雪江 - みる会図書館


検索対象: 現代日本の文学1:二葉亭四迷 樋口一葉 集
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1. 現代日本の文学1:二葉亭四迷 樋口一葉 集

よしだしよういん 0 とそうとう て、また台所で一騒動やる中に、ガラガラガチャンと何か私は其時分吉田松陰崇拝であった。将来の自由党の名士 がれる。阿母さんが茶の間から大きな声で叱ると、台所を以て自任しているのなら、グラッドストンかコ・フデン、 どう ひっそり はすみ は急に火の消えたように闃寂となる。 プライトあたりに傾倒すべきだが、如何した機だったか、 よっ 私は、国に居る時分は、お向うのお芳ちゃんー・ー、子供の松陰先生に心酔して了って、書風までカめて其人に似せ、 まま・こと よ ひそか * まで 時分に能く飯事をして遊んだ、あのお芳ちゃんが好きだっ窃に何回猛士とか僣して喜んでいた迄は罪がないが、困っ た。お芳ちゃんは小さい時には活瀁な児だったが、大ぎく た事には、期うなると世間に余り偉い人が無くなる。誰を てごたえ なるに随れて、大層落着いて品の好い娘になって、私は其見ても、先ず松陰先生を差向けて見ると、一人として手応 はいもう 様子が何となく好ぎだったが、雪江さんはお芳ちゃんとはのある人物はない。皆一溜りもなく敗亡する。それを松陰 正反対だ。が、雪江さんも悪くない、なそと思いながら、先生の後に隠れて見ていると、相手は松陰先生に負るの せなカ 茫然机に頬杖を突ている脊中を、誰だかワッといってドンで、私に負るのではないが、何となく私が勝ったような気 みんな * がして、大臣が何だ、皆門下生じゃよ、 オしか。自由党の名士 と撞く。吃驚して振反ると、雪江さんがキャッキャッとい ただ いながら、逃げて行くしどけない後姿が見える。私は思わだって左程偉くもない。況や学校の先生なんそは只の学者 につこ だ、皆降らない、なぞと鼻息を荒くして、独りで威張って ず莞爾となる。 はて な いた。私なぞの理想はいつも人に迷惑を懸けるりで、一 莞爾となった儘で、尚お雪江さんの事を思続けて、果は こう さぞにがにが 思う事が人に知れぬから、好いようなものの、怪しからん向自分の足になった事がないが、側から見たら嘸苦々しい えんがわ 事を内々思っていると、茶の間の椽側あたりで、オーとい事であったろう。兎も角もこうして松陰先生大の崇拝で、 はじめ * りゅうこんろく う例の艶のある美い声が聞える。初は地声の少し大きい位留魂録は暗誦していた程だったが、しかし此松陰崇拝が、 かんだかせりあ の処から、段々甲高に競上げて行って、糸のように細くな不思議な事には、些とも雪江さんを想う邪魔にならなかっ ただ つきぬ って、何かを突脱けて、遠い遠い何処かへ消えて行きそうたから、其時分私の眼中は天下唯松陰先生と雪江さんと有 ひろ せりさが になって、又段々競下って来て、果は・ハッと拡げたようなるのみだった。 で、いつも学校の帰りには此二人の事を考え考え帰るの 平太い声になって、余念がない。雪江さんが肉声の練習をし ているのだ。 だが、或日ーー・たしか土曜日だったかと思う、土曜日は学 はやじまい 校も早仕舞なので、三時頃にそうして二人の事を考えなが 三十五 ら帰って見ると、主人夫婦はいつも茶の間だのに、其日は んやり っ っ びつくり かえ かつっ くだ せん と いわん

