いんです」 「ロールシャッハの ? 「ええ、ロールシャッハ ・テストの定本となるような解説書をお願いしますー 「うーん、そうだなあ」 「締め切りを決めませんか。来年月でどうですかー 「自信ないな」 「じゃあ、来年月を目標ということで」 「うーん、来年肥月を目標にするかええっと : : : 何だっけ。定本を書くんだったつけ ? 」 「ええ、ぜひ、画期的な標準となる解説書をお願いします」 話は簡単に片づいてしまった。 2 時間ばかり、どうでもいい話をしていた。ソフトの販売と解 説書の執筆を簡単に引き受けたが、この時点で、私はロ 1 ルシャッハ ・テストについては何も知 占 らなかった。計算手続き以外のことはすべて千恵子にお任せだった。片口さんの本を読めば何と ミかなると簡単に考えていたが、これは大きな間違いだった。いくら読んでも意味不明だし、概念 シ の規定があいまい過ぎて、参考にならなかった。結局、大いに困った。 ク ン片口さんの本から離れ、クロッパーやエクスナの原著を読み、概念定義をやり直して、ようや く本の形になった。これが我々の最初の本で、村上宣寛・村上千恵子「ロールシャッハ採点シス 章 第テムー ( インフォメ 1 ションサイエンス社、 19 8 6 年 ) となった。後に改訂し、「ロ 1 ルシャッ
・テストの成り立ち ヘルマン・ロールシャッハの人物像 ヘルマン・ロ 1 ルシャッハは 18 8 4 年スイスのチュ ーリッヒで生まれた。彼の顔写真は 5 枚 ある。ここにはロ 1 ルシャッハが代の写真を掲げておこう。ロヒゲを蓄えたハンサムな青年で ある。映画俳優のプラッド・ピットに似ている。彼は甘く端正なルックスだが、美男子役は少な 、暴力・犯罪映画など、癖のある役ばかり好んで演じ続けている。ロ 1 ルシャッハの研究もル ックスとは裏腹に、人間の心の闇を見つめた、一癖も二癖もある内容ばかりだ。 ロールシャッハは長身、痩身、金髪で、表情に富み、生気にあふれ、動作はきびきびとして、 早ロだったという。また、親切で快活でユーモアに富み、気分のムラがなかった。興味の幅は広 自動解釈プログラムを作ってみると、いつの間にか我々は世界のトップに立っていた。そして、 ロ 1 ルシャッハの解釈仮説を再検討すると、実証的根拠がほとんどないことに気づいた。すべて は臨床家の直感に基づいて組み立てられていた。我々は「なぞときロールシャッハー ( 学芸図書、 1988 年 ) を執筆し、しばらく考え込んだ後、この分野から撤退することにした。 ロールシャッ \
神診断学」が出版された。 出版は完全な失敗で在庫の山となった。図版のサイズが小さくなり、黒枠は取り払われた。色 も違っていたし、印刷ムラがあちこちにできた。印刷所の不手際から濃淡の要因が持ち込まれた が、ロールシャッハはこれを見て新しい可能性に気づいた。ところが、 19 2 2 年、彼は重度の 腹膜炎で死去した。ロ 1 ルシャッハの死後、陰影反応のカテゴリーがハンス・ビンダーによって ・テストの標準図版 追加された。ビルヒャー社の出来損ないの図版は、現在ではロ 1 ルシャッハ として配布されている。 ロールシャッハの行った知覚実験 ロ 1 ルシャッハは、正常者 117 名、精神分裂者 188 名、その他の精神障害者 100 名、計 う 405 名にインクのシミから作成した図版を見せて、何に見えるかを答えさせ、反応の形式的側 面を分析した。つまり、 で シ の 反応数はどれくらいか ? 反応時間はどれくらいか ? 図版に対する反応の拒否はどれ ク ン 章 第 * 2 【ロールシャツ、、 ・片ロ安史 ( 訳 ) 「精神診断学ー知覚診断的実験の方法と結果ー ( 偶然図形の 年。 判断 ) 」金子書房、
