文時代は旬のものを食べながわれるアクの強いドングリやトチの実 は深鉢の土器を使って木の灰を一緒に ら、同時に保存食を作っていた 話をしました。では、旬の食材をどの入れて煮たり、水場でさらしたりして アクを抜き、すり潰して団子のように ようにして食べていたのでしようか 魚介類、山菜、キノコ、時には肉をして食べていたようです。 もちろん、山に実るアケビやヤマプ 入れた、今でいうちゃんこ鍋のような ドウ、クワなどの果実やアク抜きがい ものを食べていたと考えられています が、スープ状にする以外にも、多くのらないクリやクルミ、シイなどは彼ら にとって手軽に食べることができる貴 調理法があったようです。 彼らは長い年月の間に、食材をどう重な食料でした。これらは私たちが山 すれば安全に美味しく食べることがで歩きをする中で今でも簡単に見つける きるのか、研究に研究を重ねたのでことができる食料のひとつでもありま す。 中でも縄文人のメジャーフードとい 縄文人のおいしい食卓 < 【女性たちはいろいろと工夫を凝らした料理を作っていたようです。 0 】縄文時代は調理していたんですか ? ⑨ー 0 一◎一〇〕ン ⑨っぷしてこねる クルミやクリなどの木の実の粉や、シカやイノシシの ミンチ肉をベースにして、そこに動物の血、野鳥の卵、 地域によってはヤマイモやユリネ、蜂蜜などを入れて 混ぜ合わせ、それを熱した石の上で団子状にしてバ ンのようにして焼き、食べていたと考えられています。 それが遺跡から炭化した状態で見つかり、ハンバー グやクッキーと呼ばれています。 縄文ハンバーグ ー 00
い出そうとするのは当然の心理です。そこ よそ 4 万年前に日本列島に人が渡って きて以来、絶えず大陸から人が流れてでは争いによって問題を解決するという方 きていたと考えられますが、縄文晩期の終わ法がとられることもあったでしよう。しか し、このような解決方法ばかりではなかっ り頃になると日本列島の南と北では大きな 歹島の南、たようです。 違いか見られるようになりました。リ 例えばこんな遺跡があります。福岡県福 北部九州の地で、海を渡ってきた渡来の人々 かねのくま 岡市の金隈遺跡は弥生時代の共同墓地とさ によって水稲栽培が始まったのです。 既に縄文時代に米は日本列島に存在してれています。当時の埋葬方法の主流である かめかんぼ いましたが、稲作という農業システムとし甕棺墓に残っていた多くの男性人骨の平均 て、集団と共に列島にやってきたのがこの身長はおよそ 160 。その他、風習的抜 時期だと考えられ、約千年間の弥生時代が歯をした人骨も見つかりました。つまり、 文化的に弥生時代と縄文時代の特徴を持っ スタートするのです。 今までの暮らしの中で、渡来の人々にあた人が同一の墓域に埋葬されていたという る程度慣れていたであろう西北部九州の縄事になります。この事実からも分かるよう 文人も、稲作のように土地を必要とする大に、弥生時代になると人種も文化も一新さ 規模システムを持ち込もうとする渡来の集れてしまったのではなく、時には摩擦も起 こしながらそれでも縄文人は渡来の人々や 団とは、何らかの摩擦があったはずです。 自分たちが暮らす領域に訳の分からない水文化を受け入れ、新しい日本列島を作って いったのではないでしようか 田を作ろうとする人々に対して警戒し、追 0 0