先に動いているのは、そういう縁なのだろうと。 前野なるほど。 松本親鸞聖人は「さるべき業縁のもよおせま、 ーいかなるふるまいもすべし」といってい ます。縁が生じてしまえば、誰だってどんな振る舞いをするかわからないという意味です。 前野ぼくには受動意識そのものについて話しているように聞こえますね。 松本自分の意志でやってるつもりのことでも、いろんな縁の積み重ねで起こってるんだ よ、とい一つことですよね。 前野まさに。 松本親鸞聖人は、自分が意志決定をしているということをカッコに入れちゃっていた方 だと思います。だからもし前野先生から受動意識仮説を聞いても「まあ、そうだよね」と おっしやりそうです ( 笑 ) 。 前野いやあ、参りました ( 笑 ) 。 アメリカの 松本親鸞聖人の晩年の境地といわれる「自然法爾」は、あるがまま、 瞑想プームと そのままという意味です。 自然法爾 前野レット・イット・ゴーですね。 0 9 3 じねんほうに 無意識対談② x 松本紹圭
では、わたしたちの意識は、何もできないダメ社長なのでしようか。 わたしは、そうではないと考えています。 会社全体のことを考えてみてください。社長があれこれいわなくても、現場を熟知して いる有能な社員たちに全部を委ねてしまうことでうまくまわっている会社はたくさんあり ますね。むしろそのほうが理想的だという職場も少なくありません。意識と無意識にも、 そういうあり方が可能だと考えています。 例えば「明日は早起きしなくちゃ」と強く意識しても、それができるかできないかは優 秀な社員たち次第です。じゃあ、何もしなくていいのかというと、それも少し違います。 従来の意識や意志の優位性を信じるサーチライトモデルでは、「早起きしよう」という 意志の強さが重視されました。また「起きられた」「起きられなかった」という結果にも、 自分の意志の足りなさや強さに一喜一憂することになってしまいます。しかし、わたしは こうした意識の働きには、ほとんど有効な意味はないと考えています。むしろ、ただ疲れ てしまい、社員たちに余計な仕事を押しつけているのではないでしようか。 わたしたちを動かしているのは、無意識です。だとすれば、意識はもっと自然体のまま リラックスして、彼らⅡ無意識に委ねてしまってはどうでしようか。そうすれば、社員た 014
前野「南に無い」という漢字に意味はないんですか ? 松本意味はありません。これはサンスクリット語から音訳した当て字の漢字です。です から、文字通りに解釈すれば「阿弥陀仏様に帰依します」という意味になります。で、阿 弥陀仏はアミターバ ( 無量光Ⅱ限りない光 ) とアミターユス ( 無量寿Ⅱ限りないいのち ) という二つの言葉から来ています。 前野そんな意味があるんですか。知りませんでした。 ーしただ、おもしろいのは、そういう意味は持っているんですが「ナムアミダブ とな ツ」ましてや訛って「ナンマンダブ」なんて称えると呪文みたいですよね。 前野 ええ。日本語ではないですもんね。 松本意味性を感じられないことばを、人生の傍らに置いておくのが大切じゃないかと思 うんです。ことばを開いてしーこ 、ナま、その背景に物語がある。意味をひも解けば、理解もで きる。でも音としては無意味にも聞こえる。その無意味さが重要なんです。 前野無意味さ、いいですね。 松本禅宗のお坊さんに「念仏が羨ましい」といわれたことがあります。例えば飛行機が 墜落するようなとき、覚悟を決めなくちゃいけないというときに、座禅するのは難しいで すよね。そういう極限状況でも、念仏ならポータブルに持っていけるというのです。たし 0 7 2
