をしこ : 三二ラ鬚上 イッカ文明の謎を秘めた 箜中都市 M 加洳恤 マチュヒュ 、巧なみに守られこ イツ . カ帝国の首都 C 0. 、 地上絵が伝える 過去からのメッセー ? ナスが インカ発祥伝説が残や 神秘の湖 lago Ⅷ聞 ・。チチカカ湖 多彩な . 食材が際立つ 南米随一の美食の社 ーリマ
マチュビチュへ至る 20 列車ースの旅 2 マチュビチュ完全攻略ガイド 2 マチュビチュ遺跡を俯瞰する 26 マチュビチュ遺跡を巡る 23 遺跡入口 ~ 30 zone B 市街地入口 ~ ー 20 を X 32 c 型なる広場 ~ 34 メイン広場 ~ 36 zone E 技術者の居住区 ~ 38 F 水汲み場 ~ 寄り道のめ 40 ワイナビチュ登頂 2 太陽の門インテイプンク 4 マチュビチュ村を歩く 43 マチュビチュで泊まりたい、個性的なホテル Colum マチュビチュの謎、インカの不思議。 23 ①インカ帝国の創生」 インカ皇帝パチャクティはなせ強大な権力を持つに至ったのか ? 文字が存在しないままに発展したインカ文明 31 ②インカ帝国時代の暮らし」 、 = インカ帝国の繁栄はとうやってもたらされたのか ? アンデネスから生まれたチチャ酒 35 ・「マチュビチュ建造の秘密」 空中都市マチュピチュはなせ、急峻な山の尾根につくられたのか ? 車輪も滑車もない。それでもでた巨石建造物の秘密。 3 ア 0 インカ帝国の滅亡ー・をを なせ、スペインによってイン国「滅んだのか ? 総延長距離 4 万キロメ = - ルに及ぶというインカ道 8 ~ ・「マチュビチュ発見ド朝を語 ' 「 ハイラム・ビンガムはチ三を午ュをどうして発見できたのか ? インカの人 0 をこ異た、最後の皇帝ト 0 , 、ク・アルー マチュピチュ完全力イド
はき当 ①インカ帝国の創生」 マチュヒチュ の マ インカ皇帝バチャクティは チ ユ なせ強大な権力を持つに至ったのか ? チ ユ インカ帝国発展の 勢力分布図 全 結果として小国イ ンカ帝国の最盛期の勢力 範囲は、北はコロンビア ンカが大国チャン 南部のアンカスマヨ川、 力を支配下に置く ド ことに成功したの 南はチリの首都サンティアゴの南 を流れるマウレ川にまで至る。現 である。 インカ族は太陽 在のベルーのすべて、コロンビア、 バチャクティ & ェクアドル、ポリビアの大部分、 神を信仰していた トウバク・インカ ー。ッキ時 チリの北半分、アルゼンチンの北 から、皇帝はすな 西部にあたる地域である。南北は わち「太陽神の およそ 5000 キロメートルにわた 子」ということに なる。インカ族は り、 IOO 万平方キロメートルを越 える面積であった。この大帝国を 若き皇帝パチャク インカ族はわすか三代の皇帝の手 ティ ( 「世界の改 革者」の意 ) の によって築いている。 クスコ周辺を支配する小さな民 持って生まれたカ リスマ性に神秘的な演出を加え、 族集団でしかなかったインカ族が 触れられることのないよう特別に 「皇帝 = 太陽神の子」と「クスコ 封印された箱の中で保管され、後 アンテス全域の支配にのりだした = 太陽信仰の聖地」を周辺国に大 のは、国境を接していた隣国チャ に燃やされた。食べ残したものな いに喧伝したのだ。インカによる ンカ族との戦いに勝利したことが ども同様である。インカ族は意識 皇帝の神格化は徹底している。皇 きっかけであった。当時積極的に 的に宗教的支配を目指し、これに 帝は臣下の前ではべールをかぶり、 勢力拡大をはかっていたチャンカ 成功したのである。 誰も皇帝に触れたりその目を見る 族は、周辺小部族を次々と支配下 チャンカ族を倒したインカ族は ことは許されなかった。たとえば 周辺地域を次々と攻略していく。 に置くことに成功し、いよいよ不 宮廷の高官であっても、皇帝に近 倶戴天の敵ともいえるインカ族に 第十代皇帝トゥパク・インカ・ユ づく時には靴を脱ぎ、肩に荷をの パンキが北方の海岸地方にあった 戦いを挑んできたのである。 せてひざまづき、完全服従の姿勢 チムー王国を征服。第十一代皇帝 当時のインカ皇帝ヴィラコチャ でのぞまねばならない。多くの者 のワイナ・カバックは周辺小部族 は嫡男ウルコンとともに大急ぎで は直接口をきくことさえ慎まなけ の反乱に苦しみながらも兵をさら 逃げ出してしまったが、ウルコン ればならなかった。皇帝が一度で に北へと進め、インカ帝国はアン の腹違いの弟クシ・ユパンキ ( 後 も手を通した衣服は二度と着られ の第九代皇帝パチャクティ ) は デスほば全域を掌中におさめるに ることはなく、なにびとの手にも チャンカ族に勇敢に立ち向かい、 至るのだ。 これを撃退してしまう。