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検索対象: 現代日本の文学1:二葉亭四迷 樋口一葉 集
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1. 現代日本の文学1:二葉亭四迷 樋口一葉 集

162 なかわる よっこ 0 たのだか、祖母とは仲悪で、死後迄余り好くは言わなかっ 十ー十ー どう 父は祖母とは全で違っていた。如何して此人の腹に此様たが、何かの話の序に、阿母さんもお祖母さんには随分泣 な人がと怪しまれる程の好人物で、面も薩張り似ていなかされたものだよ、と私に言った事がある。成る程折々母が った。大ぎな、笑うと目元に小皺の寄ゑ豊頬した如何に物蔭で泣いていると、いつも元気な父が其時ばかりは困っ なり あいきよう まるがお も愛嬌のある円顔で、形も大柄だったが、何処か円味が有た顔をして何か密々言っているのを、子供心にも不審に思 わだかま り、心も其通り角が無かった。快活で、蟠りがなくて、話った事があったが、それが伯父の謂うお褫母さんに泣かさ が好きで、碁が好きで、暇さえ有れば近所を打ち歩き、大れていたのだったかも知れぬ。 きむす やつばりそ くしやみ きな嚏を自慢にする程の罪のない人だった。祖父が矢張然兎に角祖母は此通り気難かし家であったが、その気難か どう うわさ うであったと云うから、大方其気象を受継いだのであろし家の、死んだ後迄噂に残る程の祖母が、如何いうものだ か、私に掛ると、から意久地がなかった。 父は此様な人だし、母はーー私の子供の時分の母は、手 たすきが ぬぐいあねさまかふ 拭を姉様冠りにして襷掛けで能くクレクレ働く人だった。 其頃の事を誰に聞いても、皆阿母さんは能く辛抱なすった何で祖母が私に掛ると、意久地が無くなるのだか、其は とばかりで、其他に何も言わぬから、私の記憶に残る其時私には分らなかった。が、兎に角意久地の無くなるのは事 どう きむす 分の母は、何時迄経っても矢張り手拭を姉様冠りにして、実で、評判の気難かし家が、如何にでも私の思う様になっ 襷掛けで能くクレクレ働く人で、格別如何いう人という事て了う。 まず何か欲しい物がある。それも無い物ねだりで、有る いちもんかし * ひがし 期ういう家庭だ 0 たから、自然祖母が一家の実権を握 0 結構な干菓子は響で、無い一文菓子が欲しいなどと言出し ていた。家内中の事一、から十迄祖母の方寸にかれて、母て、母に強球るが、許されない。祖母に強求る、一寸渋 は下女か何その様に使われる。父も一向家事には関係しる、首五へ噛り付いて、ようようと二三度鼻声で甘垂れ ないで、形式的に相談を受ければ、好うがしよう、とばかる、と、もう祖母は海鼠の様になって、お由ーー、母の名だ あんな きげん 彼様に言うもんだから、買って来てお遣りよ、とい り言っている。然う言っていないと、祖母の機嫌が悪い、 ふしようぶしようた う。祖母の声掛りだから、母も不承不承起って、雨降でも 面倒だ。 母方の伯父で在方で村長をしていた人があ 0 た。如何し私のロのお使に番傘傾げて出懸けようとする。期うなる やつば おっか こじわ かおさつば ふつくり どう ひそひそ かた ばあ こ

