という高校時代の決意は、サイクリングクラブで活動していたことで、だいぶ実現していた。 北海道の大きな自然、自転車での一人旅や仲間とのツアー、アラスカへの旅、そして札幌での 毎日から、私は自身の人生にとって一番大事なことを教わったように思う。それは「出逢いは 人生の糧」ということ。旅先での風景や自然・人、共鳴できる友、逢いたいと強く願う相手、 人々が積み上げてきた知やその表現物 : : : いずれも自身を感動させてくれるものとの出逢いに よって、人は育てられるのだ。だから、自分が体験するものすべてによって、「私」はできあ がっていく。心動かされるものにしたがって、一つでも多くの体験をする人生を生きよう、と。 大学 4 年生は、当然のことながら、その先の自身の将来についていろいろと考えたときであ る。 1 年生のときから、「オーロラの研究をしたい」と周囲に触れ回っていた状態だったので、 周囲にとっても自分にとっても、大学院に進んで研究することは自明のことのように思えた。 私の場合、「オーロラの研究をしたい」ということと「アラスカに住みたいⅡアラスカ大学の 大学院に行きたいーをごちゃまぜにしながら、 " 夢 ~ を追いかけていたような状態だったが、 現実は、オ 1 ロラの研究に必要なプラズマ物理学や電磁流体力学さえまともに勉強しないまま、 へストタイミングで、 片言の英語でアメリカの研究生活を送るなど、とんでもない話であった。、 日本のオーロラ研究の第一人者であった先生が名古屋大学の研究所に赴任するので、「ぜひ うちに来なさい」と誘ってくださった。大変ありがたい話であるのと同時に、自分が思い描い 1 そうだミュージアムをつくろう
どうにも答えが出ず、アラスカに出向いた。そのことが一つの光となり、見失った自分を取 り戻すべく、私は「自分が好きでいられる自分」とはどんなものだったか書きだしてみた。そ して、亡くなった星野さんに長い手紙を書いた。星野さんへの手紙でありながら、自身のそれ までを振り返り、未来に向けた決意のような文章。以下は、その一部である。 「北海道の自然に魅了され、多くの人々に出会った多感な大学時代を経て、大学院で自然科学 の研究の現場に触れてきた私の今の目標は、サイエンスと社会の接点をつくりだすことにある。 正直いって私はサイエンスそのものより、人間と自然そのものに対する思い入れのほうが強い ただ、人がやるからサイエンスが面白いのであり、自然があるからサイエンスがある。その視 点から、私はなるべくたくさんの人にとってサイエンスが文化になれば素晴らしいなと想って 紙 手 の いる。自然に対する愛情や、好奇心がサイエンスをつくりだすということを、研究の現場と一 年 般の人々をつなげられる場所を提供することによって伝えたい。サイエンスを知ることで、得 られる新たな驚き、発見がどこかで人間や自然を愛することにもつながるのではないかという グ 予感がある。ほんとうにつながるかどうかはわからない。けれど、人と人をつなげ、多くの人口 プ 生を知り、多くの考えに出会う。そうした営みの中にサイエンスがあるということ、驚きは自 然が与えてくれるものだということ、これは確信をもってそうだといえる
さんは、手持ちのスマホで、一生懸命動画撮影をしている。途中で、「あ ! 」という彼女 の嘆きの声が聞こえる。せつかくとった動画を削除してしまったようだ。残念がる彼女のため に、投影が終わったあと、さんとお母さん、のさん、そして私だけがドームに残っ て、再度、大好きな音楽をかけながら、宇宙を漂い、青く愛おしい地球に帰っていった。大人 こ本人は、「めっちや元気でた ! ーと、ほんとうに幸せそう 3 人は、すっかり涙であったが、。 な顔になって病室へ戻っていった。朝の具合が悪かった様子を知っていた看護師さんが唖然と したほどに。 星に向かって語りかけても、何も答えはしない。何かをくれるわけでもないしかし、星は、 何故か私たちに夢や希望を与える。生きろといわんばかりに。自然というものは、はるか人間 のカの及ばないところにあるからこそ、傷ついた人を癒す力を持つのかもしれない。いつも 2 める病院の殺伐とした天井に、夜になれば星空がでてきてくれたら、どんなにいいだろう。 つか、そんな日がくることを目指しながら、「病院がプラネタリウム」に、心と体を傾けてい きたい。 この活動の一番最初の原動力を与えてくれた鳥海さんが、 2016 年 3 月、私が科学館で行 う最後の投影の日に寄せてくれたエ 1 ルを紹介したい。 ] 7 宙をみていのちを想うーー医療・福祉と宇宙をつなぐ 1 55
