柏木らは相関が 0 ・ 10 以上の形容詞を挙げているが、統計的な有意水準にも達していない ここまで拡大解釈するのは間違いである この研究の大きな欠点は 5 因子モデルとの関係を調べると言いながら、個別の形容詞との関係 を調べただけである点だ。その値も 0 ・ 20 前後にとどまっている。性格特性とは、さまざまな 行動特徴を集めたものであると先にも述べた。個別の言葉との関係を取り上げるのではなく、外 向性なら外向性に関する言葉の集合を取り上げないといけない。もちろん、そうすると、何の関 係も出ないのである。だから、個別の言葉を取り上げたという訳だ。これでは、血液型人間学の 支持者たちの研究に近い。 古い言い回しを思い出した。針小棒大である。広辞苑を引いてみると「針ほどの小さいものを 棒ほどの大きさに言う意」とある。柏木は昔、旧国鉄の労働科学研究所にいて内田クレベリン検 査を大量に実施していた。後に千葉大学に移り、現在、城西国際大学で教鞭を執っているが、内 田クレベリンとの関わりは架い。 共著者の山田は日本・精神技術研究所に所属している。 現在、柏木は日本・精神技術研究所と袂を分かって、インタ 1 ネットのウエプ上とマークカー ドで実施できるクレベリン検査を開発し、研究所から商用配布している。占いよりは当た るかもしれない。しかし、とても人に勧める気にはなれない 218
内田クレベリン検査は 1940 年代に、産業界、教育界など、さまざまな分野で使われるよう になった。日本国有鉄道 ( »--æの前身 ) で運転者の適性検査として使われたのが大きかった。内 田は 1947 年に私設の「日本・精神技術研究所」を設立したが、実態は自宅の一室に色々な人 がおしゃべりに来るだけであった。名称に「・を入れたのは「日本精神」と読まれて右翼団体 と間違えられたためだという。 内田勇三郎は五高に勤めていた時期を除くと定職についていない。嘱託や非常勤の仕事しかせ す、本は読まない、論文も書かないという″研究生活〃を送った。極端な筆無精で、手紙も書か なかった。生涯の間に、内田クレベリン検査についての論文が一つ、本が一冊あるだけである。 書斎で勉強するタイプではなく、仲間と飲み食いしながら″研究″した。 十歳年長の兄清之助も在野の研究者として一生を過ごした。勇三郎と違って、書斎の人で、鳥 類図鑑などの著書が多い。定職につかなくても暮らしていけるだけの資産家だったらしい 息子の内田純平によると、勇三郎の母はものすごく潔癖な人で、勇三郎自身も常軌を逸した潔 癖性だったという お金を全部消毒していたというエピソードがある。硬貨は全部クレゾール液につけてしまい、 紙幣はクレゾ 1 ル液を染みこませた脱脂綿でふいて広ロビンに保管したという。電車に乗っても つり革には触らないようにしたし、つかむ場合でも電車の切符を挟んでつかんだという。 子供たちにもアルコールを染みこませた脱脂綿を真鍮の容器に入れた物を持たせ、弁当を食べ 196
卒論で血液型研究に取り組む 昔々のこと、ゼミ生の木地さんが 「先生、私、血液型の研究をしたいんですがーと言った。 「何、それ」 「あれ、先生、知らないんですか。血液型がわかれば、気質とか、対人関係とか、趣味とか、み んなわかるんです」 「マジでそんなこと信じてるの ? 」 「みーんな、信じてますよ。先生、何言ってるんですか」 「ふーん、そんなはずないと思うけどね。まあ、卒論のテーマにしたければ、してもいいよ。で も、何か関連論文を探してこないとねー 「じゃあ、血液型の研究にします。論文、何とか探してきますー 村上ゼミでは卒論のテーマは自由だ。たった一度の研究だし、興味のあるテーマで卒論を書い た方がやる気も出る。学生が自分でテーマを決める。研究計画も学生が考える。ただ、教育学部 の学生だから、専門的能力が無いので、研究計画や分析計画は私が手伝う。私にとっても勉強の いい機会と考えた。学生がテ 1 マを決め、私がフォロ 1 する。ギブ・アンド・ティクのルールだ。
