不調については知らされなかった。失調症の彼女は紹介された仕事を無断で休み、 早退を繰り返した。友人が理由を尋ねても、「自律神経失調症だから」と謝罪どこ ろか病気を盾に開き直り、以後三カ月ほどで仕事を辞めてしまったそうだ。 友人はとても憤慨していた。 「なんでそんないい加減なことができるのか分からない " こ 「働く気がないなら私のところに来ないでほしかった ! 」 「自律神経失調症とかいうのに甘えてるだけなんじゃないの」 それに対し、私はこう反論した。 「できないんだよ。自分の感情を操作できないんだもん」 ここから私と友人の討論が始まった。 「なんでできないの ? 甘えだよ」 「だって、自律神経失調症なんでしょ ? そういう病気なんだから仕方ないじゃ 「じゃあ、働けないなら最初から紹介してなんて言わなきゃいいじゃないのー 「だから、精神的に不安定だから、『働かなきや』って思うときがあって、そのと ん」
133 放熱 いくつかに電話をしたり訪れてみたりしたが、電話に出た受付の人や、白衣を 着たカウンセラーに、「辛かったですね」「わかりますよ」と、嘘くさい言葉や笑 顔を浮かべられ、「もういいです . と逃げてきたところが何軒あったことか 武蔵野大学の敷地内にある、心理臨床センター そこで私は二週間に一回、カウンセリングを受けることにした。 事件後二年以上経ってからのことだった。それまではコントロールできていた はずなのに、夜中の動悸と、仕事帰りの足の竦みが何度も訪れ、他人に迷惑をか けるまでは至らないが、毎日の生活に支障をきたし始めた。 汚点のようなものを隠して生きることへの憤り。罪悪感や汚点と感じることへ の矛盾。 その矛盾に気がついたとき、自分でそれを認めることができなくなっていった。 その説明を電話でする自分が情けなくて仕方なかった。三年も経っているのに』 と、いまさら他人に頼ることも情けなく感じた。 電話に出た女性が、多少の話と概要を聞き、言ってくれた。
いたことがすべてとしか記憶がない私には、時間が余り過ぎるのではないか。 部屋に戻った私は、一人で眠ったのだろうか : 私は六時に起きて、仕事に行った。長時間泣いていたせいで瞼が腫れ、ひどく 不細工な顔だった。彼も仕事だったので、朝、目覚ましついでに謝罪の電話を入 れた 「お前、仕事行くのか ? こんな日くらい休めよ : : : 」 そんな返事が返ってきたが、仕事を休む理由が見つからない。 「こんなことで仕事を休んでいいの ? なんて言って休めばいいの ? ホントの ことなんて言えないよ ! 」 「体調悪いって言えばいいだろ ? 」 「なんで嘘つかなきゃいけないのよ ! 」 「じゃあホントのこと言うのか ? そんなことまで正直に言わなくたっていいだ 「ごめんね、ありがとう」の電話だったつもりが、喧嘩になってしまった。 まぶたは
き過ぎて」といった理由でごまかしていたが、段々と手際がよくなり、濡れタオ ルを凍らせて目を冷やす・温めるを繰り返して目の腫れを最小限にし、周囲にバ すべ レない術を覚えていった。目が腫れ、食欲がない理由のレバートリーも、徐々に 増えていった。 仕事に行くことは、苦痛ではなかった。毎朝決まった時間に起きて、仕事に行 く。このリズムを保つことが、唯一自分が事件に呑み込まれていないことを証明 することであるかのように思っていた。 社会とは甘えの利かないところだという規範意識 ( 私の勤めていた司法書士事 務所では、特にその意識が強いように思えた ) が、良くも悪くも私を律していた。 「仕事中は余計なことを考えないで済むから」 それもある。仕事の相手には、適当に嘘をついて話していることができたから、 感情も動くことがなく、記憶もなくいつもどおりに時間が過ぎていた。 対照的に家に帰ってからの時間や休日には、泣き通した記憶だけが残っている。 しばらくは友人との連絡も絶ち、遊びに行くこともなく、仕事以外の時間は家の お風呂でただ泣いていた。 ぬ
それでも、日記をつけるという作業は、本当は誰かに何かを伝えたかった当時の 私の必死な行動だったと思う。 日記は、「シンちゃん」と別れた二〇〇一年五月二十二日で終わっていた。 毎日の生活は、「いつもと変わらない日常」をこなすことで精一杯だった。仕事 や社会生活など、周りに他人がいて事件のことを公言できない場での私の生活は、 「何かあったと悟られないように」過ごし、それまでと変わらないように見えてい たと思う。実際、時間の速さや生活のリズムは何も変わっていなかった。 しかし、一人の時間には、それまでと同じ生活はまったくできなくなっていた。 食べることも忘れてしまう日々が続いた。ひと月で十三キロも体重が落ちた。 そもそも、生きる気力を失った人間が、食べようと思うわけがない。辛くて食べ られないのではなく、食べる必要がなかった。だからお腹も減らなかった。昼休 みは飲み物を片手に、ずっと歩き続けていた。一時間すっと。 仕事中、私は外回りの仕事があるため電車での移動が多く、一人になる時間が
