170 夫とは、生活はうまくいっていたが、 相変わらず気分は悪くなり、「吐くーこと から抜け出せない。 夫はともかく、周りの友人や親戚から、「子どもは ? と聞かれることも多くな ってきた。「結婚」という縛りが、私にはとても大きくのしかかった。『子どもを つくらなくちゃいけない』と。 つくろ 嘘をついて繕うことは好きじゃない。そこから逃げるのは簡単だ。でも、せつ かく人並みに、「順調で幸せ」だと思われそうなかたちを整えてきたのに、それを 崩すことは、一度安心させた両親にまた心配をかけることになる : : : 。私自身、 まだ立ち直れていないと思い知らされる気がして、離婚を簡単に言い出すことは できなかった。 自分を追い込みたくて、家を買ったりもした。 「続けていかなくては : そう思うことが、ますます自分を苦しめていった。 どんなにかたちを整えても、整えれば整えるほど、押さえつけられる力を感じ しんせき
1 10 「辛かったね」 と、ただ一言いっただけだった。 「シンちゃん」のように、感情をぶつけてくることもない。詳しいことを聞き出 すこともしなかった。 そしてまた、身体に触れてくる彼の手を払いのけることもできなかった。 「つき合っているのに、拒むなんて : : : 」 ずっとそう自分に言い聞かせていた。 アパ 1 トの賃貸契約更新を機会に、私はひとりの生活をやめて、彼と一緒に住 むことにした。 ひとりで泣くこともなくなるだろう。誰かが一緒なら、と、両親も安心してく れるかも : : : と、ほんの少しの期待を持って、引っ越しを決めたのだ。 実家に報告に行くと、父がすごい剣幕で私に怒鳴った。 「男と住むなんて、何を考えているんだ冗談じゃないー 一一度と家に顔を出
気分転換に少し時間をとって、公園の周りを走って帰ることにした。真っ直ぐ に行けば早いはずの帰り道を右に曲がると、 e 字路に突き当たる。そこに大きな 四輪駆動車が止まっていた。いまでこそこんなふうに書けるが、何もなければそ こに車があったことなど気づかなかったと思う。だが、その日はそうはいかなか った。 e 字路を左に曲がろうとした瞬間、 「ねえ ! 」 と車の運転席から男に呼び止められたのだ。 「道教えて」 と、道を聞かれた。 私は普段からよく道を聞かれる。しかしその日は、泣いていたこともあったし、 軽々しい呼び止め方が気に入らなかったが、自転車を止めてしまった手前そうも いかず、とりあえず適当に答えることにした。 「〇〇駅ってどっちですか ? 」
大好きな友人に会うと、私の戸惑いは隠せなかった。 「痩せたんじゃないの ? 」 「最近、みかちゃん元気ないし、「聞いてよー』がないけど、安定してんの ? 」 「生きてた ? そんな問いかけにどう答えていいのかわからない。 しばらくは「何もないよ」と答えるが、そのたびに嘘をついている気がして気 持ちが凹んでいった。 それを何度か繰り返すうちに、私はとうとう話すことにした。 『私は悪いことをしたわけじゃない、恥ずかしくなんかない』 そう思って大切な友人には自分から話したり、手紙を書いたりした。 幾人かの友人に事件のことを話した。みんな言葉に詰まってしまう。多くの友 人が、困った顔をする。引く。明らかにそれを感じ取れる。おざなりな優しさを 与えないように、という配慮が感じられた。「わかる」ということを言えない苦し さや、分からずにどうしていいのか困っている優しい気持ちが伝わってきた。
通勤途中、痴漢の被害にあえば、電車を降りてトイレで吐き、泣きじゃくる。 事件を思い出しての整理のつかない感情と、またしても″男〃の対象になってし まった悔しさと : 触られた怒りなんて感じない。自分は痴漢されて当然な存在くらいにしか思え ないから。 トイレで泣くときは、声を出しちゃいけない。それが私のル 1 ルのようにもな おえっ っていた。駅のトイレから鳴咽する声が聞こえてきたら、それを聞いた人は不気 味だし驚くことだろう。ハンカチを口に当て、歯を食いしばる。声を出さない泣 き方も、自然に覚えていった。 よみがえ しゅうち ここでも、羞恥心や世間体などの常識を気にする気持ちと、津波のように蘇っ てくる感覚とのバランスが上手く取れず、どちらも優先することができなかった し、どちらも表現することができなかった。ただ身体が何かを覚えていて、それ を感じ、症状が現れてくる。吐いたり震えたり頭の中が真っ白になったり : ・ れが私の主な身体症状だった。