ていたものをあきらめるという初めての経験でもあった。 大学院の入試に向かって勉強していた 4 年生の 8 月のある日、北海道らしい緑の風があまり に気持ちよく、部屋の中にいることができずに、北大植物園のお気に入りの場所にいって、本 を開いていた。物理の教科書と一緒に持っていた本は、稲本正『森からの発想ーサイエンスと ア 1 トをむすぶもの』※ 4 。著者の稲本氏は、もともと物理の研究者でありながら、あるとき飛 騨の匠の修行にはいることを決め、森での生活を通して、人と自然の関係性を考え、環境教育 という新しい分野を切り開いてきた人である。自然とともにある生活のありようや、「サイエ ンスとア 1 トをむすぶーという概念に、心を奪われた。 こんな風に心を動かすものたち、北海道で培われた、自然への狂おしいほどの想いや、森へ の憧れ、心に響く音楽や文学など、サイエンスだけではなく、自分が大好きなものをなるべく 捨てずに生きるにはどうしたらいいのだろう、と考えた。あれだけ「オーロラの研究をするん だ」と言いながらも、自分はほんとうに研究者になりたいのか ? という自問も実はずっとあ った。 そして、「そうだ、ミュージアムをつくろう ! 」と思いついた。そのときの木漏れ日がなん と美しかったことか。稲本氏の「サイエンスとア 1 トをむすぶ」という発想や、地球や人々に 寄り添う活動、そしてミュージアムという一一一口葉がトリガーとなり、私は、「オ 1 ロラミュージ
も探求は続く。世の中は不思議に満ちていて、おそらくいつまでも続いていくだろう。その不 思議さが、自然に対する畏れを教える。自然の不思議さと人間の感情としての畏れ、また自殀 に対する懐かしさや愛おしさ、そういったものを対立させず、静かにつないでみたい。星野さ んの死は、私が向かうべき道に光をあててくれた。そして、その翌年、私は、「科学を物語る」 のに最適ともいえるプラネタリウムという場に出逢ったのである。 ☆科学と神話をつなぐ 山梨に来ることが決まったのは、 1997 年 3 月。研究を半ば投げ出してきた私にとって、 その事実と向きあいながら「自分の仕事ーをしていくには、山梨という地に足をつけて、自分 で選び取ったこの道を全うすること、それしか方法がない、と思っていた。 新たな場所で出会った「プラネタリウム」は想像以上に素晴らしいメディアだった。私がそ れまでに漠然と考えていた理想のミュージアムーー科学も音楽も芸術も文学も全部つながると ころーーーに近い、総合芸術の場ともいえるものなのだ。プラネタリウム番組という、星、映像、 言葉、音響、を組み合わせて展開する作品づくりを通して、科学とそれ以外のものを融合する のに、最高のメディアとさえ感じるようになった。
によってであった。「地球交響曲 ( ガイアシンフォニー ) 」は、自然とともに、また、自然の一 部として生きる人々に丁寧にアプローチし、その生き方を描くドキュメンタリー映画。 199 7 年、一般公開されてすぐに「 3 番を見たのは、この映画の中心に、星野道夫さんがいたか らだったが、他の出演者の一人に、ホクレア号プロジェクトの中心にいたナイノア・トンプソ ン氏がいたのだ。ホクレア号の復活をきっかけに、ハワイの伝統文化を残していく活動を精力 的に行っている彼は、もともと航海士の血を受け継いでいたわけではなかった。「スターナビ ゲーション」に向き合った一つのきっかけは、ハワイのチャント ( 聖歌 ) にあたる「星の歌」 が、自分たちの祖先の遥かなる旅を歌っていることに気づいたこと。「私たちはどこからきた のかーを歌っていたのだ。彼らにとって、星の存在は、命綱だった。星は人のいのちを守って きたということを、何千年も伝わる歌が教えている。なんてすごいことだろう。 ☆星とクジラをつなぐ 映画を見てから長いこと「スターナビゲーションーは、プラネタリウム番組のテーマとして の憧れだった。伝統的航法の研究に長年携わり、「星空人類学」という分野を提唱する後藤明 先生に出逢ったのは、年。出逢って、そのときがきた、とすぐに思った。スターコン
