織立て直し問題を扱う。利根川首相は、この問題を解決でき主優待券を換金して裏金を作っていたのだが、そのために使 る人物として、関西紡績会長国見正之に白羽の矢を立てる。 い走りにされていた人物が自殺と同時に、このことを告発す このとき、首相の意向を受けて直接国見を説得したのは、元る文書を東京地検特捜部に送ったのだ。恩地は、遺族係への 大本営参謀で首相のプレーンとなっていた龍崎である。国見復帰を望んでいたが、国見の更迭と同時に、再びナイロビ勤 は、最初これを固辞するが、龍崎の「お国のために」の一言務を命じられる。しかし、アフリカに向かう恩地の心境は、 に動かされ、「会長」として国民航空の立て直しの指揮をと最初に勤務していたときとは違って、前向きである。こう結 ることを引き受ける。運輸大臣や運輸族議員の意向を無視しばれる。「何一つ遮るもののないサバンナの地平線へ黄金の て、国航のトップを決めるのは、異例の人事である。もちろ矢を放つアフリカの大きなタ陽は、荘厳な光に満ちている。 ん堂本は、事故の責任をとって社長を辞めたが、行天は、こそれは不毛の日々に在った人間の心を慈しみ、明日を約束す のとき常務に抜擢される。そして、恩地は、国見に請われて、る、沈まぬ太陽であった」。 新設の会長室の部長に就任した。 会長室篇では、国民航空の組織的な腐敗がいくつも暴かれ恩地元は「男」である ていく。とくに大きい問題は二つ。第一に、系列ホテルの乱 かなりていねいにあらすじを記した。ここからすぐに気づ 脈経営とホテル買収をめぐる怪しげな価格操作。第二に、ド くことは、この長篇は、二つの独立の物語を接合している、 ルの極端に長い ( 十年 ) 先物予約問題。前者に関しては、恩ということだ。会長室篇の組織改革の試み ( と挫折 ) は、御 地が、ニューヨークに飛んで背任の証拠をんできたため、巣鷹山事故に起因していると考えれば、アフリカ篇だけが別 国見は、ホテルを経営する国航開発社長を解任に追い込むこの話に見えてくる。あるいは会社の経営陣と労働組合の闘争 とに成功する。しかし、後者に関しては、利根川首相周辺のの物語として読めば、アフリカ篇と会長室篇をつなげること 政治家が、疑惑が表沙汰になることを嫌ったため、閣議決定ができるが、今度は、御巣鷹山篇が浮いてしまう。恩地元の を通じてうやむやにされてしまう。あまりにも生真面目に腐モデルになった人物 ( 小倉寛太郎という日航社員 ) の実際と 敗を追及し、取り除こうとする国見は、利根川首相や龍崎等対応づけるならば、アフリカ篇と会長室篇で十分だというこ に煙たがられ、突如、更迭されてしまう。 とになる。要するに、この長篇は、二筋の物語を、強引に結 行天と恩地はどうなったのか。行天は失脚した。彼は、株びつけているような印象を与えるのだ。 ひろたろう
国と類比させれば、これら辺境の事業所を、文革のときの労の前任の労働組合委員長で、委員長の地位を強引に恩地に押 し付けた上に、掌を返したように寝返り、恩地たちとの労使 働改造所に比することができる。陸一心は、冤罪によって、 上海で進行していた大ブロジェクトから外され、内蒙古の製交渉で、平然と経営側の席に着いた人物である。八馬は、行 鉄所に送られた。このとき陸一心が感じた失望は、恩地が、天とともに、恩地の志操堅固さを際立たせるための対立項だ。 自社の飛行機すらやってこないアフリカの辺地に左遷されたその八馬は、恩地に、自分宛に詫び状を書けば、本社に管理 ときに感じた落胆や意気消沈と似ていたに違いない。結末で職として戻してやる、と提案する。もちろん恩地は、これを は、かって強制的に行かされていた僻地に、いくらかの積極拒否する。もしここで恩地が詫び状を書いていれば、それは 性をもって自ら向かおうとする、という点でも、『大地の子』とてつもない欺瞞であっただろうし、詫び状には空疎な嘘が 書かれていた、ということになっただろう。 