2. 現代日本の文学1:二葉亭四迷 樋口一葉 集

231 平凡 いたが、ふと何だか胸が一杯になって泣こうとしたら、 ひつば 「まあ、彼方へお出でなさい」、と誰だか袖を引張るから、 見ると従弟だ。何処へ何しに行くのだか、分っているよう あんばい な、分 0 ていないような、畯な塩梅だ 0 たが、私は何だか とんろく 分ってる積で、従弟の跟に従いて行くと、人が大勢車座に後で段々聞いて見ると、父は殆ど碌な療養もせずに死ん なっている明かるい座敷へ来た。と、急に私は何か母に聞だのだ。事情を知らん人は寿命だから仕方がないと言って どう きたい事が有るのを忘れていたような気持がして、母は如慰めて呉れたけれど、私には如何しても然う思えなかっ 何したろうと後を振向く途端に、「おお、作か」、という声た。全く私の不心得で、まだ三年や四年は生延びられる所 にわかしん が俄に寂然となった座敷の中に聞えたから、又此方を振向をむざむざ殺して了ったように思われてならなかったか とし・ころ それ くと、其処に伯父が居るようだ。夫から私は其処へ坐っら、深く年来の不孝を悔いて、責て跡に残った母だけには て、何でも漫に其処に居る人達に辞儀をしたようだった最う苦労を掛けたくないと思い、父の葬式を済せてから、 うちどう が、其中に如何いう訳だったか、伯父の側へ行く事になっ母を奉じて上京して、東京で一戸を成した。もう斯う心機 おとっ こんな て、側へ行くと、伯父が「阿父さんも到頭此様になられが一転しては、彼様な女に関係している気も無くなったか かお すじよう た」、といいながら、側に臥ている人の面に掛けた白い物ら、女とは金で手を切って了った。其時女の素性も始めて でたらめ とりの を取除けたから、見ると、臥て居る人は父で、何だか目を知ったが、当人の言う所は皆虚構だった。しかし其様な事 ねむ かおじっ 瞑っている。私は其面を凝と視ていた。すると、何時の間を爰で言う必要もない。止めて置く。 はじめやや ひつけん にか母が側へ来ていて、泣声で、「息を引取る迄ね、お前で、生来始て稍真面目になって再び筆硯に親しもうとし ちっ に逢いたがりなすってね : : : 」というのが聞えた。私はふたが、もう小説も何だか馬鹿らしくて些とも書けない。泰 やつばり ッと目が覚めた、目が覚めたような心持がした。ああ、父西の名家の作を読んで見ても、矢張馬鹿らしい。此様な心 は死んでいる つい其処に死んでいる : : : 骨と皮ば持で碌な物が出来る筈もないから、評判も段々落ちる、生 はす かりの痩果てた其死顔がつい目の前に見える。之を見る活も困難になって来る。もう私もシュン外れだ。此処らが すま おもいきどき と、私は卒然として、「ああ済なかった : : : 」と思った。 思切り時だろうと思って、或年意を決して文壇を去って、 せつな りくっ 此刹那に理窟はない、非凡も、平凡も、何もない。文士と人の周旋で今の役所へ勤めるようになったが、其後母の希 いう肩書の無い白地の尋の人間に戻り、ああ、済なか 0 望を容れて、妻を迎え、子を生ませると、間もなく母も父 た、という一念になり、我を忘れ、世間を忘れて、私は : ・ : 私は遂に泣いた : こ・一 こん

