事件当時につき合っていた「シンちゃん」は、中学の同級生だった。 大学生の頃につき合い始めてからずっと、喧嘩が絶えなかったが、私は彼のこ とをとても信頼していた。 事件にあう前に彼と喧嘩別れし、しばらく彼は電話にも出てくれなかった。あ のとき、私は何度も電話を鳴らした。もしも彼が電話に出てくれなかったら : 事件の後、彼は毎日、必ず私の住むアパートに来てくれた 「部屋にいるか ? 」 「怖くないか ? と、必ず確認してくれていた。 電話をすれば、三コ 1 ル以内に出てくれていた。 ゼロ地点
133 放熱 いくつかに電話をしたり訪れてみたりしたが、電話に出た受付の人や、白衣を 着たカウンセラーに、「辛かったですね」「わかりますよ」と、嘘くさい言葉や笑 顔を浮かべられ、「もういいです . と逃げてきたところが何軒あったことか 武蔵野大学の敷地内にある、心理臨床センター そこで私は二週間に一回、カウンセリングを受けることにした。 事件後二年以上経ってからのことだった。それまではコントロールできていた はずなのに、夜中の動悸と、仕事帰りの足の竦みが何度も訪れ、他人に迷惑をか けるまでは至らないが、毎日の生活に支障をきたし始めた。 汚点のようなものを隠して生きることへの憤り。罪悪感や汚点と感じることへ の矛盾。 その矛盾に気がついたとき、自分でそれを認めることができなくなっていった。 その説明を電話でする自分が情けなくて仕方なかった。三年も経っているのに』 と、いまさら他人に頼ることも情けなく感じた。 電話に出た女性が、多少の話と概要を聞き、言ってくれた。
25 事件 えている。しばらくすると、また震えてくる。 『いつまでもこんなところにいるわけにもいかない。帰らなくちゃ』 ところが不思議と、「帰る」という目的を持ったとたん、歩けなくなった。それ まではうろうろと歩いていたはずなのに。『どこに ? 』『一人で ? 』と考えると急 に布くなり、どうしたらいいのか分からなくなった。 『誰か助けて』 家族には話せない。友人には荷が重すぎる。とっさに頭に浮かんだのは、別れ たばかりの彼「シンちゃん」だった。 うそ 『嘘だと思われるだろうか : : : 取り合ってもくれないだろうか : : : 電話に出てく れないかもしれない : ・ : それならそれでもいい』 結局、「シンちゃん」に電話をしてしまった。 「もしもし ?
107 ゼロ地点 好きな人なのに。 『私は、こういう身体になってしまったんだ』 と思ったのは、このときから。 実際、その後出会う男性とも、身体が触れると気分が悪くなってしまった。 「やめて ! 」 という、信号。 身体の反応は、そんなことが当たり前になってしまったが、ひとりの時間はや はり不安だった。 「シンちゃん」に電話をしてしまう : ・ : ・ 「頼むから、もう俺のことは忘れて、幸せになってくれ 彼は言った。 もう恋人じゃないことは解っている。でも、「シンちゃん」に頼り、何かあると 電話をしてしまう癖が抜けない。 彼もまた、そのたびに三コ 1 ル以内に出てくれる。ときには心配し、彼から電 話をしてきてくれることもあった。
148 している人がいて、私がその人たちの存在を知ることができたなら、それは私に とって財産である。だから私は、一人でも多くの被害者の存在を知りたかった。 私一人ではなく、被害者が求めていることを知るために。 結局私はこの学校に一年間通い、「熱い人」をやり抜いた 最後まで、講師を尊敬することができなかった。 この頃の私は、、 しろいろな疑問や感じたことを一気に行動に変えようとしてい お財布に入っていた名刺を見て、刑事さんに電話をした。 突然の電話に、当時担当してくれた刑事さんも驚いた様子で、 「はあ : : : 」 と、最初は私のことも思い出せなかったようだった。それでも、都合のよい日