2. 現代日本の文学1:二葉亭四迷 樋口一葉 集

物とうさま 附いて見ると、座布団も呉れてない。 「此方が何さ、阿父様からお話があった古屋さんの何さ。」 つまでた あるじ 時迄経っても主人が顔を見せぬので、 「そう。」 こ、ら 「伯父さんはお留守ですか ? 」 といって雪江さんは此方を向いたから、此処らでお辞儀 と言 0 て了 0 た顔を、奥様はジ 0 リと尻眼に掛けをするのだろうと思 0 て、私は又倒さにな 0 て一礼する と、残念ながら又真になった。 「主人はまだ役所から退けません。」 雪江さんも一寸お辞儀したが、直ぐと彼方を向いて了っ 主人と厭に力を入れて言われて、じゃ、伯父さんじゃて、 あたしいや 好ったのか知ら、と髞うと、又私は真広にな 0 た。 「私厭よ。阿母さんが彼様な事言って行かなかったもんだ えん ところへ・ハタ・ハタと椽俍に足音がして、障子が端手なく から : : : 」 かおあげ わたし きゅうくっ ガラリと開いたから、ヒョイと面を挙ると、白い若い女の「だって仕方がなかったンだわね。私だって彼様な窮屈な それ 顔・・・・ーーとだけで、其以上の細かい処は分らなかったが、何処へ行くよか、芝居へ行った方が幾ら好いか知れないけ さっき おくさん しろ先刻取次に出たのとは違う白い若い女の顔と衝着つど、石橋さんの奥様に無理に誘われて辞り切れなかったン おとうさま た。遘がに聞いた小狐の独娘の雪江さんだなと思うと、 だもの。好いわね、其代り阿父様に願って、お前が此間中 うつむ 私は我知らず又固くなって、狼狽てて俯向いて了った。 から欲しい欲しいてッてるね ? 」と娘の面を視て、薄笑 いしながら、「を買 0 て頂いて上げるから : ・ : ・仕方がな 「呼母さん阿母さん」、と雪江さんは私が眼へ入らぬよう に挨拶もせず、華やかな若い艷のあるい声で、「舞私いから。」 とおり あした * らく の言った通だわ。明日が楽だわ。」 「 ? 」と雪江さんも急に莞爾莞爾とな 0 た。私は見な びつくり まで ようすいちいちわか 「まあ、そうかい」、と吃驚した拍子に、今迄の奥様がヒ いでも雪江さんの挙動は一々分る。「本当 ? そんなら好 やつばりただ ョイと奥へ引込んで、矢張尋常の阿母さんになって了っ いけど : : : ちょいとちょいと、其代り : : ・こと小声になっ 」 0 て、「ルビー入りよ。」 あたし この 平「厭だあ私 : : : だから此前の日曜にしようとたのに、阿「不好ません不好ませんールビー入りなんぞッて、其様 いたく 母さんが : : : 」といいながら座敷へ入って来て、始めて私な贅沢な事が阿父様に願えますか ? 」 ふうてい みまわ が眼へ入ったのだろう。ジロジロと私の風体を視廻して、 「だってえ : : : 尋常のじゃあ : : : 」と甘たれた嬌態をす ひざ どなた 膝を突いて、母の顔を見ながら、「誰方 ? 」 て、 ひっこ と・」 このかた おとうさま ただ ことわ ここ

3. 現代日本の文学1:二葉亭四迷 樋口一葉 集

な想いをして迄も性慾を満足させたかったのだ。是は相手ら、悶死す・ヘきでないか ? 不犯が理想で、女房を貰っ が正当でなかったから、即ち売女であったからかというて、子を生ませていたら、普通の堕落に輪を掛た堕落だ。 に、そうでない。相手は正当の新婦と相知る場合にも、人加之も一旦貰った女房は去るなと言うでないか ? 女房を もま につき は大抵皆然うだと云う。殊に婦人が然うだという。何故だ持つのが堕落なら、何故一念発起して赤の他人になツ了え どう ろう ? といわぬ。一生離れるなとは如何いう理由だ ? 分らんじ 之と縁のある事で今一つ分らぬ事がある。人は皆隠れてやないカ エデンの果を食って、人前では是を語ることさえ恥る。私今食う米が無くて、ひもじい腹をて考え込む私達だ。 いんきょ * の様に斯うして之を筆にしてらぬのは余程カむから出来そんな伊勢屋の隠居が心学に凝り固まったような、そんな のんき るのだ。何故だろう ? 人に言われんような事なら、為ん暢気な事を言って生きちゃいられんー あえ が好いじゃないか ? 敢てするなら、誰の前も憚らず言う あえ 四十一 オいか ? 敢てしながら恥るとは矛盾でない が好いじゃよ 其後間もなく雪江さんのお婿さんが極った。お婿さんが か ? 矛盾だけれど、矛盾と思う者も無いではないか ? どう あざむ わけ 極ると、私は何だか雪江さんに欺かれたような心持がし 如何いう訳だ ? たま 之を霊肉の衝突というか ? しからば、霊肉一致したて、口惜しくて耐らなかったから、国では大不承知であっ おぎつね おそ どう ら、如何なる ? 男女相知るのを怕ろしいとも恥かしいとたけれど、口実を設けて体よく小狐の家を出て下宿して了 っこ 0 も思わなくなるのか ? 畜生と同じ心持になるのか ? ひょッとふさ 馬鹿な事には下宿してから、雪江さんが万一鬱いではい トルストイは北方の哲人だと云う。此哲人は如何な事を わざわざ 言っている。クロイツェル、ソナタの跋に、理想の完全にぬかと思って、態々様子を見に行った事が二三度ある。 、つこう 実行し得べきは真の理想でない。完全に実行し得られねばが、雪江さんはいつも一向鬱いで居なかった。反ッてお婿 いそいそ ふぼんキリストきよう こそ理想だ。不犯は基督教の理想である。故に完全に実行さんが極って怡々しているようだった。それで私も愈忌 あしぶみ ただ の出来ぬは止むを得ぬ、唯基督教徒は之を理想として終生しくなって、もう余り小狐へも足踏せぬ中に、伯父さん 追求す・ヘきである、と言って、世間の夫婦には成るべく兄が去る地方の郡長に転じて、家族を引纏めて赴任して了っ たので、私も終に雪江さんの事を忘れて了った。これでお 妹の如く暮らせと勧めている。 何の事だ ? 些とも分らん。完全を求めて得られんな終局だ。 こ こと ばっ どん しか むこ かた かけ

