常識的には、意識が最初に「動かそう」とし、それにしたがって運動の指令 ( 無意識 ) が出て、指が動くはずですね。ところが実際は、まったく逆だったのです。何かの間違い ではないかと思うかもしれませんが、この実験はその後もいろいろな研究者によっておこ なわれており、いずれもほぼ同じ結果が得られています。 わたしの考えた「受動意識仮説」を用いれば、このリべット教授の実験結果を説明する ことができます。つまり、わたしたちの行動を本当に決めているのは脳の無意識であり、 ・ヤーノイー 1 一 1 ロ しているだけではないか、というものです。 この仮説では、わたしたちは自分の意志で「指をピースサインの形にしよう」と決め、 その結果「ピースサインを出した」と思っていますが、本当は無意識が先に決めていると いうことになります。川の上流にいるのは意識ではなく、無意識なのです。これをわたし は「川の下流にいるわたし」とか、太陽ではなく地球がまわっていたことがわかったとき の衝撃になぞらえて「心の地動説、と表現しています。 少なくとも、ありありと「ピースサインを出そうとした」と思っている瞬間に感じる自 由意志のようなものは、本当は存在しない錯覚なのです。 これは人間の意志や意識に主眼をおいてきた、これまでの近代西洋型の思考からは受け イントロダクション 011 一三ロ
では、わたしたちの意識は、何もできないダメ社長なのでしようか。 わたしは、そうではないと考えています。 会社全体のことを考えてみてください。社長があれこれいわなくても、現場を熟知して いる有能な社員たちに全部を委ねてしまうことでうまくまわっている会社はたくさんあり ますね。むしろそのほうが理想的だという職場も少なくありません。意識と無意識にも、 そういうあり方が可能だと考えています。 例えば「明日は早起きしなくちゃ」と強く意識しても、それができるかできないかは優 秀な社員たち次第です。じゃあ、何もしなくていいのかというと、それも少し違います。 従来の意識や意志の優位性を信じるサーチライトモデルでは、「早起きしよう」という 意志の強さが重視されました。また「起きられた」「起きられなかった」という結果にも、 自分の意志の足りなさや強さに一喜一憂することになってしまいます。しかし、わたしは こうした意識の働きには、ほとんど有効な意味はないと考えています。むしろ、ただ疲れ てしまい、社員たちに余計な仕事を押しつけているのではないでしようか。 わたしたちを動かしているのは、無意識です。だとすれば、意識はもっと自然体のまま リラックスして、彼らⅡ無意識に委ねてしまってはどうでしようか。そうすれば、社員た 014
ちはもっとのびのびと働けると思うのです。無意識に委ねることは、新しい生き方につな がるかもしれません。ただし、正確にいえば、意識下で「無意識に委ねてしまおう」と意 志決定するとき、じつはそれ以前に無意識下で、すでにその意志決定はなされているので はありますが。 また、わたしたちが日々交わしているコミュニケーションは言葉や表情、身ぶり以外の 部分が重要な意味を持っことがわかっています。 独創的なロボット研究で知られるー出家ーがおこなったロ ボット演劇という試みをみると、一見不要で無駄に見える動作や間の存在がロボットに「人 間らしさ」を与えていることが一目瞭然です。わたしたちはこのような動作の揺らぎを衄 意識のうちに感じ取っているのです。無意識を知ることは、コミュニケーションを変える 可能性も秘めているといえそうです。 それだけではありません。「直感」や「ひらめき」は、意識されないところから「降ってくる」 「降りてくる」ものです。こうしたイノベーテイプな発想の源泉にも、無意識の働きが関 わっています。無意識を整えるようなライフスタイルを持っことは、彼らの本当の声を聞 イントロダクション 0 1 5
