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検索対象: 目標にいどむ青春 : 大輔のベースボール魂
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1. 目標にいどむ青春 : 大輔のベースボール魂

けつきよく、終わってみれば 2 対 9 のコ 1 ルド負け。シニアに入ってから初めて味わ くつじよく う屈辱であった。一回負けた相手には二度と負けない。それが大輔の特長だったのに、 なかほんもく 春夏と連続して同じ相手「中本牧シニア」に負けたのだ。相当なショックであることは まちがいなかった。 が、大輔は泣かなかった。相手の選手が大喜びする中で、ただくちびるをかみしめ、 くやしさをがまんするだけであった。 「負けても、なっとくできる ? そんなのはウソですー こうはきすてるようにいって、グラウンドを去ったのである こうして大輔のシニア時代は終わった。この間、負けたのはわすか三試合。春の全国 きよう AJ 医、 4 せんばっ 選抜大会での「京都北シニア」、夏の関東大会、および夏の日本選手権大会での「中本 牧シニア」である。わずか三試合ではあるが、この三敗がひびいて、最後まで全国優勝 をすることができなかったのである その時点で、甲子園をねらう高校の間では、「松坂」の名前を知らない者はいなかっ た。少年野球、リトル、リトルシニア時代の監督や両親のもとへ、全国の高校からさそ まっざか

2. 目標にいどむ青春 : 大輔のベースボール魂

0 工う 1 ガら 6 北 全国大会に向けて、千葉県の富浦で正月合宿に入った大輔だが、その体は急にたくま しくなっていた。この半年の間に、身長が七センチものびていたのだ。 ばんばくきねん そして、三月三十一日から、いよいよ「第一回全国選抜大会」が大阪の万博記念公園 球場で始まった。出場チームは、秋季大会の上位十六チ 1 ム。とうぜん、関東大会を制 えどがわみなみ した「江戸川南シニア」は優勝候補の一角をしめていた。 すずか 初戦のマウンドに上がったのは大輔である。「鈴鹿シニア」を相手に、 5 回コールド かん の 9 対 0 。投球内容も被安打 1 という完ぺきなピッチングであった。 つづく 2 回戦は、大阪の「枚方シニア」が相手だった。大輔は初回に 1 点を許したも のの、自らのタイムリー打で逆転。一度は同点に追いっかれたが、その後、味方打線が 爆発し、終わってみればⅡ対 2 という大差で、ふたたび 6 回コールド勝ちであった。 ベスト 4 に勝ちあがった「江戸川南シニア」は、東京の「調布シニア」を相手に同級 ちば ひらかた とみ、つら 一」、つほ せんはっ ちょうふ

3. 目標にいどむ青春 : 大輔のベースボール魂

見て、大輔は同じころの自分を思い出していた。 えどがわみなみ あれは、まだ「江戸川南リトルシニア」でやっていたときだった。少年の日、プロを きたがわてつや 目指したとき、同じリトル出身で、ヤクルトに入った北川哲也選手がひょっこり大輔た ちの前に現れたことがあった。やはり、同じ「江戸川南リトルシニア」出身だったから だ。あこがれのプロ野球選手が目の前にいる。大輔は、心をおどらせながら北川選手の たちば 話を聞いたものだ。いま、立場はぎやくである。自分の前に野球少年たちがいるのだ。 その少年たちに向かって、大輔はいった。 まと 「みんなのあこがれの的でいたい、目標でいたいという気持ちはある。」 大輔のこの言葉を、少年たちはどう心に受けとめただろうか くひがしおかんとく せたがやにし そういえば、昨年の暮れ東尾監督がオ 1 ナーをつとめる「世田谷西シニア」と、大輔 かいた「江戸川南リトルシニア」が西武ド 1 ムで対抗戦をやったことがあった。東尾監 督が投げ、大輔が打席に立った。東尾監督の 120 キロの速球を大輔が打ちかえすと、 子どもたちは大喜びだった。そんな姿を見て大輔は思った。 ( ボクがいまあるのは、少年野球をやっていたおかげだ。いつの日か、少年野球の大会 だいすけ すがた せいぶ