3. 現代日本の文学1:二葉亭四迷 樋口一葉 集

8 みそか いかにし えとて共にゆく。門跡前に中村屋忠七とよべるが、伊せと母君の給いけれど、三十日ちかくにはあり、 なじみ しゅうせん てと、断りしかば、さらば何ほどなりとも出来るほどを 利の昔し馴染なるよしにて、此処へ周旋す。五円斗の品 ととのえくれよ、かかる次第なればと、事のわけをうち ととのえくれよという。手つけとして一円渡す。明日、 明してたのみたまいけれど、 いかにしても出来がたしと 荷はもち込むべき約束。伊せ利は、明後日朝、かざりつ けに来たらんという。諸事し終えてかえる。此五円の金断りける上、お常などの失礼なる詞いいけるよしの給う。 それ かえるさに、久保木にも頼みけれども、かしこにても出 も、今は手もとになし。かねて伊三郎の、夫ほどはかな 来ず。いかにせんとの給う。さてはせんなし。先ず問屋 らず調えんといいけるをあてになしけるなれば、母君、 ただち ただち の方に断りいい置んとて、直に家を出ず。田中より車に 直に三間丁に趣く。おもうままならぬこそ浮よ成けり な、伊三郎が妻、昨夜より急病にて、旅の空といい、持てはしらす。今荷ごしらえの最中成しかば、事つくろい てる金も多からざる上、さる人にあずけたる金の返らざ て一日二日の猶予をいい入る。ここはわけもなくすみけ ふる るなどにて、右左むくよしもなき処へ、故さとに残した り。これより直に伊せ利に断りいいやる。日没少し前、 にわか 母君、三間丁を訪う。伊三郎、すでに帰宅の後也。此 る妻も俄のわずらいにて、留守の騒ぎ大方ならざるよし。 - めを、こ さなか わびあ 秋蚕のはきたてにかかりける最中、男手なくして侘合え夜、かれがもとへ金子たのみの文を出す。国子と共に吉 さえぐさ るもさこそと思えば、此地の人の病い少しひま見えば、 原にあそぶ。一々記すことかたし。此日母君三枝を訪 一度ふる郷にかえりて又なす方もあらんなど、かしこに さて 廿五日。晴れ。母君、中之町の伊せ久に、おちよどのを訪 もいと難義の折からなりという。扨はせんなし。 う。仕事のせ話をたのみになり。心よく引うけくれたる この上は西村の方をという。今日上野君来訪されたり。 廿四日。早朝、うす曇り。母君小石川に行く。正午ちかく よしにて、ゆかた一枚持参。これを手みせに、これより は絶えせず世話をなさんといいけるよし。国子、直に仕 まで帰り給わず。問屋より今日荷の来べき約なれば、い たてにかかる。此タベ、国子と共に三間丁に病人の安否 か様にせんと案じわずろう。十二時母君帰宅。西村に まっち て、ととのい難しといいけるよし。かねて道具を引受け をとい、帰路花川戸町、待乳山下、山谷・ほりより日本づ 娶んごさく そのしろ つみをかえる。いぬるまで、国子と共に家の善後策を案 くるる約にて、送り置ける其料二十金がほど、早々とい いけるを、来月までといい延びに成しなれど、かかるい ず。 そぎの折から他に道もなし。五円にてもよし、今直にを このち ゅうよ きんす

