出品 - みる会図書館


検索対象: わの会の眼Ⅱ 心を射抜く作品たち
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1. わの会の眼Ⅱ 心を射抜く作品たち

恩地孝四郎《童女浴後》 骨董市て掘リ出した一品 この木版画はニ〇〇五年「骨董ジャンボリー」 ( 東京ビックサイト ) で購入して、その年に梅 野記念絵画館の「私の愛する一点展」に出品した。購入した店には付録漫画本 ( 値段は高い方だっ イカチ、かと探していた、ら、 た ) があリ、他にもまだ値札を付けていな、紙ものがたくさんあリ、可、、よ、 地図類の箱の中に版画 ( 台紙、マット付 ) が一点あり、「孝の印があリ恩地の木版画てあるこ とが一目でわかった。店主か云うには、それを見たお客さんが恩地ならば三〇万円はするたろ うと云っていたが六万円と付けたので五万円にまけてもらった。翌日『恩地孝四郎版画集』 ( 形 象社 ) で調べ、作品名などが判明した。この作品は、前年 ( 昭和ニ年 ) の第八回帝展に出品し た《幼女浴後》をもとに作成したと推測できることも分かった。マットはかなリのシミがある ので、台紙から剥がし捨てたが、台紙には当時のラベル ( 東京新橋三宅松影堂、電銀ニ六三一、 が「田 2 」になっている。 ¥五・〇〇、思地孝四郎 ) が付いておリ、こちらも貴重なものだ、「恩」 「小野忠重コレクション ニ〇一六年の展覧会 ( 東京国立近代美術館 ) には出品がなかったが、 展」 ( 町田市立国際版画美術館 ) には色違いのものがあった。裸体が複雑な色摺リなので自刷リ だろう、どの様な経緯で販売されたのか年譜にも記載なし。 鈴木忠男 ( 東京都江東区 ) 2 / 2

2. わの会の眼Ⅱ 心を射抜く作品たち

一一〇一ニ年に発刊しました初版の『わの会の眼』は、お陰様てマスコミ、読者の皆様、関係者 の皆様からも高い評価を受け、会員からも喜ばれました。とはいえ、上手くいって当たリ前の作 業です。今回の掲載作品の募集にあたっては、出品数と質がとても気になっておリました。結果 としては、初版の出品者三五名の内、三〇名の方がこの続編にも出品され、さらに新たな一五名 の会員からも出品を得て、作品数は一七〇点に及びました。作品の質について申せば、充行に左 右されぬ、時の試練に耐え抜いた作品が集まリました。知る人ぞ知る作家が多く、埋もれた作家、 知られざる作家も多く、また、名品、珍品も数多く出品されておリます。秘蔵のコレクションを 出された方も見えます。ここに掲載されている作品群は、コレクターに強く求められ、大切に手 入れ、修復、保管、研究され、また展示され、愛でられてきたものです。コレクターのコレクショ ンに対する愛情や思いを読者の皆様に少しでも届けられたらと願いなから、編集のお手伝いをさ せていたたきました。 美術評論家てあリ、また平塚市美術館館長代理を務められる土方明司さんに玉稿を賜リ、さら に東御市梅野記念絵画館館長の佐藤修さんと丸山治郎さんからは、コレクションの代表的な作品 をお寄せいたたきました。この場をお借リして心か、らお礼を申し上げます。 よ丿・リようけい / 書籍プロジェクト事務局 ) 354

