「ねえ、古屋さん、然うだわねえ ? 」 と雪江さんが此方を向いたので、私は吃驚して眼の覚め「もう九時過ぎたでしようよ。」 おそ たような心持になった。何でも何か私の同意を求めている「阿父さんも阿母さんも遅いのねえ。何を為てるンだろ う ? 」と又欠びをして、「ああああ、古屋さんの勉強の邪 のに違いないから、何だか仔細は分らないけれど、 あたし 魔しちゃッた。私もう奥へ行くわ。」 「そうですとも・ : ・ : 」 ちプ ばっ 私が些とも邪魔な事はないといって止めたけれど、最う と跋を合わせる。 斯うなっては留らない、雪江さんは出て行って了う。松も 「そら、御覧な。」 出て行く。私一人になって了った。詰らない : と雪江さんは又松の方を向いて、又話に夢中になる。 ためいき ふと雪江さんの座蒲団が眼にる : : : 之れを見ると、 私はホッと溜息をする。今の続きを其儘にして了うのは いきなりひっさら 惜しい。もう一度幻想でも何でも構わんから、もう一度、何だか捜していた物が看附ったような気がして、卒然引浚 たちあが 今の続きを考えて見たいと思うけれど、もう気が散って其って、急いで起上って雪江さんの跡を追った。 心持になれない。仕方がないから、黙って話を聴いている茶の間の先の暗い処で雪江さんに追付いた。 うッとりふ 中に、又いっしか恍惚とが脱けたようになって、雪江さ「なあに ? : かお ッくり かお んの面が右を向けば、私の面も右を向く。雪江さんの面が と雪江さんの吃驚したような声がして、大方振向いたの 左を向けば、私の面も左を向く。上を向けば、上を向く、 だろう、面の輪廓だけが微白く暗中に見えた。 あなた 下を向けば下を向く・ : 「貴嬢の座布団を持って来たのです。」 ここ 「あ、そうだッけ。忘れちゃッた。爰へ頂戴」、と手を出 三十九 したようだった。 かく パタリと話が休んだ。雪江さんも黙って了う、松も黙っ私は狼狽てて座布団を後へ匿して、 なきごえ いわゆる * て了う。何処でか遠方で犬の啼声が聞える。所謂天使が通「好いです、私が持ってくから。」 いでのび 「あら、何故 ? 」 ったのだ。雪江さんは欠びをしながら、に伸もして、 「何故でも : : : 好いです・ : : こ 「もう何時だろう ? 」 「そう・ : : ・」 「まだ早いです、まだ : : : 」 と何だか変に思った様子だったが、雪江さんは又暗中を と私が狼狽てて無理に早い事にして了う心を松は察しな びつくり かお とま みつか のじろ おッっ
いいぐさおかし う 1 一 てまね 私も高笑いをした。雪江さんの言草が可笑か 0 たばかりす、其度にリポンが飄々と一緒に揺く。塒々は手真似もす じゃない、実は胸に余る嬉しさやら、何やらやら取交ぜる。今朝 0 た束髪がもう大分乱れて、毛が頬を撫でる て高笑いしたのだ。 のを蒼蠅そうに掻上げる手附も好い。其様な時には彼は友 娶ん それから国の話にな 0 て、国の女学生は如何な風をして禅メリンスというものだか、縮だか、私には分らない いるの、英語は何位の程度だの、洋楽は流行るかのと、雪が、何でも赤い模様や黄ろい形が雑然と謝いた華美な襦襷 江さんは其様な事ばかり気にして聞く。私は大事の用を控の袖口から、少し圧味を帯びた、白い、滑こそうな、柔か それどころ あら もちゃ えているのだ。其処じゃないけれど、仕方がないから相手そうな腕が、時とすると二の腕まで露われて、も少し持上 わき になっていると、チョッ、また松の畜生が邪魔に来やがっげたら腋の下が見えそうだと、気を揉んでいる中に、又旧 」 0 の位置に戻って了う。