孤児が歌った「過去は忘れよう」 平和になったいまも、学校の教室は不足したまま、 65 Ⅱ歳の子どもの % しか通えていま せんでした。一教室あたりの子どもの数も多くなっています。 私たちは、南部の州都ルバンゴのはずれ、貧しい地域のトウンダバル小学校を訪ねました。 ュニセフの支援と、地区の住民参加によって、田年に建設しました。 教室は 2 つでした。 197 人の子どもが通い、午前と午後の二部制にしていました。 それでも地区の人あまりの子どもは通えないでいます。 校長先生のフェルナンドさんが訴えました。 「教室が足りないので、 456 年生は 8 キロ離れた別の小学校に通わなければなりません。木 の下で授業するクラスもあります。もう一つ、教室がほしい その木の下で、子どもたちと私は、大や猫、牛、鶏などの擬音語遊びをしました。 大きな笑い声でした。 章そばで校長先生がいいました。 剏「地区のおとなの住民の大半は内戦で学校にいく機会を失い、字が読めません。三部制にして
ら歳まで 1850 人が学んでいました。教室が足りないので、感染症がはやったときにつく った保健センターまで校舎として使っていました。 教室の窓ガラスは割れて、ほとんど入っていません。川月には日本の真冬ほどの寒さになる といいます。片隅にある小さな石炭ストープだけでは、とても勉強できる状態ではないと思い ました。でも、それだって、あるだけましでした。 年なにもかも足りなくて、授業は三部制をとっていました。私が教室をのぞくと、ほっんとひ とり座っている男の子がいました。私もその隣に座り、そうやって長いこと二人で黙っていた アのですけれども、どうもその子は、三部制のために自分の受ける授業の時間がわからなくなっ てしまい、すごく早くきてしまったのです。私は、思わず笑ってしまいました。 ケ マ 学校で会った子どもたちは、みんなにこにこしていました。髪が黒い私に「イタリア人 ? 」 ニなんて聞くので、日本人よ、というと、「知ってる。自動車があるね」なんて話していました。 でも、子どもたちは笑っていても、その心は深く傷ついているのです。死ぬかもしれない、 ア どこでも決して安心できないという恐怖を、子どもたちは体験しているのですから。ほんとう は勉強どころではないのかもしれません。 コ 章それでも、教室の子どもたちは、かわいそうなぐらい一生懸命に、勉強していました。 第
マに対するカウンセリング、 / ェイズの感染予防のための勉強もしています」 教室は 3 つ、草で覆った屋根があるだけ、壁はありません。雨がやっとしのげる程度でし それでも、 556 歳児の教室では子どもたちが座り、公用語の英語の <no を習っていまし 子どもたちがパッと立ったとき、びつくりしました。足元に川センチ四方ぐらいの丸い石が 見えました。座っていたのは、この石だったのです。 教室には、黒板も、机も、いすも、教科書も、ありません。 西ェクアトリア州のマイケル教育大臣にお会いしたときの話を思い出しました。 「新 % の学校は木の下で授業をしています。雨が降ると授業をしないことが多い。学校施設が 不足していますー 西ェクアトリア州でもっとも大きいャンビオ病院に向かいました。 南内戦中は「神の抵抗軍」の拠点になり、診療体制の整備が遅れていました。 章いまは、外科医 1 人、内科医 4 人、麻酔士 1 人、助産師数人で、診療を始めています。 州の人口は 140 万人です。その医療体制がこれだけ、でした。 こ 0 , 」 0 297
せるように仕切った教室が必要です。それにお金がかかります。いまは、その経済力がないの ですー 知事は、女の子にも教育が必要なことをはっきりといいました。もし、その言葉が本当なら ハンで 実行に移してほしいと思いました。日本でアフガニスタンについて勉強したとき、タリ も全員が同じ考えを持っているわけではないと聞いていたので、柔軟な人もいるのか、と考え ました。 ハン兵も車酔いするほどのガタガタの荒れ地を走って ヘラートから車で 3 時間。護衛のタリ。 ゴーリャン地区へ向かいました。ュニセフの交渉によって、タリバンか黙認している女の子の 1 ための秘密の自宅学校をめざしたのです。 土壁に囲まれた不思議な建物に着きました。中は暗く、頭を上げると天井にぶつかるほどの タトンネルになっていて、まるで迷路でした。土の階段を上がって、 3 階の小さな部屋が教室で ス ニした。まだ始めて 1 年ということでした。 フ っぺんに教室に入りきれないので、幻人ぐ ここで人の女の子が勉強しています。ただ、い ア 章らいずつが交代で学ぶ授業でした。先生は女性で、ひそむようにひそひそ声で教えていまし 107
「子どもたちに勉強を教えることができるなんて。タリバン時代には人ぐらいの女の子に秘 密のク家庭学校クで教えていました。ほかの先生たちも、近所の主婦を装って、数人の女の子 たちを教えていました」 タリバン時代、学校は閉鎖され、建物はタリバンに使われていました。教室にあったいすや 机は壊され、木という木は暖をとるために燃やされました。 教室では、子どもたちがコンクリートの床にじかに座って、勉強していました。教室に入り きれない子どもたちは、校庭で勉強していました。みんな一生懸命でした。 カプールの冬は寒く、 1 月の平均気温が零下 1 ・ 8 度、 2 月が零下・ 3 度でした。最低気 温は零下度とか、零下浦度にもなります。ひどい時は零下度です。 ところが、子どもたちの服装は、私が訪ねた昨年 7 月の度もあったときとあまり変わりま せん。ソックスも履いていませんでした。 けれども、表情は前回とまったく違っていました。ひそひそ声で、隠れるようにしていたの が、今回は声も大きく、明るさがありました。先生たちも生き生きと教えていました。 小学 5 年生のクラスは、川歳から歳ぐらいの女の子が学んでいました。私は質問しまし た。将来、何になりたいのって。 女の子たちは答えました。 120
