364 つれなか ため 村の親族がり年始の礼にと趣き給いしが、朝より曇り勝のるを、無情りしも我が為、厳しかりしも我が為、末宜かれ 空いや暗らく成るままに、吹く風絶えたれど寒さ骨にしみとて尽くし給いしを、思うも勿躰なきは伯母君 0 ことな て、引入るばかり物心・ほそく不図ながむる空に白き物ちらり。 さぶ ちら、扨こそ雪に成りぬるなれ、伯母様さぞや寒からんと 贍くまでに師は恋しかりしかど、夢さら此人を良人と呼 炬燵のもとに思いやれま、 。いとど降る雪用捨なく綿をなげびて、共に他郷の地を踏まんとは、かけても思い寄らざり まがき ゆくかた くれたけ て、時の間に隠くれけり庭も籬も、我が肱かけ窓ほそく開しを、行方なしゃ迷い、窓の呉竹ふる雪に心下折れて我れ らけば一目に見ゆる裏の耕地の、田もかくれぬ畑もかくれも人も、罪は誠の罪に成りぬ、我が故郷を離れしも我れ伯 ぬ、日毎に眺むる彼の森も空と同一の色に成りぬ、ああ師母君を捨てたりしも、此雪の日の夢ぞかし。 こ そもそも つま の君はと是れや抑々まよいなりけり。 今さらに我が夫を恨らみんも果敢なし、都は花の見る目 わざわ みやまぎ 禍いの神という者もしあらば、正しく我身さそわれしなうるわしきに、深山木の我れ立ち並らぶ方なく、草木の冬 り、此時の心何を思いけん、善とも知らず悪しとも知らと一人しりて、袖の涙に昔しを問えば、何ごとも総て誤な ず、唯懐かしの念に迫まられて身は前後無差別に、免がれりき、故郷の風の便りを聞けば、伯母君は我が上を歎げき そのとし 出しなり薄井の家を。 歎げきて、其歳の秋かなしき数に入り給いしとか、悔こそ これや名残と思わねば馴れし軒ばを見も返えらず、心い物の終りなれ、今は浮世に何事も絶えぬ、つれなき人に操 そぎて庭口を出しに、嬢様この雪ふりに何処へとて、お傘を守りて知られぬ節を保たんのみ、思えば誠と式部が歌 さくおとこ をも持たずにかと驚ろかせしは、作男の平助とて老実に愚の、ふれば憂さのみ増さる世を、知らじな雪の今歳も又、 かなる男なりし、伯母様のお迎いにと偽れば、否や今宵は我が破れ域をつくろいて、見よとや誇る我れは昔の恋しき おやじ まず お泊りなるべし、是非お迎いにとならば老僕が参らん、先ものを。 待給えと止めらるる憎くさ、真実は此雪に宜くこそと賞め そなた られたく、是非に我が身行きたければ、其方は知らぬ顔に たかわら て居よかしと言うに、取しめなく高笑いして、お子達は扨 らちも無きもの、さらば傘を持給えとて、其身の持ちしを 我れに渡しつ、転ろばぬ様に行き給えと言いけり、由縁あ れば武蔵野の原こいしきならい、此一ト言さえ思い出らる こたっ さて ひとっ まめやか ゆかり かさ
389 よもぎう日記 うき人こふる心成けり されど人の憂きにてあらですべて我心がらなれば、 十六日。早朝広瀬七重郎帰県、吉田ぬしのもとへ返し出 つらからぬ人をば置てかたいとの す、うきふしもかなしきふしももらし給うにつけて、少 くるしやこゝろわれとみだるゝ しはみ心なぐさむべきに、折々は聞えおどろかし給えと て、 入る日のかたをながむればかの大人のあたりそことしの ばれて、 いざゝらばとも音になかん友千鳥 うら山しタぐれひゞくかねの音の 声だにかよへうらの真砂路 いたらぬ方もあらじとおもへば かきやるままにいと哀なり。 そしよう・こと のじり 十五日。午後広瀬七重郎出京訴訟事なり。此日小梅村吉田 広瀬よりの便りに聞けば、野尻ぬし妻むかえ給えりとな かとり子ぬしより文来る。