武は ) 連敗をしてたんで、どうしても勝ちたかったです。 ( 朽奪三振は ) やっぱり自分は 三振にこだわってるんで、自己最多ってことですこく満足してます。ひさしぶりに気持 ちが晴れました。」 ☆一九九九・九・五対近鉄回戦 ( 大阪ドーム ) で、同点の 9 回裏からリリーフ登板 3 回を無安打無失点におさえて勝目。奪三振 3 「 ( 勝ち星は ) ごっちゃんです。本当はプロ初セープをあげる予定だったんですけどね。 回の頭からだから、先発と同じ気持ちでマウンドに立ちました。でもかなり重圧とか、緊 張ありました。リリーフ陣の気持ちがよくわかりました。」 ふくおか ☆一九九九・九・八対ダイエー回戦 ( 福岡ドーム ) に先発。 6 回 2 / 3 を 2 失点で おさえるも 7 回とちゅう降板。被安打 8 ・奪三振川。チームは逆転負けで勝ち負けつか す。 「こんな形で終わってしまい、チームに串しわけない。 ( 顔面に死球を当てた ) 秋山さん にも印しわけないことをしてしまいました。」 たいわん ☆一九九九・九・一五シドニー五輪アジア予選決勝リ 1 グ・対台湾戦に先発。 1 点先 きんてつ おおさか きん 163
「一週間ぐらい、なにもする気になれなかった。ただ、ポケッとすごすだけでした。先 輩に申しわけないという気持ちでいつばいでしたから : わたなべかんとく そんな大輔に、渡辺監督はこういって声をかけた。 「これからの練習は、ただの練習ではいけない。 一日一日を目標を持ってすごすことで、 その目標が近くなる。一人で見る夢はただの夢だが、全員で見る夢は実現への夢になる んだ。」 プロに入ってからも、大輔は、この言葉を忘れた日がなし 、。いまなお、彼の記憶に残 る言葉の一つだ。渡辺監督の言葉によって、大輔は、自分の気持ちの整理をする事がで きたのであった。 わたなべかんとく 渡辺監督はのちに、「あの負けがなければ、春夏連覇はできなかったかもしれない」と しっていたが、 一つの負けが大輔にいろいろな教訓を残したのはたしかであった。 ぐんまっきょの 新チームのスタートは、群馬県月夜野町の合宿からスタートした。大輔は、ふたたび 下半身の強化に取りくまなければならなかった。 おぐら 小倉部長との戦いが、また始まった。アメリカンノックを、一日鬨本捕球ができなけ新 れんば かれ
朝丈き 0 標に向ガっこ 首位ダイエ 1 に 1 ・ 5 ゲ 1 ム差とせまったところで、大輔はシドニ 1 五輪の予選のた め、チ 1 ムをはなれなければならなかった。 「うちのチ 1 ムでなければ、喜んで行ってらっしゃいといえるんだが : : : 。」 ひがしおかんとく 東尾監督はこういったあと、 「しかし、大輔がひとまわりでもふたまわりでも、大きくなってもどってきてくれさえ したらいい。」 えがお と笑顔で送りだしたのである。 だいじなところでぬけなければならない大輔の胸の中はふくざっだったが、い で ( つねに上を向いて自分を高めていきたい ) という気持ちもあった。 中学生時代には「世界少年野球選手権」のためにプラジルへ行ったこともあるし、ま た、高校時代には「アジア選手権」に参加したこともある。つねに世界に目を向けてき むね つほ、つ 148
ルスター戦初出場の結果であった。高卒ルーキーの「 5 奪三振」というのは、大輔がは じめてである。それが評価されて、最優秀選手賞を獲得。その賞金 100 万円の使い方 をマスコミに聞かれて、 おうえん 「いつも応援してくれる友だちと食事にいきます。」 まだあどけなさの残る笑顔が、いちだんとかがやいて見えたのだった。 朝位戦に向 ( 6 柔意 後半戦が始まると、はげしい首位争いがつづいた。オ 1 ルスタ 1 戦をはさんで 6 連勝 と絶好調の大輔が、首位ダイエーを相手にマウンドにあがったのは、もう秋の声が聞こ えようかという、八月二十七日のことだった。 「リズムがおかしい。」 連勝中ではあったが、大輔の気持ちの中には、なにかしつくりこないものがあった。 さすがの怪物も、夏の疲れがじわじわとおしよせてきたのだろうか かいぶつ つか こうそっ だっ だいすけ 144