4. 現代日本の文学1:二葉亭四迷 樋口一葉 集

んが其を明けて呉れたので、少し明るくなったから、尚お「其代り小さくッてよ」、というのが聞えて、軽い足音がバ 能く視廻すと、壁は元来何色だったか分らんが、今の所でタ・ハタを椽側を行く。 どすぐろ とりつくろ あと は濁黒い変な色で、一ヶ所壊れを取繕った痕が目立って黄私は荷物の始末を忘れて、雪江さんの出て行った跡をう たま ひとだま ろい球を描いて、人魂のように尾を曳いている。無論一体つかり見ていた。事に寄ると、ロを開いていたかも知れ に疵だらけで、処々鉛筆の落書の痕を留めて、腰張の新聞ぬ。 かげ おおきすそツかお 紙の剥れた蔭から隠した大疵が窃と面を出している。天井 あおむ あちこち 二十九 を仰向いて視ると、彼方此方の雨漏りの暈したような染が 化物めいた模様になって浮出していて、何だか気味の悪い 荷物を解いていると、雪江さんが果して机を持って来て せつかく ような部屋だ。 呉れた。成程小さい が、折角の志を無にするも何だか 「時の間にか掃除したんだよ。それでも奇麗になったら、借りて置く事にして、礼をいって窓下に据えると、雪 わ」、と雪江さんは部屋の中を視廻していたが、ふと片隅江さんが、それよか入口の方が明るくッて好かろうとい に積んであった私の荷物に目を留て、「貴方の荷物って是 う。入口では出入りの邪魔になると思ったけれど、折角の じよごん すえなお れ ? 」と、臆面もなく人の面を視る。 助言を聴かぬのも何だから、言う通りに据直すと、雪江さ やつばり 私は狼狽てて壁を視て、 んが、矢張窓の下の方が好いという。で、矢張窓の下の方 「然うです。」 へ据えた。 あたしとこ さっそく 「机が無いわねえ。私ン所に明いてるのが有るから、貸て早速私が書物を出して机側に積むのを見て、雪江さん 上ましようか ? 」 カ あたしとこふたツ 「なに、好いです明日買って来るから」、と矢張壁を視詰 「本箱も無かったわねえ。私ン所に二つ有るけど、皆塞が めた儘で。 ってて、貸して上げられないわ。」 あたし、 「私らないンだから、使っても好くってよ。」 「なに、買って来るから、好いです。」 * かんこうば 「なに、好いです、買って来るから。」 「そんならね、晩に勧工場で買ってらッしゃいな。」 平 捻んと そ 「本当に好くってよ、然う遠慮しないでも。今持って来て「え ? 」と私は聞直した、ーー、勧工場というものは其時分 ひらり まだ国には無かったから。 よ」、と蝶の舞うように飜然と身を翻して、部屋を出て、 おがわまち 姿は直ぐ見えなくなったが、其処らで若い華やかな声で、 「小川町の勧工場で。」 かお とめ やつばり な しみ はど みんなふさ

