あまり読まないようです。むしろ、年配の人が孫と一緒にもう一度読み直すといった話をよく聞き ます」 「なるほど、そうですか。作品の意味や登場人物の心が本当に分かるのも、人生経験を積んでから でしようね」 「そうです。シェークスピアはコールリッジが言うように、『千人の心をもっ』といわれるだけあ って、その世界は広く扱う題材もさまざまですから : 。ところで、日本ではどんな作品が読まれ ていますか」 私は『マクベス』『リヤ王』『ハムレット』をあげた。「『ロメオとジュリエット』もよく知られて います。ジュリエットさんのお名前ですね。ジ 1 ドの『狭き門』のアリサの妹もたしか、ジュリエ ットでしたね」。それまで英語で話していたが、最後の所はフランス語になったので、フランスで はシェークスピアに匹敵する文学者は誰かという話題に移った。 「ヴィクトル・ユゴーかバルザックでしようか、よくは分かりませんが。フランス文学の場合、一 人に絞るのは難しいようですー 国 その時にわか雨が降ってきたので、会話は中断した。夏なのに、雨が降るとかなり寒い。関東地の 方の初冬のような寒さだ。英国ではこのような寒冷な気候が一年中続くのだろうか。夏はきわめて わ 短いようだ。シェークスピアにしても、『真夏の夜の夢』のような喜劇は少数で、『マクベス』をは じめ暗い作品が多数を占めるようだ。ふと、「 Out, out, brief candle! Life is but a walking shadow••・ : ・ ( 消えろ、消えろ、束の間のろうそくよ ! 人生は動く影にすぎない : : ) ーとい , フ
ようだ。法律制度は時代により、国によっても違う。現代の法感覚からすれば、「人肉契約」は契 約そのものが公序良俗に反するので、無効となるのだろう。いずれにしても、このほかにもこの作 品はキリスト教徒とユダヤ教徒の対立をはじめさまざまな問題を提起しているが、多分この作品の 「近代性」は「人命尊重、にあるのではなかろうか ? 法律を杓子定規に適用すれば、アントニオ の「敗北 . は必至である。債務不履行の果ての「死 . が待っている。そこで、ポーシャが救世主の ごとく登場し、「詭弁 [ ともいえる論法により、アントニオを救う。ユダヤの金貸しに反発する空 気の強い状況のもとで、最後の「判決ーは喝采をあびる。エリザベス朝の人々はこの作品をどのよ うに見たのだろうか。「ポスタ 1 」のポーシャの微笑がいよいよナゾめいて見えた。 シェークスピアの眠るホーリ 1 ・トリニティ教会の中に入った。死後数年後に造られたという記 念碑があった。その記念碑に見覚えがあった。なんと、二十年以上前に買った『文芸読本』に掲載 されていたのだった。その雑誌はシェークスピアの特集号で、ほかにも、エイヴォン川、妻アンの 生家などの写真が載っていた。それらを穴のあくほど何度も眺めながら、私は自分なりに、シェー クスピアとその作品の背景を探り理解しようと努めたのだった。世界一の文学者の記念碑の前に私 は無言でひれ伏した。「願わくば詩人の魂を私にも授けたまえ、恵みたまえ」。こうして、シェーク スピアの聖地は私にとって、文字通りの聖地となったのである。 現在英国でシェークスピアの作品は読まれているのだろうか。私はガイドのジュリエットさんに 聞いてみた。 「残念ながらあまり読まれていません。古典として教科書には載っていますが、卒業後は若い人は