・テストー自動診断システムへの招待ー」 ( 日本文化科学社、 1991 説書であった。 唯一のエキスパート・システム 「ロ 1 ルシャッハ採点システム」を執筆するにあたり、千恵子は金沢のロ 1 ルシャッハ研究会に も参加して、勉強したが、水準はものすごく低かった。クロッパーやエクスナの原著を読んでい るメンバーもいなかった。解釈文といっても数行位しか書けなかった。ルールべースの簡単なエ キスパート・システムを書けば、金沢のロ 1 ルシャッハ研究会など、簡単に凌駕してしまうはず ロールシャッハ ・テストの解説書となると、事例解釈の章が不可欠である。ここで千恵子と完 全に対立し、バトルを繰り広げた。千恵子は量的比率の計算に基づきながら、図版一つ一つに共 感的理解を加えつつ解釈する伝統的なやり方だった。冷血漢の私は日本人の標準得点を視野に入 れた、徹底的なルールべースのアプロ 1 チで解釈した。それぞれが自分のやり方で解釈し、事例 とどの程度合っているかを議論した。 私の機械的なアプロ 1 チにははっきりとした利点があった。千恵子の伝統的なアプローチでは 解釈がテスタ 1 の共感的理解力に影響される。はっきり言えば、育ちの良い千恵子には、彼女と まったく違った環境に育った精神障害者を理解することが困難で、実際より良く解釈する欠点が 年 ) となる画期的な解
から「シミ」というあだ名で呼ばれていたという。 1904 年にシャフハウゼン州立学校を優秀 な成績で卒業した。父親が絽歳の時に死去したためか、医学を志した。 1909 年に、ミュ 1 スターリンゲン州立精神病院に就職し、 1913 年まで勤めた。この間 に学位を取り、その後、いくつかの病院を転々とした。学問研究の機会は与えられなかった。 1 914 年、ヴァルダウ精神病院での勤務も俸給が少なく、仕事も面白くなかったが、研究する時 間があった。この時、ロールシャッハは民族学にも興味を示し、次第に伝統や迷信に関する資料 を集め、土着の宗教研究に没頭した。その研究は彼のライフワークになり、 4005500 ペ 1 ジの本にまとめられる予定だった。 1917 年、インクのシミ検査が、精神診断の手段として使えることに気づいた。突然、ロー ルシャッハは宗教研究を放棄した。 1918 年にインクのシミ図版を作成して、正常者と精神病 者にインクのシミ検査を実施し、反応を比較する研究に没頭した。 そのうち枚がよく用いられた。ヘリ ロ 1 ルシャッハが作成した図版は枚くらいだったが、 ザウの医学会で発表したが、理解されなかった。彼はあちこちの出版社に原稿を送ったが断られ、 スプリンガー社のみは受け付けてくれた。しかし、図版を 6 枚に減らすように要求された。ロ 1 ルシャッハはこれを拒否し、原稿を書き直して、他の出版社に送った。ようやくべルンのビルヒ ャーという小さな出版社が引き受けてくれたが、図版を枚も印刷できないと言われた。それで ロールシャッハは図版を 2 枚に減らし、もう一度原稿を書き直した。 1921 年にようやく「精
インクのシミが明らかにするのは、唯一、それらを解釈する検査者の秘められた世界で ある。これらの先生方は被験者のことよりも自分自身のことをたぶん多く語っている ( ア ナスティシ、 19 8 2 年 ) 。 占 を で 著者らのロ 1 ルシャッハ自動診断システム ( ver. 6.1 ) の解釈結果も以下のページの図 3 ・ 3 に 6 参考までに掲げておく。 ク ン 章 第 上記の 3 名がロ 1 ルシャッハの専門家として、長い間、あがめられてきた。これはどこか、狂っ た状況である。 3 名の「めくら分析ーは大外れだった。このことに気づかないはずはない。その 証拠に「めくら分析ーのシンポジウムは、これが最後となった。必ず外れる分析など、したいと は思わないだろう。 ・テストの妥 日本ではあまり知られていないか、アメリカではかなり以前からロールシャッハ 当性について、批判的意見がある。テスト研究者として有名なアナスティシの言葉を、この 3 名 に捧げることにしよ、つ。 ・テストの自動診断システム」計量行動学、 19 8 9 、 * 6 【村上宣寛・村上千恵子「ロールシャッハ ワ】っ 0 * 7 【 http://deltabravo.net/custody/rorschach.htm 113