哀なること多し。こぞの梅見 ん。国子の心をおもいやるに我ももの悲しさ堪がたし。 を思出ての歌あり。 ささやかなる紙に小さく書きて見するをみれば、 いにしへにためしも有とあきらめて夢のうきょを くるとあくと思ひ出さぬ折ぞなき うらみしもせじ 共に梅見しこその其日を いと哀なるままに、 おもふどち梅見くらして植半の 身にちかくためしも有るをくれ竹の 行く水くらきなっかしそおもふ うきよとはしもうらむなよ君 此ころとおもひしものをいと早も 又国子かく、 はや一とせのめぐりぎにけり 我が心しるべき君のなかりせば などいと多かり。これがかえし必らず出さんとおもう。 うきょを捨つるすみ染の袖 この人のうえをおもえば、女の身のはかなきこといとど しられて、男もちたる後も心安からじ。はや五十にもち我うち笑ひて、 なお みたりよたり 心から衣のうらの玉も有るを かき人の、三人四人子などもあるを、猶うたひめなどの す・こも すみ染とまで何おもふらん 花々しきかたに男の心うつろいぬれば、身は巣守りにて さんがい 音をのみなき暮らすらんよ。三界に家なしといにしえこ夜ふくるまで国子ねむりもやらぬに、 いでや君などさは寝ぬそぬば玉の そいいけれ。今のよとてもかかる人の上時々そ聞ゆるか このひ まさ・こじ
156 れる事が有る、が、固より永くは続かん。無慈悲な記憶がれば、皆同学の生徒等で、或は鉛筆を耳に掩んでいる者も 働きだして此頃あくたれた時のお勢の顔を憶い出させ、瞬有れば或は書物を抱えている者も有り又は開いて視ている よ そのうちまじ 息の間に其快い夢を破って仕舞う。またこういう事も有者も有る。能く視れば、どうか文三も其中に雑っているよ かわ えれき る。ふと気が渝って、今こう零落していながら、此様な薬うに思われる。今越歴の講義が終ッて試験に掛る所で、皆 きわめぐ まわり かかすら いたずら 袋も無い事に拘ッて徒に日を送るを極て愚のように思わ「えれくとりある、ましん」の周囲に集って、何事とも解 しき しばらく れ、もうお勢の事は思うまいと、少時思の道を絶ッてまじらんが、何か頻りに云い争いながら騒いでいるかと思う しか あとかた たちま まじとしていてみるが、それではどうも大切な用事を仕懸と、忽ちその「ましん」も生徒も烟の如く痕迹もなく消え おちい うろたえ けて罷めたようで心が落居ず、狼狽てまたお勢の事に立戻失せて、ふとまた木目が眼に入った。「ふん、『おぶちか なにゆえ につ る、いるりゅうじよん』か。」と云って、何故ともなく莞 って悶え苦しむ。 よん 人の心というものは同一の事を間断なく思ッていると、爾した。「「いるりゅうじよん』と云えば、今まで読だ書物 遂に考えて弁力の弱るもので。文三もその通り、始の中でさるれえの『いるりゅうじよんす』ほど面白く思 0 終お勢の事を心配しているうちに、何時からともなく注意たものは無いな。二日一晩に読切って仕舞ったつけ。あれ どう ちみつ たがい ひとこと が散って一事には集らぬようになり、おりおり互に何の関ほどの頭には如何したらなるだろう。余程組織が緻密に違 とりしめ ちぎれちぎれ し十ーし・ ・ : 」さるれえの脳髄とお勢とは何の関係も無さそ 係をも持たぬ零々砕々の事を取締もなく思う事も有った。 かしら あおむ 曾って両手を頭に敷ぎ仰向けに臥しながら天井を凝視めてうだが、此時突然お勢の事が、噴の迸る如くに、胸を突 いて騰る。