134 ああ、でも、野百合のように可憐であったあの可愛い 姿、きめの柔かい桃色の肌、黒髪、あの女はまだ処女だっ たのに。何だって、最初のペ工ゼをそんな浮世のポオフラ のような男にくれてしまったのだろう : 。愛らしい首を 曲げて、春は心のかわたれに : : : 私に唄ってくれたあの少 のろ 女が、四十二の男よ呪われてあれだ ! 「林さん書留ですよッ ! 」 珍らしく元気のい 小母さんの声に、梯子段に置いてあ る封筒をとり上げると、時事の白木さんからの書留だった。 金二十三円也 ! 童話の稿料だった。当分ひもじいめをし ないでもすむ。胸がはずむ、ああうれしい。神さま、あん まり幸福なせいか、かえって淋しくて仕様がない。神様神 ( 一月 x 日 ) あいぼう 様、嬉しがってくれる相棒が四十二の男に抱かれているな 雪空。 んて : どんな事をしてでも島へ行ってこなくてはいけない。島 へ行ってあのひとと会って来よう。 白木さんのいつものやさしい手紙がはいっている。いっ 「こっちが落目になったけん、馬鹿にしとるとじやろ。」 ごふんとうごせいれい も言う事ですが、元気で御奮闘御精励を祈りまつる。 私が一人で島へ行く事をお母さんは賛成をしていない。 私は窓をいつばいあけて、上野の鐘を聞いた。晩はおいし「じやア、今度島へお母さん達が行くときには連れて行っ い寿司でも食べましよう。 て下さい。どうしても会って話して来たいもの : : : 」 私に「サーニン」を送ってよこして、恋を教えてくれた 男じゃないか、東京へ初めて連れて行ったのもあの男、信 第二部 じていていいと言ったあのひとの言葉が胸に来る。ーーー波 止場には船がついたのか、低い雲の上に、船の煙がたなび いていた。汐が胸の中で大きくふくらむ。 ( 一月 x 日 ) うれ はだ うた 小わ 私は野原へはふり出された赤いマリ 力強い風が吹けば 大空高く わしごと 鷲の如く飛びあがる たた おゝ風よ叩け 燃えるやうな空氣をはらんで おゝ風よ早く たた 赤いマリの私を叩いてくれ かあ
と言う長い手紙だ。寒さには耐えられないお父さん、どうしようと思う。夢の中からでも聞えて来るような小屋の中 しても四五十円は送ってあげなければならぬ。少し働いたの楽隊。あんまり自分が若すぎて、私はな・せかやけくそに ら、私も北海道へ渡って、お父さん達といっそ行商してまあいそがっきて腹をたててしまうのだ。 早く年をとって、年をとる事はいいじゃないの。酒に酔 わってみようかしらとも思う。おでん屋の屋台に首を突っ だ、どうさるしば いつぶれている自分をふいと反省すると、大道の猿芝居じ 込んで、箸につみれを突きさした初ちゃんが店の灯を消し て一生懸命茶飯をたべていた。私も興奮した後のふるえをやないけれど全く頬かぶりをして歩きたくなってくる。 鎮めながら、エプロンを君ちゃんにはずしてもらうと、お浅草は酒を呑むによいところ。浅草は酒にさめてもよい さかな ところだ。一杯五銭の甘酒、一杯五銭のしる粉、一串二銭 でんを肴に、酒を一本つけて貰った。 : ちそう の焼鳥は何と肩のはらない御馳走だろう。金魚のように風 に吹かれている芝居小屋の旗をみていると、その旗の中に はかって私を愛した男の名もさらされている。わっは、わ ( 十一一月 x 日 ) ちょうしよう ところ つは、あのいつもの声で私を嘲笑している。さあ皆さん御 浅草はいい処だ。 。テンボの早い灯のきげんよう。何年ふりかで見上ける夜空の寒いこと、私の 浅草はいっ来てもよいところだ : 中をグルリ、グルリ、私は放浪のカチ、ウシャです。長い肩掛は人絹がまじっているのでございます。他人が肩に手 をかけたように、スイスイと肌に風が通りますのよ。 