圧倒的な 勢力を誇っていたチャンカ族を、 わすかな兵で撃破したことで、周 辺部族の態度は一変した。多くの 部族が若き王クシ・ユパンキのも とに馳せ参じることとなったのだ。 【柳谷杞一郎】 イ ン カ の 1 紐が物語を紡 アン チンチャイ、 クンティ・スウュを コリヤ・スウユ 0 ( ン でいた ? 独自の発展を遂げた高度な文明 ; 南米大陸 マチュピチュ 村のアルマス 広場に立つ、 皇帝バチャク ティ像 キープは数字を表 しているが、組合 せにより深い意味 をもたせることも できたという 2 3 4 5 また、紐の色の違いに よって、何の数量をあら の E crro の」 わしているかを区別した。 例えば赤は兵、黄は金、 白は銀といった具合である。 キープを使うことによっ を読みとることは専門家 ンカ人に情報を求めると、 て、家畜、農作物なとの にしかできなかったらし 彼らはたびたび「歴史の 数量計算、記録が可能だ い。キープ読みの専門家 キープ」を持ち出して解 は「キープカヨマック」 ったのだ。キープは数量 説をしたというのだ。キ と呼ばれ、インカの役人 だけでなく、歌や物語の ープから「数量」を読み の中でも特に重要な存在 記録もできたとされてい とることは誰にでもでき る。スペイン人たちがイ であった。 たが、物語など「文章」 「マチュピチュの謎、インカの不思議」 ( P23 ~ ) 挿絵の著者はワマン・ボマ・アヤラ ( 「 NuevaC 「に B nGo ⅵ部 noD 文字が存在しないままに発展したインカ文明 央アメリカの文明 インカ文明の大きな謎 結ぶ位置が決められてい ( マヤやアステカ ) て、そこに 1 ~ 9 までび のひとつである。 が、コロンプス到着以前 インカでは文字の代わ 字をあらわす結び目をつ に独自の文字を持ってい りに、キープと呼ばれる けるのだ。例えば、 354 たのに対し、インカ文明 なら、百の位のところへ 計算記録用具が用いられ は文字を持っていなかっ ていた。キープはリヤマ 3 をあらわす結び目を、 た。文字を持たない民族 十の位のところへ 5 をあ の毛を紡いでつくられた らわす結び目を、一の位 がどのようにして巨大帝 親紐に、何本もの細い補 国を治めることができた のところへ 4 をあらわす 助紐を結びつけたもので のだろうか。 ある。十進法の位ことに 結び目をつけた。
インカの歴史を肌で感じるアンデス越えツア - 4 。 00 リースの旅 インカ帝国の首都クスコからインカ創建の地プーノまでの移動は、 車窓から雪化粧を施したアンデスの山々を望むバスがおすすめ。 プレインカやインカの遺跡を見ながら進む 10 時間のドライプは、 4335m の峠を越えるアンデスの旅となる。 暗い教会内に うっすらと浮 かびあがる壁 画は、オリジ ナルの色が残 り美しい プーノの街へ . ー . と向かう途中、 、・車窓からはチ チカカ湖の姿 が見られる 神秘なる湖 チチカカを抱く 最終目的地プーノは、 インカ創建の伝説が残 - るチチカカ湖のほとりにここ一 にある小さな街。チチ , カカ湖観光以外の時間 は、レストランなどが - = 第ミ第 集まるリマ通りを歩い てみるといいだろう。 今回紹介したバスはこちら / インカ・エクスプレス クスコ ~ プーノ間は数社のバスが走 -- をツ・つており、その中でもインカ・エクスプ レスは車の状態がよく人気ガイドは 英語とスペイン語て懈説をしてくれる。 問合せ先 ( グランツール・クスコ ) 084-24-5459 朝 US $ 55 ( 遺跡入場料は別途 ) 日本の問い合わせ先→グランツール ( P91 ) インカ文明の繁栄を 支えた中心地 石畳と石組みの壁が続 く、インカ帝国の首都。 日本からのツアーには、 必すといっていいほど 組み込まれている観光 地だ。アンデス越えの バスツアーでもクスコ が基点となる。 アルマス広場を中心に瓦屋根の古い建物が密集している 3 しー フォルクロー レの音色を聞 きながら、伝 統的なベルー 料理を味わう バロック様式の 教会が美しい 17 世紀に建設された 古い教会を見学する。 天井の装飾や壁画が美 しいことで知られ、特 に入口付近に描かれた 「天国への道、地獄への 道」の壁画は、物語性 があって面白い。 7 : 30 標高・・・ 3400m クスコ ◎ー、 アンダワイリーヤス 標高・ 3093 クスコから ベルー料理をビュッフェで ランチはベルー料理の よく並び、たっぷりと プュッフェを満喫。ス 食べられる。フォルク ープから魚、肉、野菜、 ローレショーもあり、 異国情緒満点 ! デザートまでバランス 雪に覆われて そびえ立つア ンデスの山々 は、迫力を感 じさせる 4 ラ・ラヤ シクアニ 00 標高・ 3542m クスコから 137km 連なる山々の 間を抜ける峠 越えのルート。 