3. わの会の眼Ⅱ 心を射抜く作品たち

相吉沢久《秋の訪れ》 絵画ど結婚した画家 絵画を見て、泣いた経験のある人はいるだろうか。実は、姉を長野県にある梅野記念絵画館 に連れて行った時のこと、ホールの壁に架かっていた相吉沢久の作品を見て、姉は理由もわか らず涙が出てきて困ったそうである。書家である姉は、普段絵画を見る機会はほとんどなく、 相吉沢久という画家も知らなかったという。優れた絵画には、初見の人に対してもこれだけの 感動や共感を与える力があるのかと、改めて認識させられたできごとであった。 私自身はそれ以前、初めて参加した梅野記念絵画館友の会のオークションで、当時はまだ認 識のなかった相吉沢久の裸婦のデッサンに出会った。美しい線描に魅了されて、何としてもほ しいと熱望したので、周囲が気を遣ってくれたのか、出品されていた一一点とも思いのほか安価 で手にできた。その後、相吉沢久は当時の梅野隆館長が「香リ立っ絵」として激賞し発掘した 画家のひとリであることを知った。 , し・のーし、不 だに知る人ぞ知る画家であリ市場にその作品が出てくることはほとんどない 今回出品した作品も、梅野家のレイ子夫人所有のものを懇願して譲リ受けた経緯があリ、ムに とって貴重な作品てある。 秋山功 ( 群馬県高崎市 ) 21 2

4. わの会の眼Ⅱ 心を射抜く作品たち

正木隆《 F 「〇 rn DRIVING ( 〇 DI\/ING 〇甲 4 》 死神に誘われた呪代の夫折画家 正木隆の絵画はニ〇〇三年にギャラリー人 ( 当時は吉祥寺にあリ ) で購入した。その後 一一〇〇五年 ( この時は新川にあリ ) にもう一点購入。依頼があリ、そのニ点を「カオスモス さひしさと向きあ「て展」 ( 佐倉市立美術館 ) に出品。正木の絵画世界は夢の世界、悪夢とは 云えないが、寂しいモ / クロームの世界。この作品に描かれているのは夢に出てきた街だろう か、運転手の目線で右折か左折かそれとも、このまま真「すぐに行くか迷「ているようだ、ど ちらにしても灯リのない電柱の先は暗くなるばかリだ。アトリエに訪ねて来た女住が縊死した 後日、ニ回目の個展前に自分も同様に自死した。何故かは分からないが死神に死の世界 ( 連れ 、こヾ。見弋美術作家ては石田徹也が想 て行かれたのか、夢の世界なら目覚めることが出来るのたカ王イ 起され、夭折の画家とな「た。ニ〇一三年にもニ点出品の依頼があり倉庫を探したが見つから には家にあったドローイングを一点出品した。 ず「 3331 アートコレクターフェアー」 鈴木忠男 ( 東京都江東区 ) 270

5. わの会の眼Ⅱ 心を射抜く作品たち

山口長男《富士山麓》 時代が山口作品に追いついてきた 富士の山麓を描いておリ、富士山は描かれていない 木々のみどリなどの自然を写し、油絵 でさっと描いているように見えるが、無駄がなく、絵の具のこなし方がうまい。黒の地色の上 に黄土色または赤茶色の絵の具がかなリ厚塗リされた作品を描いていたこの時期の山口として は、めずらしい構図てある。和は山口長男の水彩・墨跡作品に魅かれるが、本作油絵も見飽きない 日本における抽象絵画の歴史は、昭和一〇 ( 一九三五 ) 年頃に遡るが、山口は明治三五年生まれで、 昭和一〇年ごろにはいち早く抽象志向の作品を発表している。 本作が描かれた昭和ニ九 ( 一九五四 ) 年には、山口は五一歳。ニューヨークでの第一八回ア メリカ抽象美術展に出品、武蔵野美術学校教授に就任し、春季ニ科展には《作品 < 》《作品》 を出品、第一回現代日本美術展には《作品 ( かたち ) 》を出品し優秀賞を受賞、秋のニ科展にも《一一 つの形》等を出品している。円熟期を迎え始めた山口てある。同年『美術手帖』 ( ) 一〇月 号には、作家訪問記事 ( 文・山崎清写真・土門拳 ) も掲載されている。しかし当時の日本て、 山口の作品か理解されていたとは必ずしも、言えない 最近アメリカのオークションで落札された《作品》 ( 一九五三年 ) などの、魅力的な造形作品 の評価は著しく高い ニ〇一六年一ニ月八日中村徹 ( 神奈川県川崎市 ) 134