4. 現代日本の文学1:二葉亭四迷 樋口一葉 集

172 あんなない おそ さす 「だってえ : ・ あら、彼様に啼てる : : : 」 と、左程畏れた様子もなく、チョコチョコと側へ来て流 なき と、折柄絶入るように啼入る獅の声に、私は我知らず勃石に少し平べったくなりながら、頭を撫でてやる私の手 おツかな おしあ なめまわ 然起上ったが、何だか一人では可怕いような気がして、 を、下からグイグイ推上げるようにして、ペロ・ヘロと舐廻 しきりまる あ つもり 「よう、阿母さん、行って見ようようー」 し、手を呉れる積なのか、頻に円い前足を挙げて・ハタ ' ハタ こ はてやんわ 「本当に仕様がない児だねえ。」 やっていたが、果は和りと痛まぬ程に小指を咬む。 ぼんばりつ くちこごと かわゆ かおみあ と、ロ小言を言い言い、母も渋々起きて、雪洞を点けて私は可愛くて可愛くて堪まらない。母の面を瞻上げなが たちあが あとっ 起上ったから、私も其後に随いて、玄関ーー・と去ってもッら、少し鼻声を出し掛けて、 イ次の間だが、玄関へ出た。 「阿母さん、何か遣って。」 くっぬぎ かきがねはず 母が履脱へ降りて格子戸の掛金を外し、ガラリと雨戸を「遣るも好いけど、居附いて了うと、仕方がないねえ。」 繰ると、ルと夜風が吹込んで、河の火がチラチラと靡と、ロではむような事を言いながら、それでも台所〈 く。其時小さな鞠のような物が衝と軒下を飛退いたようだ行って、欠茶碗に冷飯を盛って、何かの汁を掛けて来て呉 やがんぼり ったが、軈て雪洞の火先が立直って、一道の光がサッと戸れた。 てらし くっぬぎ ちょっとか これあて あまみす 外の暗黒を破り、雨水の処々に溜った地面を一筋細長く照早速履脱へ引入れて之を当がうと、小狗は一寸香を嗅い た で、直ぐ甘そうに先ず・ヒチャビチャと舐出したが、汁が鼻 出した所を見ると、ツィ其処に生後まだ一ヶ月も経たぬ、 な くしやみ いぬころ しっぽ、 むくむくと肥った、赤ちやけた狗児が、小指程の尻尾を千孔へ入ると見えて、時々クシンクシンと小さな嚏をする。 たちま なめ こちらみあ 切れそうに掉立って、此方を瞻上げている。形体は私が寝忽ち汁を舐尽して、今度は飯に掛った。他に争う兄弟も無 しきりこ」と ていて想像したよりも大きかったが、果して全身雨に濡れいのに、切に小言を言いながら、ガッガッと喫ペ出した とかくうわあ・こひッっ しょ・ほたれて、泥だらけになり、だらりと垂れた割合に大が、飯は未だ食慣れぬかして、兎角上顎に引附く。首を掉 ふた って見るが、其様な事では中々取れない。果は前足でロの きい耳から雫を滴し、・ほっちりと両つの眼を青貝のように なら はたひツか 列べて光らせている。 端を引掻くような真似をして、大藻掻きに藻掻く。 「おやおや、まあ、可愛らしい : ・」と、母も覚言 0 此隙に私は母と談判を始めて、今晩一晩泊めて遣 0 て しま て了った。 と、を持 0 た手に振垂る。母は一寸渋 0 たが、もう斯 おとっ いわん 況や私は犬好だ。凝として視ては居られない。母の袖のうなっては仕方がない。阿爺さんに叱られるけれど、と言 くっぬぎ * さんだらうし 下から首を出して、チョッチョッと呼んで見た。 いながら、詰り桟俵法師を捜して来て、履脱の隅に敷いて んと しすくたら たえい ふりた じッ じづら なり むプ ひら なめだ な

5. 現代日本の文学1:二葉亭四迷 樋口一葉 集

落ぶれてそでに涙のかかるとき人の心の奥そしらるると るべしとはおもえども、彼れほどの家に五円、十円の金 かな は、げにいいける言葉哉。たらぬことなき其むかしは、 なき筈はあらず。よし家にあらずとて、友もあり、知 人はたれもたれも情ふかきもの、世はいっとてかわりな人もあり。男の身の、なさんとならば成らぬべきかは。 きものとのみ思いてけるよ。人世之行路難は、人情反ぷ 殊に、母君のかしら下ぐる斗にの給いけるをや。とさま あだ くの間にあるこそいみじけれ。父兄ょにおわしましける こうさまにおもえど、かれは正しく我れに仇せんとなる あだ ひぐち 昔しの人も、ここにかく落ほうれぬる今日の人も、見る べし。よし仇せんとならばあくまでせよ。樋口の家に二 めに何れかわりも覚えざれど、心ざまのいろいろを見れ人残りける娘の、あわれ骨なしか、はらわたなしか。道 ひつじ あだ ば、浮世さながらうつろいぬる様にこそお・ほゆれ。されの前には羊にも成るべし。仇とぎぎて、うしろを見すべ よきしにどころ ばこそ人に義人君子とよばるるは少なく、貞女孝子のま き我にもあらず。虚無のうきょに、好死処あれば事たれ れなるそ道理なる。人は唯、其時々の感情につかわれて り。何そや、釧之助風情が前にかしらを下ぐるべきか 一生をすごすもの成けりな。あわれ、はかなのよゃ。さ は。上に母君おわしますにこそ、何事もやすらかにと願 せんのすけ りとては又哀れのよゃ。かの釧之助が、我家に対して其 いもすれ、此一度のふみを出して、其返事のも様に寄り むかし誠をはこびけるも、昨日今日のつれなき風情も、 てはとおもう処ありけり。 共に其こころのうっしえ成けり。今にもあれ、我が国子廿六日。雨。早朝、西村に手がみを出す。字句っとめてう なかのちょう をゆるさんといわば、手のうらを返さぬほどにそのあしゃうやしく、ひたすらにたのみてやる。母君、中之町へ ひつじよう らいの替りぬべきは必定也。おかしや、うきょのさまざ仕立ものの事につきて参り給う。午後、出来あがりたる まなる。ここには又かかる恋もありけり、其かみは、我をもて又ゆく。我れも母も、今日は例の血の道にてふし かの 家たかく、彼家いやしく、欲より入て我はらからを得ん たり。母君、日没少し前、三間丁に見舞にゆく。あしぎ かたなり 中といい願いけめ。ようよう移りかわりては、かしことみ方成しよし。今日は終日ひややかにして、わた入羽おり のて、我れ貧なるから、恩をきせておしいただかせんとやきる人も見うけたり。 はか 斗りつらむ。夫にもしたがう・ヘき景色の見えぬを、いと つらにくく口おしくおもいて、扨はこたびの事を時機 あはれいかにことしの秋はみにしまむ 礙に、おもいのままにくるしめんとたくらみけるにや。こ すみもならはぬやどのタか・せ は我がおもいやりの深きにて、あるいはさる事もあらざ いづれぞやうきにえたへで入そむる かわ それ なり さて こと はず

