一えミ = 0 みちび ねんましゃう / 彡原千畝は、一九三二年に満洲 本国外交部の特派員として勤 む 務することになった。ここで、日 れん しやかいしゅぎきようわこくれんはう 本がソ連 ( ※ソピエト社会主義共和国連邦 りやく の略。一九〇五年に今のロシアに作られた国 ) はくまんてつどうじようと に持ちかけていた北満鉄道譲渡 こうしよう じつむ 交渉の実務にたずさわる ちうね ほくまんてつどう 」ト : つ崢っ 千畝は北満鉄道についての情報 収集にはげみ、北満鉄道にはソ ねだん が提示する値段の価値はないこ しようめい せいこう とを証明、値下げ交渉を成功に ひょうか 導いた。その働きは大いに評価さ しよく れたが、千畝は満洲国での職を辞 し、帰国することになった。 外交官とて すぎはらちうね ていじ ちうね こう はたら まんしゅうこく かん こうしよう 0 れんぐんしん 凍てつく夜、ソ連軍が新 第たしゃーなう 型車両を運び出そうとし げんば ちうね ている現場を千畝が押さ しやりようせん れんふる える。ソ連は古い車両と線 にフばんたかわ 路だげ日本高値で売匇 つけよどしていた。 よ こころさし ーく当時、満洲国では につぼんぐんじんはば 日本の軍人が幅をき ちうね かせており、千畝当 ー自券が満洲国で働 ぎもん ととに疑問を感じ、 じひょうていし物つ 辞表を提出
あ 合っていると勘繰っているのでしよう」 いちばんおく いちめんちずひろ ちうね だいにつぼんていこくかんとうぐんしようい 店の一番奥の一面に地図を広げたテープルで、千畝が、大日本帝国関東軍少尉の南川欣 ちょうほうのうりよくか ころ ちうね はな じぶんけんかい 吾に自分の見解を話していた。この頃、千畝は、ロシア語や諜報の能力を買われて、在ハ がいこうぶ せき れん ほくまんてつどうゆずう そうりようじかん ルピン総領事館から満洲国の外交部に移籍しており、ソ連から北満鉄道を譲り受けるにあ たってその交渉に携わっていた。 れんまんしゅうこくきようどうけいえい ちうね 北満鉄道は、もともとソ連と満洲国が共同経営していたが、千畝が言うように、満洲国 どうようたいど しようにんう れん はヨーロッパ諸国から承認を受けておらず、ソ連もヨーロッパと同様の態度であったため、 きようどうけいえ むり いじよう きようどうけいえし お つづ そもそも共同経営には無理があった。そこで、「これ以上、共同経営を続けて衝突が起こ ま よ けいえし にっぽんまんしゅうこく りゅう ていあん るのを待つよりは、経営を日本と満洲国だけに一本化した方が良い」という理由から提案 ほくまんてつどうじようと こうしようにつぼんがわゆうり ちうね されたのが、この北満鉄道譲渡だったのだ。この交渉を日本側に有利に運ぶために、千畝 まんしゅうこく たいりつ かんとうぐんみなみかわま は、ときとして満洲国とは対立することもある関東軍の南川を巻き込むことにした。 あき きみつりよう れん こんやもくてき ふせい 「この機密を利用してソ連による不正を明らかにする。それが今夜の目的です」 こくぼうしよくせいふくみ せいねんしようこう こんやさくせん 国防色の制服に身を包んだエリート青年将校と、今夜の作戦について打ち合わせている ちゅう′」く ちうねことば なかき すこはな 千畝の言葉を、イリーナもカウンターの中で聞いていた。少し離れたテープルでは、中国 ご みせ ほくまんてつどう こうしよう しょこく かんぐ たずさ まんしゅうこく つつ いつぼんか こ あ しようとっ まんしゅうこく みなみかわきん