ろうと思うんです。「自分で意志決定ができないなんて、どうすればいいの」と不安を感 じて、どうしてもストーリーを描いちゃう。すると、運命はすべてあらかじめ決められて いるんじゃないかという運命決定論的なイメージになると思うんです。 とわたしは考えています。 前野そうではない、 松本わたしもそう思います。「すべては縁によって成り立っている」と説いた釈尊も、 弟子から同じような質問を投げかけられているんですよ。 松本じつは釈尊はこれに答えていません。そうだとはいえないし、そうでないともいえ ないとしている。これはわたしの解釈ですが、二元論的なビジョンではどうしてもそうい うとらえ方になってしまうから答えなかったのではないでしようか。でも、非二元論的な ビジョンから見れば、それは我々が囚われている物語による解釈に過ぎないんです。そこ が腹落ちできれば、不安は感じない。 前野松本さんは、どう受け取られましたか ? 松本わたしも受動意識仮説は、運命決定論ではないと思います。仏教の「縁によって成 り立っている」を、前野先生の科学の立場から意味づけると「受動意識仮説」ということ になるのかな、と受け取りました。だから、手を動かそうと意識するより前に、手がもう 0 9 2
は神かもしれない」なんて自我を肥大化させてしまうことがあるんです。インターネット うぞうむぞう は良くも悪くも有象無象の世界なので、ビジョンを我流で扱ったときの危険度が増す部分 もあるかもしれません。 前野なるほど。 松本仏教は、そういうビジョンをどう受け止めるべきか、解釈すべきかを、かなり精緻 丁寧に整理してくれていると思っています。歴史の蓄積に裏打ちされたものがありま すから。 前野そういうふうに仏教の役割を位置づけておられるんですか。納得です。 科学からの ぼくはある意味、我流でやっているんですよ。脳科学から見ると、 垂直 自由意志はどうやら幻想に過ぎない。論理の側からアプローチして、仏 アプローチ 教の語るビジョンに真実味を感じているんです。我流というか、現代流。 これはどう見えますか ? 松本前野先生は探求者だと思いますよ。 前野ありがとうございます ( 笑 ) 。仏教はおそらく哲学と同じように演繹的にやっている。 ぼくは科学的・統計的な証拠主義。つまり帰納的にやっているんだけど、同じところに到 無意識対談② x 松本紹圭 10 3 えんえき
ちはもっとのびのびと働けると思うのです。無意識に委ねることは、新しい生き方につな がるかもしれません。ただし、正確にいえば、意識下で「無意識に委ねてしまおう」と意 志決定するとき、じつはそれ以前に無意識下で、すでにその意志決定はなされているので はありますが。 また、わたしたちが日々交わしているコミュニケーションは言葉や表情、身ぶり以外の 部分が重要な意味を持っことがわかっています。 独創的なロボット研究で知られるー出家ーがおこなったロ ボット演劇という試みをみると、一見不要で無駄に見える動作や間の存在がロボットに「人 間らしさ」を与えていることが一目瞭然です。わたしたちはこのような動作の揺らぎを衄 意識のうちに感じ取っているのです。無意識を知ることは、コミュニケーションを変える 可能性も秘めているといえそうです。 それだけではありません。「直感」や「ひらめき」は、意識されないところから「降ってくる」 「降りてくる」ものです。こうしたイノベーテイプな発想の源泉にも、無意識の働きが関 わっています。無意識を整えるようなライフスタイルを持っことは、彼らの本当の声を聞 イントロダクション 0 1 5
意識を向けることも、コーリングになりえそうですね。 松本そうですね。 前野話を大筋に戻しましよう。先ほどアメリカ 「次」の システム の話が出ましたが、アジアの上座部仏教における ではなく 暝想の流れがアメリカを経由して「マインドフ 「脱」けだす ルネス」という形で、日本に再上陸しています ね。グーグルで開発されたという瞑想プログラム「 (Search InsideYourself\ サーチインサイドユアセルフ ) 」は、暝想で心を 落ち着けることで社員のパフォーマンスを高めるとされています。 だから、みんなでやりましようというのですが、こういうスタンス は、仏教の考え方とずいぶん異なっている気がするんですよ。これ は O なんですか ? 松本やらないよりはいいんじゃないでしようか。サーチインサ イドユアセルフは自分自身の内面をサーチして、理解を深めるこ とですよね。人生においてこれほど大切なことはないと思います。 0 9 8 一マインドフルネス米グーグルが 2007 年から集中力や創造性を高める ため社員の研修に導入したことや、米 誌が特集を組んだことから近年注 目を浴びている。「意図的に、今この瞬 間に注意を向けること」を意味する英語 mindfuIness)0 仏教の瞑想法の技術 を元にしているが、「呼吸に意識を向け る」「食事をよく味わいながらとる」「足 の裏の感覚を大切にしながら歩く」など さまざまな方法がある。
