ ⅱ月号予告 第 48 回新潮新人賞発表 こうのいける 古川日出男 / 松家仁之 115
びつくりの出会いがたくさん , 一青妙『わたしの台湾・東海岸「もう一つの台湾」をめぐる旅』 青妙 中国大陸をのぞむ台湾海峡に面した台湾の西側は、我々にくない。びつくりの出会いがたくさんあるからだ。 チャンピン 最も馴染み深い首都・台北をはじめ、中部の拠点都市である 例えば、台東県にある人口わずか 7 千人の「長濱」とい 台中、歴史の都・台南、貿易港で有名な高雄など、早くに開う小さな町には、台湾を代表する健康法で、飛び上がるほど 痛い足裏マッサージの「創設者」が住んでいる。 発され、発展してきた大都市が多い。 一方、平地が少なく、海岸線も複雑に人り組んでいる東側 しかも彼は、キリスト教カトリックの神父でスイス人だ。 は、何もないさびしい場所というニュアンスがある「後山」神父の名前は Josef Eugster ( ジョセフ・ユーグスター ) 、そ ゥールオシー と呼ばれていたほど開発が遅れてきた。そのせいか、現在のの発音から中国語名が「呉若石」となり、現地では「呉神 台湾では、西海岸という呼び方は存在しないのに、なぜか父」と呼ばれる。彼がスイスから布教のために定住したのは 「東海岸」という言葉で花蓮県や台東県、宜蘭県などをまと 1970 年。ひどい関節リウマチを患った時、自らの足裏を めて呼んでしまう。日本の「裏日本」のようなものかもしれ自分自身で揉みほぐすことで不思議と痛みが消えた。この実 ない。 体験を元に、布教のかたわら、地元の人々に足裏マッサージ ところが、この東海岸には、想像を超えた「台湾」との出を施したところ、あっと言う間に評判が広がった。 以来、呉神父は足裏マッサ 1 ジの伝道師とも呼ばれるよう 会いがあった。そんなわたしの個人的体験を、新刊『わたし の台湾・東海岸』ではこれでもかと書き連ねた。 になり、台湾各地で、呉神父から足裏マッサージを学んだ弟 小籠包、故宮、ウーロン茶、台北 101 、マンゴーかき氷子たちが、店を開くようになった。いまも呉神父は長濱の小 さな教会で、足裏揉みの普及と信仰の布教を続けている。 。日本人が慣れ親しんだ台湾のイメージは、だいたいこ んなところだろう。そんなものは東海岸では、ほとんど見か 一方、東海岸は、日本と特別な繋がりがある。 けない。それでは、物足りないかというと、そんなことは全「豊田村」「林田村」「吉野村」など、どことなく日本を連想 ホウシャン
鹿児島県令が東京で、どげんな仕事があっちゅうとか思っち「そのための東京呼び出しじゃった。県令の大山殿だけじゃ よったら、こいじゃ」 なか。他の県官たちも、おいおいクビにされていくこつじゃ 「こいとは」 ろ。そげんなったら、県官は日向どころか、肥前か、土佐か、 「宮崎県との合併じゃ」 長門か、いずれにせよ、来るときは東京からになりもそな」 明治九年八月一一十一日、第二次府県統合は鹿児島県も例外「東京から ? 政府から ? まさか」 でなかった。が、それも奇妙な印象は否めなかった。 「ありえん、ありえん。こん鹿児島では、私学校の者じゃな 全国的に管区の広域化が進められたが、併せられたのは旧 かや、県官にはなれもはん。私学校の者はクビにもならん。 藩の規模で十万石、二十万石というような小県が、ほとんどで私学校が怖くて、誰ひとり辞めさせられん」 ある。日本第一一の大藩、旧薩摩藩を土台にしたのだから、鹿児「同じ理屈で、東京から来た県官が命令しても、こん鹿児島 島県の場合はこれにあたらない。宮崎県とて、すでに美々津では誰も動かん」 県、都城県を併せて、日向一国に相当していた。この二県を「そん通りじゃ。東京の大山殿も、そいなら県官総辞職じゃ、 統合して、全国でも類をみない巨大県の誕生となったのだ。県士族なし、私学校なしで県政が立ち行くなら、どうぞやっ 「鹿児島県が大うなるちゅうは、悪か話ではなかでしよう」たもんせていうて、政府に脅しをかけたらしい」 ふじの 若い藤野に返されて、河野は道理を諭す顔になった。 高城に教えられて、生徒一同は手を叩いた。固く拳を握り 「名前だけの鹿児島県では仕方なか。大切なのは中身じゃ」しめ、次から次と打ち上げもする。さすが大山殿じゃ。政府 「中身は別になるとですか。日向の者が乗りこんでくっとでの輩どま、ちいとも恐れてごわされん。当たり前じゃ。あの おおくにいちぞう すか。宮崎権令が鹿児島県令になるとですか」 大久保一蔵じゃっち、大山殿にはチゴと変わらん。 ふくやま 「阿呆か。宮崎権令でん、薩摩の福山殿じゃー 河野は高く手を上げ、皆の注意を喚起してから再開した。 よしむら 吉村が同じ世代の気安さで、藤野の頭を叩いた。 「こん話がどげんに落着するかはわからん。じゃっどん、政 「なにすっと。おいがいうとは、福山殿は職を解かれたち聞府がしかけてきたちいうこつは間違いなか。それが証拠に、 いたからじゃ 庄内鶴岡もやられちよる」 「そいが鹿児島県令の大山殿も変わらん」 水を向けられて、榊原と伴も口を開いた。 と、年嵩の山野田が割りこんだ。河野が後を受けた。 「ええ、父からの手紙によれば、鶴岡県は山形県に吸収され 「ああ、そうじゃ、東京でクビにされてしもた」 て、もう名前もなくなったということです」 みしま 訓そう明かされると、一同は驚きに絶句した。確かに東京か「一昨年には東京から三島県令が来ていましたが、県官で残 ら届けられたばかりの報だ。河野は苦々しい口ぶりで続けた。った旧庄内藩士も、いよいよ一掃されるんじゃないかと。鶴 ふと