外務省 - みる会図書館


検索対象: 杉原千畝
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1. 杉原千畝

かえ ねんしゅうせん ねんす せんりようお せんぜんかっき 一九五五年、終戦から十年が過ぎ、アメリカによる占領も終わって、戦前の活気を取り もど と - つきよう かすみせきがいむしようちょうしゃ ひとり じんだんせい 力いむしようしよくいん 戻しつつあった東京。霞が関の外務省庁舎では、ある一人のユダヤ人男性が、外務省職員 せきみついちろう おとず である関満一朗のもとを訪れていた。 「スギハラ : ・センボ、ですか ? そのような者は我々日本国の外務省に存在しておりませ げんざい ん。現在はもちろん、今までもです」 せきみつ しん ユダヤ人ニシェリは、関満のその言葉を、はなから信じていなかった。 まちが ざいせき 「何かの間違いでしよう。在籍していないはずがない」 おんな じむいん さ ちゃだ かるえしやく 女の事務員がニシェリにお茶を出し、一礼して去ろうとすると、ニシェリは軽く会釈を むなお ふたたせきみつ 返し、再び関満に向き直った。 われわれ であ だれ 「では、我々の出会ったセンポは誰だったと一言うのですか ? 」 はさ む よ あせきみつ 応接テープルを挟んで向かい合う関満にニシェリが詰め寄ると、 なに おうせつ プロローグ じん いちれい ものわれわれにっぽんこく っ がいむしようそんざい と

2. 杉原千畝

とお こごえたず と小声で尋ねる。 いっしゅうかんで つぎ しんせいしやとお 「一週間で出ていけということだ。早速、次のヴィザ申請者を通してくれ」 たいりよう はっきゅう 「わかりました。でも、こんなに大量にヴィザを発給して大丈夫なのですか ? 」 たし うなず 頷きながらもグッジェが確かめると、 につぼんがいむしよう 「日本の外務省にはまだ伝えていない」 一」くは′、 の ちうねしようじき 千畝の正直な告白に、グッジェは息を呑んだ。 と こうもく がいむしよう はっきゅうじようけん 「ヴィザの発給条件にはさまざまな項目があり、さまざまな特例も存在する。外務省に問 と ま あ い合わせをして返事が来る。それに対してまた問い合わせをする・ : 。その返事を待ってい る間に、やるべきことをやっているだけだ」 「しかし・ : 」 しつむしつなかもど グッジェは、いったん出ていきかけた執務室の中に戻ると、腕組みをして屁理屈を押し ちうね 通そうとする千畝に、 さぎ 「しかしそれは・ : 詐欺じゃないんですか ? 」 よ っ と詰め寄った。 あ へんじ った で さっそく だいじようぶ とくれい うでぐ そんざい へんじ へりくっ お 127

3. 杉原千畝

査料編 * その 2 外交官・杉原千畝がたどった足取り 杉原千畝が実際にたどった代表的な都市を地図で記した千畝がいかに世界中を回ったかがわかる すぎはらちうね [ りようへん かん たいひょうてき はら カ乢、むしようりゆうがくしけんこうかく 外務省留学試験に合格し、 ねんまんし 0 うで , 一一 : ハルピンへ。 1932 年、満洲 こくせいりつがいこう、、じむかん 国が成立、外交部事務官と 朝、まんて可どうい 0 、 して勤務。北満鉄道を買い 取るためソ連と交渉。 1935 年、日本の外務省に戻る。 - とを↓ま豸 東京 きくちゅきこ 菊池幸子と知り合い結婚フ インランドのヘルシンキでニ とうつうやくかん きんむご 等通訳官として勤務後、 1939 年、リトアニアのカウナス、を三ミをミ第 出向。領事代理になる。 しる ちうね ヨロッノ、ヘ せかいしゅう ◎ノ、ルビン ( 満洲・中国厂、 当・うごこ まんしう あし うめいとうし ひょうき ※地図は現代のものです。国名・地名は当時のものを表記しております 198