雪江さんは気だけれど、乳の処が ふッくりと持上っている。大方乳首なんぞは薄赤くなって 三十八 るばかりで、有るか無いか分るまい : : なぞと思いなが かえっさし かお 松が来て私はうんざりして了ったが、雪江さんは反て差ら、雪江さんの面ばかり見ていると、いっしか私は現実を むかい ひざ うっとり 向の時よりはずみ出して、果は松の方へ膝を向けて了っ離れて、恍惚となって、雪江さんが何だか私の : : : 妻でも て、松ばかりを相手に話をする。私は居るか居ないか分らない、情人でもない・ : : ・何だか期う其様なような者に思わ とかく んようになって了った。初は少からず不平に思ったが、しれて、兎に角私の物のように思われて、今は斯うして松と かえっこのはう かし雪江さんを観ているのには、反て此方が都合が好い。 いう他人を交ぜて話をしているけれど、今に時刻が来れ で、母屋を貸切って、庇で満足して、雪江さんの白いふッば、二人一緒に斯う奥まった座敷へ行く。と、もう其処に * ぐんない くりした面を飽かず眺めて、二人の話を聴いていると、松床が敷ってある。夜具も郡内か何かだ。私が着物を脱ぐ まけ ねまき も能く饒舌るが、雪江さんも中々負ていない。話は詰らんと、雪江さんが後からフワリと寝衣を着せて呉れる。今晩 しな 事ばかりで、今度開店した小間物屋は安売だけれど品が悪は寒いわねえとか雪江さんがいう。む、む、寒いなあとか ゅうや なか 平いの、お湯屋のお神さんのお腹がまた大ぎくなって来月が私も言って、急いで帯をグルグルと巻いて床へ潜り込む。 ひき 臨月だの、八百屋の猫が児を五疋生んで二疋喰べて了った雪江さんが私の脱棄を畳んでいる。其様な事は虻にし そうだのと、要するに愚にも附かん話ばかりだが、しかして早く来て寝なと私がいう。あいといって雪江さんが私の 雪江さんの様子が好い。物を言う時には絶えず首を揺か面を見て徴笑する : ・ おもや ひさし はじめ にツこり ひらひら ちりめん こ
くッっ し妙のようだが、なに、妙でも何でもない。私は実は雪江て、「期うして居ないと、附着いて了ってよ」、といって皆 を笑わせる。 四さんに惚れていたので。 あさはん それ 惚れては居たが、夫だから雪江さんを如何しようという雪江さんは一ッ橋のさる学校へ通っていたから、朝飯を いっそくはっ 気はなかった。其時分は私もまだ初心だったから、正直に済ませると、急いで支度をして出て行く。髪は常も束髪だ 女に惚れるのは男児の恥辱と心得ていた。女を弄ぶのは何 0 たが、履物はが低いからッて、高い木履を好いて穿い こう・、りがさ 故だか左程の罪悪とも思 0 居なか 0 たが、苟い男児たるていた。紫の包をえて、長い柄の蝙蝠傘を持 0 て出て行 く後姿が私は好くって堪らなかったから、いつも其時刻に 者が女なんそに惚れて性根を失うなどと、そんな腐った、 こんじよう カロは何喰わぬ顔をして部屋の窓から外を見ていると、雪江さ そんなやくざな根性で何が出来ると息巻いていた。・ : で息巻く程には心で思っていなかったから、自分もいっかんは大抵は見られているとは気が附かずに、一寸お尻を撫 くぐ とら それどひんせき 其程に擯斥する恋に囚われて了ったのだが、流石に囚われでてから、髪を壊すまいと、低く屈んで徐と門を潜って出 そ て行くが、時とすると潜る前にヒョイと後を振向いて私と たのを恥て、明かに然うと自認し得なかった気味がある。 から、若其頃誰かが面と向 0 て私に然うと注意したら、私顔を晉合せる事がある。そうすると、雪江さんは奇麗な濕 とう につこり は屹度、失敬な、惚なんぞするものか、と真になって怒並をチラリと見せて、何の意味もなく莞爾する。