ュゴ 1 の趣味を見たような気がした。全体に、文豪の住まいをそのまま公開、古いものを並べただ けのような印象を受けた。ショップというほどのコーナ 1 もなく、受付に著書が数冊あり、数枚の 絵葉書がある以外は閑散としている。『レ・ミゼラブル』の古いポスターがかかっている。ュゴー 関連の説明書のようなものがあるかと期待していたが、期待外れに終わった。フランスを代表する 文豪の記念館にしては、寂しい感じがする。 イギリスのシェークスピア・センターが思い出される。生地ストラットフォ 1 ド・アポン・エイ ヴォンに生家を保存し、シェ 1 クスピア・センターを建て、著書以外にも批評や解説を含む関連書 物を多く取りそろえていた。もちろん、劇場もあり、シェークスピア研究のメッカとなっている。 土産物屋も多く、シェ 1 クスピアを中心とする一大観光スポットとなっている。ロンドンからはだ いぶ離れた所にある。 ロンドンの「ディッケンズ記念館。も「ユゴ 1 」よりは、ショップが充実している。こちらは、 「大英博物館」に近い距離にある。ディッケンズの住居跡を記念館にしたものだが、ショップには、 作品を子供向けに挿絵入りで紹介したものまである。当時の風俗が分かって、日本人にはことに面 白い。作品の一場面をモチーフにしたクリスマスカードまである。こちらは、有料だが、訪問した 甲斐があると思った。 256
『マクベス』の一節が思い出された。たしかに、束の間の人生ではあるが、自分が今ここにあると いうことは紛れもない事実なのだ。束の間の人生に束の間の充足を求めて今ここにいるのである。 この先どんな人生が待ち受けているのか予測はできないが、シェークスピアの生地を訪れ、記念碑 の前にひざまづいた思い出は、生きている限り決して消えることはないだろう。たとえシェークス ピアの文学の全体像が定かではなくても、自分にとってはその詩文の一節でも心に残ればそれで十 分なのだ。冷たい雨のしずくを手に受けて、私はその思いを強くした。 ツア 1 の昼食の席はテューダー様式の古い家並の一角にあるレストランだった。中に入るとスト ハン、サラダ、コ 1 ヒーだ ープが燃えていた。メニューはサバの蒸し煮に豆、ポテト、人参添え、 った。あっさりとした素朴な味だった。ふと、シェークスピアとその家族はどんなものを食べてい たのかしらと思った。午前中に訪れたアンの家の台所には、「水道」などはなく、水は近くの川ま で汲みにいったということだった。台所には肉を焼くグリルのようなものがあった。鍋や食器もあ った。多分当時の食生活と今の食生活とはそれほど違いはないかもしれない。多分人間の生活その 一日は二十四時間だし、人生は老病生死に尽きるので ものには、大きな違いはないかもしれない。 ある。とすれば、作品を生み出した原動力は一体何かという疑問がわいてくる。天才の言動は凡人 の理解の及ばぬ所なのだろうか。私は物思いにふけったまま窓べを見つめていた。 「そのセーター、いい わねーと誰かが言った。 「急に寒くなったから、さっきそこの店で買ったばかりなの。ここはウ 1 ルの産地なんですって ね」
約した語句がほかにあるだろうか。古来人生のはかなさ、短さを歌った詩句は多いが、人生を時代 ごとに区切り、各時代の特徴を要約した文章はすぐには思い浮かばない。似たような成句に「槿花 一朝の夢、があるが、これは、栄華のはかないことを朝開きタベにしばムクゲの花にたとえた語で ある。漢詩には「須臾にして白髪乱れて糸のごとしーという一節があるが、最後の場面はまさにそ れである。私はそのポスターを買った。過ぎ来し方を振り返れば、うかうかと馬齢を重ね、来年は 還暦を迎えるころになってしまった。「須臾にして白髪乱れて糸のごとし」という人生の最終段階 に近いことがよく分かる。これからどう生きていくのかという厳しい問いを突きつけられたような 気がした。 シェークスピアの文学は、慰めの文学である。