と『沈まぬ太陽』は共通している。 この場面を読みながら、ほとんどの人は、恩地に共感し、 『沈まぬ太陽』は、『大地の子』の続篇として読むことがで きるのだ。敗戦時に中国に棄てられた孤児の人生を、日本の「私だってそうする」と思うだろうが、しかし、このような 戦後のサラリーマンの人生に写像したらどうなるのか。それ場面で、あっさりと詫び状を書いたのが、敗戦後の日本人だ こそが、アフリカ篇に描かれた酷薄な人事差別である。前回、ったことに思い至るべきである。誰に宛て詫び状を書いたの か。もちろんアメリカに、である。仮に自分が過ったと思っ 中国に残された戦争孤児は、日本の敗北ということを、最も たとしても、あまりにも早い謝罪やあまりにも早い反省は、 容赦のない悲惨な水準で体験せざるをえなかった人たちだ、 と述べた。そうだとすれば、『沈まぬ太陽』は、労働組合の、むしろ謝罪や反省の自己否定になる。速やかに書かれすぎて いる詫び状は、真に深い悔恨のないことの、そして十分に徹 会社経営陣との闘争、その挫折、その後の報復的な差別とい うストーリーによって、敗戦の体験の「意味」だけを、直接底した批判を経由していないことの証拠だからである ( 連載 の敗戦とは独立に抽出した、と解釈することができる。この第 8 回参照 ) 。八馬の誘いを拒否したとき、恩地は、戦後の 意味で、恩地もまた、敗戦ということを掛け値なしに引き受日本人が敗戦時にとった道とは異なる道を選んだのである。 陸一心はあの後どうなるのだろうか。それを知りたければ、 けた「男」たちの列に加えることができるのだ。 アフリカ篇の中で、こんな場面がある。カラチ支店にいる『沈まぬ太陽』を読めばよい。陸一心の「その後」を、「その 恩地のところに、八馬労務部次長が訪問した。八馬は、恩地まま」ではなく、日本の戦後のサラリーマンの人生に写像さ
0 山崎豊子の〈男〉 【第 + 一回】太陽の光は遍く 例外的な作品 ど深く関わってはいない。だが、彼もまた男の中の男である。 戦争が主題や背景になっている山崎豊子の長篇小説は、戦とすると、ここまで述べてきた提題を修正しなくてはならな 争三部作だけではない。『不毛地帯』以降のすべての山崎豊いのだろうか。私の考えでは、そうではない。 子の作品、遺作『約束の海』も含むすべての作品が、戦争を『沈まぬ太陽』は、ナショナル・フラッグ・キャリアである 扱っている。が、ひとつだけが例外だーーという印象を与えことを誇る航空会社、つまり日本航空・ーー小説の中では「国 る。『沈まぬ太陽』だけは、「戦争」が前面には現れていない。民航空」 , ーーと、その労働組合をめぐる物語だ。物語の中に、 われわれは、山崎豊子が、まさに「男」と見なしうる男を 1985 年の日航機墜落事故、つまりジャンボ機が御巣鷹山 造形できたのはなぜなのか、を考えてきた。ここまでの考察に墜落し、 520 名もの犠牲者を出した事故のことが組み込 が示唆してきたことは、負け方ーー総力戦の負け方ーーに鍵まれている。 1995 年から四年にかけて週刊新潮で連載さ がある、ということだ。敗北を否認も欺瞞もなしに受け取るれた後、単行本化された。全体は、三篇に分かれている。ア ことは、非常に難しい。山崎は、敗北を正面から受け止めたフリカ篇、御巣鷹山篇、会長室篇である。 男たちを描いた。そのとき、はじめて「男」が、善や正義の アフリカは、恩地が、ケニアのサバンナで、象を狙う猟 側に立つ「男」が生まれた。このように論じてきたわけだが、をしているシーンから始まる。アフリカ篇の大半は、この 1 おんちはじめ 『沈まぬ太陽』の主人公、恩地元は敗戦ということにそれほ 971 年の時点からの回想である。その十年前、恩地は、国 大澤真幸