私は疾か どこ につこり ら出そうな莞爾を顔の何処へか押込めて、強いて真面目を 冫いっか ったに違いない。が、実は惚れたとも髞わぬ中こ、 こら * しだら 自分にも内々で、こッそり、次序なく惚れて了っていたの作っているのだから、雪江さんの笑顔に誘われると、耐え 切れなくな 0 て矢張莞爾する。こうして莞爾に対する それ につこり に莞爾を以てするのを一日の楽みにして、其をせぬ日は何 惚れた証拠には、雪江さんが留守だと、何となく帰りが 待たれる。家に居る時には心が藻脱けて雪江さんの身に添となく物足りなく思っていた。いや、罪の無い話さ。 うてでも居るように、奥と玄関脇と離れていても、雪江さ 三十三 んが、今何の座敷で何をしているかは大抵分る。 雪江さんは宵ッ彊だから、朝は大層眠たがる。阿母さん午後はいつも私が学校へ行った留守に、雪江さんが帰っ かけちが はぎあら ねまきすかた に度々起されて、しどけない寝衣姿で、脛の露わになるのて来るので、掛違って逢わないが、雪江さんは帰ると、直 も気にせず、眠そうな面をしてふらふらと部屋を出て来ぐ琴のお稽古に近所のお師匠さんの処へ行く。私は一度何 て、指の先で無理に眼を押開け、の裏を赤くして見せかで学校が早く終 0 た時、態々廻道をして其前を通って見 ど かお うぶ ねむ どう さすが ひとばし こわ たのし こ′こ しりな
202 あたし - め・こじまい 沙汰がない。唯松ばかり後仕舞で忙しそうで、台所で器物「じゃ、私話して行くわ。奥は一人で淋しいから。」 珍客珍客 ! 之を優待せん法はない。よ、よ、と雪江さ を洗う水の音がポシャポシャと私の部屋へ迄聞える。 つくねん んが掛声をして障子を明けようとするけれど、開かないの 私は部屋で独りランプを眺めて徒然としているようで、 えり 心は中々忙しかった。婚礼に呼ばれて行ったとすると、主を、私は飛んで行ってカ任せにウンと引開けた。何だか領 ま 人夫婦の帰るのには未だ間が有る。帰らぬ中に今一度雪江元からぞくぞくする程嬉しい。 あいにく さんと差向いになりたい。差向いになって何をするのだ生憎と火鉢は私の部屋には無かったけれど、今迄敷いて かく まんなか それ か、それは私にも未だ極らないが、兎に角差向いになりた いた赤ゲットを、四ツに畳んだのを中央へ持出して、其で - ぎたな 、是非なりたい、何か雪江さんの部屋へ行く口実はないも裏反しにして勧めると、遠慮するのか、それともる汚い あいにく か、口実は : : : と藻掻くけれど、生憎口実が第からなと思 0 たのか、敷いて呉れないから、私は黙 0 て部屋を飛 うずうずして独りで焦心ていると、ふと椽側に・ハタリ 出した。雪江さんは後で定めて吃驚していたろうが、私は ・ハタリと足音がする。其足音が玄関へ来る。確かに雪江さ雪江さんの部屋へ座布団を取りに行ったので、是だけは我 とおりこ ひょっと んだ。部屋の前を通越して台所へ行くか、それとも万一障ながら一生の出来だったと思う。 子が開くかと、成行を待っの一にの臓を縮めている席が出来ると、雪江さんが、 あ あなた あたし と、驚破、障子がガタガタと : : : 開きかけて、グッと支え 「貴方、御飯が喰べられて ? 私何・ほ何でも喰べられなか そのまま あんまさッき すきま のぞきこ ったわ、余り先刻詰込んだもんだから。」 たのを其儘にして、雪江さんが隙間から覗込みながら、 はなみ 「勉強 ? 」 と微笑する。時見ても奇麗な歯並だ。 につこり と一寸首を傾げた。これが何を聞く時でも雪江さんの為私も矢張り莞爾して、 みな る癖で、看慣れては居るけれど、私は常も可愛らしいと思「私も喰べられませんでした : : : 」 おおうそ ふたんぎ う。