と、文三は腫物にでも触られたように、あっと 初は例の如くお勢の事をと思 0 ていたが、その中にふ もくめ と天井の木目が眼に入って突然妙な事を思った。「こう見叫びながら、跳ね起きた。しかし、跳ね起きた時は、もう あと たところは水の流れた痕のようだな。」こう思うと同時に其事は忘れて仕舞ッた、何のために跳ね起き、たとも解ら お勢の事は全く忘れて仕舞った、そして尚お熟々とその木ん。久く考えて居て、「あ、お勢の事か、」とくして憶い さながら たかびく 目に視入って、「心の取り方に依っては高低が有るように出しは憶い出しても、宛然世を隔てた事の如くで、面白く ぼうん しばら おかしく そのまま も見えるな。ふふん、「おぶちかる、いるりゅうじよん』も可笑も無く、其儘に思い棄てた、暫くは惘然として気の ひげ か。」ふと文三等に物理を教えた外国教師の立派な髯の生抜けた顔をしていた。 こう心の乱れるまでに心配するが、しかし只心配すを計 えた顔を憶い出すと、それと同時にまた木目の事は忘れて めさき 仕舞った。続いて眼前に七八人の学生が現われて来たと視で、事実には少しも益が無いから、自然は己が為べき事を たい やく こり けふり なに ほとばし おのす
413 日記ちりの中 此ほどすべてことなし。 春雨のおとを枕にきくャ半ぞ 九日。雨。今日は銀こんの大典也。都市府県おしなべて、 むかしの花の夢はみえける はるさめにたいしてこころざしをいう こころごころの祝意を表するに狂するが如しとか聞し 対ニ春雨一言 / 志 が、折あしき雨にて、さのみはにぎわしからぬやにきく。 あづさゆみやよ春雨にものいはむ おんしきん 菊池の奥方、高齢をもて恩賜金をたまわりたるよし。亡 めぐむは露の草木ばかりか でんかのはるさめ 老君の五年祭をかねて、祝義あるべきよし沙汰ありけれ 田家春雨 ば、母君いわい物もちゅく。歌一首をそう。 たち出てみれば春雨かすむ也 めづらしき御いはゐにさへ逢にあひて わがせやかへる小田の中道 かんきょのはるさめ 君かさぬらん千代も人千代も 閑居春雨 よからねどかくなん。此タベ、樋口くら来る。 春雨のふる物がたりきかせてん とうりゅう うぐいす 十日。くら逗留。雨天。 小窓までこよ庭の鶯 十一日。おなじく雨天。山下直一君死去の報来る。すべて まさごちょう 十三日。晴れ。真砂丁に久佐賀を訪う。日没帰宅。おく 夢とのみあきる。 いさぶろう ら、いまだ帰らず。 十二日。母君、山下君を弔う。おくら、猪三郎のもとにゆ なり こ ! またついぎみ とくく * こちょうぎみらいはう く。禿木子及孤蝶君来訪。孤蝶君は、故馬堺辰猪君の令十四日。田中君を訪う。かずよみせんとて也。タベはがき ふみ はたも こうがいひか を出したれど、引ちがいて、かれよりも文を出したるよ 弟なるよし。二十の上いくつならん。慷慨非歌の士なる へぎ し。今日は、小石川師君と共に鍋嶋家に参賀の事ありと よし。語々癖あり。不平不平のことばを聞く。うれしき したくちゅうなり て、支度中也。例の龍子ぬしが一条、いよいよ二十五日 人也。 ひろう 発会と発表に成ぬ。されば右披露をかねて、鍋嶋家の恩 顧をあおがん為、今日の結構はある也けり。 ( 三十三字抹 消 ) 田中ぬし出でさられし後、一人残りて暫時かずよみ しゅうふんふんぶん す。題は三十題成し。醜聞紛々、田中君の内情みゆる。 数よみ春雨十首 朝春雨 ふしながら聞しはいっぞ朝市の たちゐくるしき春雨の空 よるのはるさめ 夜春雨 おくがた はるさめじっしゅ あさのはるさめ こ ため なべしまけ と ざんじ
