査料編 * その 2 外交官・杉原千畝がたどった足取り 杉原千畝が実際にたどった代表的な都市を地図で記した千畝がいかに世界中を回ったかがわかる すぎはらちうね [ りようへん かん たいひょうてき はら カ乢、むしようりゆうがくしけんこうかく 外務省留学試験に合格し、 ねんまんし 0 うで , 一一 : ハルピンへ。 1932 年、満洲 こくせいりつがいこう、、じむかん 国が成立、外交部事務官と 朝、まんて可どうい 0 、 して勤務。北満鉄道を買い 取るためソ連と交渉。 1935 年、日本の外務省に戻る。 - とを↓ま豸 東京 きくちゅきこ 菊池幸子と知り合い結婚フ インランドのヘルシンキでニ とうつうやくかん きんむご 等通訳官として勤務後、 1939 年、リトアニアのカウナス、を三ミをミ第 出向。領事代理になる。 しる ちうね ヨロッノ、ヘ せかいしゅう ◎ノ、ルビン ( 満洲・中国厂、 当・うごこ まんしう あし うめいとうし ひょうき ※地図は現代のものです。国名・地名は当時のものを表記しております 198
一えミ = 0 みちび ねんましゃう / 彡原千畝は、一九三二年に満洲 本国外交部の特派員として勤 む 務することになった。ここで、日 れん しやかいしゅぎきようわこくれんはう 本がソ連 ( ※ソピエト社会主義共和国連邦 りやく の略。一九〇五年に今のロシアに作られた国 ) はくまんてつどうじようと に持ちかけていた北満鉄道譲渡 こうしよう じつむ 交渉の実務にたずさわる ちうね ほくまんてつどう 」ト : つ崢っ 千畝は北満鉄道についての情報 収集にはげみ、北満鉄道にはソ ねだん が提示する値段の価値はないこ しようめい せいこう とを証明、値下げ交渉を成功に ひょうか 導いた。その働きは大いに評価さ しよく れたが、千畝は満洲国での職を辞 し、帰国することになった。 外交官とて すぎはらちうね ていじ ちうね こう はたら まんしゅうこく かん こうしよう 0 れんぐんしん 凍てつく夜、ソ連軍が新 第たしゃーなう 型車両を運び出そうとし げんば ちうね ている現場を千畝が押さ しやりようせん れんふる える。ソ連は古い車両と線 にフばんたかわ 路だげ日本高値で売匇 つけよどしていた。 よ こころさし ーく当時、満洲国では につぼんぐんじんはば 日本の軍人が幅をき ちうね かせており、千畝当 ー自券が満洲国で働 ぎもん ととに疑問を感じ、 じひょうていし物つ 辞表を提出
原千畝年表 1921 母・やつが亡くなる。 がくいんとくし・うか 関東大震災起こる。 1923 日露協会学校 ( 後のハルピン学院 ) 特修科を終了。 そうりよっしかんきんむ ざいまんし物うぐんりようしかんきんむ がいむしようしよきせい 1924 2 月外務省書記生として在満洲軍領事館勤務。粍月在ハルピン総領事館に勤務。 満洲事変起こる。 ( 51933 年 ) まんしゅうこくがいこうふとくはいんこうしよしむかん 満洲国建国。 1932 6 月満洲国外交部特派員公署事務官として勤務 こくさいれんめいたった れん ほくまんてつどう 日本、国際連盟脱退。 1933 北満鉄道を買い取るためにソ連と交渉をする。 そ・つとう まんしうこくがいこうぶせいむしかこくからようけんけいかくかちょう ヒトラーがドイツ総統になる。 1934 8 月満洲国外交部政務司我国科長兼計画科長となる。 さいぐんびせんげん がいむしよう まんしうこくがいこうふ ドイツ・再軍備宣言。 1935 満洲国外交部を辞め、外務省に復職。 きくち禎きこ 1936 菊池幸子と結婚。 