6. 現代日本の文学1:二葉亭四迷 樋口一葉 集

亭四迷文学アルバム 圈 右父・吉数 左母・志津 ロ

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185 平凡 話にはなるまいと、財産相応の穏当な案を立てて、私の為 二十四 をも思っていうのは解っているけれど、しかし私は如何し どこ やッ ! り 愈出発の当日となった。待ちに待った其日ではあるけ ても矢張東京へ出て何処かの学校へ入りたい。 ′、りか、え で、親子一つ事を反覆すばかりで何日経っても話の纏まれど、今となっては如何やら一日位は延ばしても好いよう したく 娶ん らぬ中に、同窓の何某はもう二三日前に上京したし、何某な心持になっている中に、支度はズンズン出来て、さて改 ちちはは さかすき つきすえ は此月末に上京するという話も聞く。私は気が気でないかまって父母と別れの杯の真似事をした時には、何だか急に ちが ら、眼の色を異えて、父に逼り、果は血気に任せて、口惜胸が一杯になって不覚ホロリとした。母は固より泣いた、 し紛れに、金がないと言われるけれど、地面を売れば如何快活な父すら目出度い目出度いと言いながら、頻にをし はなか にかなりそうなものだ、それとも私の将来よりも地面の方て涕を拭んでいた。 くるま あつら が大事なら、学資は出して貰わんでも好い、旅費だけ都合誂えの俥が来る。性急の父が先ず狼狽て出して、座敷中 - 」ろ・り うろうろ それ して貰いたい、私は其で上京して苦学生になると、突飛なを彷徨しながら、ソレ、風呂敷包を忘れるな、行李は好い こうもりがさおれ か、小さい方だぞ、コココ蝙蝠傘は己が持ってッてやる、 事を言い出せば、父は其様な事には同意が出来ぬという、 ききわけ それは圧制だ、いや聞分ないというものだと、親子顔を赤と固より見送って呉れる筈なので、自分も一台の俥に乗り つのめだ そば ながら、何は載ったか、何は : : : ソレ、あの、何よ : めて角芽立っ側で、母がおろおろするという騒ぎ。 すこふ 其時私の為には頗る都合の好い事があった。私と同期のと、焦心る程尚お想出せないで、何やら分らぬ手真似をし むしよう 卒業生で父も懇意にする去る家の息子が、何処のも同じ様て独り無上に車上で騒ぐ。 に東京行きを望んで、親にまれて、自暴を起し、或夜窃母も門口まで送って出た。愈俥が出ようとする時、母 まね じっ ありがねぬすみだ に有金を偸出して東京へ出奔すると、続いて二人程其真似は悲しそうに凝と私の面を視て、「じゃ、お前ねえ、カカ おやおや をする者が出たので、同じ様な息子を持った諸方の親々の身体を : : : 」とまでは言い得たが、後が言えないで、涙に 大恐慌となった。父も此一件から急に我を折って、彼方此なった。 わざ つけげんき ごきげん くめんようや かけまわ 方の親類を駈廻った結果、金の工面が漸く出来て、最初は私は故意と附元気の高声で、「御機嫌ようー」と一礼す うしろ そのまままむき ゆる 甚く行悩んだ私の遊学の願も、存外難なく聴されて、にると、俥が出たから、其儘正面になって了ったが何だか後 髪を引かれるようで、俥が横町を出離れる時、一寸後を振 上京する事になった時の嬉しさは今に忘れぬ。 しょんり 向いて見たら、母はまだ門前に悄然と立っていた。 ひど なにがし うれ むこ とっぴ どう なにがし がみ い の どう せつかち かお その