2 たけくらべ りすつるよりかかりて、一年うち通しの夫れは誠の商売 人、片手わざにも夏より手足を色どりて、新年着の支度も これをば当てそかし、南無や大鳥大明神、買う人にさえ大 福をあたえ給えば製造もとの我等万倍の利益をと人ごとに 言うめれど、さりとは思いのほかなるもの、此あたりに大 くるわもの おっと 長者のうわさも聞かざりき、住む人の多くは廓者にて良人 * こ・こうし は小格子の何とやら、下足札そろえてがらんがらんの音も たちいす いそがしやタ暮より羽織引かけて立出れば、うしろに切火 そばづえむりしん 打かくる女房の顔もこれが見納めか十人ぎりの側杖無理情 じゅう うら 死のしそこね、恨みはかかる身のはて危うく、すわと言わ ば命がけの勤めに遊山らしく見ゆるもおかし、娘はの * したしんぞ かんばん 下新造とやら、七軒の何屋が客廻しとやら、提燈さげてち まわ * おおもん どふともしび ひのき 廻れば大門の見返り柳いと長けれど、お歯ぐろ溝に燈火よこちょこ走りの修業、卒業して何にかなる、とかくは檜 ごと うつる三階の騒ぎも手に取る如く、明けくれなしの車の行舞台と見たつるもおかしからずや、ぬけのせし三十あま だいおんじまえ とうざん 来にはかり知られぬ全盛をうらないて、大音寺前と名は仏りの年増、小ざっぱりとせし唐桟そろいに紺足袋はきて、 くさけれど、さりとは陽気の町と住みたる人の申き、三嶋駄ちゃらちゃら忙がしげに横抱きの小包はとわでもしる 神社の角をまがりてより是れそと見ゆる厦もなく、かたし、茶屋が桟橋とんと沙汰して、廻り遠や此処からあげま のきば あきな あつら ぶく軒端の十軒長屋二十軒長や、商いはかっふつ利かぬ処する、誂え物の仕事やさんと此あたりには言うぞかし、一 なかば おなご とて半さしたる雨戸の外に、あやしき形に紙を切りなし体の風俗よそと変りて、女子の後帯きちんとせし人少な ごふん さいしき でんがく はばびろ て、胡粉ぬりくり彩色のある田楽みるよう、裏にはりたるく、がらを好みて巾広の巻帯、年増はまだよし、十五六の こしやく はおすき 串のさまもおかし、一軒ならず二軒ならず、朝日に千して小癪なるが酸漿ふくんで此姿はと目をふさぐ人もあるべ 夕日に仕舞う手当ことごとしく、一家内これにかかりて夫し、所がら是非もなや、昨日河岸店に何紫の津氏名耳に残 * しもっきとりひれい よくふかさま れは何そと問うに、知らずや霜月酉の日例の神社に欲深様れど、きようは地廻りの吉と手馴れぬ焼鳥の夜店を出し かみさますがた のかつぎ給う是れぞ熊手の下ごしらえという、正月門松とて、身代たたき骨になれば再び古巣への内儀姿、どこやら なり しんだい このなり はるぎ こんたび
らせたしと思わば人を遣りて家内の人をも迎うべし、不時ある君達に御恩報じのうべき我れならず。 の災難は誰しもあるならいなれば気の毒などの念をさりて さらば免し給えと身を起すに足もと定まらずよろよろと さて 思うままの我ままを言うがよし、打見し処が病気あがりかするを、扨もあぶなし道理のわからぬ奴め、親がなしとて とも見ゆるにく夜に入りても家に帰らずば、有らば二タも其身は誰れから貰いしぞ、そう無造作に麁末にして済む そち ふりようけん せじよう 親の心配さこそと思わるるに今宵は此処に泊る事として人べきや、汝ごとき不了簡ものの有ればこそ世上の親に物お おもしやり をば宿処に走らすべし、目前みての憂いよりは想像にこそもいは絶えざるなれと、我れも一人もちたる子に苦労した ことなること 苦はますなれ、別条なきよしを知らせて其さまざまに走りし佐助が、人事ならず気づかわしさに叱りつけて坐らす うつ る想像の苦を安めたし。 