4. 目標にいどむ青春 : 大輔のベースボール魂

きてしまったのだ。 ぶをい 朝 O 本代亡しこ世 6 舞台へ いよいよ、中学時代最後の戦いが五月から始まった。まずは、全国大会の予選をかね た関東大会である。もし、ここで敗れれば、そのままュニホームをぬがなければならな 背番号「 1 ーをつけた大輔がさっそうと登場したのは、 3 回戦からであった。「江 はちく しずおか どがわみなみ 戸川南シニア」は破竹の 5 連勝で決勝戦までかけ上がると、その勢いのまま静岡の「浜 まっ 松シニア」を破って優勝するのでる。 こ選ばれ、 この関東大会での活躍が認められて、大輔はシニア全日本代表のメンバー。 「第六回世界少年野球選手権大会」に出場する。このプラジル遠征に参加したメ よこはま こやま ンバ 1 の中には、のちに横浜高校でいっしょに春夏制覇を達成する小山選手、小池選 ときわ 手・常盤選手などが加わっていた。 日本代表チ 1 ムは予選リ 1 グ三位の成績を残し、上位八チームによる決勝トーナメン アイビーエー かつやく

5. 目標にいどむ青春 : 大輔のベースボール魂

しカかかった。 おぐらせいいちろう その中には、大輔の投球を何度も見にきた小倉清郎野球部長のいる横浜高校の名前 もあった。 ていきよう えどがわみなみ その横浜高校にとってのライバルは、帝京高校であった。「江戸川南シニア」から何 人ものが進学し、太いパイプができている、大輔と小学校時代からつねにいっしょ ていきよう に行動してきた木村選手も、帝京高校への進学が決まっている。大輔自身、プラジル遠 ちょうふ 征に同行した「調布シニア」の関選手に、「いっしょに帝京でやろう」と声をかけていた。 ときわ こやま ところが、同じプラジル遠征に参加した「中本牧シニア」の小山・小池・常盤の三選 手に出会ってから、気持ちがぐらっきはじめたのだ。いままで出会ったこともない実力 を見て、 「こんなすごい選手と同じチームでやれれば、甲子園での優勝も夢ではない。」 心のかたすみで、そんなことを思いはじめていた。そんなときだ。捕手をやっていた こやま 小山選手が、三人を代表して声をかけたのである 「オレとバッテリーを組んで、甲子園へいっしょに行かないか帝京は春夏制覇をした オービー だいすけ きむら せき なかほんもく こ、つしえん よこはま せいは

6. 目標にいどむ青春 : 大輔のベースボール魂

に、はじめて買ってもらった自転車についていたのが「レオマ 1 ク」。こうしてみると、 だいすけせいぶ 大輔と西武との間は、生まれながらにして赤い糸で結ばれていたのかもしれない 「大輔は、とうせん『 1 』がもらえると思っていたでしよう。でも、『 1 』を与えてし まうと、それに満足してしまうかもしれない。負けん気の強い子だけに、もらえなかっ たくやしさをバネに、成長してくれると思ったのです。」 おおえだかんとく 大枝監督は「幻」の理由をこう説明している。 えどがわみなみ その効果が現れたのか、大輔の快調なピッチングがつづく。「江戸川南シニア」は秋 はちお、つじ ちょ、つふ の東・東京支部大会を勝ちぬき、関東大会に出場すると、名門・調布シニア、八王子シ ニアを破ってみごと優勝を果たしてしまうのである。 せんばっ この関東大会の優勝は、翌年春に行われる第一回全国選抜大会への出場を確実なもの にしていた。大輔にとってはじめての全国レベルの大会であり、「松坂」の名を高める ぶたい かっこうのひのき舞台になるはずだった。 はたの かながわ 全国大会にそなえて、神奈川県の秦野シニアと練習試合をやっていたときである。工 ラ 1 で出塁した大輔が、味方のヒットでホ 1 ムにすべりこんだときだ。 まっざか

7. 目標にいどむ青春 : 大輔のベースボール魂

きようと きよう 生の青木投手が先発。 6 対 2 で破ると、いよいよ決勝戦。その相手は、京都代表の「京 都北シニア」であった。 えどがわみなみ 「江戸川南シニア」が初回にノ 1 ヒットで 1 点を先行、そのまま最終回 ( 7 回 ) をむか だいすけ えていた。マウンドには大輔がいる。だれもが、自分たちの勝利を確信していたのだ。 とつにゆ、つ ところが、一死後、味方のエラーから同点にされると、延長戦に突入。さすがの大輔も 疲れきっていた。 7 回表、相手バッタ 1 に二塁打を打たれたところで降板。その直後だ。 ふたたびエラ 1 から決勝点を許し、優勝をのがしてしまったのだ。 全国一までもう一歩というところまできながらの逆転負け。くやしい思いの残った全 まっざか 国大会だったが、これを機に、「関東に松坂あり」という評判をよぶとともに、念願の 工 1 ス番号「 1 」が与えられたのである 背番号が「 1 」になってからも、大輔の悲運はつづいた。春の関東大会の準決勝戦、 なかほんもく 神奈川の「中本牧シニア」との試合だった。 2 対 2 でむかえた最終回、またもや味方の エラ 1 が決勝点となり、逆転負けをきっしてしまうのだ。 なんともいやなジンクスがで かならず最終回の味方エラーから : ・ 負けるときは、 つか ときた かながわ あおき こ、つばん

