も、いつも自然体で相手を魅了し、ひきつけます。年に訪問されたリべリアのチャ 1 ルズ・テイラー大統領はダイヤモンドの不正取引と武器売買によって隣国シェラレオネの内戦 を煽り、巨額の富を得ているといわれていました。この点について質問を重ねる黒柳さんに、 大統領が真摯に応えようとしておられたのが印象的でした。 年には武力紛争が終わったばかりのシェラレオネを訪問されました。小さな村で出 産介助の研修を視察したときでした。 1 カ月後に出産を控えた女性が、女の子だったら「トッ トという名前にする、といいました。 5 年後にその村を訪問する機会があり、「この村に トットという名前の子はいますか」と尋ねますと、村人たちが小柄な女の子を呼んできてくれ ました。お母さんは黒柳さんとの約東を守ってくれていたのです。 黒柳さんを親善大使に任命したジェームズ・グラント元ュニセフ事務局長は、黒柳さんと会 うと必ず「テッコ、次はどこ ? 」と尋ねました。そして、子どもたちが黒柳さんの勇気付けと ュニセフの支援を必要としていると強調しました。黒柳さんが、年間、毎年、親善大使とし ての視察を続けてくださっている背景には、グラントさんのこの言葉があったと思います。 319
レスを作ったり、お魚をとる網につかったりするので、それは、やめてほしい、とユニセフは たのんでいるそうです。 ルバンゴでは、子どもラジオ局があり、毎日、子ども自身が制作した番組を放送していまし マリア・レモさん ( ) とクレイト・ポージャスさん ( 燔 ) のインタビューを受けました。 「年前にアンゴラを訪問したときと比べ、何が変わりましたか 私は答えました。 「平和です。病院で子どもたちが予防接種を受け、蚊帳をもらっているのも見ました。でも、 子どもたちはいろいろな問題に直面しています」 空港で地一兀の記者からも質問を受けました。 「ユニセフ親善大使からアンゴラの子どもたちへの贈り物はなんですか」 ーハよ、 不しい十 6 した。 「子どもたちに幸せな未来をあげたいと思いますー
第 16 章フィリピン・ 2014 年 カ所が開設され、約 1 万人の子どもが利用しています。 ク子どもにやさしい空間にいる子どもたちに話を聞きました。 ガランザさん ( ) は、「ヨランダでいとこを亡くしましたーと。エングラシアルさん (E=) は、「経済的に困難で学校にいっていません」って。 どの子からもわずかな言葉しか返ってきませんでした。 年に訪問したアフリカのルワンダを思い出しました。虐殺を目にした子どもたちは心が傷 つき、笑わないし、しゃべることも少なかった : 移動の途中、教会の墓地のお墓の前で縦笛を吹いている青年に会いました。 ロマガサさん ( 四 ) です。小柄で 5 歳にしか見えません。 「ヨランダで母と弟が死んで、ここに埋められています。一日 2 回、夜中と午後に、ここに来 て、 2 人のために吹いています」 あまりにも打ちひしがれた感じで、質問ができませんでした。 すべてが悲しみに覆われていると思いました。 311
小学校の就学率は、全国平均で 3 割。 5 年生まで在学できるのはそのうち 5 割ほどです。 ポロポロの教室から元気のよい声が聞こえてきました。低学年のクラスで、公用語のフラン ス語の勉強でした。 机かなく、べンチのようないすに、ぎゅうぎゅう詰めに座り、端っこの子は、おしり半分し か座れなくて、横向きになっていました。石の上に座っている子もいました。 でも、目は輝き、勉強に一生懸命でした。 教え方のとてもうまい男のやせた先生が、子どもたちにフランス語で「お姉さんの年齢はい くっ ? 」と質問すると、「川歳ーなどと答えていました。 年先生が「では、みんなに聞きます。えーと、私はいくつでしよう」。 と手がいっせいに上がって、一人の女の子が立ち上がっていいました。 国「わかりません」 共先生は顔を真っ赤にして笑いました。みんなも大きな声で笑いました。 民コンゴ訪問で初めて聞く、子どもたちのはじけるような笑い声でした。 ン コ 人生まれたら何人が 5 歳になるまでに命を失うか。そんな 5 歳未満児死亡率は、そ 章 第の国の子どもの福祉水準をみる重要な指標です。