「この世にはいろいろ辛いことも多いが、それで もこの世にとどまっているのは、あの世とやらが一度も行ったことのない所ゆえにどんな所やら全 然見当がっかないからなのだ。慣れない所に行って苦労するよりは、慣れたこの世で苦労をした方 がまだましだ」という意味の台詞が『ハムレット』に出てくる。私は何度このセリフに慰められた ことだろうか。これほど説得力のある慰めの言葉が他にあるだろうか。シェークスピアがこういう セリフを考え出したからには、彼自身の苦悩もよほど深いものだったに違いない。その作品を読む 人はハムレットの苦悩に自己の投影を見る思いがする。『ハムレット』には「空のツバメが落ちる のも神の摂理」というセリフもある。何事も運命か。人間は宇宙の大いなる意志に支配されるの か。ほかにも数えきれないほどの名セリフがあるが、私がいつも思い出すのは、「木石にあらずし て」という表現だ。場面は忘れたが、意味は「私だって血の通った人間だ」ということだ。実は私
わが旅は心の旅か全世界 まだ見ぬ華を求めつつ行く 成田 成田のホテルで通された部屋は去年と同じ部屋のようだった。窓の下には検問所が見えた。去年 ( 一九九七年 ) は十月下旬にフランスへ行き、今年は八月下旬に英国へ向かう。二年連続の海外旅 行は久しぶりだ。今日はここへ一泊し、明日早朝成田へ向かう。「英国十日間」のツアーに申し込国 んだのだ。このツア 1 は主に、ロンドン、 ース、湖水地方、オックスフォ 1 ドを回る旅だが、途の 中シェークスピア、ワーズワース、プロンテ姉妹にゆかりの土地も訪れることになっている。さら わ に、コツツウォルズの田園風景、ピーターラビットの村、ウェッジウッド・ビジターセンタ 1 と盛 り沢山の内容である。 『ジェ 1 ン・エア』の作品の舞台を見たいというのが、私の申し込んだ主な動機だった。何十年も 2 わが心の英国 ( 一九九八年八月下旬十日間 )
「そうね。昔フランス大使館に勤めたことがあるけど、フランスに縁があるのかしら」 日本にも納本制度があるので、国会図書館には一部入っているはずである。フランスの国立図書 館は、いわばフランス人の税金で経営されているのだから、外国人が恩恵を受けるのはありがたい ことであろう。翻訳を始めてから、わずか四年で、訳書を寄贈する機会に恵まれたことになる。も ちろん、原書が優れた内容の、啓蒙書であるせいもあろうが、そういう価値の高い本を訳すチャン スを与えられたのは、幸運というべきであろう。「寄贈を思い立ったのも、いわば偶然ではある が、その「偶然」が重なって良い方向に動いていったのだ。まして、最初から「百年の管理ーを望 んだわけではない。私は今までの苦しかった人生を忘れた。ただ嬉しかった。遅咲きの花のよう に、人生の晩年に虹を見る思いがした。 これまでの人生を振り返ってみた。大学でフランス語を専攻し、フランス大使館などで勤務した ことはあるが、家庭に入ってからは、鳴かず飛ばずの人生を余儀なくされていた。しかし、いっか は何かをやってみたいという願望のごときものは、心の奥にいつもくすぶっていた。 る 数年前の夏、イギリスでシェークスピアのお墓に詣でたことがあった。その時すでに『電気の精あ とパリ』の翻訳を終わり、編集部に原稿を渡してあったが、内部の事情から出版が遅れていた。私甲 は、お墓の前で真剣に祈った。「どうか翻訳が出版されますように。願わくば、文学の魂をわれに 生 授けたまえ」。十二月末になって、本が出版された。私にとっては、奇跡に近い出来事だった。 帰り道も、図書館の話題は尽きなかった。 「『博物館めぐり』という本はありましたけど、『図書館めぐり』はどうでしようか ?