電車内でつり革に掴まらなくても倒れないことがわかります。この対話以降、わたしも思 い出すたびに実践するようになり、無意識のうちにじつにいろんなことができるものなの だなと驚いています。 「氣」については、やはり藤平さんも物理現象として認識できるようなものではないとおっ しやっていました。対話の中でわたしは「うま味」を例に出してしまいましたが、これは グルタミン酸のように取り出せるものなので、例えとしてあまりふさわしくなかったかも しれません。物理的な「ある」「ない」はどちらでもよくて、そうした存在があると仮に 定義することで、心身ともに良い状態をつくれる、生きやすくなる。氣とはそういうもの なのだと、わたしは思いました。「ある、「ない」という意識の働きはおいておいて、ひと まず受け入れることが大事なのでしよう。 そう考えると「意識」も同じだといえそうです。受動意識仮説では意識や自由意志を幻 想だと考えますが、多くの人々は「当然存在するものだ」と考えています。しかし、これ も本来、物理的に認識することはできないものです。ただ、それがあると仮定しておくと、 いろいろ便利だったからそうしてきたに過ぎないのです。 0 6 6
先に動いているのは、そういう縁なのだろうと。 前野なるほど。 松本親鸞聖人は「さるべき業縁のもよおせま、 ーいかなるふるまいもすべし」といってい ます。縁が生じてしまえば、誰だってどんな振る舞いをするかわからないという意味です。 前野ぼくには受動意識そのものについて話しているように聞こえますね。 松本自分の意志でやってるつもりのことでも、いろんな縁の積み重ねで起こってるんだ よ、とい一つことですよね。 前野まさに。 松本親鸞聖人は、自分が意志決定をしているということをカッコに入れちゃっていた方 だと思います。だからもし前野先生から受動意識仮説を聞いても「まあ、そうだよね」と おっしやりそうです ( 笑 ) 。 前野いやあ、参りました ( 笑 ) 。 アメリカの 松本親鸞聖人の晩年の境地といわれる「自然法爾」は、あるがまま、 瞑想プームと そのままという意味です。 自然法爾 前野レット・イット・ゴーですね。 0 9 3 じねんほうに 無意識対談② x 松本紹圭
ら、受動意識仮説というのはどこか日本人のポエジーと共鳴している気がします。だから こそ価値があるし、文化的な意味がある。世界が不均衡になってバランスを崩していると きに、大きな助けになる考えだと思います。 前野いやあ、すご い。今日はぼくがやってきたことの意味や謎を、ひも解いてもらって いる感覚があります ( 笑 ) 。そうか、文化ともつながっているんですね。 稲葉いやあ ( 笑 ) 。医者なので、人生のメタファーを読み解こうとしてしまうんだと思 います。 無意識とは 前野稲葉さんは、「無意識とは自然である」とおっしゃいましたね。 自然である 稲葉ええ。ぼくにとっての無意識、深層意識はまさに自然そのもので 「おのずから」あるものです。自然は人間をつくり出し、その人間が中 枢神経を持ち、そこから「わたし」という意識が生まれ、さまざまな世界観を形づくって いる。そういう流れを思うと、自然という遙かな命の流れがある中で、特定の世界観なん てものは本当に部分に過ぎないなあと感じます。無意識は、それ以外の膨大な世界ですよ ね。それにつながることさえ忘れなければ、登山道はどこから登っても山頂に通じると思っ ています。 2 0 4
能を科学的に分析することが可能になっていることがわかりました。「心」という人類の もっとも身近にして、もっとも未解明な分野にも、科学の光が当たるようになっていたの です。しかし、みなさんもご存知のように、まだ決定的な答えは出ていません。わたしは ますます脳科学の研究に注力するようになっていきました。 そうして 2 0 0 2 年秋、これまでにない、ちょっとおもしろいモデルを思いついたので す。わたしはそれを「受動意識仮説」と呼んでいます。 無意識は 受動意識仮説について説明する前に、興味深い実験を紹介しておきま 意識よりも しよう。 19 8 3 年、カリフォルニア大学サンフランシスコ校の医学部 先に 神経生理学のリべット教授が発表したものです。 決めている リべット教授がおこなったのは、人間が指を動かそうとするとき、脳 にある「動かそう」と意図する働き ( 意識 ) と、筋肉を動かせと脳が指令する随意運動野 ( 無意識 ) の働き、そして実際に指が動くタイミングを計測する実験でした。 その結果は驚くべきものでした。筋肉を動かすための運動神経の指令 ( 無意識 ) は、心 が「動かそう」と意図する脳の活動 ( 意識 ) よりも 0 ・ 35 秒も先だということがわかっ たのです。 010