やがてはむしろ尊敬し、父 ( 夫 ) がそのように振る舞ったこを死なせた大人たち、権力者たちの云うことは、二度と信じ とに深い満足を覚えるのではないか。「すべて」を得るためまいと、心に誓った」。恩地の不屈の意志の原点がここにあ には、「すべて」を否定する要素をも引き受けなくてはならることが示唆されている。 なくなる、とはこのような状況を指している。 登場人物の中で、敗戦を最も深く体験しているのは、会長 繰り返せば、『白い巨塔』と『沈まぬ太陽』を比較すると、室篇で、恩地以上の主人公とも見なしうる国見である。彼は 「善 / 悪」と「男 / 女」の対応が逆になっている。ここでま繊維産業に関わってきた人物であって、航空業界は畑違いだ。 ず仮説的に述べておきたいことは、もし『沈まぬ太陽』が、 そのため、首相からの、「三顧の礼」の喩え通りの丁重な要 御巣鷹山篇から後だけで構成されていたとしたら、そのよう 請を、固辞していた。それなのに、「お国のために」と言わ な話にリアリティを与えようとしたら、この小説は、『白いれたときに、心を動かされる。どうしてなのか。彼の戦争体 巨塔』と同じような話になっていたのではないか、というこ験が効いた。国見は、戦争中、学徒出陣で、松本の連隊に人 とだ。御巣鷹山の遺族に同情的な恩地に対して、読者は、か隊した。彼自身は前線に赴くことなく終戦を迎えたが、彼の って里見に感じたのと同じように、「いい人なんだけれど同期の多くは「国家の命運を賭した戦場に散って行った」。 ・ : 」という印象をもっただろう。行天や堂本の迫力にはと国見が、「お国のために」に強く動かされるのは、戦場で死 うてい拮抗できない、と。そうならないためには、おそらく んだ同期の仲間の無念を思うからである。 アフリカ篇が必要だったのだ。どうしてだろうか。 この「お国のために」を口に出して、国見を説得した龍崎 一清も、戦争と深く関わる人物だ。彼のモデルは、瀬島龍三 戦争の影 である。『不毛地帯』の壹岐正は、瀬島龍一二の人生からイン 冒頭で『沈まぬ太陽』は、戦争 ( 敗戦 ) との関係が希薄だスピレーションを得て、造形されたのだった。それにしても、 と述べた。しかし、『沈まぬ太陽』にも、戦争が影を落とし『不毛地帯』では、善のヒーローだった「瀬島ーが、『沈まぬ ている。たとえば、アフリカ篇の早い段階で、敗戦のとき十太陽』では、もっと微妙で、両義的なポジションを与えられ 四歳だった恩地少年のことが回想されている。彼は軍国少年ていることは興味深いことだ。龍崎は、行天や堂本のような、 だったそうだ。しかし、 8 月新日に玉音放送を聞いて、彼は、強い「悪」を代表してはいない。龍崎たちこそが、国見を担 特攻隊員となって死んでいった従兄や上級生を思い、「彼らぎ出しているのだから。しかし、龍崎は、最終的には、善良
なーーしかし素朴すぎる面をもっーー国見の足を引っ張り、 めない。敗戦のとき十四歳だった恩地に、戦争や敗戦の責任 彼を更迭する側にまわる。龍崎は、壹岐とは違い、全面的にを、たった一片といえども、帰することはできないのだから。 肯定されてはいない。 戦争へと向かう戦前の体制と屈折した関係をもつのは、最太陽は大地を照らす 初は労務担当の役員として登場し、御巣鷹山事故のときには では、どのように見ることが正解なのか。私の考えでは、 社長になっている堂本である。堂本は、恩地を「アカーとし『沈まぬ太陽』の真の意味は、これを、戦争一二部作の弁証法 て徹底的に弾圧する。その容赦なさは、彼自身がかって「ア的展開の最終産物であるところの『大地の子』と重ね合わせ 力」だったこととおそらく相関している。戦前、東都大学在て読むことで明らかになる。『大地の子』の陸一心が、どの 学中に、堂本は、学内の共産党細胞のリーダ 1 として、治安ような苦難を経験したかを思い起こすとよい。彼は、日本人 維持法で逮捕されたのだ。