にちどくはうきようきようていていけっ ひろき 日独防共協定締結。 長男・弘樹が誕生。 日中戦争始まる。 ( 51945 年 ) 1937 フィンランドのヘルシンキ日本公使館へ一一等通訳官として赴任。 こくみんそうどういんほう ちあき 日本、国民総動員法を公布 1938 次男・千暁が誕生。 だいにしせかいたいせんかいせん につはんりようしかん 第一一次世界大戦開戦。 ( 51945 年 ) 1939 リトアニアのカウナスに日本領事館を開設。領事代理になる ていけっ はるき 日独伊三国軍事同盟を締結。 1940 三男・晴生が誕生 7 月ナチスから逃れてきたユダヤ人難民にヴィザの発給を始める。ソ連、リトアニアを併合。 につほんそうりようしかん 9 月プラハ ( チェコ ) の日本総領事館に赴任。 3 月ケーニヒスペルク ( ドイツ・東プロイセン ) の日本総領事館へ赴任。太平洋戦争始まる。 ( 51945 年 ) 1941 ちょうなん はは にちろきようかいがっこうのち さんなん しなん な たんしよう たんしよう たんしよう や にっぽんこうしかん ふ・、しよく ひがし こうしよう しんなんみん かいせつ にとうつうやくかん がっざい し物うりよう きんむ りようし 4 ~ にっぽんそうりようしかん 0 はっきうはし ふにん 0 かんとうたいしんさいお まんし・うしへんお まんし・う - 」くけん - 」く につち・うせんそうはし にちどくい たいへいようせんそうはし さんごくぐんしどうめい こうふ 0 195
時代をさかのぼること二十年。 どうめい むす おもわく 一九三〇年代末のヨーロッパでは、各国がそれぞれの思惑のもとに、同盟を結んだり、 りようどめぐ 領土を巡って対立したりしていた いろこ ただよ せんそう そんな戦争の気配が色濃く漂っていたヨーロッパで、勇敢にも、ナチスドイツとソ連に いどひとりにっぽんじん じようほうせん 情報戦を挑む一人の日本人がいた すぎはらちうね それこそが杉原千畝 ひとりがいこうかんものがたり そこくにっぽん これは、祖国日本のために、太平洋戦争を避けようと戦った一人の外交官の物語である じだい ねんだいまっ たいりつ 0 ねん たいへいようせんそう 0 かっこく さ ゅうかん たたか れん 0
たグラスを二つ受け取り、そのうちの一つを男に差し出して、「どうぞ」と勧めた。 「どうも。ところであなたは ? 」 と ちうね じこしようか グラスを受け取った男が、千畝に自己紹介を促した。 につぼんりようじだいりすぎはら 「日本領事代理の杉原です」 りようじっと 「そうですか、はじめまして。私は、ヤン・ズヴァルテンディク。オランダ領事を務めて おります」 おとこ りようじ ふうぼ - っ 男は、在リトアニア・オランダ領事だった。およそ外交官らしからぬ風貌なので、「オ りようじ たず ちうね ランダ領事 ? 」と意外そうに尋ねた千畝に、 かたが ほんぎよう りようじ 「ええ、肩書きだけのね。本業はフィリップス社のリトアニア支社長です。領事は、まあ たの 頼まれてやっているだけですよ」 こた ャンはそう答えて、 「あなたはなぜリトアニアにいらっしやったんですか ? 」 こんどぎやく ちうねたずかえ 今度は逆に千畝に尋ね返すのだった。 ふた う う と おとこ わたし ひと おとこ うなが しゃ さ がいこうかん ししゃちょう すす