31 事件 私は嘘をついた。 「どうして分かるの ? と聞かれ、一瞬言葉に詰まった。 「だって : : : 、初めてじゃないですから」 「何を入れられたの ? 「そこまでは分からない。でも違う」 もてあそ 事実、人体ではないものも入れられ、弄ばれた。それは確かだった。それくら いのことは、解る 「じゃあ、何かでいたずらされたんだ。おもちやか何か ? 「解りません。でも、すごく痛かったし、私、今日生理だから、嫌だったんじゃ ないでしよ、つか , 事実と嘘が、めちゃくちゃだった。聞いて助けてほしい気持ちと知られたくな い話したくない思い出したくない気持ちが交ざり、中途半端な証言になってしま っていた。警察というよりは他人に対する防衛本能、拒否感は自然に芽生えてい た。たとえ相手が警察とはいえ、初対面の人をいきなり信用することができなか
しまった女の気持ちを理解しようとしてくれたことが解ってきた。 「男友達と二人でいるのは怖くないのか ? 」 「いまでもそのことを思い出してしまったりすることはあるのか ? 「そういうとき ( 身体反応が出たとき ) はどうしてるの ? 」 「どんな言葉や状況で、思い出したりするの ? 」 「帰りか暗くなったときは、布くないのか ? あまり普段聞かれないような質問を、容赦なく私にぶつけてきた。答えられな いときは、それが答えであることも説明した。 すると、その友人は、 「聞いてよかった。俺は誤解してた」 と、納得してくれた。 聞かれることを嫌がっていた半面、本当の気持ちを理解されないことへの憤り も感じていた。被害のことを知ると、多くの人が腫れ物に触るように対処してく れた。その気持ちが嬉しくもあったが、「理解できない」ことの証明であるように 思、つこともあった。
150 「あれ、嬉しかったですー 「あ ? 見たんだ ? よかった。彼に会ったら伝えておくわね 直接その刑事さんにお礼を言いたかった。 私は、その後の捜査の進展と、市内の事件数の状況を聞き、事件後の私の心境 を話した。 刑事さんは驚いていた。 「あなたがそんなふうに感じてるとは少しも思わなかった。しつかりしているよ うに見えたから、もう元気に生活していると思って安心していた」と。 私は彼女に、被害者支援都民センターについて聞いてみた。 「都民センター ? これかな ? 」 と、書類の山の中からョレョレのパンフレットを出してきてくれた。聞けば、 被害者に警察側からこのパンフレットを渡したことはないそうだ。 今後、私と同じような被害にあった人が一人で警察に来るようなことがあった ら、そのときはセンタ 1 の存在を教える。こう刑事さんは約東してくれた
75 日常生活 きっかった。これが、事件以来私のわがままを極力聞き入れてくれていた彼の 本音かもしれない。ずっと私に聞きたかったのかもしれない。重荷だと思い続け ていたのかもしれない そこまで彼を追い詰め、責任感を持たせ、苦しめてしまった。 そう思えたとき、すべてを事件のせいにして、自分の非を認められなくなって いく自分にも嫌気がさしてきた。私も彼といることが、嫌になってしまった。 刑事さんが二度目の事情聴取のときに言っていた言葉を思い出した。 「この間一緒に来ていた彼はいなくなってしまうかもしれないわよ。こういうこ とは、男性は聞きたくないみたいだから」 刑事さんは、深い意味があって言ったわけではないかもしれないが、私はその 言葉を覚えていた。 おそらく、事件後に恋人が離れていってしまうのは、その人が薄情なのではな く、プレッシャ 1 や責任に耐えられなくなってしまうからなのではないか。彼女 ま、も に対して何かを思うのではなく、彼女を護れなかった自分を責め続けたり責任を
193 それから 数日経って、「」という雑誌の女性記者から「会って話を聞きたい」と 連絡をもらい、取材を受けた。 私が思っている以上に、丁寧に、そして慎重に話を聞いてくれる。言葉を選び ながら、私の様子を見ながら、私の言葉を可能な限り引き出そうとする。 私が言おうとしていることを、感じてきたことを、正確に聞き取ろうとしてく れた これは、私にとって、新たな発見だった。 こんな機会があったのは、あのボクサ 1 の友人以来初めてだ。 「小林さんが思っていることを、読者に誤解されたくないー そう言ってくれた記者は、何度も何度も私と顔を合わせ、私が見せたこの手記 の原稿をすぐに読んでくれて、次に会ったときには、「この部分、もっと聞きたい ふせん : 」と原稿にたくさんの付箋がついていた。 隠さなきゃいけないの ・ : ・ : ? とずっと藤してきた私にとって、私の話に耳を 傾けてくれ、「誤解なく伝えたい」という、この記者の言葉は、とても新鮮で、「伝 えることに意味があるのかな」という私の迷いを吹き飛ばしてくれるものだった。