5. 現代日本の文学1:二葉亭四迷 樋口一葉 集

193 平凡 「はアい」という。 こづかい 話を聴いていると、琴の音が食料に搦んだり、小遣に離れ たりして、六円がボコン、三円でペコンというように聞え よ て、何だか変で、話も能く分らなかったが、分らぬ中に話 晩餐になって、其晩だけは私も奥で馳走になった。花模は進んで、 様の丸ポヤの洋燈の下で、隅ではあ 0 たが、皆と一つ食卓「で、家もア気一人外使うて居らん。手不足じゃ。手不足 とこ むか に対い、若い雪江さんの罪の無い話を聴きながら、阿父さの処で君の世話をするのじやから、客扱いにはされん。そ にこにこ ん阿母さんの莞爾莞爾した面を見て、賑かに食事して、私りや手紙で阿父さんにも能う言うて上げてあるから、君も 心得てるじやろうな ? 」 も何だか嬉しかったが : ・ 軈て食事が済むと、阿父さんが又主人になって、私に対「は。」 こうじき そろそろ って徐々小むずかしい話を始めた。何でも物価高直の折「からして勉強の合間には、少し家事も手伝うて貰わんと とて ま 柄、私のる食料では到底も賄い切れぬけれど、外ならぬ困る。なに、手伝うというても、大した事じゃない。 なんか とりつぎぐら、 おとっ 阿父さんの達ての頼みであるに困って、不足の処は自分のあ、取次位のものじゃ。まだ何ぞ角そ他に頼む事も有ろう どう 方で如何にかする決心で、謂わば義侠心で引受けたのであが、なに、皆大した事じゃない。行って貰えような ? 」 れば、他の学資の十分な書生のように、悠長な考えでいて「は、何でも僕に出来ます事なら : : : 」 はならぬ、何でも苦学すると思 0 て辛抱して、品行を慎む「そ、そ、その僕が面白うない。君僕というのは同輩心 そんちょうしゃ むこ もちろん は勿論、勉強も人一倍するようにという話で、聴いていて同輩以下に対うて言う言葉で、尊長者に対うて言う・ヘき言 わたくし はなしなかば も面白くも変哲もない話だから、雪江さんは話半に小さな葉でない、そんな事も注意して、僕といわずに私というて 欠びを一つして、起って何処へか行って了った。私は少し貰わんとな : : : 」 本意なか 0 たが、やがて奥ま 0 た処で琴の音がする。雪江「は = ・ = ・知気が附きませんで = ・ : こ さんに違いない。雪江さんはまだ習い初めだと見えて、琴「それから、も一つ言うて置きたいのは我々の呼方じゃ。 の音色は何だかボコン、ボコン、ペコン、ボコンというよもう君の年配では伯父さん伯母さんでは可笑しい。これは やはりわし なりもの うに聞えて妙だったけれど、私は鳴物は大好だ。何時聴い東京の習慣通り、矢張私の事は先生と言うたら好かろう。 先生、此方が御面会を願われます、先生、お使に行って参り ても悪くないと思った。 いっこうおか とおね で、遠音に雪江さんの琴を聴きながら、主人の勘定高いましようーー一向可笑しゅうない。先生というて貰おう。」 うれ たっ 三十 まかな むか このかた おとッ よびかた