こんな過酷な 地でも、暮ら す人々がいる ラクチ : 純 A P リ、 0 r-OWENZA 「け 5 ( 0 ほ 30 標高・ 4335m クスコから 164km アンデスの自然と 遺跡をたっぷり満喫 ! 早朝 7 時 30 分にクスコを出発 したバスは、アンデス山脈を突 っ切ってチチカカ湖畔の街プー ノへと向かう。約 10 時間という ロングドライプだが、豊かな自 然に包まれた山間の村や遺跡、 教会などを見ながらの旅は、移 動をも楽しむ素敵な体験た。 バスはランチを含め 5 カ所に 停車する。ハイライトとなるの は、ラクチの遺跡と 4335m の 峠越え。インカ時代に栄えたラ クチには、インカの最高神ヴィ ラコチャを祭ったという神殿や、 太陽の位置を計算してシンメト リーに建てられた家屋が残る。 クスコと同しように積み重ねら れた石は、泥でデコレーション されているのがユニークた。 一方でラ・ラヤの峠はとにか く標高がポイント。何がある訳 でもないが、富士山よりはるか に高い場所にいること自体が感 慨深い。近くにはアンデスの 人々が生活する居住地があり、 過酷な環境でも逞しく生きてい る人がいることに感動する。見 どころをうまくつないだ旅は、 10 時間といえどもあっという間。 リラックスして楽しめばよいの だが、高山病対策のため登りは なるべく眠らないようにしたい。 : ・ 45 : 標高・・ 3475m クスコから 1 13km 14 : 15 標高・ 3901 m クスコから 249km アヤヴィリ 富士山よりも高い 峠を越えて 4000m 超の峠で 20 分 ほどの停車。やはり標 高を書いた看板を撮影 しておきたい。うっす らと雪をかぶった山が そびえ、気温もグッと 冷え込んでいる。周囲 には小さな露店も。 の 朝 プカラ インカ時代の 見事な石組カる インカ時代に建てられ たヴィラコチャの神殿 跡が残る。巨大な壁は 見事な石組みで造られ、 インカの人々の高い建 築技術を証明している。 およそ 200 軒が並ふ石 の家も興味深い。 左右対称に建てられた家のちょうど真ん中 から太陽が昇るデザインになっている プレインカ文明の 博物館を見学 紀元前 200 年頃から栄 えたプカラ文明の博物 館へ。見どころは近隣 にある古い遺跡から発 掘された石の神像。タ ヒチの神像ティキを思 わせる丸味をおびた姿 が興味深い。 朽 : 00 標高・ 3879m クスコから 281 km フリアカ 16 : 30 標高・ 3827m クスコから 341 km : ト 17 : 30 標高・ 3800m クスコから 386km 館内には遺跡 で発掘された さまざまな石 像が並ぶ。近 くにはレンガ を積んだ古い 教会もある
し インカ、アンデス文明の歴史年表 プレインカ ~ 500 AD 1000 BC 1500 0 1000 インカ期 形成期 地方発展期 ワリ期 地方王国期 C 当 4 れ取 rca カハマルカ文化 Ⅳた 1 な 北部海岸部で栄え た文化。金属加工 に長け、黄金の仮 面や祭儀品などが 発掘されている S 化ロれ シカン文化 チム - 文化 ビクス文化 モチェ文化 モチェ川流域に栄 えた文化で、巨大 な神殿で知られる 芸術性の高い陶器 が見つかっている 0 アンデス文明の母 体とされる、中部 山岳地帯で栄えた 文明。神殿を中心 とし宗教性が強い 火 ua レクワイ受化。。 , 文化 シカンを制圧し北 部沿岸部で栄えた とも呼ばれる が、インカ帝国に 高地文化。人 侵略される。黒い 物や動物を象 ワリ文化 陶器が特徴的 った見事な彩 色土器が特徴 工朝加 リマ文化 C 石巨Ⅵれ チャビン文化 ワれ ca インカ文化 C れこロ ャンカイ化 中央高原の広い地 域を支配した文化 で、政治や文化な ーリマの北にあ どインカ文明に多 るチャンカイ 大な影響を与えた 谷で栄えた文 化。個性的な 土偶や美しい 織物が見事 Wa 何 ワリ文化 地上絵で知られる、 南部海岸域の砂漠地 帯で栄えた文化。地 ーー下水脈を利用した灌 囚 ca アärac 漑をおこなった バラカス文化 ナスカ文化 ア材 ra w の取 プカラ文化 テイワナク文化 インカ帝国の礎を築いた、深く広いアンデスの歴史 インカ帝国がアンデス一帯を支配したのは 15 ~ 16 世紀。アンデスの長い歴史の中ではほんの一瞬でしかない。 それ以前にも紀元前 2500 年ごろから生まれては消えていった幾多の文明があり、プレインカと呼ばれるこれらの文明がインカの礎を築いたのた。 