き 「気をつけてください。あなたはソ連とドイツだけじゃなくて日本からも睨まれてる」 くるま すす ちうねちゅうこく 車へと進みながら、ペシュが千畝に忠告すると、 「そのようだな」 ちうねくしよう 千畝は苦笑した。 じようきよう 「あんな状況でヴィザを出したのがアダになりましたね」 「そ一つかもしれない」 きみ かえ 「君は・ : ポーランドへ帰るのか」 なかま 「ええ。戦います。こうしている間にも、仲間の命が失われていますから」 き ちょうし じようだんま つよ そう言い切るペシュの瞳には、それまでの冗談交じりの調子とは打って変わって、強い いろあらわ 決意の色が表れていた。 「つか」 がいこうかん 「センボ、あなたは外交官としては最低でした」 の うんてんせきまど ちうねかた 車に乗り込んだペシュが、運転席の窓から千畝に語りかけた。いつも通りのペシュの皮 肉に、千畝かくすりと笑う けっ にく くるま ちうね たたか こ わら ひとみ だ 0 あいだ れん いのちうしな につぼん どお にら ひ 170
かなら げんき 「もちろんだよ。いっか必ずまた会える。だからその日まで一兀気でいてくれよな」 かえ と返すと、 「わかった。約束だよ」 くったく そう言って、ソリーもニッコリと屈託のない笑顔を見せた たびだ しよいよィリーナたちが旅立つ日がやってきた。 まあいだ りようじかんしつむしつ ちうね ィリーナの〃夫〃が、ペシュの車の中で待っ間、領事館の執務室では、千畝がイリーナ はっきゅう にヴィザを発給していた。 ふたり りようじかん くるまむ やがて二人は、領事館を出て、タ闇の中を車に向かって歩き出していた。 わか 「それじゃ、これでお別れね」 「そうだな」 あ ちうねくるま ィリーナのために千畝が車のドアを開けると、イリーナはすぐには車に乗り込まず、 ひとよ ゅうしゅうがいこうかん 「変わったわね。優秀な外交官だったあなたが、今じやただのお人好しだわ」 そう言ってから、車に乗り込もうとした やくそく おっと くるま の で くるまなか ゅうやみなか あ ひ 0 えがお み ひ あ だ くるま の こ 132
すぎはらちうね こっかん 外交官・杉原千畝がたどった足取り リトアニアからド ~ イツの公ルリン、 ねん じんなん 1940 年、ユダヤ人難 チェコのプラハを はっきゅう 民にヴネザを発給。 経て、 1 941 年、ケ ま三ヒスペルクに 赴任する。 へノレシンキ 0 インランド ) ゾ カむ一たいにんご 外務省退任後、貿 えきがいしゃ じむしよちょう 易会社の事務所長 としてモスクワ勤 務。カウナスでヴ はっきう イザを発給したニ さいかい シェリと再会。 ◎モスクワ ( ソ連 ) 第カウナス イリトアニア ) ケニヒスペルク ( ドイツ・東プロイセン ) れん ひかも プラノ、 ( チェコ ) らミは 日本から カ 、、フカレストに赴任後、 ' 。、捕虜となりグンチャ捕 、 , 虜収容所に送られるま 45 年、収容所で終 につほん、きこぐ " 戦を迎え、日本へ帰国。 にツ当ん むか 199
なかま みなころ ちゅうごくじんちょうせんじんちうねきようりよく 中国人と朝鮮人 : ・千畝に協力してくれた仲間は、皆、殺されてしまった。マラットに取り かな ちうね すがるイリーナが、悲しげに千畝を見つめて、こう言った。 ひとごろ 「人殺し」 かいぎひら しんきようまんしゅうこくがいこうぶ まんしゅうこくがいこうぶじちょうおおはしちゅういち やがて、新京満洲国外交部で、ある会議が開かれた。満洲国外交部次長の大橋忠一をは えんたく ちうねひとり まんしゅうこくかんとうぐんかんぶ きりつ じめとする満洲国や関東軍の幹部が円卓を囲み、千畝一人が、末席で起立したまま大橋の き はなし 話を聞いている じようほ きたまんしゅうてつどうじようとこうしよう れん いちおくよんせんまんえん 「北満洲鉄道譲渡交渉。