天皇の名において裁きがくだされであったがために、文化大革命のとき、辺境の労働改造所に おもて ふかあみがさ る法廷では、「面を見せることは許されず、深編笠をかぶせ送られ、ダム作りの肉体労働を強いられたり、ほとんど人が すあわせ られ、厳冬でも素袷に裸足の草履ばき」という屈辱の姿が強訪れることのない草原で羊飼いの仕事をさせられたりしたの いられた。要するに堂本は転向したのだ。堂本の恩地への仕であった。陸一心は、最終的に、自ら中国に残ることを決意 打ちは、次のような暗黙の叫びの表現だと解釈することがでし、 が制作したドラマ版ではーーー自ら志願して、 きる。お前がカッコつけていられるのは、お前が俺ほどにはかって自分が左遷された内蒙古の製鉄所に赴任するのだった。 過酷な弾圧を受けていないからだ ! お前をなんとしてでも これらは、『沈まぬ太陽』のアフリカ篇で、恩地元が国民 転向させてやる ! もし恩地がどのような辱めにも耐え、信航空に強いられたことと、よく似ているではないか。もちろ 念を貫き通せば、その態度は、意図することなく、堂本の戦ん、恩地は、「自由な労働者」だから、暴力的な強制によっ 前の転向を批判していることになる。堂本が己の過去を正当て、カラチやテヘランに送られているわけではない。しかし、 化するためには、恩地を屈服させる必要があったのだ。 今、会社から逃げない、逃げられないということを前提にす の このように、『沈まぬ太陽』の主要登場人物にも、戦争やれば、会社の人事異動の命令は、絶対に拒否できない。彼は、 子 崎敗戦が影を落としている。が、いずれにせよ、この作品は、懲罰的な意味をこめて、カラチやテヘランといった ( 日本か 戦争三部作に比べると、戦争の関係が間接的であることは否ら捉えたときの ) 辺境の事業所に収容された。会社を中国一
ここから、われわれは何を導き出せばよいのか。おそらく招いてもいる。妥協すれば、彼は、日本に呼び戻され、妻子 山崎は、御巣鷹山事故のときに遺族側に立って親身になってや実母と一緒に暮らすことができたはずだからだ。ケニアに 対応した国航社員が、その後の組織改革において枢要な役割いる恩地が、中二の娘純子から「身勝手なお父さんへ」とい を担った、という物語を書きたかったのだ。であれば、一見、う手紙を受け取る場面は、実に痛々しい。純子はこの手紙の 御巣鷹山篇ー会長室篇だけで十分であるように思えるのだが、中で、父親がケニアにいるがために、自分の心も家族も「バ この物語を成り立たせるためには、長いアフリカ篇を必要とラバラです」と訴える。あるいは、会社に譲歩しようとしな した。どうしてなのか。 い恩地を残して、妻と二人の子がテヘランを去っていくシ 1 まず、山崎の過去の作品の登場人物との対応を見ておこう。ン。恩地は、空港の建物から飛行機に向かって歩く妻の名を なりふり構わず出世しようとする行天は、『白い巨塔』の財呼んだが、彼女は、振り返らない。「その背中は『解りまし 前五郎の系譜に属している。恩地の方は、当然、里見脩二にた、あなたはどうぞ、ご自分の信じる道を歩んで下さい』と 対応している。だが、「男」ー「女」の対応は、反転してい無言で答えているようであった」。 こうしたことから、恩地は、家族をあまり愛していないか る。里見は善人だが、悪を代表する財前と対比すると、フェ ミニンだという印象を与える。だが、『沈まぬ太陽』では、 ら、家族よりも社内での自分の体面を大事にしているから、 意地を通している、と考えたらとんでもない誤りである。こ 悪の側を代表している行天は、恩地に比べると女々しい。 恩地は、実際、「男」の定義と完全に合致する人物だ。 う想像してみるとよい。もし、恩地が、家族との幸福な時間 「男」かどうかは、「すべて」を得るために、「すべて」を否を得ることを優先させて、行天と同じように会社に詫びを人 定するような逆説をも引き受ける用意があるかどうかで決まれていたとしたらどうだったか、と。