しかしプレインカの文明はまたまた十分な研究がなされているとは言えす、インカ文明以上に謎に包まれた部分が多い。 優れた技術と美的センスを育み独自の進化を遂げたアンデスの文化。プレインカからインカへと繋がる歴史の糸をたどってみたい。 幾多の文化が生まれ消えていった ンデスの古代文明の始ま は銅、青銅、金、銀などを使った りは、紀元前 2500 年頃 金属工芸において最高水準の技術 プンカ にまでに遡る。それまで に達していた。チムー帝国の勢力 文・・柳谷杞一郎 各地でおこなわれていたのは狩猟 範囲もかなり広大なものであった と小さな家畜の飼育、簡単な農耕 ようだが、それでもアンテス全域 を中心とした原始的な生活だった ていく中で、各地方に独自の 統治する国家が生まれるに を支配するには至らなかった。他 、たらす、数世紀にわたって様々 のだが、この頃各地に小さな神殿 が生まれ発展していく。モチ の国も同様である。大小様々な国 が建てられ始めるのである。時と 「太陽と月のワカ」と呼ばれる壮 な文化の勃興、袞退が繰り返され がお互いに領土拡大のための争い ともに神殿はより大きな、より立 大な神殿を中心にできた王国であ ていく。紀元 600 年頃、テイワナ を繰り返す日々が続いていたのだ。 派なものになっていく。信仰を求 る。大量の金製品の発見で話題と クを除く各地方の王国文化が弱体 15 世紀になって、クスコの一帯 化していく中で、中央高地にワリ 心力として、人々が集まり、それ なったシバンの遺跡はモチェの王 を支配する一地方民族集団でしか 墓のひとつだ。ナスカは、砂漠の 文化が誕生する。ワリはインカ以 ぞれの地域にそれぞれ独特の文明 なかったインカ族が台頭してくる。 を花開かせていくのである。 上に描かれた謎の地上絵で有名だ 前にアンデス全域を支配した唯一 インカ族は、三千年以上にもわた が、鮮やかな色づかい、大胆なデ の国だ。ワリが袞退すると再び地 紀元前 1 ()O() 年頃から紀元前 2 ()O るアンデス古代文明の最後の一ペ サインの土器・織物もきわめて魅 方の時代が到来する。北海岸では 年頃までアンデス世界のかなりの ージに忽然とその姿をあらわし、 地域に影響をおよばした最初の文 力的である。テイワナクは、ベル チムー王国、中部海岸にはチンチ アンテス全域の支配に成功する。 明が出現する。チャビンである。 ・ポリビア国境のティティカカ ャ王国、中部高地にはチャンカ族 アンデス世界が培ってきた文化・ 湖南東岸に誕生した文化で、高度 といった具合だ。チムー王国が築 ベルー中部高地チャビン・デ・ワ 技術を集大成した大帝国である。 ンタル神殿にあるジャガーの図柄 な石造建築技術を誇っていた。 いた都チャンチャンの遺跡は、高 最大にして最強。しかし、 1532 を用いられた土器は、アンデス全 アンデス各地で花開いた様々な さ 10 メートルにもおよぶ日干し 年スペイン人侵略者たちの出現に 域から出土しているのだ。 個性的な王国文明は、それぞれお レンガでできた外壁に囲まれてい より、儚くも一瞬にしてその生涯 紀元後、チャビン文化が衰退し 互いに影響をおよばしながらも、 るという巨大なものだ。チムーで を閉じることとなる。 ( ーに 0 ) 'Peru ※写真協力・ 資料提供 / / 天野博物館、 PromPeru ベルー政府観光局 0
ffie 師 5 朝邯可州羸 t 血 4 羸ッ 美しきアンデス、遥かなるインカ、神秘のナスカ インカ帝国の宗教的象徴「太陽神殿」の上に 征服者であるスペイン人たちはキリスト教会をつくり、十字架を立てた。 時空を超え、謎を探る旅へ。 0 文・写真・・柳谷杞一郎 Kiichi 「 0 Yanagitani 明が宿命的に持っ多くの謎を解く ベルー北部海岸で華開いたモ というより他はない。 上器、織物、金属工芸だけでなく、 鍵が厳然とそこにあるのだ。 チェ文化の土器のデサインも素晴 老いた峰 ( マチュピチュ ) と若い らしい。往時の人々の暮らしぶりが 石造技術、灌漑治水技術、交通網 峰 ( ワイナピチュ ) をつなぐ尾根の 生き生きと伝わってくる。モチェは 整備のための土木・架橋技術など、 上に築かれたこの空中都市に、発 アンテス世界で生まれ培われてき 金細工においても注目に値する。大 見者のハイラム・ビンガムは「マチ 量の金製品の発見で話題となった た文化・技術はそのほとんどがイ ュピチュ」の名を与えた。なんとも シバンの遺跡はモチェ文化の遺跡 ンカ帝国で、集大成され、洗練され 響きのよい地名である。アンデス文 なのだ。すぐれた金属工芸技術は、 ていくのだ 明の長い歴史の中で、時間軸とい そのままシカン、チムー文化へと継 クスコから川沿いに IOO キロほ う概念で考えればインカ帝国が存 どくだった山深い渓谷。