不断着だけれど、荒い縞の着物に瓦の羽織を着て、 大嘘 ! 実は平生の通り五杯喰べたので。 くにうま はす 華美な帯を締めて、障子に撫まって斜に立った姿も何とな雪江さんは国産れでも東京育ちだから、 く目に留まる。 「 : : : にもお芋が有って ? 」 ああ求むる者に与えられたのだ。神よ : : : とししナし 、、こ、よ「有りますとも」 「じゃ、帰っても不自由はないわねえ。」 うな気になって、無論莞爾莞爾となって、 と又微笑する。 いえ : : : まあ、お入ンなさい。」 ま か と にツこり やつば につこり さび あ
190 「そんならお止しなさいな。尋常ので厭なら、何も強いて と阿母さんの方を向く。 買って上げようとは言わないから。」 「え ? 」と阿母さんは雪江さんの面を視て、「あの、何の たちまきげんそこ 「あらー 、刀し 玄関脇の四畳が好かろうと思って。」 ・ : 」と忽ち機嫌を損ねて、「だから阿母さんは きら じき ただ 嫌いよ。直ああだもの。尋常のじゃ厭だって誰も言てやし「あんな処 2 なくってよ。」 と雪江さんが一寸驚くのを、阿母さんが眼に物言わせ て、了解ませて、 「そんなら、其様な不足らしい事おいでない。」 ただ あすこ 「へえへえ、恐れ入りました」、と莞爾して、「じゃ、尋常「彼処が一番明るくッて好いから。」 だま ひッこ のでも好いから、屹度よ。ねえ、阿母さん、欺しちゃ厭「そう、」と一切の意味を面から引込めて、雪江さんは澄 0 して了った。 「おお、そうだっけ」、と阿母さんの奥様は想出したよう 「誰がそんな : : : 」 そのまま につこり に私の方を向いて、「荷物がまだ其儘でしたつけね。今案 「まあ、好かったー」と又莞爾して一寸私の面を見た。 内させますから、彼方へ行って荷物の始末でもなさい。雪 ちょいと 二十八 江、お前一寸案内してお上げ。」 私は先刻から存在を認めていられないようだから、其隙雪江さんが起 0 たから、私も起 0 て其にいて今度は * そく えんがわ に窃そり雪江さんの面を視ていたのだ。雪江さんは私より椽側へ出た。雪江さんは私より脊が低い。ふッくりした束 あれかばいろ はっ も一つ二つ、それとも三つ立年下かも知れないが、お出額髪で、リポンの色はーー、彼は樺色というのか知ら。若い女 うしろすかた にじゅうあご なる椴ど で、円い鼻で、二重顋で、色白で愛嬌が有ると謂えば謂うの姿というものは悪くないものだ。 ようなものの、声程に器量は美くなかった。・ : カ若い女は椽側を後戻りして又玄関へ出ると、成程玄関脇に何だか ひとま 何処となく好くて、私がうツかり面を視ている所を、不意一間ある。 に其面が此方を向いたのだから、私は驚いた。驚いて又俯「此処よ。」 ついそこ む きつみす と雪江さんが衝と其処へんったから、私も続いて中へ入 向いて、膝前一尺通りの処を佶と視据えた。 った。奥様は明るいといったけれど、何だか薄暗い長四畳 雪江さんは又更めて私の様子をジロジロ視ているようだ あしごた っこ・、、 で、入ると・フクッとして変な足応えだったから、先ず下を あかりと 「部屋は何処にするの ? 」 見ると、畳は茶褐色だ。西に明取りの小窓がある。雪江さ こッ かおこちら あらた きっと かお ただ あ し ここ とこ かお かお ま
