生き - みる会図書館


検索対象: トットちゃんとトットちゃんたち 1997-2014
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1. トットちゃんとトットちゃんたち 1997-2014

ました。教師の死亡は 1861 人と報告されていました。 州の教育省の代表キスムラさんはいいました。 「教育の未来にとって、たいへんな打撃ですー 生き残った教師たちも、それぞれ家族を亡くし、家を失っていました。 第小学校の男性のナザルディン校長は話しているうちに泣き出しました。 「助けようと、子どもの手をつかみました。その手が水の勢いで離れてしまったのです。子ど もが流されているのに何もできませんでした」 子どもたちの話もつらいものでした。 サフリナさん ( ) は母と兄を亡くし、チェトファイラズさん ( ) は妹を亡くし、ビスミ くん ( ) は家族 8 人全員が行方不明でした。 教室では、 4 年生が図画の授業を受けていました。出席は 58 人いる生徒の半数でした。 レストウくん ( 9 ) は津波を黒く塗りつぶしました。ュリアさん ( 9 ) は、津波を茶色に、 そこに流される子どもを描きました。 苦しい思いを閉じ込めておくのではなくて、外に出していく。心の傷を治していくために重 要なこととはいえ、黒い色ばかり使う子どもたち。見ていて胸が痛みました。 でも、悲しくて生きる勇気がわいてこない、というおとなが多かったなかで、子どもたち 194

2. トットちゃんとトットちゃんたち 1997-2014

「もちろん、忘れるはずはありません。爆撃の前、親も生きていて、姉妹も生きていて、私、 おなかいつばい食べたことがあります。毎日、毎日、その日のことを思い出すんです」 私は胸がつまりました。希望はありますか、と尋ねました。 「ほんのちょっとでもお金があったら、市場へいって、子どもたちに食べ物を買ってやりたい んですー 一番の希望が、子どもに食べ物を買ってやること。ささやかな希望でした。ほかに何人もの お母さんに聞いたけれども、ほとんど同じ答えでした。 年 お母さんの責任じゃない、子どもたちの責任でもない、国の指導者の考えた政策でこんなこ とになっているんだと、私の胸は、つぶれそうでした。 ア マ ン タ ス少女を傷つける性器切除 ガ フ ソマリアは、子どもの死亡率が世界でもっとも高い国の一つです。 1 歳になるまでに ア 章人のうち 132 人が死んでいます。 6 人に 1 人です。 5 歳になるまでには 4 人に 1 人となり 第ます。 135

3. トットちゃんとトットちゃんたち 1997-2014

またこの村では、女性が中心となって、トマトの品種を改良し、その種で万ウギアの収益 をあげていました。野菜づくりでも成功し、その収益で、自分たちの子どもの小学校を建てた そうです。 貧しくたって、だれかにすがって生きていこうと思わないで、みんなで力を合わせれば、な んとかなる。その一生懸命生きている姿に感動しました。 マラリア予防には、予防接種ワクチンはなく、予防内服として薬をのむのです。私たちは、 日本を出るときから、マラリアの薬を病院でもらって、毎日、必ず 1 錠ずつのんでいます。だ から一応、マラリアにはかかりにくいようにしています。夜は蚊とり線香を必ず体のそばに大 をつけておいておきます。私たちは、こうして、マラリアの蚊にさされないように予防できま 年すが、何もない子どもたちは、マラリアの被害にあってしまうのです。 ア タ 静かな緊急事態の国 モ 生活を変えようッという努力でした。 章すごいと思ったのは、ク 第セネガル川沿いの地域の、米づくり、野菜づくりの研究もそうでした。

4. トットちゃんとトットちゃんたち 1997-2014

してくれました。 「部隊の生活はひどかった。食料は少なく、いつもなぐられていました。重い荷物を運ばさ れ、いやでした。いまも、自分がなぐられたり、人が殺される夢を見ます」 別の、元少年兵のためのセンターでは、囀人が読み書きや機械修理、大工仕事、運転などの 訓練を受けていました。 Ⅱ歳で少年兵になり、 1 年後に解放された男の子のウジマくん ( ) はいいました。 「いつもなぐられていました。弾薬や銃の入った箱を運ぶのは重くて。初めて銃を撃ったとき は、森に向かって撃ったので、人がいたかどうかはわかりません。人が死ぬので、怖かった」 このセンターでたった一人の女の子、片歳のエリザベスさんは、生まれたばかりの赤ちゃん を抱っこしていました。 「歳のとき、村が襲われ、略奪されました。親ときようだい、いとこの 7 人が目の前で殺さ れました。裸のまま森へ逃げて、生きていくために武装集団に入りましたが、着る物も食べる 物もなかった。村を襲って、盗むほか、生きられませんでした。別の部隊の隊長がワイフを求 めていたので、いやいやワイフにさせられました。動物のような暮らしでした。逃げてきまし たが、妊娠しているのは知りませんでした」 178