6. 現代日本の文学1:二葉亭四迷 樋口一葉 集

201 平凡 あいにく って手を出すと、生憎手先がぶるぶると震えやがる。 見ようか知ら : ・・ : と思ったが、何だか、どうも : : ンノ極 わ・・・か亜 5 い 0 「如何して其様に震えるの ? 」 たんす かお いよいよろう ! い と雪江さんが不審そうに面を視る。私は愈狼して、 「大変立派なお支度よ。何でもね、簟笥が四棹行くンです はさみばこ まっか 又真紅になって、何だか訳の分らぬ事を口の中で言って、 って。それからね、まだ長持だの、挾箱だの : : : 」 ああ、もう駄目だ。長持や挾箱の話になっちや大事去っ 周章てて頬張ると、 「あら、皮ごと喰べて : : : 皮は取った方が好いわ。」 た、と後悔しても最う追付かない 0 雪江さんは、何処が面 「なに、構わんです」、と仕方が無いから、皮ぐるみムシ白いのだか、その長持や挾箱の話に夢中になって了って、 すき ャムシャ喰りながら、「何は : : : 何処へ刄らしッたンで其から其と話し続けて、盛返したくも盛返す隙がない。仕 うわ す ? 」 方が無いから、今に又機会も有ろうと、雪江さんの話は浮 と あたしちっ ひたすらそのおり 「吉田さんへ」、と雪江さんは皮を剥く手を止めて、「私些の空に聞いて、只管其機会を待っていると、忽ちガラッと とも知らなかったけど、今晩が春子さんのお輿入なんです障子が開いて、 なこうど 「あら、おたのしみ ! って。そら、媒人でしよう家は ? だから、阿父さんも阿 びつくり かえ 母さんも早めに行ってないと下好って、先刻出て行ったの吃驚して振反ると、下女の松めが時戻ったのか、見と つらえみわれ 0 もない面を罅裂そうに莞爾つかせて立ってやがる。私は余 様どとびか よこつら これで漸く合点が行ったが、それよりも爰に一寸吹聴し程飛って横面をグワンと曲げてやろうかと思った。腹 * しゅんしよくうめごよみ て置かなきゃならん事がある。私は是より先春色梅暦が立って腹が立って : という書物を読んだ。一体小説が好きで、国に居る時分か あだうちものたんどく 三十七 ら軍記物や仇討物は耽読していたが、まだ人情本という面 めちやめちゃ 白い物の有ることを知らなかった。これの知り初めが即ち千載一遇の好機会も松に邪魔を入れられて減茶減茶にな 此春色梅暦で、神田に下宿している友達の処から、松陰伝って了ったが、松が交って二つ三つ話をしている中に、間 はじめ と一緒に借りて来て始て読んだが、非常に面白かった。此もなくタ方になった。夕方は用が有るから、三人ばらばら よ ひとしき になって、私はランプ配りやら、戸締りやら、一切り立働 梅暦に拠ると、期ういう場合に男の言う・ヘき文句がある。 あなたうらやましく すま からだ 何でも貴嬢は浦山敷思わないかとか、何とか、ヒョイと軽いて、例の通り部屋で晩飯を済すと、また身体に暇が出来 じようだん く戯談を言って水を向けるのだ。思切って私も一つ言ってた。雪江さんは一番先に御飯を喰べて、部屋へ籠った儘音 そんな かんだ こ こしいれ おッっ もりかえ ながもち よさお たちま よっ

7. 現代日本の文学1:二葉亭四迷 樋口一葉 集

右「通俗書簡文」博文館より刊行。一葉が 生前に刊行された唯一の著作 ( 明治二十九年 ) い衾 % 遜穡す簡文 」明治三十年一月博文館より刊行 下「一葉歌集」 ( 表紙 ) 博文館 ( 大正元年 ) より刊行 右一葉が愛用した次兄虎之助 ( 奇山 ) の作った一輪差し 上大竹雪江画「おはぐろ風景」 「たけくらべ」の舞台となった下 谷龍泉寺町界隈の風景