ことクリームを塗らない顔は瀬戸物のように固くなって、 安酒に酔った私は誰にもおそろしいものがない。ああ一人 の酔いどれ女でございます。酒に酔えば泣きじようご、痺 ( 十二月 x 日 ) れて手も足もばらばらになってしまいそうなこの気持ちの朝の寝床の中でまず煙草をくゆらす事は淋しがりやの女 記すさまじさ : : : 酒でも呑まなければあんまり世間は馬鹿らにとっては此上もないなぐさめなのです。ゆらりゆらり輪 たの てんとう 浪しくて、まともな顔をしては通れない。あの人が外に女がを描いて浮いてゆくむらさき色のけむりは愉しい。お天陽 んとう 放出来たと言って、それがいったい何でしよう。真実は悲し様の光りを頭いつばい浴びて、さて今日はいい事がありま いのだけれど、酒は広い世間を知らんと言う。町の灯がふすように : : : 。赤だの黒だの桃色だの黄いろだのの、疲れ っと切れて暗くなると、活動小屋の壁に歪んだ顔をくつった着物を三畳の部屋いつばいぬぎちらして、女一人のきや けて、荒さんだ顔を見ていると、あああすから私は勉強をすさに、うつらうつら私はひだまりの亀の子のようだ。カ しび たばこ はだ かめ さび
松田さんが、妙に大きいセキをしながら窓の下を通っ の手数料を五十銭にまけてもらって公園に行った。今にも ペンチの浮浪人達は、 たとおもうと、台所からはいって来て声をかける。 雪の降って来そうな空模様なのに、 いびき いま肉を買 朗かな鼾声をあげて眠っている。西郷さんの銅像も浪人戦「もう御飯ですか、少し待っていらっしゃい あなた 争の遺物だ。貴方と私は同じ郷里なのですよ。鹿児島が恋って来たんですよ。」 しろやま 松田さんも私と同じ自炊生活である。仲々しまった人ら しいとはお思いになりませんか。霧島山が、桜島が、城山 しい。石油コンロで、ジ : : : と肉を煮る匂いが、切なく口 が、熱いお茶にカルカンの甘味しい頃ですね。 貴方も私も寒そうだ。 を濡らす。「済みませんが、此葱切ってくれませんか。」昨 夜、無断で人の部屋の机の引き出しを開けて、金包みを入 貴方も私も貧乏だ。 れておいたくせに、そうして、たった十円ばかりの金を貸 昼から工場に出る。生きるは辛し。 なれなれ して、もう馴々しく、人に葱を刻ませようとしている。こ ずうずう んな人間に図々しくされると一番たまらない : 遠くで ( 十二月 x 日 ) 昨夜、机の引き出しに入れてあった松田さんの心づく餅をつく勇ましい音が聞えている。私は沈黙ってポリポリ しおづけか なんじ し。払えばいいのだ、借りておこうかしら、弱き者よ汝の大根の塩漬を噛んでいたけれど、台所の方でも侘しそう に、コッコッ葱を刻み出しているようだった。「ああ刻ん 名は貧乏なり。 であげましよう。」沈黙っているにはしのびない悲しさで、 家にかへる時間となるを ほうちょう 障子を開けて、私は松田さんの庖丁を取った。 たゞ一つ待っことにして 今日も働けり。 「昨夜はありがとう、五円を小母さんに払って、五円残っ たくぼく 啄木はこんなに楽しそうに家にかえる事を歌っているけてますから、五円お返ししときますわ。」 あか れど、私は工場から帰ると棒のようにつつばった足を二畳松田さんは沈黙って竹の皮から滴るように紅い肉片を取 なべ いつばいに延ばして、大きなアクビをしているのだ。それって鍋に入れていた。ふと見上げた 4 んだ松田さんの顔 がたった一つの楽しさなのだ。二寸ばかりのキュウビーをに、小さい涙が一滴光っている。奥では弄花が始まったの ちやわんたな 一つごまかして来て、茶碗の棚の上にのせて見る。私の描か、小母さんの、いつものヒステリー声がビンビン天井をつ いた眼、私の描いた羽根、私が生んだキュウ・ヒーさん、冷き抜けて行く。松田さんは沈黙ったまま米を磨ぎ出した。 めしみそしる 飯に味噌汁をザクザクかけてかき込む淋しい夜食です。 「アラ、御飯はまだ炊かなかったんですか。」 さび ひや このねき したた