れば、男は又もや首うなだれて俯ぶく。 建はいずれぞと問われて、つらく起かえる男の頬はい 逆上しておかしき事を言うらしければ今宵一夜ここに置 たく肉落て、大ぎやかなる目の光りどんよりと、鼻はひくきて、ゆるゆる睡らせたしと老もいうに、男は甘夫嫐に からねど鼻筋いたく窪みて、さらでもさし出たる額のいよまかせてお蘭は我が居間に戻りぬ。 えり はえぎわ いよいちじるく、生際薄くして延びたる髪は頸をおおえ くちびる 。物いわんとすれど涙のみこ・ほれて色もなき唇のぶるぶ まがき ると戦くは感の胸に迫りてにや、お蘭は静かにさし寄りて籬にからむ朝顔の花は一朝の栄えに一期の本懐を尽くす もはや ぶんざい いざと薬をすすむれば、手を掉りて最早気分はたしかで御ぞかし、我身に綻はりたる分際を知らば為らぬ浮世に思う 座りまする。 事あるまじく、甲斐なき悶に膓にゆべしやは、さても祖父 いちごう かごあ 帰る・ヘき家なく、案じ給う親なければ車に引ころされぬの世までは一郷の名医と呼ばれて切棒の駕に畔ゆく村童ま ひざまず きだお とも、道に行仆れぬとも我れ一人天命を観ずる外、世間にで跪かせしものを、下りゆく運は誰が導きの薄命道、不幸 ことば 夜哀れと見る人もあるまじ、情ある方々に嬉しき詞をそそが夭死の父につづきて母は野中の草がくれ妻とは言われぬ身 みより さくりやく みるるは薄命の我れに中々の苦しみを増す道理なれば、気のなりしに、浮世はつれなし親族なりける誰れ彼れが作畧 とかく やっかざりしほどは兎も角、今は御門外へ捨てさせ給え、命に、争わんも甲斐なや亡き旦那さまこそ照覧ましませ、八 あるほどは憂ぎを見尽して魂さりての屍体は痩せ大の餌食幡いつわりなき御胤なれども言い張りてからが慾とや言わ 貯にならば事たる身なり。恨めしかりし車の紋は沢瀉、闇なれん卑賤の身くやしく、涙を包みて宿に下りしは此子胎内 ようやななっきぬしさま * にしち れども見とめたりし面かげの主に恨みは必らず返せど、情に宿りて漸く七月、主様うせての二七日なりける、さるほ おのの ひせん な わらペ
414 ちり 塵の中日記 を屈し、ことをはばかりて、心は悟らんとしつつ、身は 迷いのうちに終るらんよ。あわれはかなしゃな。虚無の きみ しん うきょに君もなし、臣もなし。君という、そもそも偽 なり 也。臣というも、又偽也。いつわりといえども、これあ むちゅうゆう りてはじめて人道さだまる。無中有を生じて、ここに一 道の明らかなるものあれば、人中に事をなさんとくわだ つるもの、かならず人道に寄らざるべからず。天地こと ごとくのみ尽して、有無両端をたなぞこににぎりたりと も、行わざる誠は、人みるによしなし。我身きよしとい えども、感は人のこころにありて耳にあらねば、かいな 日々にうつり行こころの、羞れいつの時にか誠のさとり きは放言高論のたぐいなり。世に文章家というものあり かぶんれいじ を得て、古潭の水の月をうかべるごとならんとすらん。 て、華文麗辞をつらぬるによく、和歌誹句たくみに詠ず ひかこうがい 愚かなるこころのならい、時にしたがい、ことに移り るもあり。又弁士とて、悲歌慷慨の語をなして一時の感 て、かなしきは一筋にかなしく、おかしきは一筋におか を起すもあめり。