8. 目標にいどむ青春 : 大輔のベースボール魂

0 左 2 目垳も、一儂にはづうウゝドに 当時の江戸川南シニアは、カのある選手がゴロゴロいた。だから、相手チームに勝っ よりも、自分のところの準メンバーのチームに勝つほうがむすかしいといわれるほどだ った。 2 といえば、西 さて、二年生秋の新人戦を前に、大輔がわたされた背番号は「幻。 1 武の東尾監督が現役時代につけていた背番号である。また、いたすらざかりの幼少時代 ふんいき 「投手の持っている独特の雰囲気がある。振りかぶったときのモ 1 ションがサマになっ ていたのです。コントロ 1 ルはともかく、あの腕の振りはいままでに見ただれよりも速 それで ( ひょっとしたら ) と思ったのです。これはきたえてできるものではないで すからね。」 おぐら えどがわみなみ それ以来、小倉部長は何度も江戸川南シニアのグラウンドに顔を見せるようになった ぶひがしおかんとく っ J っせつ じゅん うで

9. 目標にいどむ青春 : 大輔のベースボール魂

0 はじめこ 6 っ 1 任ドー 世界大会からもどって、わずか一週間後、「第二十三回日本選手権大会」が始まった。 えどがわみなみ 全国から二十八チ 1 ムが集まった中で、「江戸川南シニア」は第一シードである きようレ」」 4 初戦の相手は、春の全国選抜大会の決勝戦で破れている「京都北シニア」である 「借りを作ったまま卒業したくない。」 選手は「リべンジーに燃えていた。大輔がなんとか相手を 1 点におさえている間に、 味方打線が 7 点をうばう理想的な勝ち方だった。 しかし、いくら若いとはいえ、一か月近いプラジル遠征の疲れが、十五歳の大輔の体 をむしばんでいた。 たいわん そういえば、昨年の九月、オリンピックのアジア予選でも、台湾相手にどうどうのピ ッチングをし、日本を勝利に導く原動力となった。「夢は実現のための一歩 . という大 輔にしてみれば、「世界の松坂」への一歩は、このプラジル遠征から始まっていた : ・ せんばっ つか

10. 目標にいどむ青春 : 大輔のベースボール魂

ことがあるが、横浜はない。オレたちで春夏と国体の『三冠』を達成しよう ! 」 えどがわみなみ おおえだかんとく 「江戸川南シニア」の大枝監督も、横浜高校への進学に熱心だった。というのも、大輔 えどがわがくえんとりで おおえだかんとく が生れた昭和五十五年 ( 一九八〇年 ) 、大枝監督は江戸川学園取手高校の選手として甲 しえん わたなべもとのりかんとくおぐらせいいちろう 子園に出場。そのときに対戦したのが、渡辺元智監督と小倉清一郎野球部長率いる横浜 高校である。二人の名コンビの前に脱帽した大枝監督は、 ( 大輔をこの二人にあずけれ ばだいじようぶ ) と確信をしていたからだ。 夏の全国大会後、横浜高校の練習を見におとすれたときのことである。 こ、つしえん 「野手はそろった。あとはきみさえきてくれれば、甲子園でかならず優勝できる。」 大輔の顔を見るなり、小倉部長はこういったという そのひと言が決め手となった。横浜高校への進学を決めた夜、大輔は「調布シニア」 せき の関選手にあてて手紙を書いた ていきよう 「帝京に行くといっておきながら、横浜に行くことに決めた。甲子園で会おう。」 さとる まっざかけ そのころ、松坂家には大変なことが持ちあがっていた。父親の諭さんが勤めていた運 送会社が倒産。社宅を出なければならないはめに立たされていたのだ。家計が苦しいと よこはま たつばう 0 さんかん こ、つしえん ちょうふ ひき