があった。しばらくすると、彼女はアルバイトの形で、ロ 1 ルシャッハ ・テストを実施するため に精神神経科に通うことになった。 千恵子は依頼されるとすぐにロ 1 ルシャッハ ・テストの達人になり、教室で活躍しだした。し かし、まもなく、音を上げ始めた。記号の整理が面倒なのである。電卓だと、毎回、同じ集計作 業をしないといけない。なんとか、ならないかという。もちろん、プログラムを作れば一瞬で集 計可能になる。 集計ソフトは、片ロ安史の「心理診断法詳説ーロ 1 ルシャツ、 ノ・テストの解説と研究」 ( 金子 書房、 1984 年 ) を頼りに作っていった。絶対に間違いは許されない。本を読んだだけでは計 算手続きがわからないことも多かった。千恵子は著者に直接手紙で問い合わせた。 1 、 2 カ月で 集計ソフトが完成した。で 5 0 0 0 行か 6 0 0 0 行だった。 鮎何とか自動プログラムを完成 で プログラムが大きいので、パソコンのメモリを占拠し、のろのろとしか動かなかった。ただ、 シ の医薬大にはー 9801 というビットの最新マシンがあったので、私のマシンよりはるかに ン高速で動作した。入力部分は手抜きをして専用の行エデイタを作った。入力作業はあまり快適で はなかったはずだが、それでも、効果は素晴らしかった。集計作業が完全に自動化されてしまっ 章
関係することがわかった。また、ロールシャッハ・デ 1 タは他の質問紙の結果とは何の相 ・テストの変数の平均は、エクスナの基 関も無かった。さらに、大学生のロ 1 ルシャッハ 準とは大きく異なっていて、大部分の学生は精神病と診断されそうであった。 1995 年と 1996 年にエクスナ法に対する重大な批判論文が提出され、何年間も論争が続 いた。その内容を以下に紹介しておこう。 検査者でコロコロ変わる ・テストはインクのシミ図版を見せて、被験者に何が見えたかを聞くが、テス ロ 1 ルシャッハ トの後、ペ 1 ジに簡単に説明したように、反応領域、反応決定因、反応内容などを記号に置き 換えて整理する。例えば、最初の図版で「コウモリ」と反応したとする。インクプロット全体に 対する反応で、特に色彩や動きを報告しなければ、 という記号に置き換える。すなわち、反応領域は全体反応、反応決定因は形態反応、反応 内容は動物反応 < を表す。形態水準は + 一で、ありふれた反応なので平凡反応を追加している。 これは単純な例だが、現実には記号化の手続きは複雑で、多くの記号がある。そうすると、同 じテスト結果でも、臨床家によって、異なった記号を付ける場合がある。テストをする度に結果 120
「先生、作ってくださいよ」 「いや、開発には企業の協力が必要だ。それに、今は時間が無くてね。血液型人間学とか、ロー ルシャッハとか、とか、内田クレベリンとか、世の中に害毒を流している理論や心理テスト の啓蒙書を書くのに忙しくて。悪いが、君との話もこれくらいで勘弁してくれないかな。ページ も尽きてしまったし : ・・ : 」 226
あった。また、ロ 1 ルシャツ、 ノ・テストには標準得点の考え方がなく、世界中で同じ解釈基準を 適用することになっていた。しかし、アメリカ人と日本人では平均がまったく違う指標も多かっ た。これは明らかに間違っていた。どうして誰も指摘しないのだろうかと思った。 「ロールシャッハ採点システム」の事例解釈は、量的比率を標準化してル 1 ルべ 1 スの観点から 解釈することにした。私が予想していた通り、ロ 1 ルシャッハの集計ソフトは 1 年でたった三つ 売れただけだった。それでも出版社は平気だった。パ ソコンばっ興期のことで、文化を生み出し ているという自負、いに酔いしれていた。 売れ行きを上げるには自動解釈しかない。私はこう考えて取り組んだ。出版直前から解釈ル 1 ルの収集を始め、半年あまりで 260 のルールを執筆した。今、思えば、売れ行きを心配してい たのは私だけだっただろう。編集者のは別会社を立ち上げていたし、社長はあぶく銭を山ほど 持っていた。もっとも怪しげな仕事が得意だったから、後に絵画取引で監獄にぶち込まれた。し 占 をかし、文化的貢献は彼の生き甲斐だった。決して真の悪人ではなかった。 で ソフトをバージョン 2 とし、名称を「ロ 1 ルシャッハ自動診断システム」と変更して 19 8 7 シ の年川月から売り出した。自動的に 2000 文字程度のレポ 1 トが出力されるというスグレモノで ク ンある。で 8000 行を超えた。ソフトは売れ始めた。といっても数十だったが、世界 にたった一つのエキスパ 1 ト・システムである。関係者は鼻高々だった。売れても、売れなくて 章 第も、そんなことはどうでも良かったのだ。