网 それ しからん事を想って、人知れず其を楽しんで居たのは事実 むなざんよう 茶の間にない。書斎かと思 0 て書斎〈行こうとすると、 だけれど、勧業債券を買った人が当籖せぬ先から胸算用を 椽側の尽頭の雪江さんの部屋で、雪江さんの声で、 ぼうそう する格で、ほんの妄想だ。が、誰も居ぬ留守に、一寸入ら 「誰 ? 」 ッしゃいよ、と手招ぎされて、驚破こそと思う拍子に、自 という。私は思わず立止って、 せんざいいちぐう わたくし 然と体の震い出したのは、即ち武者震いだ。千載一遇の好 「私です。」 はす 「古屋さん ? 」 機会、逸してなるものか、というような気になって、必死 くしと という声と共に、部屋の障子が颯と開いて、雪江さんが になって武者震いを喰止めて、何喰わぬ顔をして、呼ばれ 面だけ出して、 る儘に雪江さんの部屋の前へ行くと、屈んでいた雪江さん むつくりかおあ 「今日は皆留守よ。」 が、其時勃然面を挙げた。見ると、何だか口一杯頬張って 「え ? 」と私は耳が信ぜられなかった。 いて、私の面を見て何だか言う。言う事は能く解らなかっ それ さっき 「阿父さんも阿母さんもね、先刻出懸けてよ。」 たが、側に焼芋が山程盆に載っていたから、夫で察して、 うち 「そうですか」、と何気なく言ったが、内々は何だか急に 礼を言って、一寸躊躇したが、思切って中へって了っ 嬉しくなって来て、 「松は ? 」 雪江さんはお薩が大好物だった。私は好物ではないが、 * ときれ 「松はお湯へ行って未だ帰って来ないの。」 何故だか年中空腹を感じているから、食後だって十切位は しきり あなた 「じゃ、貴嬢お一人 ? 」 してやる男だが、此時ばかりは芋どころでなかった。切に ありがと 「ええ : : : 一寸入らッしゃいよ、此処へ。好い物があるか勧められるけれど、難有う難有うとばかり言ってて、手を 0 出さなかった。何だかもう赫となって、夢中で、何だか霧 てまねぎ どう これ と手招をする。期うなると、松陰先生崇拝の私もガタガにでも包まれたような心持で、是から先は如何なる事や うろうろ タと震い出した。 ら、方角が分らなくなったから、彷徨していると、 「貴方は遠慮深いのねえ。男ッて然う遠慮するもンじゃな 三十六 くッてよ。」 ど ことわ と何にも知らぬ雪江さんが焼芋の盆を突付ける。私は今 前にも断って置いた通り、私は曾て真剣に雪江さんを如 たびたびけ 何かしようと思った事はない。それは決して無い。度々怪其処どころじゃないのだが、手を出さぬ訳にも行かなくな みんな さッあ ここ かっ さっ ちゅうちょ かっ とうせん よ
た事がある。三味線のお師匠さんと違って、琴のお師匠さの、机だの、ガラス戸の箱へ R た大きな人形だの、袋入り くっ 0 ぎ * ばさ なん んの家は格子戸作りでも、履脱に石もあって、何処か上品 の琴だの、写真挾みだの、何だの角だの体裁よく列べてあ きんきよくしなんやませもんじん きちんかたづ だ。入口に琴曲指南山勢門人何とかの何枝と優しい書風でって、留守の中は整然と片附いているけれど、帰って来る そッ のぞ 書いた札が掛けてあった。窃と格子戸の中を覗いて見ると、書物を出放しにしたり、毛糸の球を転がしたりして引 と、赤い鼻緒や海老の鼻緒のすが 0 た奇麗な駒下駄が一 = 散かす。何かに紛れてランプ配りが晩くな 0 た時などは、 ゅうやみ 四足行儀よく並んだ中に、一足紫紺の鼻緒の可愛らしいのもうタ闇が隅々へ行渡って薄暗くなった此の部屋の中に、 ぼんやりおづえっ が片隅に遠慮して小さく脱棄ててある。之を見違えてなる机に茫然頬杖を杖いてる雪江さんの眼鼻の定かならぬ顔 とりつくろ まるまるはのじろ ものか、雪江さんのだ。大方駒下駄の主も奥の座敷に取繕が、唯円々と微白く見える。何となく詩的だ。 ってチンと澄しているに違ないと思うと、そのチンと澄し「晩くなりました。」 