6. わの会の眼Ⅱ 心を射抜く作品たち

澤部清五郎《座せるシ = ザンヌ》 圧倒的な画格 ! 裸婦の視線に釘づけ , この圧倒的な画格を誇る作家を知る人はいるだろうか。その画家の名は澤部清五郎という。 装飾織物の原画制作者、室内装飾デザイナーとしては日本を代表する人物として知られている が、青年期は浅井忠門下の俊英として活躍していた。しかし、その洋画家としての存在は今で は忘却の彼方である。その中で具眼の士、星野桂三氏 ( 京都星野画廊 ) か発掘顕彰してくれた のである。この作品は澤部がニ八歳の留学時代 ( 一九一〇ー一九一三年 ) のもので、帰国後初 の個展 ( 一九一四年、大阪三越呉服店 ) にも出品されている幻の代表作である。目黒区美術館 の山田敦雄氏の調査によって題名は《モデル座セルシュサンヌ》であることか判明した。個展 出品中、最大の三〇号は三点あったが、うちの一点は行方不明、残リニ点のうち一点の《ハ ソン河》が千葉県立美術館に収蔵されておリ、この作品は新発見となった。星野さん、山田さ んに感謝である。聖護院洋画研究所から関西美術院時代の盟友てあった安井や梅原に匹敵する 画力があリながら、生活のためとはいえ川島織物に入リ、東京に出て専業画家になれなかった ことは、自ら語るように無念てあったろう。皮肉にも恩師浅井忠と同じ三足の草鞋 ( 洋画、日 本画、デザイナー ) を履くこととなった。一九九一一年に京都と目黒で回顧展が開催されたが 更なる顕彰が必要とされる画家のひとリだ。 平園賢一 ( 神奈川県平塚市 )

7. わの会の眼Ⅱ 心を射抜く作品たち

堀良慶 『コレクターズ・コレクションとして四五名、一七〇点の作品を集めた「わの会」会員によるコ レクターの蒐集記の第ニ弾が、『わの会の眼Ⅱ』として発刊の運びとなリました。 コレクションが本に掲載されることは、 ( 1 ) 出品者にとっては自己表現、自己実現であリます。 ( 2 ) 多一くの作ロの市ーにコレクションを置くことは、コレクターにとって他流釟ムロでもあリます。 ( 3 ) コレクションの画像とコメント、略歴による表現は、出品者の人格をも表しています。 ( 4 ) 画像とコメントが主役のこの本を手に取って鑑賞いたたくことは、美術の普及につながる地 に足の着いた活動となリます。 それゆえ、出品者はプライドを持って作品を選抜しますし、コメントにも思いが込められてい ます。そのように選ばれた絵や彫刻を媒介として会員同士がコミュニケーションをとリ、一冊の 本を編むために合意をはかリ、 さ、らに会員のボランティア活動とい、つ。フロセスをとることによっ て、この蒐集記は生み出されました。主役はあくまで絵や彫刻、コメントはコレクターの表現手 段ですが、四五名にも及ぶ多くの会員がこれぞという作品を出品し、その作品にまつわる心のこ もった文章を寄せることによって、蒐集という行為や美術の普及をめぐる価値観を共有すること にもつながリました。 編集後記 353