さる物から、これ等はくぐっの木偶を しく、こしかたをわすれ、行末をもおもわで、身をふる まわして人めをよろこばしむるたぐいにも似て、唯一時 もうらんこそうたても有けれ。こころはいたずらに雲井のよろこびばかりならんのみ。一時におこりたる感は、 にまでの・ほりて、おもう事はきよくいさぎよく、人はお 一時にして消えぬべし。一代をつつみ、百世に残りぬペ そるらん死ということをも、唯風の前の塵とあきらめきわざをとおもうに、事は我身にありて人にあらず。我 て、山桜ちるをことわりとおもえば、あらしもさまでお み清しとて、人をおとすはまだよし。人を論ずるを知り そろしからず。唯此死という事をかけて、浮世を月花に て、我身の誠をあらわすをしらず、国政をそしり、大臣 おくらんとす。ひとえにおもえば、其いにしえのかしこ をなみし、大家名流の非をあげてあげつろうとも、かれ じもく き人々も、此願いにほかならじ。さる物から、おもうま は耳目にあらわれたる人なり。これは唯、ひとつのロを まを行ないて、おもいのままに世を経んとするは、だ凡動かすのみ。いかに又みにくからずや。こころは天地の ところ 人の願う処なめれど、さも成がたきことなれば、人々身誠を抱きて、身は一代の狂人になりも終らば、人に益な なか こたん ただ いつわ 0
おもて と、すべて書つづくべきにあらず。 ょに期の君に面を合わする時もなく、忘られて、忘られ はてて、我が恋は行雲のうわの空に消ゅべし。昨日ま 此家は、下谷よりよし原がよいの只一筋道にて、タがた ですみける家は、かの人のあしをとどめたる事もあり。 ともしび よりとどろく車の音。飛ちがう燈火の光り、たとえんに まれには、まれまれには、何事その序に、家居のさまな ことば りとも思い出でて、我というものありけりとだにしのば 詞なし。行く車は、午前一時までも絶えず。かえる車 は、三時よりひびきはじめぬ。もの深き本郷の静かなるれなば、生けるよの甲斐ならましを、行えもしれずかげ ちり 宿より移りて、ここにはじめて寝ぬる夜の心地、まだ生を消して、かくあやしき塵の中にまじわりぬる後、よし それ れ出でて覚えなかりき。家は長屋だてなれば、壁一重に何事のよすがありておもい出られぬとも、夫は哀れふび あきな は人力ひくおとこども住むめり。商いをはじめての後は んなどの情にはあらで、終に此よを清く送り難く、にご さら いかならん。其ものどもも、お客なれば気げんにさから りににごりぬる浅ましの身とおもい落され、更にかえり じんき みらるべきにあらず。かくおもいにおもえば、むねっと わじとっとむるにこそ。 . くるわ近く人気あしき処と人々 おとこげ ふさがりていとどねぶりがたく、暁のくる、はよう聞え 語りきかせたるが、男気なき家の、いかにあなずられて たいらい ぬ。此宵は大雷にて、稲ずま恐ろしく光る。 くやしき事ども多からん。何事もわれ一人はよし。母は 老いたり。邦子はいまだ世間をしらず、そがおもいわず廿一日。タベより降ける雨、なごりなく晴れて、いとしの ろう景色を見るも哀也。さて、あきないはいかにして始ぎよし。はがきしたためて、これかれ十軒ほど出す。今 むべきなど、千々にこころのくだけぬ。 宵は少し寝られたり。 ゃぶか 蚊のいと多き処にて、藪蚊という大きなるが、夕暮より二十二日。晴れ。今日は土曜日也。小石川の稽古日、いか ならんとおもいやらる。母君、中橋の伊せ利を訪う。