子どもが使いやすいような水飲み場やトイレなどの設備を整え、女の子と男の子が平等に勉 強できる環境をつくろうとしていました。 コンポン・トム州の農村部のプレイ・タップ村小学校で、私は 1 年生の教室に入って、男の 子の隣に座りました。 算数の勉強でした。 男の子は小さな黒板に白墨で 1 を書くのだけれども、クメール語の 1 はぐにやっとしている のでうまく書けません。 前の女の子が振り向いて、「下手ね。こうやって書くのよ、と教えていました。すごくしつ かりした女の子で、そのおしやまな感じがおかしくて、笑ってしまいました。 5 年生の教室へいくと、急に子どもの数が少なくなりました。せつかく入学しても、卒業す 年 るのは 1 年生に入学した子どもの半数しかいません。 統計では 55M 歳の子どもの 3 分の 1 は小学校をやめて働いているのです。 ア ジ 教室では黒板に張られた文章を、前に出た子どもが棒でなぞり、大きな声で読んでいまし ン 章みんな一生懸命で、目に力がありました。確実に幻年前より子どもは元気でした。 第前に来たとき、一人だけ生き残った俳優さんで、文化大臣になっていた方と知り合いになり
るそうです。 私は教室に入り、子どもたちと一緒に座りました。中は、暗く、電気もなく、砂が入るから と窓は閉じたままでした。ただ一つある黒板は、古くク白板のようになっていました。そこ に白いチョークで書くから、ほとんど見えません。 それでも、子どもたちは、大きな声をあげ、一生懸命、公用語のアラビア語の読み方を勉強 していました。 アパ・フーレイター先生は、私たちに訴えました。 「すし詰め状態で、教室が足りないんです。トイレもないし、水もありません。もちろん、教 科書も紙も鉛筆も不足していますー モーリタニアでは、 6 歳から歳まで義務教育ですが、受け入れる施設が足りない状態で、 義務教育にすることはできないというのです。 公立小学校といっても、政府が出すのは教師の給料だけで、学校の維持費は、子どもたちの 親の負担でした。負担といっても、日本では考えられない安い額です。 私が訪ねたこの学校では、負担は一人あたり月ウギア ( 1 ウギアⅡ 1 ・ 551 ・ 7 円 ) 。 しかも、そのお金が払えるのは、豊かな家庭だといいます。
成人識字教室をやりたいのです。けれども、夜は電気がないのでできません。発電機がほしい んですー アンゴラでは家庭が貧しく、 55M 歳の子どもの約 % は働いています。性的、経済的搾 取、人身売買の犠牲になることも少なくありません。 首都ルアンダには、そうした若い女性のための更生施設イルンパ・センターがありました。 アンゴラ唯一の政府の職業訓練センターで、 398 人が入学していました。 施設の担当者や講師たちが迎えてくれました。 「前は保護された女性だけでしたが、いまは、一般の女性も受け入れています。『更生施設』 が蔑視され、そこに通う女性が差別されるのを防ぐためです。ですから、『短期職業訓練施 設』といっています。訓練の期間中に出産する女性も多く、赤ちゃんを預かる部屋もありま すー 驚いたのは、ネイルアートとインテリアデザインの訓練コースがあったことでした。 つらい過去を背負った女性たちか夢のある職業につけるように、という考えからでした。 ネイルアートの教室に入ると、マニキュア塗りの実習中でした。 女性は自信に満ちていました。
が高く、大勢の人が出ているのに、そう売れているようには見えませんでした。 どこを歩いても、ストリートチルドレンばかりが目立ちます。キンシャサだけでも 2 万人以 上いるといいます。 私たちを見つけると、「おなかがすいた」「お金ちょうだい」と近寄ってきます。 コンゴ在住年の修道女の中村寛子さんが教えてくださいました。 「親は、仕事も収入もなく、自分の子どもを育てられないので、 6 歳ぐらいになると、家から 追い出します。貧しさがストリートチルドレンを増やしています。『悪魔つき』といわれて焼 き殺される子どももいます 「悪魔つき」とは、子どもに悪魔がついて、害悪をおよばす行為をするということです。親が 家から追い出す理由にもなっていました。川年前にはなかった、悪い新興宗教のようなもので した。 ストリートチルドレンの寝場所になっていたのは、古い小学校でした。ただ屋根があるとい ざこね うような教室で、コンクリートの床に雑魚寝でした。教室の隅をトイレにして、そこはびちょ びちょ、すごいにおいでした。 私たちは、もう一つの寝場所、元「オリンピックプールーに向かいました。壊れて廃虚にな った観客席や部屋に、子どもたちは集まり、赤ちゃんまでいました。 180
第炻章フィリピン・ 2 014 年 フィリピン訪問 ミンダナオ島コタハト市 防災と平和 神様も一つ レイテ島タクロバン市 覆う悲しみ 生きている 「『トットちゃんセンター』が僕の命を助けた」 「こんなに幸せなことはない」 教室の壁もない 296 304 304 288 303