8. 現代日本の文学1:二葉亭四迷 樋口一葉 集

207 平凡 いわゆる 余り平凡だ下らない。 こんなのは単純な性慾の発動とい から、皆此頃からポッポッ所謂「遊び」を始めた。私も若 ちッ やッばり うもので、恋ではない、恋はも少と高尚な精神的の物だし学資に余裕が有ったら、矢張「遊」んだかも知れん。唯 と、高尚な精神的の人は言うかも知れん。然うかも知れ学資に余裕がなかったのと、神経質で思切った乱暴が出来 ん。唯私のような平凡な者の恋はいつも斯うだ。先ず無意なかったのとで、遊びたくも遊び得なかった。 それ 識或は有意識に性慾が動いて満足を求めるから、理性や趣友人等はむ「遊」ぶ、乱暴に無分別に「遊」ぶ。其を うらや 味性が動いて其相手を定めて、始めて其処に恋が成立す観ていると、羨ましい。が、弱、 し性質の癖に、極めて負惜 はじめ いっ - 」う る。初から性慾の動かぬ場合に恋はない。異性でも親兄弟しみだったから、私は一向羨ましそうな顔もしなかった。 か - っ力い に恋をせぬのは其為だ。青年の時分には、性慾が猛烈に動年長の友人が誘っても私が応ぜぬので、調戯に、私は一人 くから、往々理性や趣味性の手を待たんで、自分と盲動しで堕落して居るのだろうというような事を言った。恥かし かっ て撞着った者を直相手にする。私の雪江さんに於けるが、 い次第だが、推測通りであったので、私は赫となった。血 ほとんそれ はてなぐりあい 即ち殆ど其だ。私共の恋の本体はいつも性慾だ。性慾は高相を変えて、激論を始めて、果は殴合までして、遂に其友 尚な物ではない、が、下劣な物とも思えん。中性だ、イン人とは絶交して了った。 ジフェレントの物だ。私共の恋の下劣に見えるのは、下劣斯うして友人と喧嘩迄して見れば、意地としても最う そう きんちよくか な人格が反映するので、本体の性慾が下劣であるのではな「遊」ばれない。で、不本意ながら謹直家になって、而し とら て何ともえたいの知れぬ、謂れのない煩悶に囚われてい で、私の性慾は雪江さんに恋せぬ前から動いていた。か ら、些とも不思議でも何でもないが、雪江さんという相手 四十一一 を失った後も、私の恋は依然として胸に残っていた。 うろうろ こん ろく 唯相手のない恋で、相手を失って彷徨している恋で、其ああ、今日は又頭がふらふらする。此様な日にや碌な物 むこうはちまき やッば 本体は矢張り満足を求めて得ぬ性慾だ。露骨に言って了えは書けまいが、一日抜くも残念だ。向鉢巻でやッつけろー ば、誠に愛想の尽きた話だが、此猛烈な性慾の満足を求むで、私は性慾の満足を求めても得られなかったので、煩 るのは、其時分の私の生存の目的のーーー全部とはいわぬ悶していた。何となく世の中が悲観されてならん。友人等 が、過半であった。 は「遊」ぶ時にはむ「遊」んで、勉強する時には大に勉 これは私ばかりでない、私の友人は大抵皆然うであった強して、何の苦もなく、面白そうに、元気よく日を送って さだ こ 0

9. 現代日本の文学1:二葉亭四迷 樋口一葉 集

「誰も居ないのかい ? 五十五 なしか - 」 「へい、只今・ : : ・」 感服の余り、私は何とかして此自覚せぬ芸術家に敬意を やつり とお糸さんが矢彊下女並の返事をして、 表したいと思ったが、併し奉公人同様に金など包んでは出 しんざんおおまごっき 「お三どん新参で大狼狽 : : : 」 されない、何でも品物を呈するに限ると、何故だか独りで かお にツこり ちょいとおどけ さんたん せつこう と私の面を見て微笑しながら、一寸滑稽た手附をした極めて掛って、惨澹たる苦心の末、雪江一代の智慧を絞り おもてはしご そのまましょてい うそ が、其儘所体崩して駈出して、表梯子をトントントンと上尽して、其翌日の昼過ぎ本郷の一友人を尋ねて、嘘八百を ふたかけ って行く。 陳べ立て、其細君を誘かして半襟を二掛見立てて買って来 、すそ つもり 私が手を洗って二階へ上って見たら、お糸さんは既う裾て貰った。値段の処も私にしては一寸奮んだ積だった。 たすきはす を卸したり、襷を外したりして、整然とした常の姿になっ早く之をお糸さんに呈して其喜ぶ顔を見たいと、此処ら ひざ て、突当りの部屋の前で膝を突いて、何か用を聴いてい は未来の大文豪も俗物と余り違わぬ心持になって、何だか にこにこ ちょうど 切りに嬉しがって、莞爾して下宿へ帰ったのは丁度夕飯時 私は部屋へ帰って来て感服して了った。お糸さんは歌が分だったが、火を持って来たのは小女、膳を運んで来たの わらいごえよそ はお竹どんで、お糸さんは笑声が余所の部屋でするけれ 旨い、三味線も旨い、女ながらも立派な一個の芸術家だ。 その芸術家が今日は如何だろう ? お竹が病気なら仕方がど、顔も見せない。私は何となく本意なかった。 まる ないようなものの、全で下女同様に追使われている。下女待侘びて独りで焦れていると、軈て目差すお糸さんが膳 同様に追使われて、慣れぬ雑巾掛までさせられた上に、無を下げに来たから、此処そと思って、極りが悪かったが、 理な小言を言われても、格別厭な面もせずに、何とか言っ思切って例の品を呈した。大に喜ぶかと思いの外、お糸さ たツけ ? 然う然う、お = 一どん新参でとい 0 て微笑んは左して色を動かさず、軽く礼を言 0 て、一寸包みを戴 それぎり : ・偉いー余程気の練れた者でなければ、如彼は行か いて、膳と一緒に持って行って了った。唯其切で、何だか あっけ 平ぬ。これがお竹ででも有ろうものなら、直ぐ見たくでもな余り飽気なかった。 あ じようだんごと つら い面を膨らして、沸々ロ小言を言う所だ。それを常談事に何時間経ったか、久らくすると、部屋の障子がスッと開 うずく して了って、お三どん新参で狽とい 0 て微笑・ : いた。振向いて見ると、思いがけずお糸さんが入口に蹲ま さっき 偉い って、両手を突いて、先刻の礼を又言ってお辞儀をする。 おろ ぶつぶつ さっき 十番さんで先刻からお呼なさるじ 、やかお なり なら まちわ しば そその しか