松本 はい。暝想がプームになっているアメリカでは、上座部の 流れを組むヴィバッサナー暝想や曹洞宗の座禅など、いろんな流 派の実践が盛んで、そこからさまざまな新しい実践方法も派生し ています。藤田一照さんの塾で紹介されていた『 Three Steps ( 。 Awakening 』という本では、ある在家仏教徒の方が開発したシンプ ルな暝想の 3 ステップが説明されています。 1 breath awareness 2 breath as anchor 3 choiceless awareness おもしろいのは、最初の 2 ステップは呼吸が意識の中心になるの ですが、最終ステップは意識の対象を cho 一 celess にする。意識を向 ける対象を選ばないというのです。「なるほど」と思ったんですよ。 親鸞聖人の自然法爾という境地は、まさにこれなのかなと。 前野無意識にまかせるというか、もともと自分の意志なんて幻想 で、受動意識なんですから、これがもっともあるべき状態に思えます。 松本でも、それだと何も変わらないじゃないかと思いませんか ? 0 9 4 インドのもっ 加一ヴィバッサナー瞑想 とも古い瞑想法のひとつ。ヴィバッサ ナーとは「物事をありのままに見る」と いう意味で、今という瞬間に完全に注意 を集中する実践。 2 5 0 0 年以上前に ゴーダマ・ブッダによって再発見され、 テーラワーダ仏教 ( 上座部仏教 ) の長老 たちによって守られ、今日まで連綿と伝 えられてきた。
行くわけではありません。思いもかけないような危機、望まない悲しい出来事が、誰にも 必ず起こります。これは「わたしの人生」という物語が綻びかけている状態です。こうい うときに、この綻びを修復するような大きな物語を提供する。これが水平方向の機能、 ランスレーションです。 前野どうしてトランスレーション ( 翻訳 ) なんですか ? 松本悩んだり、不安を感じるのは、自分自身の物語の意味を見失っている状態ですよね。 世界中に語り継がれている宗教説話や神話には、人類が時代や文化を超えて求める物語の 普遍的な原型があるといわれています。ですから、個人の綻んだ物語をより大きな物語と の翻訳作業を通じて、その意味を回復させていくのです。解釈し直すといってもいいかも しれません。 前野ああ、なるほど。意味を与えるんですね。では、垂直方向は ? 松本これは、物語はもういらないという人たちに応えるための機能です。もういい加減、 という人は少数派ながらも存在します。 フィクションを生きるのはまっぴらごめんだー 物語を夢に置き換えて表現するなら、ずっと夢を見続けて生きてきた人、これが本当の夢 かな ? いや違う、こっちが本当かな ? というふうに、夢から夢へと水平方向にさまよっ てきた人が、ふっと気づいて「もう、夢そのものから醒めたい」と考え、垂直方向にべク 0 8 2 ほころ
といっています。 前野二元論ではないし、一元論でもない。じゃあ何か ? と聞きたくなりますが、それ はできないというんですね。「非」なんとか、としかいえない、 はい。言葉には分離的な作用があると思うんです。抽象的な概念でさえも、それぞ 松本 れにラベルを貼り、分離のビジョンの中に位置づけてしまう。でもホントのところはそれ では表現できません。だから、言葉でありながら、言葉自体を解体するようなものとして 念仏はあるんです。 前野垂直的には、ですね。 松本ああ、そうですね。念仏にも意味はある。水平方向にも機能する。でも、「わたし」 と「あなた」とを切り離してしまう言葉の分離的なはたらきを無効にする側面も持ってい る。お坊さんの中には「南無阿弥陀仏の意味なんて聞くな」とおっしやる方もいますね。 前野禅問答とも似ていますね。言葉の論理を超えたところで理解を深めようとしている のは、禅も念仏も同じ大乗仏教だからですかね。 松本そうですね。道元と親鸞を重ねて見ている方ってすごく多いです。真逆のように見 えて、じつは近いんだと思います。 前野なるほど。おもしろい 0 9 0