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犬の寝ている側へ寄ってくから、はてな、何をするンだろ 「殺されたかい ? ひとなっ と疑と母の面を視た時には、気息が塞りそうだった。 う、と思って見ていますと、彼様な人懐っこい犬だから、 そいっかお なん しつぼふ 母は一寸躊躇ったようだったが、思切って投出すよう其奴の面を見て、何にも知らずに尻尾を掉ってましたよ。 可哀そうにー普通の者なら、何ぼ何でも其様なにされち おろ わけあい こん 「殺されたとさ : : : 」 や、手を下せた訳合のもんじやございません、 ーーね、今 かけ にち あなた いや、どうも、あ 逸散に駈て来て、ドカッと深い穴へ落ちたら、彼様な気日人情としましても。それを、貴女 : ・ てあい いきなりかく がするだろうと思う。私は然う聞くと、 ( ッと内へ気息をあいう手合に逢っちゃ敵いませんて、卒然匿してた棒を取 はなイら 引いた。と、張詰めて破裂れそうになっていた気がサッと直して、おやッと思う間に、ポンと一つ鼻面を打ちまし むつくり た。そうするとな、お宅のは勃然起きましてな、キリキリ 退いて、何だか奥深い穴のような処へ滅入って行くよう あおむ あたりぼッ で、四辺が濛と暗くなると、母の顔が見えなくなった : と二三遍廻って、・ハタリと倒れると、仰向きになってこう じべたたた よっあしつッ ! 四足を突張りましてな、尻尾で・ハタ・ハタ地面を叩いたの 「炭屋さんが見て来なすッたンだッさ。」 くるし はた という声がふと耳に人ると、クワッとまた其処らが明るは、あれは大方苦がったんでしようが、傍で見ていりや何 あちら あんばい * まるまげ くなって眼の前に丸髷が見える。母は又彼方向いて了った だか喜んで尻尾を掉ったようで、妙な塩梅しきでしたが とこぶ のだ。 な、其処を、貴女、またポカボカと三つ四つ咽喉ン処を打 それつき 「じゃ、木村さん処の前で殺されたんですね ? 」と母の声ちますとな、もう其切りで、ギャッともスウとも声を立て 0 、刀し、つ 得ないで、貴女 : : : 」 「へえ」、という者がある。機械的に其方へ面を向けると、 私はもう後は聴いていなか 0 た。誰を必要もないの ふるなじみ うしろさが かげ 腰障子の蔭に、旧い馴染の炭屋の爺やの、小鼻の脇に大きに、窃と目立たぬように後方へ退って、狐鼠狐鼠と奥へ引 こ はくろ な黒子のある、皺だらけの面が見えて、前歯の二本脱けた込んだ。ペタリと机の前へ坐った。キリキリと二三遍廻っ 間から、チョコチョコ舌を出して饒舌っている声が聞え たという今聞いた話が胸に浮ぶと、そのキリキリと廻った まざまざ ちょうど る。「丁度あの木村さんの前ン処なんで。手前は初めは何ポチの姿が、顕然と目に見えるような気がする。熱い涙が とめど うしろかく こぼ だと思いました。棒を背後へ匿してましたから、遠くで見ほろほろ零れる、手の甲で擦っても擦っても、止度なくほ こぼ 四たんじゃ、ほら、分りませんや。一寸見ると何だか土方のろほろ零れる。 ような奴で、其奴がこう手を背後へ廻しましてな、お宅の じっ かお ためら とこ はちき かお うしろ とこ ちょいと かお かな こそこそ ひっ