その谷底 承されていく。黄金の仮面やトウミ 在していたのは一瞬でしかない。ま から 400 メートルはどのばった山 ( 儀式用ナイフ ) の発掘で有名にな してや、マチュピチュはそのほんの 腹中にマチュピチュは存在する。す ったシカンではかってない規模で 一部分でしかない。それでも、謎を でに何度も写真や映像で見たこと の貴金属生産が始まり、精錬技術、 がある風景であるにもかかわらす、 探る旅を楽しむ旅人たちにとって、 加工技術とも驚くべきスピードで進 これほど魅力にあふれた旅先が他 遺跡の人り口を抜け、目の前にマ 化をとげる。それらの技術はチムー にあるだろうか。いにしえのインカ チュピチュの遺跡の全貌があらわ でも拡大を続け、最後に黄金帝国 の民を想い、マチュピチュの風に れると息を飲むような感動に身を インカへとつながっていくのである。 ふかれる。旅人にとって至福の時 つつまれる。マチュピチュは数百年 南部アンテス、チチカカ湖のそば 間になることを約束する。 もの間、時代に置き去りにされてい で紀元前から独自の文化を築いて た。だからこそ、インカ帝国全盛期 きたテイワナクの石造技術も素晴 臾んやなぎたに・きいちろう 1957 年広島生まル の栄光が、手つかすで残されてい しい。これもまたインカ帝国時代に 写真家・編集者。「エス クアイア日本版」副編 集長を経てフリーに。、泰、を、、、、 るといっていい。インカ文明の技術 そのピークを迎える。インカの都・ 写真で分かる謎へ の最高到達点をインカの時代そ クスコの街に残された、石造建築 の旅シリーズ「マ 物 ( 例えばサント・ドミンゴ教会、サ のままに近い状態で見ることがで チュピチュ」イースター島」、「大 事なことはみんなリクルートか クサイワマンなど ) の精巧さは見事 きる。文字を持たなかったインカ文 ら教わった」など著書多数。 二、、′を探る旅ほど面白い旅は そうあるものではない。 仕事がら、多くの美しい 風景、歴史を刻んだ遺構を訪ねる 機会に恵まれてきたが、ベルーはも っとも魅力的な「旅」を約束してくれ る国のひとつである。そこには、 人々の好奇心を刺激する様々な謎 がちりばめられているからだ。数千 年の歴史の中で醸成されてきた奥 深い謎が旅人たちを心地よく迎え てくれるのである。 ベルーで花開いた様々な文明 の中でもっとも有名な文明は、イン カ文明ということになるのだろうが、 インカ文明はアンテス世界に生ま れた唯一の文明というわけではな い。アンテス世界にはインカ以前 にも多くの文明が存在している。例 えば、砂漠の上に描かれた地上絵 で名高いナスカ。地上絵はもちろん、 旅人の心を踊らせてくれるが、鮮や かな色づかい、大胆なテサインの 上器や織物を見逃すわけにはい かない。
マチュヒチュをさらに深く楽しむために。 インテイプンクはマチュピチュ インテイプンク。太陽に守られた なんとも感慨深い体験。片側には から見ると東側に位置し、ケチュ 神聖な門は、都市への出人りを監 石積みの壁が続き、徐々に緑が多 ア語で太陽の門を意味する。かっ 視する、関所のような役割を担っ くなっていく。こう配はそれほど てマチュピチュを訪れるための唯 ていたと考えられている。 急ではないが、階段状に石が重ね ーの方法は、インカ道をたどって 遺跡からは石畳のインカ道を 1 られた場所や岩が点在するような くることだった。そのインカ道と 時間ほど登ることになる。インカ 場所もある。何より距離があるた マチュピチュをつないでいたのが の人々が歩いた道をたどるのは、 め、ポティープローのように足に ワれ t 屮Ⅲ 1 朝 な太陽のインテイプンク インカの人々がマチュヒチュを訪れるには、延々と続くインカ道を登ってくるしかなかった。 そのインカ道の最終的な到達点がインテイプング当時はマチュビチュを訪れるのに必す通る入口のような存在たった。 長旅の末に門にたどり着くと、目の前に広がるのは神秘なる空中都市。迫力の景観が旅人たちに衝撃を与えたことは想像に難くない。 効いてくる。途中で休憩をとりな がらゆっくり登っていこう。 40 分ほど歩いたところには、 宿泊所もしくは休憩所として使わ れた、タンボと呼ばれる施設跡が あり、こからの眺めも素晴らし い。崖崩れを防ぐ段々畑を越えて 登っていくと、石を積み重ねた柱 が林立している。岩山の山頂より 少し下った場所にあり、これが太 陽の門インテイプンクだ。遺跡側 から登って絶景を楽しむ人と、イ ンカ道のトレッキングを終えて讃 えあう人でにぎわっている。 見張り小屋前のイン】橋が作られたのは切↓ 逆に進めば分ほどで ~ 石組みで築かれた細しイ たどり着く。平坦な道】道を、丸太が繋いでい響に第 なので歩きやすい。途 ~ る。外敵の侵入陸防ぐ . 、 ' 中の小屋で、入場の署 ~ ための仕掛けだづ発、 名と時間を記載しよう。一見学は時まで。 垂直な崖に渡された、 小さなインカ橋 びつくり ! ①遺跡へと続 くハイラム・ ビンガム・ロ ードや斜面の 段々畑もはっ きり見られる インテイプ ンクから眺め るマチュピチ ュ全景。背後 にワイナピチ ュがそびえる