4. 杉原千畝

「ニシェリです。ほら、カウナスであなたに助けていただいた」 「ニシェリさん ? 」 おもだ りようじかんあくしゅ ちうねかお 千畝の顔がほころぶ。領事館で握手をしたニシェリのことをようやく思い出したのだ。 「そうです、ニシェリです」 あくしゅ にどめ ふたり 二人はがっちりと二度目の握手を交わした。 「あなたにお礼を言いたくて、ずっと捜していたんです。日本へ行ったら、あなたが外務 しよう もうわけ 省を追われたと聞いて申し訳なくて : ・」 はっきゅう ちうねがいむしようたいしよく きよか ニシェリが、許可なくヴィザを発給したことで千畝が外務省を退職しなければならなく かお ちうね なったことを詫びると、千畝は、柔らかな笑みをその顔に浮かべた ぼうえきがいしゃ 「いやいや、あれでよかったんですよ。今は、小さな貿易会社におりましてね。そのおか げでモスクワに来ることもできました」 ことば その一一一口葉には、一度は人国を拒否されたソ連で働くことができる喜びが溢れていた。 あるはじ なら ちうねうなが ニシェリが千畝を促し、並んで歩き始める。 じぶん 「ようやくご自分の居場所を見つけられたんですね」 いちどにゆうこくきょひ やわ さが たす れんはたら につぼん よろこ あふ 力いむ 190

5. 杉原千畝

とうきよう ことばみみ ハルピンから帰国した千畝は、東京にある外務省の一室で、聞き慣れない言葉を耳にす 0 ることとなった 「ベルソナ・ノン・グラータ ? 」 もの れんすぎはらちうねにゆうこく はっきゅうきょひ 「『好ましからざる者』として、ソ連は杉原千畝の人国ヴィザの発給を拒否してきました」 ちうねと こた がいむしようかんりようせきみついちろうせんごがいむしようたず じん 千畝の問いに答えたのは、外務省官僚の関満一朗。戦後、外務省を訪ねてきたユダヤ人 すぎはらちうね き じんぶつがいむしようそんざい ちょうほんにん ニシェリに、「杉原千畝などという人物は外務省に存在しない」と言い切った張本人だ じっさい ちうねちよくせつめんしき しかし実際は、こうして千畝と直接、面識があったということになる わたし につぼんたいしかんにとうつうやくかんにんめい 「私は、モスクワ日本大使館の二等通訳官に任命されたはずです ! 」 はっきゅう なっとく ちうね むなお せきみつ ヴィザが発給されないことに納得できない千畝は、関満に向き直って抗議した。 ほくまんてつどう けん きみ はで す 「北満鉄道の件でしよう。君は派手にやり過ぎたのです」 ちうねたしな くちょうせきみつき す むしろ千畝を窘めるような口調で関満が切り捨てた。 ふにん 「では、モスクワへの赴任は : ・」 きみ ほかにんちかんが 「他の者に頼むことにします。君には他の任地を考えておきましよう」 ほかものたの この きこく ちうね がいむしよう いっしつ き な 0 こうぎ つ」

6. 杉原千畝

きようりよくしゃ おとこ と乗客たちを誘導する男がいた あたま じんとくゆうぼうし 頭に、ユダヤ人特有の帽子「キッパ」を被っているこの男こそがニシェリ。戦後、日本 がいむしよう ちうねしようそくたず の外務省に千畝の消息を尋ねていたあのユダヤ人なのだった。 しようじよ あ ゅうどうつづなか かいだんこころぼそ ニシェリの誘導が続く中、ホームに上がる階段を心細げに上がってくる一人の少女がい ま き げ . あお むす おさなしようじよ きんいろ にもっ た。金色の巻き毛に青いリポンを結び、黒いオー ーを着ている幼い少女が、何も荷物を も ひとり たたず ゅ かまわ じぶん 持たずに、一人っきりで佇んでいる。しかし、懾ただしく行き交う周りの人は、自分たち だれ しようじよかまもの のことで精いつばいで、誰もその少女に構う者はいなかった。 「どうしたの ? 迷子になっちゃったのかな ? 」 しようじよ こえ めせんあ じよせい ちうね しやがんで少女に目線を合わせて声をかけた女性がいた。千畝がハルピンにいたときの ちうね ひとごろ こと - ば 協力者であり、千畝に「人殺し」という一一一口葉を投げつけた、あのイリーナだ。 ながお 少女の泣き顔を見たイリーナが、 「よし、じゃあ一緒に、お母さんを捜そうね」 よ しようじよ と呼びかけると、少女は、 しようじよ じようきやく ゅうどう いっしょ み かあ さカ く かぶ じん あ な おとこ あ ひと ひとり せんご なに につぼん -4 ・