血液型人間学のル ] ツを探る 古川の血液型気質相関説 血液型の発見は世紀初頭の画期的な出来事だった。ョ 1 ロッパにも血液が生命の源であり、 血液の性質が人間の性質に関係するという信仰はあったが、式血液型と性格とを結びつけ たのは、日本の医者たちだった。その中で、最も大きな影響を与えたのは古川竹二の研究である。 古川はもともと教育学者で、教育史や女子教育の研究をした。親戚に医者が多かったため、生 理学や心理学に興味をもっていた。最初の血液型の論文「血液型による気質の研究」は、 192 < 7 年の心理学研究に発表された。だから、古川を教育心理学者としておこう。 の 血液が生理上重大なる役目を演じていることは何人にも考えられる所である。この重大 ん み なる人体の要素たる血液に種々の相違があるとすれば、したがって各人の心理的相違と何 らかの因果関係がありはしないであろうか、と考え、吾人はます血液四型と気質との関係 章 第 1 ワ」ー、 1 亠ワ」ーー、 6 00 -4 * 8 【古川竹一一「血液型による気質の研究」心理学研究、
から「シミ」というあだ名で呼ばれていたという。 1904 年にシャフハウゼン州立学校を優秀 な成績で卒業した。父親が絽歳の時に死去したためか、医学を志した。 1909 年に、ミュ 1 スターリンゲン州立精神病院に就職し、 1913 年まで勤めた。この間 に学位を取り、その後、いくつかの病院を転々とした。学問研究の機会は与えられなかった。 1 914 年、ヴァルダウ精神病院での勤務も俸給が少なく、仕事も面白くなかったが、研究する時 間があった。この時、ロールシャッハは民族学にも興味を示し、次第に伝統や迷信に関する資料 を集め、土着の宗教研究に没頭した。その研究は彼のライフワークになり、 4005500 ペ 1 ジの本にまとめられる予定だった。 1917 年、インクのシミ検査が、精神診断の手段として使えることに気づいた。突然、ロー ルシャッハは宗教研究を放棄した。 1918 年にインクのシミ図版を作成して、正常者と精神病 者にインクのシミ検査を実施し、反応を比較する研究に没頭した。 そのうち枚がよく用いられた。ヘリ ロ 1 ルシャッハが作成した図版は枚くらいだったが、 ザウの医学会で発表したが、理解されなかった。彼はあちこちの出版社に原稿を送ったが断られ、 スプリンガー社のみは受け付けてくれた。しかし、図版を 6 枚に減らすように要求された。ロ 1 ルシャッハはこれを拒否し、原稿を書き直して、他の出版社に送った。ようやくべルンのビルヒ ャーという小さな出版社が引き受けてくれたが、図版を枚も印刷できないと言われた。それで ロールシャッハは図版を 2 枚に減らし、もう一度原稿を書き直した。 1921 年にようやく「精
でたった 2 4 0 0 円ほどだったことだ。奥付によると、ジェイムズ・ウッドとテレサ・ネズワ 1 スキーはテキサス大学の心理学の準教授、スコット・リリアンフェルドはエモリー大学の心理学 の準教授、ハウアド・ガープはピッツバ 1 グ大学の精神医学の準教授だった。著者たちはすべて ・テストを容赦なく 準教授である。つまり、若手の身分の不安定な準教授たちがロールシャッハ 批判した書物が大量に売れている。それなのに、日本の臨床心理学の専門家は知らぬ振りである。 都合が悪過ぎるということだ。 " 世界標準。とされるエクスナ批判の潮流 ウッドたちによると、″世界標準〃のエクスナ法に関する文献は、大部分がロ 1 ルシャッハ・ ワークショップの研究に基づいている。しかし、ほとんどの文献は未公刊で入手できなかった。 ェクスナの本にはデータ収集時の手続きや研究法がほとんど書かれていない。また、エクスナの 研究計画や統計法には誤りがあり、違う場所で行った同一のワ 1 クショップでは、本ごとに数字 が違うし、同じ本の中で数字が違うこともある。ェクスナの研究は、違う研究者が行うと、まっ たく違った結果になり、再現性がない。 ェクスナ法批判は 1990 年代中頃から始まったが、エクスナと異なる結果は 1980 年代に 行われた大学院生の論文に端を発する 118
ロールシャッハとのなれそめ 医大からきた協力依頼 昔々のこと、研究室で仕事をしていると、突然、電話がかかってきた。 「医薬大のと申します。突然の電話で、誠に申し訳ありません。実は、研究室でロ 1 ルシャ ・テストをやろうとい、つことになりましたが、我々ではまったくわからないものですから、 先生にご教示いただけないかと思いまして、お電話を差し上げた次第です。 これに対する私の返答は、冷血さの点で 100 点満点であった。 ・テスト ? 解説書があるから読めば誰でもできるよ。講師料、いくら払うん 「ロールシャッハ 電話はすぐに切れた。私は自分の研究時間を確保できた。この頃、私はパソコンー 880 1 を苦心して入手し、プログラミングを勉強しているところだった。時間はいくらあっても足り なかった。おそらく、 1984 年の出来事だと思う。 ・テストは専門外なので、誰かに教えても 医薬大の精神神経科教室としては、ロールシャッハ らう必要があったのだろう。数カ月後、人文学部の知り合いの先生を通じて、妻の千恵子に依頼