0 ・・インカ帝国の滅亡」 なせ、スペインによって インカ帝国は滅んだのか ? はじめ、やっとパナマの一地方の ンカ文明は、アンテス最 後の文明であることは確 征服に成功した頃だった。 かだが、けっして唯一の 1521 年、コルテスがアステカ 王国の征服に成功。新世界で一旗 文明ではない。それどころか、ア 上げたいと考えていたフランシス ンデスにはインカ以前に多くの魅 力的な文明が存在していた。時間 コ・ピサロは、南方の黄金帝国探 軸という概念で考えれば、インカ 検に文字通り全生涯、全財産を賭 帝国が存在していたのはほんの一 ける決心をした。彼はこの時、す 瞬でしかない。アンテスに生まれ でに 40 歳を越えていたのだ。第 消えていったいくつもの文明の中 一回、第二回の探検隊で散々の目 では、むしろきわめて短命だった にあったピサロだが、彼の気持ち のである。 は常に前向きであった。 1532 年、 インカの名が南米の歴史に登場 するのは十五世紀になってからだ。 その頃からアンデス世界全域への 拡大を開始し、またたく間に南北 5000 キロメートルにわたる大帝 国をつくりあげた。ところが 1532 年にピサロが率いるスペイ ン軍の侵人によって、インカ帝国 はいとも簡単に終焉のときを迎え る。帝国拡大のスピードも速かっ たのだが、滅び去るスピードも速 かったというわけだ スペイン人が、新大陸の南に豊 かな黄金の国があるらしいという リマのアルマス広 場に立つ、スペイ情報を手に人れたのは 16 世紀の ンのビサロ像 . POBREDEIDSWIS. マチュヒチュ の インディオを 嘖む悪者とし てスペイン人 を蛇、神父を。・ 狐などに喩え ている マチュピチュ完全攻降カイド 0 0 【柳谷杞一郎】 イ ン カ の : 00 こ 3 : 0 朝じ - し 00 れ 0 久 飛脚は連携で た巨大な獣にまたがり、雷を放つ ものを手にしている白い人間の上 陸の報が人った。 好奇心旺盛なアタワルバは、 2 万 中 央 を越す大軍に守られてベルー北部、 立 高地の町カハマルカに人城する。 つ の インカ皇帝に拝謁をもとめる白い タ 訪問者に会うため、にであった。 ル わすか 160 名ほどのピサロ軍が、 勝つ方法はひとつだけ。「皇帝の 下 生け捕り」である。 2 万人のイン ひ カ軍に囲まれた中、拝謁に成功し ま たピサロは、アタワルバの手を鷲 づ く づかみ。輿の上から引きすり落と が した。太陽の御子である皇帝が、 サ こうも簡単に敵の手に落ちたので ロ は戦にならない。残ったインカ兵 はてんでんバラバラに逃げ散った。 監禁されたアタワルバはピサロ の言いなりとなり、傀儡となって しまう。アタワルバは国中から集 めた黄金で部屋を埋めつくすなど、 自身の解放のために精一杯の努力 をするが、ピサロの権力欲と猜疑 心を鎮めることはできなかった。 最終的にはスペイン国王に対する 反逆罪の罪に問われ、 1533 年絞 百刑に処される。 1 0 日百キロ以上をひた走るその恐るヘき情報網とは ? 第三回探検隊はいよいよインカ帝 国内に足を踏み人れる。 当時のインカ帝国は第 11 代皇 帝ワイナ・カバックの病没後で、 2 人の皇帝による後継者争いが勃 発していた。嫡男ワスカル軍を庶 子アタワルバ軍が圧倒。戦勝の報 告を聞き、ワスカルの処遇を決定 するためにクスコに向かっていた アタワルバのもとに、銀の足をし 7 ー , , ↓を 1 を スペインによるイ ンカ帝国征服の象 徴、アタワルバの 葬儀 ( 1533 年 8 月 ) 総延長距離 4 万キロメートルにも及ぶというインカ道 能であったという記録が ンカ帝国内には、 インカ道の沿道にはチ 残されている。 ちろんのこと、村々をつ また、道は可能な限り 情報の収集・伝達と物 「インカ道」と呼 なぐ小さな道路もしつか ニつの地点を最短距離で ャスキと呼ばれる足自慢 ばれる道路網がそれこそ の飛脚が半レグア ( 約 3 流コントロールのために りと整備されていた。そ 結ばれるように直線的に キロメートル ) ことに置 ローマ帝国も日本の織豊 そこいらじゅうに張り巡 の総延長距離は 4 万キロ つくられ、道に沿って公 らされていた。