169 合流 『性犯罪被害者のことを知ってほしい』 と思う気持ちは、どんどん大きくなっていった。 たくさんの被害者に会える仕事へ転職を決めた。 法律相談に訪れる人の対応をする仕事。性犯罪の被害者ではなかったが、悩み を抱えた人たちが情報を求めて問い合わせたり、訪れてくるところ。 毎日、ひっきりなしに電話がかかってくる。 事件から四年半が経ち、こうして書き留めていくうちに、気持ちや事実の整理 かずいぶんできてきた。 何かが片づいた感じがして、自分に起こったことも、把握できてきた。
そして日に日に、 『足りなかったものを補いたい』 『何かしたい』 という気持ちが大きくなっていった。 一人でも多くの被害者の声を聞きたいと思い、週に二回、仕事後に心理カウン セラ 1 育成の専門学校に通い始めた。 しかしここでも私は納得できないまま、むしろ反感を抱きつつ授業を受けるこ ととなる。 最初の授業。 「どんな人を相手にしたいか、どんな仕事をしたいか、どんなことに役立てたい か明確なものがある人いますか ? 」 という質問に、誰も手を挙げないので、私は、 「犯罪被害者、特に性犯罪の被害者の危機介入やカウンセリングをしたい。私自
61 日常生活 珍しくなかった。仕事や生活に支障がないように、私は電車に乗って移動すると きなど、目的地に着く頃に携帯電話のアラームが作動するようにセットしたりし ていた。 毎日必すそんな身体症状が出、精神的に不安定な日が続くことが当たり前のよ うになっていった。 でも、自分の頭がおかしいとは一度も思わなかった。「いま」が事件当時とは違 うことの判断はついていた。『いまは大丈夫だ』『いまは襲われてはいない』とい う認識かあるため、その苦痛が持続して抜け出せないことは、少なくとも私には なかった。社会に出ている間は、問題なく仕事をこなせていた。たとえ気持ちが ついていかなくても、やるべきことはやっていたのだ。 強い不安や身体症状、フラッシュバック : ・ : 。私が呈した症状は、まさに ( 心的外傷後ストレス障害 ) だったのかもしれない。私は精神科を受診して いないが、類似しているなあと思う点はいくつかあった。しかし、
198 とはいえ、「仕事」として私の話を聴いてくれようとする人たちは、まだまだ私 たちの声を理解して拾ってくれているわけではない。 取材の場で交わした約東を断りもなく破るなど、テレビとは、新聞とは、こう しなければ成り立たないと、当たり前のように「仕事」と割り切ってぶつかって くる 顔を出しているからもう大丈夫だろう、それなりの覚悟ができていて名前も顔 も出したのだろうと思われている気がしてならない。 それじやダメなんだ、と分かってもらうために、私は顔と名前を出した。 顔を出したから、人の希望に全部応えられるのではなくて、私たちの希望に応 えてもらうために、正しく希望を聞いてもらうために、私は声をあげた : : : つも 既存の環境に当てはめるのでは、、 しままでと何にも変わらない。 いまのままじやダメだから、伝えなきやと思ったんだ。 きちんと、要望を伝えていきたい。 士↑も 伝えなくちゃと思う半面、私には、護らなきゃならない場もある。私が声をあ
189 法律相談の業務に転職して、私は予想以上に多くの被害者に出会った。法律に かかわる仕事を選んだのは、そのためだった。制度や機関の情報も増え、裁判な どの仕組みも見えてきた。 仕事以外にも、性暴力被害者の自助グル 1 プ運営を手伝い、「仲間」ともいえる、 いろんな被害者に会うこともできた。 被害者の相談を電話ロで耳にする一方、加害者といわれる人たちに弁護人を付 する業務も経験し、事件の事実について、被害者側でも加害者側でもない、裁判 官や検察官の視点で書かれた書面も目にした。 性犯罪であれば、被害者の心情はもちろん、加害者の事情も書かれている。 感情移入とまではいかなくとも、ふと、自分を当てはめてみることもあった。 私は被害経験者だ それから