いたことがすべてとしか記憶がない私には、時間が余り過ぎるのではないか。 部屋に戻った私は、一人で眠ったのだろうか : 私は六時に起きて、仕事に行った。長時間泣いていたせいで瞼が腫れ、ひどく 不細工な顔だった。彼も仕事だったので、朝、目覚ましついでに謝罪の電話を入 れた 「お前、仕事行くのか ? こんな日くらい休めよ : : : 」 そんな返事が返ってきたが、仕事を休む理由が見つからない。 「こんなことで仕事を休んでいいの ? なんて言って休めばいいの ? ホントの ことなんて言えないよ ! 」 「体調悪いって言えばいいだろ ? 」 「なんで嘘つかなきゃいけないのよ ! 」 「じゃあホントのこと言うのか ? そんなことまで正直に言わなくたっていいだ 「ごめんね、ありがとう」の電話だったつもりが、喧嘩になってしまった。 まぶたは
電話ごしの彼の声に、涙が溢れ出た。いつもと違う私の様子に気づいた彼は、 「どうしたんだ ? 絶対に動くな ! そこにいろ ! 」 と、私に命じた。 しかし、彼を待っ間も、やはりじっとはしていられなかった。誰かに来てほし いような、見られたくないような、別れた人にこんな情けない姿を見られる恥ず かしさ、関係ない人を巻き込んでいいのかという迷いが加わり、また暗闇を求め て、歩いていた。 公衆トイレにも、もう一度行った。 夢であってほしい、夢なんじゃないかという思いが、そうさせた。 一時間ほど経っただろうか携帯電話が鳴った。 「どこにいるんだ ? 」 「公園の周りをうろうろしてる : 「バカ ! 早く分かるところに来いー 「、つん : : : 」 彼が来た。 コンビニの前に来られるか ?
せいはんざいひがい 性犯罪被害にあうということ 2008 年 4 月 30 日第 1 刷発行 2008 年 6 月 1 0 日第 3 刷発行 著者小林美佳 発行者矢部万紀子 発行所朝日新聞出版 〒 1 0 4 ー 8 0 1 1 東京都中央区築地 5 ー 3 ー 2 電話 0 3 ー 5 5 4 1 ー 8 8 3 2 ( 編集 ) 0 3 ー 5 5 4 0 ー 7 7 9 3 ( 販売 ) 落丁・乱丁の場合は弊社業務部 ( 電話 0 3 ー 5 5 4 0 ー 7 8 0 0 ) へこ連絡ください。 定価はカバーに表示してあります 旧 B N 978 ー 4 ー 02 ー 250421 ー O P 「 inted in Japan ( ◎ Mika Kobayashi 2008 印刷製本凸版印刷株式会社 JASRAC 出 0800097—803 送料弊社負担にてお取り替えいたします。
203 それから 「どうしてわざわざバラすの : と言われた。 相変わらずだなあと感じていたが、ある日、母から、父が出張でいないから、 泊まりに来てほしいと電話があり、実家に行った。 その晩、母と並んで寝た。 「私は、どうしても、美佳のやろうとしてることが、理解できないの」 と、母が話してきた。 「やろうとしてること ? 」 と、聞き返すと、 「母さんはね、事件のことを思い出したくないの。あんたは私たちのことを恨ん でいるかもしれないけど、母さんね、もしもあんたが自殺なんかしちゃったら、 お父さんたちには悪いけど、一緒に死のうって決めてたのよ。だって、わかって あげられないんだもの : 「大丈夫だよ。いま生きてるし、自殺する勇気なんてなかったよ。それにね、も
169 合流 『性犯罪被害者のことを知ってほしい』 と思う気持ちは、どんどん大きくなっていった。 たくさんの被害者に会える仕事へ転職を決めた。 法律相談に訪れる人の対応をする仕事。性犯罪の被害者ではなかったが、悩み を抱えた人たちが情報を求めて問い合わせたり、訪れてくるところ。 毎日、ひっきりなしに電話がかかってくる。 事件から四年半が経ち、こうして書き留めていくうちに、気持ちや事実の整理 かずいぶんできてきた。 何かが片づいた感じがして、自分に起こったことも、把握できてきた。