5. トットちゃんとトットちゃんたち 1997-2014

年前、ユニセフの事務局長のグラントさんから、「テッコー 一年間に、万人も の子どもたちが幸せにならず、手もかけてもらえなくて、死んでいってます。なんとか今世紀 中に半分にしたい。協力してくださいねーと、いわれました。 それが、いまは、年間 620 万人まで減りました。子どもは増えているのに、死ぬ子たちは 減っているのです。これは、世界中の人が、よその国の子どものことを考えてくれていること や、また、発展途上国の親たちが、予防接種の大切さを知ったことなど、いろんな理由がある でしよう。でも少なくとも、グラントさんの夢だった半分以下に、死ぬ子どもが減ったこと は、、つれしいことと思っています。 それでも、まだ、年間 620 万人の子どもが、死んでいるのです。私は、子どもが死ぬとこ ろも見ました。生まれたての子どもでも、栄養不良で死ぬときは、悲しそうな顔をしていま す。それでも、親に抱かれて死ねる子どもは幸せです。捨てられて、一人で死んでいく子を見 ていると、「何のために生まれたんでしようね」と、私も泣きたい思いです。そんなことのな いように、少しでも、私は、これからも、子どものために、働いていこう、と田 5 っています。 おとなを信じて、死んでいく子どもたち。 5 歳でレイプされて、それでも生きていこうとし ている子どもたち。子どもたちの生きる力に励まされてきた年間でもあるように思います。 「私は、子どものために何をしたらいいでしよう」というご質問に、私は、こんなふうに答え

6. トットちゃんとトットちゃんたち 1997-2014

第炻章フィリピン・ 2 014 年 フィリピン訪問 ミンダナオ島コタハト市 防災と平和 神様も一つ レイテ島タクロバン市 覆う悲しみ 生きている 「『トットちゃんセンター』が僕の命を助けた」 「こんなに幸せなことはない」 教室の壁もない 296 304 304 288 303

7. トットちゃんとトットちゃんたち 1997-2014

第Ⅱ章ハイチ東北 ( 日本 ) ・ 2 011 年 ハイチ東北の子どもたち 地震でべッドから赤ちゃんが落ちた 人生終わりじゃない 「希望を失わないで励まし合って生きて」 第燔章南スーダン・ 2 013 年 内戦のク道具クにされた子どもたち南ス 1 ダン報告 少女兵の涙 僕、幸せだよ 256 261 270 270 279 269 287

8. トットちゃんとトットちゃんたち 1997-2014

小学校で初めて聞いた笑い声 年 内戦は、国そのものを崩壊させていました。公務員の給与は支払われていません。失業者が 国あふれ、たとえ失業していなくても、生活を難しくしていました。 和 共 主 民首都キンシャサ。その人口は急増し、いまは—ooo 万人ともいわれています。大通りのビ ンルのほとんどは年以上前のベルギー領時代のもの、建物は荒れて、バラック状態になってい 章ました。 -8 第市場には、屋根のない屋台が並び、商品の種類は少なく、干物などを売っていました。物価 将来、したいことは ? と私は聞きました。 「これから、いくところかないの。ど、つしていいかわからない あまりにも悲しく、悲惨な話ばかりでした。 「生きてくださいね そ、つい、つのが精いつばいでした。 179

9. トットちゃんとトットちゃんたち 1997-2014

ひとり な 一人で泣いた。 につばん じさっ ( 日本では、子どもが、自殺してるんです。 ) おお こ、んさけ 大きい声で叫びたかった。 かな こんな悲しいことか、あるでしようか ゆた 豊かさとは、なんなの ? わたし あ 私がいろんな子どもに会って 日本の子どもに伝えたかったこと。 ほんなかで それは、もし、この本の中に出てきた はってんとじよ、つこく 発展途上国の子どもたちを、 かわいそう おも 「可哀想。」と思うなら、 おも 「助けてあげたい。」と思うなら、 A 一・も となり いま、あなたの隣にいる友だちと 「いっしょにやっていこうよ。」と話して。 「みんなで、いっしょに生きていこう。」と、手をつないで。 わたししようがっこう がっこ、つ 私の小学校、 トットちゃんの学校には たす につばん こ て 328

10. トットちゃんとトットちゃんたち 1997-2014

「あなたをお母さんと思っていい ? 戦争の悲惨さ。それは女の子の場合、とくに強く思うことでした。 私が会った女の子たちの多くは、通学の途中で誘拐され、性的な虐待を受けていたからで す。そのうえに社会からは差別的な扱いを受けていました。 ュニセフは、そうした女の子たちが、家族と再会し、自信を持って生きていけるように支援 していました。 私たちは、その一つ、コノ県の都市コイドウにある、性的虐待を受けた女の子たちのための 職業訓練施設を訪ねました。 そこには人が学んでいました。戦争は学校へいく機会を奪いました。それを取り戻すため に英語などの勉強と、裁縫や刺繍、ろうけっ染めなどの技術訓練を進めていました。性感染症 の治療もしているということでした。 そこで会ったマリアマさんは片歳でした。おしゃれな髪形をした美しい女の子でした。 私は男の子を抱き続けました。骨ばった、やせた体が震えていました。 152