プラネタリウムや星・宇宙というものを仕事のパートナーにするようになって、まもなく 年になる。年前、私はオーロラを研究する大学院生だった。高校生のときに出逢った " オー ロラ ~ を追いかけ、大学卒業後の大学院では 5 年間研究生活を送っていた。けれど、ほんとう に自分が取り組みたいテーマを見出すことができずに行き詰まると同時に、様々な人間関係に 苦しんでいるときだった。 そんな最中、写真家の星野道夫さんの突然の訃報。アラスカの大自然の中で、自然と人の関 係性をテーマに、多くの写真と文章を残した人であり、私をオーロラやアラスカに駆り立てた 張本人であった。今でもなお、私の人生に最も大きな影響を与えた一人である。星野さんを追 うようにして入った北海道大学での青春の日々、「アラスカ」と一一一一口葉にするだけで胸が高鳴っ ていたあのころ。星野さんに手紙を書き、アラスカに出向いて、オーロラ研究という " 夢 ~ を 描いていた大学生の自分を思い出すほどに、研究で落ちこぼれた自分に追い打ちをかけられた 出来事であった。「自分は何を目指していたのか」「ほんとうは何をやりたかったのか」という 自問自答は、やがて、「自分とは何か」という答えのない深みへと発展し、その井戸に降りた まま、しばらく抜け出られない日々が続いた
む必要はない。自分の足で立てる場所を探さなければ、と思った。 1990 年の初めてのアラ スカが自分にとって一つの時代の始まりだったように、今回のアラスカがきっとその時代の終 わりと新たな時代の始まりをつくる、そんな気がした。 そのときに、あらためて読み直していた星野さんの本の中に、冒頭の文章を見つける。これ はまさしく自分の問題であることに気づいた。「オーロラの中をどれだけの電流が流れている かを計算することが、私の人生にとってどれだけ大事なのだろう」と思ったときに、さほど大 事ではないという結論を出した私。オーロラの科学的知見と、人間をつなぐ物語が、そのとき の も には描けなかったのだ。けれども、科学の知見をただ説明するのではなく、科学を物語ること ができたとき、自分に深い納得がやってくるのではないか、と思い至る。このときの直観があ出 生 る意味、その後の年の仕事を支えていた、といっても過言ではない。 自然科学は、人間の力を遥か超えたところに存在する自然現象について、「それを司る法則 を見出したいー「意味を理解したい」という好奇心に支えられた営みである。その先にはいっ ス ロ たい何があるのか。全宇宙の理解だろうか。しかしそう思っている研究者はそうはいないだろ オ う。少しでも理解したいと思っている一方で、何かがわかると、またその倍ぐらいにわからな いことが出てくるということを彼らは知っている。宇宙全体で起きているすべての現象のうち、 私たちが何割ぐらい理解し、何割わかっていないのか、それさえもわからないのだ。いつまで
ほんの一部で、果てしなく広がる不思議な空間がありました。銀河の中の惑星の中の地球 という美しい星の美しい海に囲まれている海洋国のこの日本という国の人間の一人である 私すごく不思議だけれど、すごい奇跡であることは確かです。 何の答えもない、この奇跡であふれた世界で、たくさんの景色や自然にふれ、この神秘 的な世界を 1 日 1 日、味わって生きていきたいです。これから始まる長い人生の中で、苦 しくて悲しいときがあったときは、空を見上げ、星たちが見守っていることを忘れず、た くさんの人とふれあいたいです。 美しい光と孤独な闇が交じり合うこの世界で、たくさんの心にふれあえたらと思い の手紙を宇宙の神様に捧げます。 熊谷穂乃花 ー 40
そんなイメージを勝手にしていました。でも、そうではありませんでした。とっても素朴でし た。すごくあたたかい歌でした。そして、とても大きな歌でした。山梨の素朴さ、山々に囲ま れ、たくさんの人に包まれている温かさ、そこから星を眺めて、宇宙へと自然に広がる思い。 そんなことが感じられる歌でした。」 「自分を突き抜けてすうーと空高く宇宙まで思いを乗せて広がっていくような、そんな感じが しました。」 「別歳の母がこの歌を聞き、『ひとりで静かに聞いていたいような歌』と、感想を漏らしたの を聞き、きっとたくさんの人に愛されるのではないかという予感がしました。」 ☆宇宙に届いた歌 実は、土井宇宙飛行士のミッションが予定通りだったら、間に合わなかったのだが、打ち上 げが数か月延期になったおかげで、完成したを土井さんが訓練している Z<Ø< ( アメリ カ航空宇宙局 ) に届けることができた。土井さんは、 OQ を私物としてスペ 1 スシャトルに持 っていき、背景に青い地球と建設中の国際宇宙ステーションの太陽電池パネルをうっしながら、 無重力空間に浮かぶ「星つむぎの歌」 OQ の写真 ( 章扉写真 ) を撮ってくださった。歌に関わ