たんひざに置いたミットを、も、つ一度下げてかまえたとき、かならすストレートかくる ということだった。その動作を見ぬくと、 「ストレートをねらっていけ ! 」 三塁コ 1 チボックスから大声を上げる。それが、みごとに的中。 2 回裏、集中打で 3 点を上げ、先行するのである 「どうも球種が読まれているみたいだ。」 べンチにもどってから、小山捕手がもらす。が、先行されたからといって、あきらめ るような横浜ナインではない。その小山捕手の一発で 1 点差にせまると、ここから両チ しと、つ ームの、まさに追いっ追われつの「死闘ーが始まるのだ。 4 回裏に 1 点を取られ 2 点差と広げられたものの、 5 回にまたもや小山捕手がタイム 丿ーを打って、試合をふりだしにもどす。 あとは、大輔の力投を待っしかない。 そんなナインの気持ちだったが、大輔のピッチングの調子はいっこうに上がってこな 7 回、ふたたび 1 点を先行されてしまうのだ。いままでの大輔には考えられないこ川 だいすけ
。大輔は悩んだ。そして、母親の ころへ、さらに自分が横浜まで通うことになれば : ゆみこ 由美子さんに自分の気持ちをすなおに話した。 野球をつづけたいこと。できればプロに行きたいこと。それが達成できたときは恩返 しをしたいと。 由美子さんは、息子のその言葉を聞いて、もう一度、働きにでることを決心した。ま さとる た、父親の諭さんも、いままで使っていたワゴン車を売って、少しでも経済的に役立て きようへい ようと考えたのである。そんな両親の姿を見ていた弟の恭平君までが、 「ばくはお金のかからない都立高校に行くから : : : 。」 こうして、家族全員が大輔の横浜高校入りをバックアップしたのであった。 経済的には貧しかったが、松坂家の家族は明るかった。いつも笑いがあり、家族団ら んがあった。そういう家庭環境の中で育ったからこそ、あの大輔のさわやかな笑顔は絶 えないのではないだろうか。 横浜高校に進学を決めた日、彼は両親にキッパリと言った。 こ、つしえん 「オレ、横浜高校に行って、かならず甲子園に行って勝ってみせるから : : : 。」 むすこ よこはま まっざか かれ すがた だいすけなや
ぶたい た大輔は、オリンピックという舞台を目の前にして、 「小さいときからの目標だったプロ野球選手になったいま、次は自分が世界でどこまで 通じるか、ためしてみたい。」 と思うのはとうせんだった。 たいわん その大輔がマウンドに立ったのは、決勝リーグ初戦の台湾戦であった。この試合に勝 てば、シドニー五輪への出場がグ 1 ンと近づく。そういうだいじな試合である 「日の丸というものを背負って、ひさしぶりに負けられない気持ちです。 うわん という大輔。その右腕には、国民の期待がかかっていた。 初回、 2 回と相手打線をピシャリとおさえたが、 3 回につかまった。一死一、二塁か とうそうほんのう らセンタ 1 前に打たれ、先制点を許してしまうのだ。ここで大輔の闘争本能に火がつい た。後続バッターをおさえてピンチを脱出。その後は、 6 回に 1 安打を許すだけのみご となピッチングを見せるのだ。 そんな大輔にこたえるかのように、日本の打線もようやく目をさました。 4 回に初芝 まつなか 選手 ( ロッテ ) が二塁打を打っと、松中選手 ( ダイエ 1 ) がタイムり 1 を放って、すぐ こ、つぞく はっしば 149