7. 杉原千畝

せいきようかい さいだん その夜、カウナスのロシア正教会では、司祭が祭壇で祈りを捧げていた。 はっきゅう きみ 「今日からできるだけ多くのユダヤ難民にヴィザを発給することにした。君たちも、さら まぎ こ に紛れ込みやすくなるはずだ」 つづなかきようかい すよこずわ あ 祈りが続く中、教会の椅子に横座りした千畝が、向かい合って座っているイリーナに静 かに告げていた。 にっぽんがいむしようきよか 「だけど、日本の外務省の許可は出ていないんでしよう ? 」 きよか で かんぜんきょひ 「許可は出ていない。でも、完全に拒否されたわけでもないんだ。君は気にしなくてい ためいき きよか ちうねがいむしよう したが ィリーナが溜息をつく。許可が出ていない以上、千畝が外務省の指示に従っていないこ あき とは明らかだからだ。 「でもセンボ、なぜそこまでしてあげるの ? 」 ちうねひといきお 千畝は一息置いて、 おなしつもん 「同じ質問をしていいかな ? 」 し」 っ よる おお で なんみん ちうね いじよう ささ すわ きみき しず 121

8. 杉原千畝

1946 シベリア鉄道で日本へ向かう。 ふねはかたこう 1947 4 月ウラジオストクから船で博多港に到着。 がいむしよう 6 月外務省を退官 はるき 三男・晴生が亡くなる。 1948 幸子の妹・節子が亡くなる。 1949 四男・伸生が誕生。 父・好水が亡くなる。 かがくぎしゆっちょうしようはう 1956 科学技術庁情報センターに勤務。 かわかみほうえきかふ 1960 川上貿易 ( 株 ) の事務所長としてモスクワへ。 1943 3 月三等書記官となる。 ほりよし・うようしょ 1945 8 月ブカレストのゲンチャ捕虜収容所に収監。 さんなん よんなん ちゅうりつしようやく 月ブカレスト ( ルーマニア ) の日本公使館へ一等通訳官として赴任。日ソ中立条約を締綺。 しんぜっめつけいかく ヒトラー、ユダヤ人絶滅計画を命令。 しゆっようじよ しんたいりようをやくさつはし アウシュビッツ収容所でユダヤ人大量虐殺始まる。 れんごうこくぐん イタリアが連合国軍に降伏。 しさっ 4 月ヒトラー自殺。 れんこうこくぐん 5 月ドイツが連合国軍に降伏。 こうふく 8 月日本が連合国軍に降伏。 につぼんこくけんほうこうふ 日本国憲法公布。 よんせいきよういくはし ・三・四制教育始まる。 さんとうしよきかん い・とせつこ てつどう たんしよう たいかん につぼん しむしょちょう な 0 きんむ につほんこうしかん と - っちゃく しうかん いっとうつうやくかん ちょうせんせんそうはし イスラエルが建国される。 東西ドイツ分断。 ( 1990 年に統一 ) 朝鮮戦争始まる。 サンフランシスコ講和条約調印。 こくさいれんごう 日本、国際連合に加盟。 とうざ、 ぶんたん れんごうこくぐん こうわしようやくちょういん こうふく と 196

9. 杉原千畝

「世界を知れば、日本をもっと 良い国に、素晴らしい国に することが・てきるはすなんだ」 力、 はら はん くに ちうね がいむしよう 畝は外務省に入ってから、ソ連のモス クワで仕事をすることを希望していた ほくまんてつどう じようほうしゅうしゅうかつどう が、北満鉄道での情報収集活動が仇となり、 れん ソ連から「ベルソナ・ノン・グラ 1 タ ( 好ま に、つ、ツ、 しからざる人物 ) 」とされ、入国を拒否され る。モスクワに赴任し世界を知ることで、 日本をより良くするために働きたいと考え ちうね ていた千畝にとって、ヴィザが出ないことは たいへん 大変なショックだった。 につばん じんふつ はい せかい はたら あだ きょひ れん せきみつ △ソ連からヴィザが出なかったことを上司の関満 いちろう ー朗から言い渡される千畝。 かんが この

10. 杉原千畝

すぎはらちうね こっかん 外交官・杉原千畝がたどった足取り リトアニアからド ~ イツの公ルリン、 ねん じんなん 1940 年、ユダヤ人難 チェコのプラハを はっきゅう 民にヴネザを発給。 経て、 1 941 年、ケ ま三ヒスペルクに 赴任する。 へノレシンキ 0 インランド ) ゾ カむ一たいにんご 外務省退任後、貿 えきがいしゃ じむしよちょう 易会社の事務所長 としてモスクワ勤 務。カウナスでヴ はっきう イザを発給したニ さいかい シェリと再会。 ◎モスクワ ( ソ連 ) 第カウナス イリトアニア ) ケニヒスペルク ( ドイツ・東プロイセン ) れん ひかも プラノ、 ( チェコ ) らミは 日本から カ 、、フカレストに赴任後、 ' 。、捕虜となりグンチャ捕 、 , 虜収容所に送られるま 45 年、収容所で終 につほん、きこぐ " 戦を迎え、日本へ帰国。 にツ当ん むか 199