さ じようききかんしやとっきゅう しろせつげんき 一九三四年、満洲国の真っ白い雪原を切り裂くように、蒸気機関車『特急あじあ号』が きやくしゃ じそくひやくさん ごうかちょうど れっしゃ ちゅうごくだいれんまんしゅうこくしんきようむす 走っていた。中国の大連と満洲国の新京を結ぶこの列車は、豪華な調度の客車と時速一三 まんしゅう およとうじさいそく せんれん 〇キロメートルにも及ぶ当時最速のスピード、洗練されたサービスで知られ、当時、満洲 まそらひろ けむり まと だ えんとっ こくみんあこが 国民の憧れの的だった。煙突から吐き出される煙が、瞬く間に空に広がってゆく。 ねんとうじ とっきゅう ごう にちろせんそう 『特急あじあ号』は、日露戦争に勝った日本が、一九〇五年に当時のロシアから譲り受け ねんまんしゅうこく れっしゃ うんこう みなみまんしゅうてつどう た南満洲鉄道で運行していた列車だ。その二十七年後の一九三二年に満洲国が建国されて れんぼう か にっぽんかくめい からというもの、日本と革命を経てロシアから名を変えたソビエト連邦は、日本がその南 あ かたちけいえい まんしゅうこくてつどうわ ぐあい きたがわ れん 側を、ソ連がその北側をという具合に、お互いに満洲国の鉄道を分け合う形で経営してい ひとり ぬ いましよくどうしやつうろ ごう その『あじあ号』の中で、まさに今、食堂車の通路を足早に駆け抜けようとする一人の めだ とうようじんおとこ ごくごく目立たない風体のこの男 東洋人の男がいた。ハンチング帽にコートとマフラー う は′、・かい がいこうかんすぎはらちうねだいにじせかいたいせんじ こそが、外交官・杉原千畝。第二次世界大戦時のヨーロッパで、ナチスドイツの迫害を受 じっ がわ 0 ねんまんしゅうこく ま にっぽん たが にじゅうしちねんご な またた あしばやか し にっぽん ふうてい とうじ ゆずう けんこく ごう みなみ おとこ
なかま みなころ ちゅうごくじんちょうせんじんちうねきようりよく 中国人と朝鮮人 : ・千畝に協力してくれた仲間は、皆、殺されてしまった。マラットに取り かな ちうね すがるイリーナが、悲しげに千畝を見つめて、こう言った。 ひとごろ 「人殺し」 かいぎひら しんきようまんしゅうこくがいこうぶ まんしゅうこくがいこうぶじちょうおおはしちゅういち やがて、新京満洲国外交部で、ある会議が開かれた。満洲国外交部次長の大橋忠一をは えんたく ちうねひとり まんしゅうこくかんとうぐんかんぶ きりつ じめとする満洲国や関東軍の幹部が円卓を囲み、千畝一人が、末席で起立したまま大橋の き はなし 話を聞いている じようほ きたまんしゅうてつどうじようとこうしよう れん いちおくよんせんまんえん 「北満洲鉄道譲渡交渉。ソ連から一億四千万円まで譲歩しても良いと連絡があった。関東 すぎはら まえ ぐん しようこやくた 軍が手に入れた証拠が役に立ったようだ。杉原、お前の手柄だ」 そうしやじよう ゅうり ちうね こうしようまんしゅうこく ゞ、、レピン操車場でソ連によ ソ連との交渉が満洲国にとって有利に運んだのは、千畝カノノ お おおはし げんば よわみにぎ こうせき る不正の現場を押さえ、弱味を握ったおかげだった。しかし、その功績を褒め称える大橋 ようす ちうねくちびるしゅうし かたむす の満足げな様子をよそに、千畝の唇は終始、硬く結ばれたままだった。なぜなら、まさに ちうね おおはし じひょうていしゆっ 今、千畝は、その大橋に辞表を提出したところだったからだ。 おおはし ちうねていしゆっ じひょうめ まえかか 千畝の提出した辞表を目の前に掲げた大橋が、 ま ん ん て 0 み かこ てがら まっせき よ れんらく たた おおはし れん かんとう と
原千畝年表 1921 母・やつが亡くなる。 がくいんとくし・うか 関東大震災起こる。 1923 日露協会学校 ( 後のハルピン学院 ) 特修科を終了。 そうりよっしかんきんむ ざいまんし物うぐんりようしかんきんむ がいむしようしよきせい 1924 2 月外務省書記生として在満洲軍領事館勤務。粍月在ハルピン総領事館に勤務。 満洲事変起こる。 ( 51933 年 ) まんしゅうこくがいこうふとくはいんこうしよしむかん 満洲国建国。 1932 6 月満洲国外交部特派員公署事務官として勤務 こくさいれんめいたった れん ほくまんてつどう 日本、国際連盟脱退。 1933 北満鉄道を買い取るためにソ連と交渉をする。 そ・つとう まんしうこくがいこうぶせいむしかこくからようけんけいかくかちょう ヒトラーがドイツ総統になる。 