あ うなり出る、おそろしきまで也。この蚊なくならんほど 中は、綿入ぎる時そとさる人のいいしが、冬までかくてあ きないの事につきて也。送籍のことたのみに久保木へ手 紙を出す。昨日今日は、家内の掃除つくろいなどにてひ のらんこと侘し 0 井戸はよき水なれども深し。何事もなれなば、 かく心・ほまなし。 たな そくもあるべきならず。知る人も出来、あきないに得意廿三日。晴れ。朝より伊せ利きたる。店に棚つりなどして もふゅべし。そは、憂しとても程なき事也。唯かく落ほ午前をすぐ。午後かえるさながら、問屋にかけ合いくれ ・、ろとも くち うれ、行ての末にうかぶ瀬なくして朽も終らば、ついの んという。誰にまれ諸共にとあるにさらば、我を伴い給 わび といや
ど なにうち 隅へと潜みぬ。お峰は車より下りて幵処此処と尋ぬるうの事、何家などは何うでも宜ござります、伯父様御全快に たこかみ ち、凧紙風船などを軒につるして、子供を集めたる駄菓子ならば表店に出るも訳なき事なれば、一日も早く快く成っ かど のぞ やの門に、もし三之助の交じりてかと覗けど、影も見えぬて下され、伯父様に何ぞと存じたれど、道は遠し心は急 がっかり ゆきき くるまや あめ に落胆して思わず往来を見れば、我が居るよりは向いのが 、車夫の足が何時より遅いように思われて、御好物の飴 くすりびん うしろすがた これ わたし わを痩ぎすの子供が薬瓶もちて行く後姿、三之助よりは丈屋が軒も見はぐりました、此金は少々なれど私が小遣の残 * すばく も高く余り痩せたる子と思えど、様子の似たるにつかっか り、麹町の御親類よりお客の有し時、その御隠居さま寸白 と駆け寄りて顔をのそけば、やあ姉さん、あれ三ちゃんでのお起りなされてお苦しみの有しに、夜を徹してお腰をも 有ったか、さても好い処でと伴なわれて行くに、酒やと芋みたれば、前垂でも買えとて下された、それや、これや、 どふいた やの奥深く、溝板がたがたと薄くらき裏に入れば、三之助お家は堅けれど他処よりのお方が贔屓になされて、伯父さ とと きんちゃく は先へ駆けて、父さん、母さん、姉さんを連れて帰ったとま喜んで下され、勤めにくくも御座んせぬ、此巾着も半襟 じみ 門ロより呼び立てぬ。 もみな頂ぎ物、襟は質素なれば伯母さま懸けて下され、巾 ちょうど 何お峰が来たかと安兵衛が起上れば、女房は内職の仕立着は少し形を換えて三之助がお弁当の袋に丁度宜いやら、 物に余念なかりし手をやめて、まあまあ是れは珍らしいと夫れでも学校へは行きますか、お清書が有らば姉にも見せ 手を取らぬばかりに喜ばれ、見れば六畳一間に一間の戸棚てと夫れから夫れへ言う事長し。七畆のとしに父親得意場 ただ たんす くらふしん のぼ 只一つ、簟笥長持はもとより有るべき家ならねど、見し長の蔵普請に、足場を昇りて中ぬりの泥鏝を持ちながら、下 やっこ 火鉢のかげも無く、今戸焼の四角なるを同じ形の箱に入れなる奴に物いいつけんと振向く途端、暦に黒ぼしの仏滅と こめびつ な て、これがそもそも此家の道具らしき物、聞けば米櫃も無でも言う日で有しか、年来馴れたる足場をあやまりて、落 きよし、さりとは悲しき成ゆき、師走の空に芝居みる人もたるも落たるも下は敷石に模様がえの処ありて、掘おこし り有るをとお峰はまず涙ぐまれて、まずまず風の寒きに寝てて積みたてたる切角に頭脳したたか打ちつけたれば甲斐な まえやく かたやき うすふとん ごお出なされませ、と堅焼に似し薄蒲団を伯父の肩に着せし、哀れ四十二の前厄と人々後に恐ろしがりぬ、母は安兵 - 」こ きようだい っ て、さそさぞ沢山の御苦労なさりましたろ、伯母様も何処衛が同胞なれば此処に引取られて、これも二年の後はやり 大 トすろ やら痩せが見えまする、心配のあまり煩うて下さります風俄かに重く成りて亡せたれば、後は安兵衛夫婦を親とし 9 な、夫でも日増しに快い方で御座んすか、手紙で様子は聞て、十八の今日まで恩はいうに及ばず、姉さんと呼ばるれ けど見ねば気にかかりて、今日のお暇を待ちに待って漸とば三之助は弟のように可愛く、此処へ此処へと呼んで背を それ たんと よ いとま なり にわ こうじまち おそ とお
146 こと かっ 汚い言をいう。それを、今夜に限て、平気で聞いているおていた。 どう 「これが如何したの ? 」と平気な顔。 勢どのの心持が解らない、と怪しんでいる間も有ればこ いけどり そ、それッと炭を継ぐ、吹く、起こす、燗をつけるやら、 「如何もしないが、こうまず俘虜にしておいてどッこい ・ : 」と振放そうとする手を握りしめる。 鍋を懸けるやら、瞬く間に酒となツた。 ないかわ 「あちちち」と顔を皺めて、「痛い事をなさるねえー」 あいのおさえのという蒼蠅い事の無代り、洒落、担ぎ合 どどいっ * す 「ちッとは痛いのさ。」 、大口、高笑、都々逸の素じぶくり、替歌の伝受等、 くいっき 「放して頂戴よ。よう。放さないと此手に喰付ますよ。」 ろいろの事が有ッたが、蒼蠅いからそれは略す。 おくびうけこたえ 「喰付たいほど思えども : : : 」と平気で鼻歌。 刺身は調味のみになツて噎で応答をするころになツて、 ざしき お勢はおそろしく顔を皺めて、甘たるい声で、「よう、 お政は、例の所へでも往き度なツたか、ふと起ッて坐舗を 放して頂戴と言えばねえ : : : 声を立てますよ。」 出た。 ふたり と両人差向いになツた。顔を視合わせるとも無く視合わ「お立てなさいとも。」 して、お勢はくすくすと吹出したが、急に真地目になツてと云われて一段声を低めて、「あら引本田さんが引手なん ぞ握ッて引ほほほ、いけません、ほほほ。」 ちんと澄ます。 「それはさそ引お困りで御座いましよう引。」 「これアおかしい。何がくすくすだろう。」 「本統に放して頂戴よ。」 「何でも無いの。」 うつみ 「何故 ? 内海に知れると悪いか ? 」 「の・ほる源氏のお顔を拝んで嬉しいか ? 」 あき 「なに彼様な奴に知れたツて : : : 」 「呆れて仕舞わア、ひょッとこ面の癖に。」 「じゃ、ちッとこうしてい給え。大丈夫だよ、なぞす 「何だと ? 」 きれい る本田にあらずだ : : : が、ちょッと : : : 」と何やら小声で 「綺麗なお顔で御座いますということ。」 ぐら 云ッて、「・ : ・ : 位いは宜かろう ? 」 昇は例の黙ッてお勢を睨め出す。 まじめ 「綺麗なお顔だというンだから、ほほほ、」と用心しながするとお勢は、如何してか、急に心から真面目になツ わた あとすさり ・ : 私しやア : : : 其様 て、「あたしやア知らないからいい : ら退却をして、「いいじやア : : : おッ : ひらめ ッと寄ッた昇がお勢のへ : : : 空で手と手が閃く、からな失敬な事ッて : : : 」 にこに まる : ・ : ・と鎮まッた所をみれば、お勢は時か手を握られ昇は面白そうにお勢の真面目くさッた顔を眺めて莞爾莞 またたま うるさ うれ かん まじめ しゃれかっ など しか