ロールシャッハ産業は途方に暮れている 日本には二つのロールシャッハ学会がある。「日本ロールシャッハ学会」と「包括システムに よる日本ロールシャッハ学会」である。いずれも川年に満たない学会だ。後者はエクスナ法限定 である。閉鎖的な学会なので、中でどのようなことが行われているか、部外者にはわからない。 ただ、大部分の学会員がロールシャッハ ・テストは科学的で、診断力があると信じていることは 確実だ。学者の偏差値も低下して久しい。英語の本が読める人は少ない。ウッドたちの本を読ん だ人はどれくらいいるだろう。大学教授だから賢いとは、決して思ってはいけない。 さて、インターネットのウエプ上の論文から、マッキンゼイとカンパ 1 ニアのお別れの言葉を プレゼントしておこう。 現在、ロールシャッハ産業は途方に暮れている。当事者も批判者も、基準デ 1 タと変数 のいくつかは利用価値がないことに気づいたところだ。今や批判者は研究論文はすべてメ チャクチャで破棄すべきだと議論している。ロールシャッハ産業は、研究、教育、患者の 記録に多大な時間を費やしたくないので、まだ、救える物はないかと試みている。基準デ 1 タはもう一度処理され、記号の正確さを増す努力は行われている。しかしながら、ロー ルシャッハのエクスナ法についての研究論文が集まるとしても何年もかかる。ところで、 136
いが、膨大な実験研究で裏付けられていることも確かだ。 興味深いプロッキング現象 精神的疲労には、瞬間的に実行が止まってしまうという興味深い現象がある。これを不随意的 休止期とかプロッキング現象と呼ぶ。クレベリンの連続加算作業は、この現象の最初の体系的な 研究であった。 プロッキング現象について、 1930 年代からは行動主義的学習理論の下で研究が行われた。 当時の学習理論によれば、集中練習期間中に反応制止という負の動因 ( 精神的疲労のこと ) が蓄 ス 積されていく。それが正の動因 ( 仕事に対するやる気 ) と同じになった時に有効動因がゼロにな テ 理 り、実行が止まってしまう。つまり、 観 客 遂行 ( 正の動因ー負の動因 ) x 習慣強度 る れである。反応制止はプロッキング現象の間に消えてしまうので、短期間の休止の後、再び作業 多が開始され、反応制止が正の動因に等しくなるまで続く。そして、プロッキング現象が起こる。 験これが繰り返される。 用 アイゼンク理論によれば外向性の人は条件性制止が蓄積しやすいので、内向性の人よりも頻繁 章 * 【アイゼンク、・・梅津耕作・祐宗省三 ( 訳 ) 「人格の構造ーその生物学的基礎」岩崎学術出版 上亠、、 t ーっ 0 第 年。 207
* 8 この基本的な問題に焦点を当てたのが、續・織田・鈴木の研究である。を高校生と大学生 合計 600 名に実施し、 120 項目の相関行列を作成し、因子分析を行った。因子は最大七つ求 められたが、 第三因子までで・ 2 % が説明できた。つまり、の質問項目を分類すると 3 グ ループとなった。質問項目の内容を検討すると、「対人関係」「劣等感」「活動性」に関する尺度 になる A 」い、つ 結局、のの性格特性は幻想にすぎなかった。研究論文が掲載されたのは、教育心理学研 究という有名な学術誌である。専門家なら誰でも読めるはずだ。この程度のことも知らない研究 者や人事担当者が多過ぎる。人の採用にを使うのは無知の証明にほかならない 性格特性論の世界のすう勢 特性論の歴史を簡単にまとめておこう。 ・オ 1 ルポ 1 トとオドバ ートは 1936 年にウエプスターの新国際辞典から性格特性用語を 4504 語抽出した。同時に、特性論を提案し、大きな影響を与えた。 ・ギルフアドは 1930 年頃から因子分析法で性格因子を探求し、因子性格検査 ( 1940 年 ) 、因子性格検査、—因子性格検査 ( 19 4 3 年 ) 、ギルフアド・ ツイママーン気質調査 ( 年 ) などを作成した。↓日本では前三者から抜粋して 172