分がいつまでもダメな理由がよく分かった。 バルザックの凄まじい執筆ぶりに驚嘆する一方、無力な自分を恥じるばかりだ。せめて、その万 分の一の創作エネルギーにあやかりたいものだ。記念館は神社仏閣ではないが、お参りすれば、そ れなりの「ご利益」があるかもしれない。現に、私はシェークスピアのお墓に詣でたのちに初め て、訳書の出版にこぎつけたのだ。その後順調に出版が続いている。今私が希望することは、翻訳 ではなく、「自分の本」を出したいという思いである。自費出版でもとは思うが、前払いして食い 逃げされては困るし、結局自分の実力を認めてもらいたいのが、本音なのだ。「苦しい時の神頼み」 ではないが、私は「奇跡」を願いつつ記念館をあとにした。周辺の道端にはミモザに似た黄色い花 か咲いていた。 シャイヨー宮 シャイヨー宮のペデイメントには「友よ、あてもなく入るなかれ」とのポ 1 ル・ヴァレリ 1 の銘 が刻まれているという ( 『フランスの博物館と図書館』 ) 。昨年もこれを探しにきたが、改装中のた め入れなかった。シャイヨー宮は一九三七年の万国博用に建てられた建物だが、ヴァレリーの言葉 もその当時のものである。受付で尋ねると、若い男性が他の人に問い合わせたりして、やっと教え てくれた。どうやら、その位置をはっきり把握していないようだ。「全部で四つある建物の上部を 順に見て回ると、庭に面した建物の一つに刻まれている。一つ一つ見て回るとよい」という。とに かく、一つ一つ当たるしかないが、シャイヨー宮は敷地も広大だ。現在四つの博物館 ( 映画博物 ろ 04
「前は、いたけれど、今はいません。事務所に行かれるといいでしよう」 この日は週末の土曜日だった。サイツ氏は車で三時間かかるコンピエーニュに戻るという。 にも仕事場があるので、両方に住宅があるらしい。互いに別れの挨拶を交わし、佐藤と私は地下鉄 でエッフェル塔へと向かった。 実は、エッフェル塔へ登るのは、これが初めてである。二年前パリを去る前日の一時ごろプロッ ソレ氏に『エッフェル塔物語』を推薦され、エッフェル塔の近くの公園まで来たが、あまりの人波 に恐れをなして、次の予定の場所 ( フランス国立図書館 ) へ行った覚えがある。つまりエッフェル 塔へ一度も登ることなく、翻訳に取り組んだわけだ。このことをサイツ氏に述べて、「ちょっとお かしいと思いますか ? ーと聞くと、「別におかしくはないですーと真顔で答えたのだった。 翻訳に専念した一年間、さらに今年五月に出版されてからパリに来るまでの四か月間、エッフェ ル塔に今度こそ登ってみたいという願望がいつも心の奥にあった。また前回は急いでいたせいもあ り、土産物屋ものぞかなかったため、エッフェル塔に関する資料もほとんど入手しなかった。翻訳 に行き詰まると、土産物屋にでも何かヒントになるような資料はなかったかしらなどと何度も思い もしたが、あとの祭りだった。しかし、意外なことに、土産物屋には、エッフェルやエッフェル塔 関連の文献資料のごときものはなく、ただ観光客用の通俗的な土産物が並んでいた。イギリスの 「シェークスピア・センター」 ( 生地ストラットフォード・アポン・エイヴォンにある ) のようなも のを期待していた私は、少しがっかりした。 2 ろ 4
はこのセリフに出会う前に日記に「私は生身の人間で木石にあらず。だから憤慨したくもなる」と 書いたことがあった。全く同じ意味で使われているのではないかもしれないが、私は嬉しかった。 天下のシェークスピアの文章の中に自分と同じ発想があったのだ。改めて、彼の作品には人類普遍 の真理がちりばめられていることが多いことに気づいた。 売店の外に『べニスの商人』のポスターが貼ってあった。裁判官に扮したポーシャの微笑が印象 的だった。この作品は筋立ては単純に見えるが、法律的にはどう考えるべきなのだろうか。法律に はうといが、疑問をもたざるを得ない。 べニスの貴族アントニオはユダヤの高利貸しシャイロック から、条件つきで金を借りる。その条件とは「期限までに返済できない時は、一ポンドの肉塊をア ントニオの身体から切り取る」というものだ。期限がきてもアントニオは返済できず、シャイロッ クは一ポンドの肉塊を求めて法廷で争う。そこへポーシャが登場し、「契約は有効だが、肉一ポン ドのみにとどめ、一滴の血も流してはならぬーと、シャイロックをやりこめる。 そもそも、この「判決ーは妥当だろうか。「人肉ーはともかく、普通は、動物の肉を切れば当然 血が出るぐらいのことは周知の事実のはずである。詳しくは知らないが、他の場面では「肉を切れ国 英 ば、血が出るのは当たり前」と反論するセリフがあってもおかしくないように思う。なぜ、シェ の クスピアはこのような「判決ーをくだしたのだろうか ? わ 作品の舞台は十六世紀のべニスである。この時代に、人間の身体を借金のカタにする法律的風土 があったのだろうか ? 古代には「目には目をーという成句にも見られる通り、契約不履行の際に は債権者が債務者の身体の一部を切り取ったり、奴隷にしたりするといったことが認められていた