1934 8 月満洲国外交部政務司我国科長兼計画科長となる。 さいぐんびせんげん がいむしよう まんしうこくがいこうふ ドイツ・再軍備宣言。 1935 満洲国外交部を辞め、外務省に復職。 きくち禎きこ 1936 菊池幸子と結婚。 にちどくはうきようきようていていけっ ひろき 日独防共協定締結。 長男・弘樹が誕生。 日中戦争始まる。 ( 51945 年 ) 1937 フィンランドのヘルシンキ日本公使館へ一一等通訳官として赴任。 こくみんそうどういんほう ちあき 日本、国民総動員法を公布 1938 次男・千暁が誕生。 だいにしせかいたいせんかいせん につはんりようしかん 第一一次世界大戦開戦。 ( 51945 年 ) 1939 リトアニアのカウナスに日本領事館を開設。領事代理になる ていけっ はるき 日独伊三国軍事同盟を締結。 1940 三男・晴生が誕生 7 月ナチスから逃れてきたユダヤ人難民にヴィザの発給を始める。ソ連、リトアニアを併合。 につほんそうりようしかん 9 月プラハ ( チェコ ) の日本総領事館に赴任。 3 月ケーニヒスペルク ( ドイツ・東プロイセン ) の日本総領事館へ赴任。太平洋戦争始まる。 ( 51945 年 ) 1941 ちょうなん はは にちろきようかいがっこうのち さんなん しなん な たんしよう たんしよう たんしよう や にっぽんこうしかん ふ・、しよく ひがし こうしよう しんなんみん かいせつ にとうつうやくかん がっざい し物うりよう きんむ りようし 4 ~ にっぽんそうりようしかん 0 はっきうはし ふにん 0 かんとうたいしんさいお まんし・うしへんお まんし・う - 」くけん - 」く につち・うせんそうはし にちどくい たいへいようせんそうはし さんごくぐんしどうめい こうふ 0 195
「理由を聞こうか」 たし その真意を確かめようとする しん 「私がこの満洲国のために働いてきたのは、それが日本を良くすることになると信じてい たからです」 とお 「その通りだ」 いままんしゅうこく 「今の満洲国は、関東軍のための満洲国となっています。私は、関東軍のために働くつも りはありません」 おおはしちかづ ちうね えんたくまわ 千畝は、円卓の周りをぐるりと回りながら大橋に近付いた。大橋の隣にいる関東軍の幹 ちうねき ようす ふきげんひょうじよう 部は、むつつりと不機嫌な表情を隠しもしない。そんな様子を、千畝は気にも留めずに、 と まわ さらに大橋の傍らに回り込むと、あらためて「お受け取りください」と再び辞意を伝えた。 につぼんもど 「わかった。日本に戻るかいし」 おおはし さと まなざ ゅ ちうねけっ 千畝の決意が揺るがないことを悟った大橋の厳しい眼差しが、かすかに緩んだ大橋は、 し き そんちょう ちうね ゅうのうぶか 有能な部下としてかわいがっていた千畝の意思を尊重することに決めたのだ。 ねん ちうね につぼんきにん こうして千畝はいったん、日本に帰任することとなった。一九三五年のことだった。 わたし しん おおはしかたわ き まんしゅうこく かんとうぐん こ はたら 0 まんしゅうこく まわ おおはしきび う よ にっぽん わたし おおはしとなり かんとうぐん ふたた ゆる じ かんとうぐんかん と はたら った
査料編 * その 2 外交官・杉原千畝がたどった足取り 杉原千畝が実際にたどった代表的な都市を地図で記した千畝がいかに世界中を回ったかがわかる すぎはらちうね [ りようへん かん たいひょうてき はら カ乢、むしようりゆうがくしけんこうかく 外務省留学試験に合格し、 ねんまんし 0 うで , 一一 : ハルピンへ。 1932 年、満洲 こくせいりつがいこう、、じむかん 国が成立、外交部事務官と 朝、まんて可どうい 0 、 して勤務。北満鉄道を買い 取るためソ連と交渉。 1935 年、日本の外務省に戻る。 - とを↓ま豸 東京 きくちゅきこ 菊池幸子と知り合い結婚フ インランドのヘルシンキでニ とうつうやくかん きんむご 等通訳官として勤務後、 1939 年、リトアニアのカウナス、を三ミをミ第 出向。領事代理になる。 しる ちうね ヨロッノ、ヘ せかいしゅう ◎ノ、ルビン ( 満洲・中国厂、 当・うごこ まんしう あし うめいとうし ひょうき ※地図は現代のものです。国名・地名は当時のものを表記しております 198