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328 たち つれなし 変ものに成もあり、しゃんとせし気性ありて人間の質の正づく思えば無情とても父様は真実のなるに、我れはかなく よ 直なるは、すね者の部類にまぎれて其身に取れば生涯の損成りて宜からぬ名を人の耳に伝えれば、残れる耻は誰が上 もったい わびご おもうべし、上杉のおぬいと言う娘、桂次がの・ほせるだけならず、勿躰なき身の覚悟と心の中に詫言して、どうでも 物、り、 - ら・ そろばん なまなか 容貌も十人なみ少しあがりて、よみ書き十露盤それは小学死なれぬ世に生中目を明きて過ぎんとすれば、人並のうい だけ 校にて学びし丈のことは出来て、我が名にちなめる針仕事事つらい事、さりとは此身に堪えがたし、一生五十年めく とお は袴の仕立までわけなきよし、十歳ばかりの頃までは相応らに成りて終らば事なからんと夫れよりは一筋に母様の御 いたすら まゆね きげん に悪戯もつよく、女にしてはと亡き母親に眉根を寄せさし機嫌、父が気に入るよう一切この身を無いものにして勤む て、ほころびの小言も十分に聞きし物なり、今の母は父親れば家の内なみ風おこらずして、軒ばの松に鶴が来て巣を めかけ さまざまいわ が上役なりし人の隠し妻とやらお妾とやら、種々日くのつくいはせぬか、これを世間の目に何と見るらん、母御は世 きし難物のよしなれども、持ねばならぬ義理ありて引うけ辞上手にて人を外らさぬ甘さあれば、身を無いものにして しにや、それとも父が好みて申受しか、その辺たしかなら闇をたどる娘よりも、一枚あがりて、評判わるからぬや ねど勢力おさおさ女房天下と申ような景色なれば、まま子ら。 たる身のおぬいが此瀬に立ちて泣くは道理なり、もの言え お縫とてもまだ年わかなる身の桂次が親切はうれしから ごと あら ば睨まれ、笑えば怒られ、気を利かせれば小ざかしと云ぬに非ず、親にすら捨てられたらんような我が如きもの どん かたじ ひかえ目にあれば鈍な子と叱かられる、二葉の新芽にを、心にかけて可愛がりて下さるは辱けなき事と思えど 雪霜のふりかかりて、これでも延びるかと押えるような仕も、桂次が思いやりに比べては遙かに落つきて冷やかなる まっす かの 方に、堪えて真直ぐに延びたつ事人間わざには叶うまじ、物なり、おぬいさん我れがいよいよ帰国したと成ったなら 泣いて泣いて泣き尽くして、訴えたい冫 こも父の心は鉄のよば、あなたは何と思うて下さろう、朝夕の手がはぶけて、 うに冷えて、ぬる湯一杯たまわらん情もなきに、まして他厄介が減って、楽になったとお喜びなさろうか、夫れとも おしゃべり 人の誰れにか慨っぺき、月の十日に母さまが御墓まいりを折ふしは彼の話し好きの饒舌のさわがしい人が居なくなっ それぞれ 谷中の寺に楽しみて、しきみ線香夫々の供え物もまだ終らたで、少しは淋しい位に思い出して下さろうか、まあ何と こん ぬに、母さま母さま私を引取って下されと石塔に抱きっき思うてお出なさると此様な事を問いかけるに、仰しやるま こけ て遠慮なき熱涙、苔のしたにて聞かば石もゆるぐべし、井でもなく、どんなに家中が淋しく成りましよう、東京にお 戸がわに手を掛て水をのぞきし事三四度に及びしが、つく出あそばしてさえ、一ト月も下宿に出て入らっしやる頃は にら かね てておや おっ ここ