ソ連から一億四千万円まで譲歩しても良いと連絡があった。関東 すぎはら まえ ぐん しようこやくた 軍が手に入れた証拠が役に立ったようだ。杉原、お前の手柄だ」 そうしやじよう ゅうり ちうね こうしようまんしゅうこく ゞ、、レピン操車場でソ連によ ソ連との交渉が満洲国にとって有利に運んだのは、千畝カノノ お おおはし げんば よわみにぎ こうせき る不正の現場を押さえ、弱味を握ったおかげだった。しかし、その功績を褒め称える大橋 ようす ちうねくちびるしゅうし かたむす の満足げな様子をよそに、千畝の唇は終始、硬く結ばれたままだった。なぜなら、まさに ちうね おおはし じひょうていしゆっ 今、千畝は、その大橋に辞表を提出したところだったからだ。 おおはし ちうねていしゆっ じひょうめ まえかか 千畝の提出した辞表を目の前に掲げた大橋が、 ま ん ん て 0 み かこ てがら まっせき よ れんらく たた おおはし れん かんとう と
原 T ・畝年表 1961 ベトナム戦争始まる。 と、・をよう 1964 東京オリンピック開催。 むす 0 イスラエルとドイツが国交を結ぶ。 1965 国際交易 ( 株 ) のモスクワ支店代表となる 1968 8 月ユダヤ人難民だったニシュリとイスラエル大使館で再会。 1969 9 月イスラエルでバルハフティック宗教大臣と再会、勲章を受章。アポロⅱ号月着陸に成功。 おきなわへんかん アメリカから沖縄返還。 1975 国際交易 ( 株 ) を退社。モスクワより帰国。 しゅしよう 1985 1 月イスラエル政府から「諸国民の中の正義の人」賞 ( ャド・バシエム賞 ) 」を受賞。 にちかまくら えいみんきようねん ソ連・チェリノブイリ原子力発電所事故。 1986 7 月田日鎌倉にて永眠 ( 享年田歳 ) 。 1991 ソビエト連邦解体 リトアニアの首都ヴィリニュスに「スギハラ通り」ができる。 おかこうえんかいえん ぎふけんやおっちょう しんどう 1992 岐阜県八百津町に「人道の丘公園」開園 すきはらちうね きねんきってはっこう インド・パキスタンが核実験。 1998 イスラエルで杉原千畝の記念切手発行。 かいし物ようこくし物のうかいぎおきなわ につぼんすぎはらちうねきねんきって はっこう cuooo 日本で杉原千畝記念切手が発行。 第回主要国首脳会議 ( 沖縄サミット ) が開催される。 すぎはらちうねきねんかん すぎはらちうねせいたんひくねん きねん じんとうおかこうえん 杉原千畝生誕百年を記念して「人道の丘公園」に「杉原千畝記念館」が竣工。 なごやしりつへいわしようがっこう 名古屋市立平和小学校に「ちうねチャイム」ができる。 外交史料館に杉原千畝を称える彰プレートが誕置される。 き物うにつはんりようしかん すぎはらきねんかん リトアニアの旧日本領事館が「杉原記念館」として公開される。 すぎはらちうね きねんひ わせだだいがく 早稲田大学がヴィリニュスに桜の木を植え、杉原千畝の記念碑を建てる。 2001 こくさいこうえきかふ こくさいこうえきかふ しんなんみん たいしゃ しょこくみんなかせいぎひとしよう してんたいひょう し・うきようだいしんさいかい たいしかん ′、んしよう しよう し物んこう れん ソ連、リトアニアを併合。 どうしたはっ アメリカ同時多発テロ発生。 れんばうかいたい せんそうはし ごうつきちくりく 0 へいごう げんしりよくはつでんしよしこ かくしつけん 197