あいにくしようじたてき ている処が一目なりと見たくなったが、生憎障子が閉切っ とぶつきら・ほうの私も雪江さんだけには言いつけぬお世 じきそっ てあるので、外からは見えない。唯琴の音がするばかり辞も不覚出て、机の上の毛糸のランプ敷へ窃とランプを載 だ。稽古琴だから騒々しいばかりで趣は無いけれど、それせると でも琴は何処か床しい。雪江さんは近頃大分上手になった しいえ、まだ要らないわ。」 すま けれど、雪江さんではないようだ。大方まだ済ないンだろ雪江さんは屹度斯ういう。これが伯父さんの先生でも有 とん てまわし う、なそと思いながら、うツかり覗いていたが、ふッと気ろうものなら、ロを尖がらかして、「もッと手廻して早う こ さっき そば うち が附くと、先刻から側で何処かの八ッばかりの男の児が、 せにや下 ! 」と来る所だ。大した相違だ。だから、家で あおばなすす 青洟を啜り吸り、不思議そうに私の面を瞻上げている。子人間らしいのは雪江さんばかりだと言うのだ。 そこそこ そのまま 供でも極りが悪くなって、匇々に其処の門口を離れて帰っ其儘出て来るのが、何だか飽気なくて、 あなた て来た事も有ったつけが : 「今日貴嬢の琴のお師匠さんの前を通りました。一寸好い ごた」た 夕方は何だか混雑して落着かぬ中にも、一寸好いが一家ですね。」 平つある。ランプ掃除は下女の役だが、夕方之に火を点けて「あら、そう」、と雪江さんがいう。心持首を傾げて、「何 座敷座敷へ配るのは私の役だ。其時だけは私は公然雪江さ時頃 ? 」 んの部屋へ入る権利がある。雪江さんの部屋は奥の四畳半「そうさなあ : : : 四時ごろでしたか。」 あたし で、便所の側だけれど、一寸小奇麗な好い部屋だ。本箱だ 「じゃ、私の行ってた時だわねえ。」 ぬぎす らがい しこん かおみあ なにえ ちょっと やさ っ だしーな あっけ たま おそ の ひっ
198 うつむ と、「古屋さん、これ何になると思って ? 」と編掛けを翳 「ええ」、と私は何だか極りが悪くなって俯向いて了う。 らよく 此話が発展したら、如何な面白い話になるのだか分らんして見せる。私が見たんじゃ、何だか円い変なお猪ロのよ あたり あいにく のだけれど、其様な時に限って生憎と、茶の間辺で伯母さうな物で、何になるのだか見当が附かないから、分らない 熟考の上、 というと、でも、まあ、当てて見ろという。 んの奥さんの意地悪が私を呼ぶ、 かぶり きんちゃく いえ」、と頭振を振る。 「古屋さんー早くランプを : : : 何を愚図愚図してるンだ「巾着でしよう ? 」というと、「い 巾着でないとすると、手袋には小さし、靴下でもなさそう ろうねえ。」 つもり においぶくろ すぼし それき 残惜しいけれど、仕方がない。其切りで私は雪江さんのだし、「ああ、分ったー匂袋だ」、と図星を言った積でい びつくり うと、雪江さんは吃驚して、「まあ、可厭だー匂袋だな 部屋を出て了う。 んそッて : : : 其様な物は編物にゃなくッてよ。」匂袋でも 三十四 ないとすると、もう私には分らない。降参して了うと、雪 につこり 一番楽しみなのは日曜だ。それも天気だと、朝から客が江さんは莞爾ともしないで、「これ、人形の手袋。」 まわ たてこ 立込んで私は目が眩る程忙しいし、雪江さんもお友達が遊雪江さんは一つ事を何時迄もしているのは大嫌いだか びに来たり、お友達の処へ遊びに行ったりして、私の事なら、私がまだ自分の部屋の長四畳へ帰るか帰らぬ中に、も さら くそ なかんすく んそ忘れているから、天気は糞だ。雨降りに限る。就中伯う編物を止めて琴を浚っている。