われわれは「恩地はそ る ( 連載第 6 回 ) 。たとえば、恩地元は、家族を、妻や子を、んなにも家族を愛しているのだ」と感動するだろうか。恩地 の子や妻は、「お父さん ( 夫 ) は私たちをそれほど愛してく そして実母をたいへん深く愛する人物として描かれている。 彼は、妻や子を幸福にするために、あるいは母を安心させるれた」と喜んだり、尊敬したりするだろうか。逆ではないだ ために、何でもやろうと思っているに違いない。しかし、彼ろうか。家族を犠牲にしてまで、信念を貫く恩地に、われわ 崎が意地を通し、行天とは違って決して国航経営陣に妥協せず、れは、むしろ鬼気迫る家族への愛をも感じないか。妻や子は、 断じて謝罪すまいという態度を貫いたことが、家族の不幸をそのような夫や父を、最初は恨めしく思うかもしれないが、
民航空労働組合の委員長として、同輩で副委員長でもある行のだ。同じ海外勤務でも、行天の行き先はアメリカの支店で、 天四郎とともに、会社の経営陣と、労働者の待遇改善や安全彼は出世の階段を邁進していた。その頃、しかし、国民航空 対策の強化を求めて、闘っていた。経営側の戦術を決めていの飛行機の事故が連続していた ( アメリカ、インド、ソ連 るのは、労務担当に着任したばかりの堂本である。恩地ら組と ) 。恩地のケニア勤務は、ナイロビ就航が実現するまでと 合は、のらりくらりと労使交渉を引き延ばす経営側に対抗すされていたが、会社が方針を変え、これを断念したため、恩 べく、首相フライトに合わせて、ストに打って出た。結局、地は、絶望の淵に沈み、堂本らへの憎悪の念を深めていった。 ギリギリのところで経営側が譲歩したので、首相フライトを国民航空の連続事故を背景として開かれた衆議院交通安全 阻止するまでには至らなかったが、このストライキを主導し対策特別委員会で、参考人として招致された ( 恩地の後任 たと見なされたことが、恩地のその後の人生を大きく規定すの ) 労組委員長沢泉が、恩地への差別的な人事について証言 ることになる。 した。このことがきっかけとなり、 1974 年、およそ十年 恩地は、このことへの報復人事として、僻地へと飛ばされぶりに恩地は、日本に戻ることができた 9 以上がアフリカ篇である。次の御巣鷹山篇は、ジャンボ機 た。まずは。ハキスタン ( カラチ ) 、そしてイラン ( テヘラン ) 、 最後にはまだ路線すらないケニア ( ナイロビ ) へ。会社には墜落事故とその後の対応の物語である。 1985 年 8 月日 僻地勤務は一一年という内規があったが、恩地の盥回し的な左の夜に事故が起きたとき、国民航空は三十五周年の。ハーティ 遷は、この内規を無視して、十年にも及んだ。その間、実母を開いていた。堂本は、すでに社長の座ーーしかも初の社内 .. は死んだ。テヘランまで一緒だった妻子も、ナイロビまでは生え抜きの社長ーーに就いている。帰国後もつまらない仕事 同行できず日本に戻ったため、恩地と妻子は、遠く離れて暮しか与えられてこなかった恩地は、事故の後には遺族係に任 らさざるをえなかった。その間、日本国内では、会社経営陣じられた。御巣鷹山篇 ( とこの後の会長室篇 ) では、行天た は、会社に従順な新労組を結成させ、旧労組のメンバーを露ち国航の執行部の遺族への非人間的な対応 ( 問題を金だけで 骨に冷遇する差別人事によって、その切り崩しを図った。恩解決しようとする態度、機械的な謝罪、遺族会の分断工作 仞地は、やりがいのある仕事がほとんどなく、だんだんと狩猟等々 ) と、遺族側に立った恩地の対応とが、クリアに対比さ 崎などに溺れていく。これと対照的なのが、行天だ。彼は、堂れる。恩地は、遺族たちから絶大な信頼を受ける。 山 本にまるめこまれ、会社に詫びを人れ、経営陣側に寝返った続く会長室篇は、御巣鷹山事故を受けての、国民航空の組