ミンダナオ島コタバト市 2013 年Ⅱ月 8 日午前 4 時分 ( 現地時間 ) 、フィリピンを台風号「ヨランダー ( 現地 名 ) が襲いました。 ク過去に例をみないほどの猛烈さクという日本の気象庁の発表でした。 上陸地点での勢力は、中心気圧 895 ヘクトパスカル。最大風速簡メートル毎秒。その最大 瞬間風速はなんとメートル毎秒でした。 テレビの映像は衝撃的でした。なにもかもが流され、がれきの中でばうぜんと立ち尽くす子 どもたちの姿でした。 この子たちの元へいかなければ。ュニセフ親善大使として年目の訪問は、アジアのここ、 フィリピンにしよ、つ 訪問が実現したのは、台風被害から 7 カ月後の 2014 年 6 月中旬でした。ようやくでし フィリピン訪問
第章ネパール ネパール訪問 第章カンポジア・ 2008 年 カンポジア訪問 次世代に伝える虐殺の記億 3 歳なのに体重は 1 歳 目を輝かせ一生懸命 マラリアを防ぐため蚊帳の中で寝てね 孤児が歌った「過去は忘れよう」 ・ワん 0 0 9 年 249 245 240 233 227 255 239
第 7 章シェラレオネ・ 2 0 0 3 年 世界でもっとも貧しい国の子どもたちシェラレオネ訪問 元少年兵は帽子で涙をぬぐった 「あなたをお母さんと思っていし 医者、弁護士になりたい ひびとあかぎれいつばいの手 どこまでも自由に飛びたい 忘れられた子どもたちソマリア訪問 満腹の体験それは「爆撃の前」 少女を傷つける性器切除 返事は「国連に勤めて子どもを守りたいー 157 125 121 148 152 140 131 148 147
3 トットちゃんと トットちゃんたち ハ卩攵 ーり云月 ′本ノイ 鈺り DE 代 , トットちゃんと トットちゃんたち 9 7 8 4 0 6 2 1 9 1 7 9 1 1 9 2 0 0 5 6 0 1 6 0 0 6 な最 0 「私は、子どものために何をしたらいいでしよう」 というご質問に、私は、こんな風に答えています。 「知ってください。関心を持ってください」。 このことがはじまりだと私は思います。 黒柳徹子 ( くろやなぎ・てっこ ) 東京都生まれ。 東京音楽大学声楽科卒業後、 NHK 放送劇団に入団。 NHK 専属のテレビ女優第一号として活躍。 「徹子の部屋」 ( テレビ朝日 ) などの テレビ番組に多数出演する一方で、 舞台女優としても活躍中。 社会福祉法人「トット基金」を設立し、 プロのろう者劇団を支援している。 1984 年よりユニセフ親善大使となり、 飢餓、戦争、病気で苦しんでいる 子どもたちを訪ね、 その実情を伝える活動を続けている。 1997 ー 20 ー 4 旧 BN978-4-06-219179-1 C0036 ¥ 1600E ( 0 ) 講談社 定価 . 本体 1 6 0 0 円 ( 税別 ) 1997 ー 2014 ュニセフ親善大使 い卩攵 、り云月 ′本 / イ 講談社 講談社 カバー写真 / 南スーダン訪問、 2013 年
「『トットちゃんセンター』が僕の命を助けた」 1993 年、私はユニセフ親善大使として、スーダンを訪問しました。 小型飛行機で南部スーダンのナーシルの原つばに着くと、 oaooo 人を超える人たちが迎え てくれました。おとなたちは踊り、子どもたちは、一生懸命、手をたたいて。 その洋服はポロポロ、裸の子もいつばい、みんなやせて、はだしでした。 そのとき両手に紙をかかげている子どもたちがいました。書いてあったのは、「いちばんほ しいのは、平和」。それから、「小学校をつくって」「いい先生を ! 」。これだけでした。たべも のだってほしいにきまっています。でも教育が大切なことを知っているのです。 歓迎のために集まってくれた人のほとんどは内戦で家を失い、家族を亡くしていたのでし , 」 0 今回、四カ国目の訪問先が南スーダンに決まり、真っ先に浮かんできたこと。 内戦のク道具をにされた子どもたち南スーダン報告 288
幻年前に訪問したときの記億は、絶対に忘れつこありません。 目の前には土から掘り出され、洗われ、きれいにされた oooo 個の頭蓋骨が積まれていま した。 どの顔も悲しそうに見えました。 そのなかに、私は、ずっと立っていました。 いまも、殺された人たちの叫び、泣き声が聞こえてくるようでした。 通訳の幻代のカンボジア人女性のナヴィさんは私にいいました。 「祖父も祖母も、おじさん、おばさんも殺されました。多くの人は親戚のだれかが殺されてい ますー その大量虐殺の跡は青々とした草むらに隠れていました。 私は思いました。三十数年前にどんな虐殺があったか、を次の世代に伝えていかなければ、 わからなくなってしま、つ。 日本だってそうです。 戦争の悲劇を二度と繰り返しては、ならないのですから。 つらい訪問のなか、思わずクスッと笑ってしまったのは、トラベン・アレック村の幼稚園を 242