近頃では最うボコンのペ どう 父さんの先生は何か余儀ない用事があって朝から留守、雪コンでも無くなった斯うして聴いていると、如何しても きき うち 琴に違いないと、感心して聴惚れていると、十分と経たぬ 江さんは一日家、という雨降の日が一番好い それ ひっかきまわ きっとおもいきっ 其様な日には雪江さんは屹度思切て朝寝坊をして、私な中に、ジャカジャカジャンと引掻廻すような音がして、其 ぎり そろそろ んそは徐々昼飯が恋しくなる時分に、漸う起きて来る。顔切・ ( タリと、琴の音は止む : : : ともう茶の間で若い賑かな それ を洗って、御飯を喰べて、其から長いこと掛って髪を結雪江さんの声が聞える。 たちま えんがわか 忽ちドタドタドタと椽側を駈けて来る音がする。下女の う。結い了う頃は最う午砲だけれど、お昼はお腹が満くて あたしょ 松に違いない。後から・ ( タ・ ( タと追けて来るのは、雪江 喰べられない。「私廃してよ」、という。 どう * つづきもの 部屋で机の前で今日の新聞を一寸読む。大抵続物だけさんに極ってる。玄関で追付いて、何を如何するのだか、 だ。それから編棒と毛糸の球を持出して、暫くは 0 て辧キャッキャッと騒ぐ。松が敵わなくな 0 て、私の部屋の前 切と編物をしている。私が用が有 0 て部屋の前でも通るを駈脱けて台所〈逃込む。雪江さんが後から追けて行 0 のこりお なか くち
192 大に落着いて後から出て行く。 「勧工場ッて ? 」 「あら、勧工場を知らないの ? まあー 主人の帰りとは私にも覚れたから、急いで起ち上って・ : びッくり のぞ と雪江さんは吃驚したをして、突然破裂したように笑 : ・窃そり窓から覗いて見た。 ちょうどくぐ っぽくち い出した。娘というものは壺口をして、気取って、オホホ帰った人は丁度潜りを潜る所で、まず黒の山高帽がヌッ しま と笑うものとばかり思ってる人は訂正なさい。雪江さんは と入って、続いて縞のズボンに靴の先がチラリと見えたか あ ひけづらむッくり 娘だけれど、ロを一杯に開いて、アハハア ハハと笑うのと思うと、渋紙色した髭面が勃然仰向いたから、急いで首 あおむ ) つむ ひッこ だ。初め一寸仰向いて笑って、それから俯向いて、身を揉を引込めたけれど、間に合わなかった。見附かッちゃッ んで、胸を叩いて苦しがって笑うのだ。私は真にな 0 てた。 ちょうちょう 黙っていた。 お帰り遊ばせお帰り遊ばせ、と口々に喋々しく言う声が さっき ようや * 先刻取次に出た女は其後慚く下女と感付いたが、此時障玄関でした。奥様ーーも何だか変だ、雪江さんの阿母さん の声で何か言うと、ふう、そうか、ふうふう、という声は 子の蔭からヒ ' 0 リおルのような笑面を出して、 主人に違いない。私の話に違いない。 「何を其様に笑ってらッしやるの ? 」 「だって : : : アハ 悪い事をした、窓からなんそ覗くんじゃなかったと、閉 ・古屋さんが : : : アハハ / ー ロしている所へ下女が呼びに来て、愈閉ロしたが、仕方 ちょいとこりかたどう 「あら、一寸、此方が如何かなすったの ? 」 かない。どうせ志を立てて郷関を出た男児だ、人間だ到る め そう 無礼者奴がズカズカ部屋へ入って来た、而して雪江さん処で極りの悪い想いする、と腹を据えて奥へ行って見る ちっ の笑いが止らないで、些とも要領を得ない癖に、訳も分らと、もう帰った人は和服に着易えて、曾て雪江さんの阿母 ずに、一緒になってゲラゲラ笑う。 さんが占領していた厚蒲団に坐っている。私は誰でも逢い きっとまっ 其時ガラガラという車の音が門前に止って、ガラッと門 つけぬ人に逢うと、屹度真圧になる癖がある。