10. 現代日本の文学1:二葉亭四迷 樋口一葉 集

そうろう 出て来るが宜かろうでは無いか、実に馬鹿馬鹿しいとって郎の母で候と顔おし拭って居る心か、我身ながら我身の辛 は夫れほどの事を今日が日まで黙って居るという事が有り棒がわかりませぬ、もうもうもう私は良人も子も御座んせ わがまま ます物か、余り御前が温順し過るから我儘がつのられたのぬ嫁入せぬ昔しと思えば夫れまで、あの頑是ない太郎の寝 ばかり であろ、聞いた計でも腹が立つ、もうもう退けて居るには顔をめながら置いて来るほどの心になりましたからは、 及びません、身分が何であろうが父もある母もある、年は最う何うでも勇の傍に居る事は出来ませぬ、親はな、くとも おとと いのすけ ゆかねど亥之助という弟もあればその様な火の中にじっと子は育っと言いまするし、私の様な不運の母の手で育つよ ままはは・こ して居るには及ばぬこと、なあ父様一遍勇さんに逢うて十り継母御なり御手かけなり気に適うた人に育てて貰うた たけ かあゆ 分油を取ったら宜う御座りましよと母は猛って前後もかえら、少しは父御も可愛がって後々あの子の為にも成ましょ り見ず。 う、私はもう今宵かぎり何うしても帰る事は致しませぬと てておやさきど 父親は先刻より腕ぐみして目を閉じて有けるが、ああ御て、断っても断てぬ子の可憐さに、奇麗に言えども詞にふ 袋、無茶の事を言うてはならぬ、我しさえ初めて聞いて何るえぬ。 たんそく うした物かと思案にくれる、阿関の事なれば並大底で此様父は歎息して、無理は無い、居愁らくもあろう、困った な事を言い出しそうにもなく、よくよく愁らさに出て来た中に成ったものよと暫時阿関の顔を眺めしが、ル髷に金 くろちりめん と見えるが、して今夜は聟どのは不在か、何か改たまって輪の根を巻きて黒縮緬の羽織何の惜しげもなく、我が娘な の事件でもあってか、しし 、よ、よ離縁するとでも言われて来がら小 9 しか調う奥様風、これをば結び髪に結いかえさ たのかと落ついて問うに、良人は一昨日より家へとては帰せて綿銘仙の半天に襷がけの水仕業さする事いかにして られませぬ、五日六日と家を明けるは平常の事、左のみ珍忍ばるべき、太郎という子もあるものなり、一端の怒りに でぎわ らしいとは思いませぬけれど出際に召物の揃えかたが悪い百年の運を取はずして、人には笑われものとなり、身はい 夜とて如何ほどびても聞入れがなく、其品をば脱いで擲きにしえの斎藤主計が娘に戻らば、泣くとも笑うとも再度原 ああ 三つけて、御自身洋服にめしかえて、吁、私位不仕合の人間田太郎が母とは呼ばるる事成るべきにもあらず、良人に未 はあるまい、御前のような妻を持ったのはと言い捨てに出練は残さずとも我が子の愛の断ちがたくば離れていよいよ て御出で遊ばしました、何という事で御座りましよう一年物をも思うべく、今の苦労を恋しがる心も出ず・ヘし、期く ふしあわせ 三百六十五日物いう事も無く、稀々言われるは此様な情な形よく生れたる身の不幸、不相応の縁につながれて幾らの い詞をかけられて、夫れでも原田の妻と言われたいか、太苦労をさする事と哀れさの増れども、いや阿関こう言うと おとな むこ おせき たまたま ほん ててご かわゆ まさ かの がん