8. わの会の眼Ⅱ 心を射抜く作品たち

加賀美勣《卓上の静物》 自然から知的静物画へ 一九六〇年代、加賀美勣の一見単純に見える地平線と林だけの風景画に魅せられたのが始ま リでした。重厚なマチェール、暗緑色のシールな不思議な味わいが思い出されます ( 私の愛 する一点展出品 ) 。 この「卓上の静物」という作品はその一〇年後に出合ったものです。 卓上静物は、鋭角的三角形のフォルムと小さな円、縦列状に粒子状の花。卓上は赤一色の単 純明快。この〇△ロて単純に画面を構成していますが、この基本的な造形上の〇△ロは北斎、 セザンヌ、仙厓等の画論にも通じ、歯切れのよさに快感すら覚えます。また、十数年前、愛知 県小牧市のメナード美術館に収蔵されていた加賀美の作品に感動した記が蘇「てきました。 加賀美の作品の中に「静物的風景」という不思議な作品の絵が何点かあリます。山梨の大自 然て出合「た形を、自分の中で昇華し知的静物画として大作を連続発表されていましたが、享 年五九歳とあまリにも若い死のこの画才が惜しまれてなリません。 金井徳重 ( 長野県中野市 ) 322

9. わの会の眼Ⅱ 心を射抜く作品たち

恩地孝四郎《壺》 壺 ? どう見ても抽象作品てす , 《壺》というタイトルがついているが、私には抽象作品に見える。神田の版画堂さんてこの作 品に出会、日人 、、卩座に購入を決めた。「一九ニ九年 ( 昭和四年 ) にこの作品」と驚くとともに、色 合い・形が私の琴線に触れた。調べてみると、第九回日本創作版画協会展 ( 一九ニ九年 ) の出 品作で、版画誌『風』の読者のために、ニ〇部限定で頒布した自摺作品てあることが判明した。 ( 実際は出品作と若干デサインが異なっているが ) 一九ニ八年に代表作の一つでヌードと白い布 が美しい《裸膚白布》という有名な作品を発表しているが、その白と壺の白の部分か同じマチェー ル ( 胡粉という貝殻から作られた顔料で摺られたようだ ) なのにも、惹かれた。恩地孝四郎の 研究者てある桑原規子先生によれば、彼が本当にやリたかったのは抽象表現であったが、版画 の愛好家の多くが具象作品を求めていることもあって、版画の普及という使命を持っていた恩 地はあえて一般向けに具象版画にも取リ組んだようだ。ニつの顔を使い分けた訳である。戦後 は吹っ切れて「抽象表現」の追求にまい進した。日本でいち早く抽象表現に取リ組んだ「美の 先達」に心からの敬意を表したい。 荒井由泰 ( 福井県勝山市 ) 1 20

10. わの会の眼Ⅱ 心を射抜く作品たち

寺田政明《河口沿いの風景》 池袋モンパルナスを代表する画家 優れた画家を見つけようとしたら、他の優れた画家の若い頃の仲間を調べて見るのが早い 優れた画業を残した人物の周リには、必ずと云っていい程無名の時代から同様の人材が集まっ ているか、らた。 池袋モン。ハルナスを代表する画家寺田政明もその一人であろう。一九四三年に結成された新 人画会には、寺田政明の他に靉光、松本竣介、麻生三郎、鶴岡政男といったその後の日本美術 史を彩る錚々たる画家たちが輩出している。貧乏コレクターにとっては、今やどの画家の作品 も高嶺の花になったが、長寿でたくさんの作品を遠したが故か、寺田政明の作品だけは私にも 手に入れることが出来た。 寺田政明は、生涯に亘リ大きくその画風を変えた画家であるが、私自身は出品作のような晩 年の作品に心惹かれる。《河口沿いの風景》と題された本作品は、葉を落とした木の様子から冬 の季節であろう、まだ夜の明けない早朝の河口から今にも漁に出ようとする幾艘かの小舟が描 かれている。その様子を眺めているのは画家自身であろうか。この夜明け前の情景には闇と光、 静寂と躍動、寒と暖といった相反するものが見事に調和され一枚の画として自律している。観 る者を引き込み、心の有リ様で様々な見方を想起させ、希望さえ感じさせる。本当の美しさとは、 こ、つい、つ世界をい、つのてはないか。 秋山功 ( 群馬県高崎市 ) 208