さ ちうねたすお て 手を差し出して千畝を助け起こしたイリーナが、 「センボ」 せなかむ こえ 声をかけ、ワンピースのボタンが外れたままになっている背中を向けた。 し 「締めてくれる ? 」 てな ちうね 千畝がイリーナのワンピースの後ろのボタンを、手慣れた様子で留める。 「できたよ」 「のり , 、か A 」一つ」 ちうねみみもと 千畝の耳一兀に顔を近付けて、イリーナはそう囁いた お とくべつまち じゅうようやくわり ハルピンは、満洲国とヨーロッパとの貿易において、重要な役割を負う特別な街だ。西 べっ う いろどまちな ようぶんかえいきよう 洋の文化の影響を受け、大通りを彩る街並みも、一見、ヨーロッパと区別がっかない みせかま 小さなバーが店を構えていた。店内には、軽快なジャズがかかり、 その通りの一角に、 も しようめし とかいてき ひか 控えめな照明が都会的なムードを盛り上げている。 けんえきめぐ しん にっぽんまんしゅう おうべいしょこく 「欧米諸国は、日本が満洲をでっち上げたと信じています。その権益を巡り、ソ連と睨み とお だ ーカく かおちかづ まんしゅうこく おおどお はず あ ぼうえき ささや いつけん てんない ようす と れんにら
「世界を知れば、日本をもっと 良い国に、素晴らしい国に することが・てきるはすなんだ」 力、 はら はん くに ちうね がいむしよう 畝は外務省に入ってから、ソ連のモス クワで仕事をすることを希望していた ほくまんてつどう じようほうしゅうしゅうかつどう が、北満鉄道での情報収集活動が仇となり、 れん ソ連から「ベルソナ・ノン・グラ 1 タ ( 好ま に、つ、ツ、 しからざる人物 ) 」とされ、入国を拒否され る。モスクワに赴任し世界を知ることで、 日本をより良くするために働きたいと考え ちうね ていた千畝にとって、ヴィザが出ないことは たいへん 大変なショックだった。 につばん じんふつ はい せかい はたら あだ きょひ れん せきみつ △ソ連からヴィザが出なかったことを上司の関満 いちろう ー朗から言い渡される千畝。 かんが この
畝至 - ISBN978 ー 4 ー 09 ー 230849 ー 7 日笠由紀 ・文筆家。 ・イギリスのエリサベス女王と同じ 4 月 21 日 生まれのおうし座 B 型。特技は、声を使い分 けながら、ぬいぐるみ同士を会話させること。 ☆小学館ジ h ニア文庫☆ 杉原千畝スギハラチウネ ジひ -1 -1 C8293 ¥ 700E 9 7 8 4 0 9 2 5 0 8 4 9 7 ひかさゆき 定価本体 700 円十税 小学館 スギハラチウネ ☆小学館ジ h ニア文庫☆ だいにじせかいたいせんじそこく じんやく 第ニ次世界大戦時、祖国を追われたユダヤ人約 6000 人 いのちすく の命を救った外交官・杉原千畝。世界を知って、日本を 良くしたい。その思いを胸に、千畝は満洲国からフィン ランド、そしてリトアニアに赴任し、そこでナチスに追 われたユダヤ人たちに出会う。「もう行くところがない ちうねくだ のです」と訴える彼らに千畝が下した決断は、日本政府 の命令に背いてヴィザを発給することだった。千畝は なみだかんどう なぜこのような決断をしたのか ? 涙と感動の映画 すきはらちうね 杉原千畝スギハラチウネ』をわかりやすく小説化 ! にっぽん がいこうかんすきはらちうねせカん 1 まんしゅうこく ちうね むれ おも ふにん い リ引 C 川 U 鳥 につぼんせいふ かれ うった けつだん 笠郎 日哲 著川 はつきゅう そむ めいれい ちうね えいが けつだん しようせつか 日笠由紀脚 0 加 15 「杉原千スギハラチウネ」製作委員会 Shogakukan Junior Bunko 鎌田哲郎 松尾浩道