南北に走 かれ、驚くべきスピード 政権も、道路網の整備に メートルにも及ぶ。道に 用で旅する者のために宿 で走り、情報を運んだと 心血を注いだ。インカの る主要幹線道路が 2 本、 は、一定距離ことに道標 場 ( タンポ ) カけられ 1 本は海岸線を、もう 1 本 いう。首都クスコから北 皇帝たちも同様であった。 た。タンポは休憩所とし が置かれ、石ころひとつ、 部のキート ( 現在の工ク 戦上手、統治上手な人た は山岳地帯を貫いている。 雑草一本見られないほど ての役割だけでなく、あ アドルの首都キト ) まで ちは道路づくりに熱心な この 2 本の幹線道路を東 らゆる物資の貯蔵庫とし 清掃が行き届いていたと 通常十日で情報伝達カ呵 人たちなのである。 西に横切る主要道路はも てもの役割も担っていた。 いつ。 飛脚がひた走っ たインカ道。急 峻な崖にも道は 通っていた を : ぃ 0
3 ・・・「マチュヒチュ建造の秘密」 マチュヒチュ マチュピチュ完全攻略ガイド 空中都市マチュビチュはな 急域な山の尾根につくられたのか ? る重要な宗教施設だったと考える チュピチュは急峻な山と を走る秘密のインカ道を通じてウ 山を結ぶ尾根の上につく のが妥当ではないだろうか。イン ルノヾンノヾやビルカノヾンノヾのたくさ られた。。空中都市 " であ カ文明が神だと崇めていたのは太 んの遺跡と結ばれていることがわ 陽神である。宗教施設を少しでも る。この空中都市はどのような目 かったからだ 的でつくられたのだろうか。発見 しかし、結論から言えば、マチ 太陽に近いところにつくろうとし 当初のマチュピチュは、インカ帝 ュピチュは新インカ帝国の伝説の たのは自然なことだ。 マチュピチュ周辺には、断崖絶 国崩壊の後、スペイン傀儡政権に 都ではなかった。ハイラム・ビン 壁にそって多くのアンデネス ( 段々 反抗して樹立された新インカ帝国 ガムのマチュピチュ発見から 50 畑 ) がつくられている。天をつく 伝説の都 ( ビルカバンパ・ビエ 年後、アメリカの写真家ジーン・ 塔のような山ワイナピチュの山頂 ハ ) だと考えられた。マチュピチ サヴォイによる探検隊がビルカノヾ 付近にもつくられているのだ。食 ュは孤立した遺跡ではなく、山中 ンノヾ・ビエハを発見したのだ。地 理的状況や、残された記録から考 料確保のための畑だったとしたら、 相当に効率が悪い。アンデネスで えて、その地こそ新インカ帝国の 栽培されたトウモロコシからっく 伝説の都と結論づけられたのであ られるチチャ酒はインカ支配層か る。確かに、マチュピチュは「都」 ら戦士や地方の有権者に対する大 というには、少々規模が小さい。 切な贈り物となる。しかも、つく 実際訪れてみると、せいぜい 500 られた場所が神聖であればあるほ 人から IOOO 人ぐらいの人が暮ら どその価値は高くなるのだ。 すのがやっとだ、ということが実 インカでは太陽神につかえる美 感できるはすだ。 しい娘たちをアクリャ ( 太陽の処 マチュピチュ建造の理由として 女 ) として、一般社会から隔離し ます最初に考えられるのは、砦と て生活させていた。マチュピチュ しての役割である。なにしろ断崖 にはアクリヤの中でも特に選ばれ 絶壁の上につくられた石造建造物 た娘たちが暮らしていたと考えら である。難攻不落という他ない。 れる。アクリャもチチャ酒と並ん ただ反乱インカ軍が山に引きこも で戦士や地方の有力者に対する貴 ってから後につくられたにしては 重な贈り物である。マチュピチュ 立派すぎる。では、アマゾン地域 は神聖なチチャ酒づくりに従事す の反抗部族に対する備えが目的だ るアクリャたちの手によって運営 ったのだろうか。それだと、交通の されていた特別な宗教施設だった 要衝でもない山中に砦を築く意味 と想像すると、すべての疑問が解 があったのか、という疑問が残る。 マチュピチュはインカ帝国におけ けるのではないだろうか。 サクサイワマン ( → P53 ) は圧巻 だ。石の一つ一つ が巨大で 200 トン クラスもある 【柳谷杞一郎】 イ ン カ の 大きな岩は百トンを超える 0 この時代にどうやって運んたのか ? トリ 断崖絶壁につくら れたマチュピチュ は数多くのアンデ ネスを有している り立つ。ころなどを使用 車輪も滑車もない。それでもできた巨石建造物の秘密 0 しない条件下では、傾斜 10 % の坂道で、 18 トン には地面を引きすった磨 ンカ文明には、文 の上に迫ってくるのだが、 どのようにして運んだの の石を動かすためには、 かについては、確かな答 耗跡が残されているのだ。 字だけでなく、車 使われている石がとれも およそ 2400 人もの人手 しかも、採石場に残さ 輪も滑車も存在しない。 