で、此時も あ しばらく が開くと同時に、大きな声で、威勢よく、 真紅になって、一度国で逢った人だから、久濶といって例 「お帰りツー」 の通り倒さになると、先方は心持首を動かして、若し声に 形勢はに一変した。下女は急に真面目にな 0 て、雪江腰が有るなら、その腰と思う辺に力を入れて、「はい」と よろ さんを棄てて置いて、急いで出て行く。 いう。父も母も宜しく申しましたというと、又「はい」と なみだ 雪江さんもまだ可笑がりながら泪を拭き拭き、それでも いう。何卒何分願いますというと、一段声を張揚げて、 そんな こっ どうぞ かっ
205 平凡 動き出す。恥で鰹くは分らないけれど、其姿が見えるよが何気なく下から瞻上げる。 さぐりあし うだ。私も跡から探足で行く。何だか気が焦る。今だ、今私はわなわなと震い出した。目が見えなくなった。胸の こどう わめ すく だ、と頭の何処かで喚く声がする。如何か為なきゃならん鼓動は脳へまで響く。息が逸んで、足が竦んで、もう凝と ような気がして、むずむずするけれど、何だか可怕くて如してられない。抱付くか、逃出すか、二つ一つだ。で、 何も出来ない。咽喉が乾いて引付きそうで、思わずグビリ私は後の方針を執って、物をも言わず卒然雪江さんの部屋 かたす と、段々明るくなって、雪江さんのを逃出して了った と堅崕呑んだ・ : 姿が然明るみに浮出す。もう雪江さんの部屋の前へ来 四十 て、雪江さんの姿は衝と障子の判へ入って了った。 あのとき 其を見ると、私は萎靡した。惜しいような気のする一方何故彼時私は雪江さんの部屋を逃出したのだというと、 おそ 非常に怕ろしかったからだ。何が怕ろしかったのか分らな で、何故だか、まず好かったと安心した気味もあった。 おそ ただ いが、唯何がなしに非常に怕ろしかったのだ。 で、続いて中へ入って、持って来た座布団を机の前に敷い おそ そこ て、其処を退くと、雪江さんは礼を言いながら、入替わっ生死の間に一線を劃して、人は之を越えるのを畏れる。 て机の前に坐って、 必ずしも死を忌むからではない。死は止むを得ぬと観念し あす 「遊んでらっしゃいな。」 ても、唯此一線が怕ろしくて越えられんのだ。私の逃出し もじもじ やッばり と私の面を瞻上げた。ええとか、何とかいって踟してたのが矢張それだ。女を知らぬ前と知った後との分界線を いる私の姿を、雪江さんはジロジロ視ていたが、 俗に皮切りという。私は性慾に駆られて此線の手前迄来 こっち よっにど 「まあ、貴方は此地へ来てから、余程大きくなったのねて、これさえ越えれば望む所の性慾の満足を得られると思 あたし きっと え。今じや私とは屹度一尺から違ってよ。」 いながら、此線が怕ろしくて越えられなかったのだ。越え たくなくて越えなかったのではなくて、越えたくても越え 「まさか : : : 」 「あら : : : 屹度違うわ。一寸然うしてらッしゃいよ : : : 」られなかったのだ。其後幾年か経って再び之を越えんとし いた やッばり といいながら、衝と起ったから、何を為るのかと思ったた時にも矢張怕ろしかったが、其時は酒の力を藉りて、半 きちがい ようや ひたむきあ ら、ツカッカと私の前へ来て直と向合った。前髪が顋に触狂気になって、慚く此怕ろしい線を踏越した。踏越してか れそうだ。とい匂が鼻を衝く。 ら酔が醒めると何とも言えぬ厭な心持になったから、又酒 わすか 「ね、ほら、一尺は違うでしよう ? 」と愛度気ない白い面の力を藉りて強いて纔に其不愉快を忘れていた。此様な厭 、つかり どう あどけ こわ かお さ し ふみこ