か、『前野隆司 4 人の達人とのパラダイムシフト対談』とか、『幻世紀はこう変わる 4 人の次世代型リーダーとの対話』とか、『 5 人は知っている—心・体・世界の未来』といっ た壮大なタイトルのほうがふさわしいのではないか、という気もします。しかも、本書で は運命の話はしていませんので「運命がなぜかうまく動きだす、保証はありません。でも、 ここは、百戦錬磨の出版社の方が決めてくれたタイトルなので、尊重することにしましょ 本書のタイトルは、要するに、「無意識を整える」ことにフォーカスして命名されてい ます。「無意識を整える」という視点から、よりよく生きるためのヒントについて考えましょ う、ということが主題だと考えればいいでしよう。 近年、「無意識」の科学が盛んになっています。例えば心理学では、「人の無意識は意識 や行動にどのようにつながっているか、についての研究が幅広くおこなわれています。例 えば「二人の写真を見せられた人が、どちらが好きかを意識的に決定するよりも前に、す でに無意識的な決定はなされている」とか「意識していなかった環境音を、じつは人は覚 えている」とか。 脳神経科学においても、「歩行などの動作や一一一一口語の多くが小脳による無意識的な制御に基 づいていることや「身体を動かそうとする自由意志をわたしたちが意識するよりもサプ 2 2 0
藤平信一さんとの対談を終えて 無意識を整える習慣 無意識対談② >< 松本紹圭光明寺僧侶 ハンディな仏教「念仏」 / 「わたし」とは幻想である / 「わかっていること」と 「できること」の違い / 煩悩も幻想ではないのか ? / 手放す技術としての仏教 / 死 後の世界に意味を与える / 物語から自由になる / 念仏は誰が称えているのか / 念 仏のパワフルな二重性 / ジョブズのコーリング / ホントのところは否定形でしか あらわせない / 道元や親鸞は無意識の大切さに気づいていた ? / アメリカの瞑想 プームと自然法爾 / 呼吸を意識するⅡ無意識の扉を開く / 歩くこともコーリング / 「次」のシステムではなく「脱」けだす / 日本人の無意識には仏教性が根付い ている / インターネット時代の可能性と危険性 / 科学からの垂直アプローチ / 型 じゃないことを知るための「型」 / ものの扱いが粗雑だと心も粗雑になる / わか らなくてもいいじゃない 0 6 9 0 6 8 0 6 4
ハンディな 前野少々乱暴なイメージなのかもしれませんが、「無意識」を尊重す 仏教「念仏」 る生き方というものに、僧侶の暮らしは近いのではないかと思っている んです。 松本いえ、ごく普通ですよ。 前野本当ですか ? 松本 し。僧侶と名乗るのがはばかられるくらい、普通です ( 笑 ) 。前野先生は座禅を なさるそうですね。 ぶつだ 前野ぼくは仏陀が創始した原始仏教に興味があって、大乗仏教でも禅宗の座禅、瞑想に も無意識との共通点があると感じています。心を無にする技術というのは、無意識の重要 性を説くものじゃないかと。でも、念仏にはなんとなく距離を感じるんです。 松本念仏は誰にでも開かれた、いつでもどこでも実践できる、ハンディな仏教のあり方 だと思います ナムアミダブッ 前野基本的な質問で申し訳ありませんが、浄土宗、浄土真宗で唱える「南無阿弥陀仏」 の意味をお聞きしてもいいですか ? 松本南無阿弥陀仏を文字通り読めば、ナムとアミダブツに分かれます。ナムはインドの 「ナマステ」という挨拶にも通じますが、その相手に敬意を表する意味です。 0 71 無意識対談② x 松本紹圭