た安打はわすかに 3 安打。だれもがこのまま、勝ち進むだろうと見ていた。 先頭打者への初球、かんたんにストライクを取りにいった外角ストレートをライト前 に打たれてからリズムが変わった。まさか初球から打ってこないだろうとストライクを だいすけ 取りにいった球だ。 ( しまった ) と思う気持ちが、十七歳の大輔の心を大いにゆるがし たのである。 次の打者がバントをしてくる。ふだんなら、楽に処理する大輔が、あわてて捕りそこ ねてしまい、無死一、二塁のピンチをまねいた。自分の不注意でまねいたというあせり か、さらに大きなミスにつながった。 ば、つけ・ん 次の打者には、もう冒険はできない。相手のバントをむりせず、一塁でアウト。 さいさんさいし 試合の流れというのは、不思議なものだ。再三再四、チャンスを作りながらも、まず い攻めでそれをのがした横浜高校が、わずか 1 本のヒットから絶体絶命のピンチに立た されてしまったのである。 精神的に追いこまれると、どんな投手でも力で勝負をしようと思うものだ。 ピンチをまねいてからの大輔は、さらにストレートが多くなっていった。横浜商業打 よこはま ぜったいせつめい よこはましよ、つぎよ、つ
と、つよ、つ 東京都大会に敗北した「東陽フェニックス」は、六年生が去り、五年生以下の新チ 1 そうこう ムになった。その六年生を送る壮行試合のことだ。相手は強豪「オール東京」である。 だれもが負けるにちがいないと思っていたのが、なんと勝ってしまったのだ。 「このときです。ばくたちもやればできるという気持ちがめばえたのは : : : 。夏休みの 、も、つ もんく 間、休みなしの猛練習。でも、だれも文句一ついわず参加したのです。これだけやれば、 だいすけ 来年は強いチ 1 ムになるぞって、大輔たちと話していたんです。」 きむら 大輔をチ 1 ムにさそった木村選手は、のちにこういっている。たしかに、木村・松坂 を中心にした「東陽フェニックスーは強かった。よく年の夏には、ふたたび、江東区で 敵なしのチ 1 ムになっていた。 「目指すは東京一ー それが目標だっただけに、江東区の大会で優勝しても、みんなあたりまえのような顔 をしていた。 大輔にとって、東京ド 1 ムでの二度目の開会式。彼は胸を張って入場行進した。 いあっかん 「どうどうと歩けば、相手に対しても威圧感をあたえられる。」 、」、つ A 」、つ かれむね きようご、つ 一」、つレ」、つ
あった。少年時代にいろいろなスポ 1 ツをやることが、やがて自分の進む道でかならす 役に立つ。その意味では、まさしく松坂大輔選手も、その一人だろう。 はい」んりよく 松坂選手がプロ入りしたときの背筋力は、 158 キロ。そのケタハズレの強さは、も ちろん、その後の訓練もあるが、幼いころに剣道をやっていたことと無関係ではない。 すぶ 上段から振りおろす素振りげいこを、毎日百回続けてきたことが、その背筋力を作った といってもいいすぎではない。 「剣道をやっていたことが、大輔のあの腕力と上半身を作ったんだろうな。ウェイト・ トレ 1 ニングなどの人工的な方法だけでは、あそこまでバランスのいいきたえ方はでき ないよ。とくに、大輔の投球フォームを見ればわかるけど、″スリ足〃で投げるところ に特長がある。あれは、剣道の″スリ足〃できたえられたためだと思う。大輔の原点は、 まちがいなく剣道だ。」 強じんな背筋力、それにステップをするときの左足のじようすな使い方を見ながら、 ひがしおかんとく 東尾監督がもらしたことがあった。 そんな大輔の気持ちは、やがて剣道から野球に移っていく。両親の「将来は野球選手 わんりよく しようらい