10. 現代日本の文学1:二葉亭四迷 樋口一葉 集

210 と罵って、独り自ら高しとしていた。独り自ら高しとするあったから、私は友の評を一概に其癖の言わせる事にして ひれつ 一方で、想像で姦淫して、一人で堕落していた。 了って、実に卑劣な奴だと思った。 あけ ああ、恥かしくて顔が熱る。何たる苦々しい事であっ何とかして友に鼻を明させて遣りたい。それには此短篇 よっつじ た。私は当時の事を想いす度に、人通りの多い十字街にを何処かの雑誌〈載せるに限ると思 0 た。雑誌〈載せれ 土アして、通る人毎に、踏んで、蹴て、を吐懸けて貰ば、私の名も世に出る、万一したら金も獲られる、一挙両 い度ような心持になる : 得だというような、愚劣な者の常として、何事も自分に都 ごう 合の好い様にばかり考えるから、其様な虫の好い事を思っ ないない 四十四 て、友には内々で種々と奔走して見たが、如何しても文学 てづる 文学の毒に中られた者は必ず各に自分も指を文学に染めの雑誌に手蔓がない。其中に或人が其は既に文壇で名を成 ちかづき ねば止まぬ。私達が即ち然うであった。先ず友が何か下らした誰かに知己になって、其人の手を経て持込むが好いと ひけらか なるはど ぬ物を書いて私に誇示した。すると私も直ぐ卑しい負ぬ気教えて呉れたので、成程と思って、早速手蔓を求めて某大 たた を出して短篇を書いた。どうせ碌な物ではない。筋はもう家の門を叩いた。 忘れて了ったが、何でも自分を主人公にして、雪江さんが某大家は其頃評判の小説家であったから、立派な邸宅を じよしゅじんこう あけく いくたび しようしゃ 相手の女主人公で、紛紜した挙句に幾度となく姦淫するの構えていようとも思わなかったが、定めて瀟洒な家に住っ * ねぎし を、あややな理想や人生観で紛らかして、高尚めかしてて閑雅な生活をしているだろうと思って、根岸の其宅を尋 すじり捩った物であったように記憶する。自惚は天性だかねて見ると、案外見すばらしい家で、文壇で有名な大家の どう みすぼ ら、書上げると、先ず自分と自分に満足して、これなら当これが住居とは如何しても思われなかった。 そんしよく えりあかつい 糘駕見窄らし 代の老大家の作に比しても左して遜色は有るまい、友に示かったが、主人も襟垢の附た、近く寄ったら悪臭い匂が紛 せたら必ず驚くと思って、示せたら、友は驚かなかった。 としそうな、銘仙か何かの衣服で、銀縁眼鏡で、汚いの ところまだら っちけいろ 好い処もあるが、もう一息だと言う様なことをいう。私は処斑に生えた、土気色をした、一寸見れば病人のよう 非常に不平だった。が、局量の狭い者に限って、人の美をな、陰気な、くすんだ人で、ねちねちとした弁で、耐を看 あわ うつむ 成すを喜ばぬ。人を褒れば自分の器量が下るとでも思うの合せると急いで俯向いて了う癖がある。通されたのは二階 か、人の為た事には必ず非難を附けたがる、非難を附けての六畳の書斎であったが、庭を瞰下すと、庭には樹から樹 その非難を附けたのに必ず感服させたがる。友には其癖がヘ紐を渡して襁褓が幕のように列べて乾してあって、下座 かんいん ごたごた うぬれ いろいろ みおろ どう すま