巨大なのだ。現代の最先 えは出されていない。文 れた石には磨粍の跡がな が必要だと試算される。 にもかかわらす、彼らは 字に代わるキープのよう 端建築機械を利用したと く、磨耗の程度は採石場 インカ帝国の巨石建造 巨石建造物を数多く築い しても、それらを動かす なものの存在は考えられ からの距離に比例して増 物の存在は、インカ皇帝 ている。例えば、クスコ ておらす、あくまで大量 ことは容易ではないだろ 加している。インカ人は の絶大な権力と驚くべき の街を守るサクサイワマ の人員投入によるカまか う。 100 トンも 200 トン 巨石を動かすのに、ころ 動員力を証明するものに ンの砦は圧巻である。 せの作業だったのではな もあるような巨石がいく やすべり材さえ使ってい 他ならない。 重になった防塁が波のよ いかという説が有力であ つも使われているのだ。 なかったという推測が成 うにジグサグになって山 る。実際、運ばれた巨石 彼らがこれらの巨石を 0
ac Picchu Comp ー・彙・ uide , マチュビチュ完全攻略ガイド 0 0 0 阜 ・・・ P28-29 マチュビチュ遺跡を マチュビチュを王道コースに沿って回るなら、 2 時間半もあれば 十分に巡ることができる。ただ、憧れの地をじっくり満喫するなら、 せひとも、マチュビチュ村に滞在してほしい。 インカ道から見下ろす街並み、朝の光を浴びた堅牢な石組み、 そうした光景はきっと心に強く焼き付けられることたろう。 最短なら 2 時間半。 日帰りも可能たけど、 朝一番の挑めがベストです。 アンデネス ( 段々畑 : 2 儀式の岩 見張り小屋 貯蔵庫 遣跡入口 基本の観光コース ci 洋き戔 G ミ・ : し意ミ Qolq ミ ) 早起きは三文の得と心得よ。 遺跡の美しさを目の当たりに : するにも、午前中の光が最高だ。 できるのは、霞みがちな早朝いそんな美景をものにしようと、 幻想的な風景が広がり、幽玄の一オンシーズンには 5 時 30 分の始 歴史に思いを馳せることができ一発よりかなり前からシャトルバ る。・霧が晴れるその瞬間も、息ースを待つ客が列を作り始める。 を飲むほど美しい。絶景を撮影ーせひ早めの行動を心がけたい。 ワイナビチュ・月の神殿・ P40 上 ) 朝靄で霞むマチュヒチュ 下 ) ハイラム・ビンガム・ロードを歩いて登る人もいて、遺跡入口には暗いうちから人が並んでいる インカ時代に思いを馳せる。 急峻な山の頂きにあるマチュー道を辿る絶景コース。ただし、 ピチュへ至るには、列車とバスー 3 泊 4 日ではあまりに遠い。そこ か、はたまた歩いて目指すか、 : で、公共交通機関で訪ねるなら、 2 通りしかない。インカ道トレ : せひ、インカ道を少し歩いてみ ッキングは、インカ時代と同じーることをオススメしたい。 太陽の門インテイプンク , ・・ P42 インカ橋・・ P42 インカ道を歩く P28 断崖絶壁に造られたインカ橋へは平坦な道が続き、簡単に行き着くことができる マチュピチュ山 ←太陽の門インテイプンクへ マチュビ サンクチュアリー・ロッ、、 遠景で空中都市を実感したい。 『失われたインカの都市』を実 : うが、その疲れも吹っ飛んでし 感するなら、遠景でその眺めを一まうほどの絶景が待っている。 満喫したい。体力に自信がある : ゆったりハイキングを楽しむな なら迷わすワイナビチュ山へ 9 : らインテイプンクへ。こちらは あまりに急な登りに怯んでしま : 緩やかな坂道になっている。 ワイナヒチュ登頂・・ P40 マチュビチュ山登頂 P40 太陽の門インテイプンク・ P42 上 ) ワイナピチュ山からの眺めは圧巻だ一下 ) インテイプンクからはかってインカ時代の人々が見た光景を一望 見学する際の注意事項 10 箇条 歩きやすい格好で、荷物は軽く。思い出以外はなにも残さないのが鉄則。 コースの基本は一方通行 遺跡入口前にある、 携帯に便利な マチュピチュ・ を軽くて小さな サンクチュアリ・ロッジ 水筒がオススメです。 でランチをどうそ 工コな配慮も大切 遺跡内では ペットボト J 児 食事力できません 原則厳禁。 C 工 005E10 第と 大きな荷物は 持ち込まない 遺跡内に トイレはゼロ。 ろ厳 ち気 も火 思わす一服したくなる 眺めですが、 火気厳禁で魂 自然を守りましよう。 大きすぎる荷物は 邪魔になるだけ。 入口側に 預かり所があリま魂 持ち込むこともできません。 選跡に接するホテルでは バイキング形式のランチが とれま魂 早めの対応が肝心。 入口前 ( 有料 ) か、 ホテルでのランチの際に 拝懴して。 持ち込んでいる人も 見かけますが禁止で魂 水簡なら地球にも 優しいはす。 26