屋のにぶい声を聞いていると、妙に淋しくなってしまっ ( 十月 x 日 ) て、暗い部屋の中に私は一人でじっと窓を見ている。私は風が吹いている。 小さい時から、冬になりかけるとよく歯が痛んだものだ。 夜明近く水色の細い蛇が、スイスイと地を這っている夢 こしひも まだ母親に甘えている時は、畳にごろごろして泣き叫び、 を見た。それにとき色の腰紐が結ばれていて、妙に起ると ビタビタと梅干を顔一杯塗って貰っては、しやっくりをしきから胸さわぎがして仕方がない。素敵に楽しい事がある て泣いている私だった。だが、ようやく人生も半ば近くに ような気がする。朝の掃除がすんで、じっと鏡を見ている あお 達し、旅の空の、こうした侘しいカフ = ーの二階に、歯をと、蒼くむくんだ顔は、生活に疲れ荒さんで、私はああと ためいき っ 病んで寝ていると、じき故郷の野や山や海や、別れた人達長い溜息をついた。鱸の中にでもはいってしまいたか みそしる しな の顔を思い出してくる。 た。今朝も泥のような味噌汁と残り飯かと思うと、支那そ 水っ・ほい眼を向けてお話をする神様は、歪んだ窓外の飄ばでも食べたいなあと思う。私は何も塗らないぼんやりと いらいら くちびるあかあか 飄としたあのお月様ばかりだ : した自分の顔を見ていると、急に焦々してきて、唇に紅々 とべにを引いてみた。 あの人はどうしているかしら、 「まだ痛む ? 」 切れ掛った鎖をそっと撫もうとしたけれども、お前達はや なみき そっと上って来たお君さんの大きいひさし髮が、月の光っぱり風景の中の並樹だよ : : : 神経衰弱になったのか、何 りで、くらく私の上におおいかぶさる。今朝から何も食べ枚も皿を持つ事が恐ろしくなっている。 ない私の鼻穴に、・フンと海苔の香をただよわせて、お君さ のれん越しにすがすがしい三和土の上の盛塩を見ている んは枕元に寿司皿を置いた。そして黙って、私の目を見てと、女学生の群に蹴飛ばされて、さっと散っては山がずる いた。優しい心づかいだと思う。わけもなく、涙がにじんずるとひくくなって行っている。私が此家に来て丁度二週 ほうば、 記できて、薄い蒲団の下から財布を出すと、君ちゃんは、 間になる。もらいはかなりあるのだ。朋輩が二人。お初ち たた 浪「馬鹿ね ! 」と、厚紙でも叩くような軽い痛さで、お君さやんと言う女は、名のように初々しくて、銀杏返のよく似 すそ 合うほんとに可愛い娘だった。 放んは、ポンと私の手を打った。そして、蒲団の裾をジタジ らばー ) ・こ よっや タとおさえて、そっと又、裏梯子を降りて行くのだ。ああ「私は四谷で生れたのだけれど、十二の時、よその小父さ なっかしい世界である。 んに連れられて、満洲にさらわれて行ったのよ。私芸者屋 にじき売られたから、その小父さんの顔もじき忘れっちま のり わび けと たたき
198 、・ハアニテイケースをくれた男があったけれでおちこんでしまっていたのだ。誰かに甘えて、私もおし に安ものの えんらく ど、あの男にでも金をかりようかしらと思う。 る粉を一緒に食・ヘる人をさがしたいものだ。四人は、燕楽 「あああの人 ? あの人ならいいわ、ゆみちゃんに参って軒の横の坂をおりて、梅園と言う待合のようなおしる粉屋 いたんだから : : : 」 へはいる。黒い卓子について、つまみのしその実を噛んで ハガキを出してみる、神様 ! こんな事が悪い事だとお いると、ああ腹いつばいに茶づけが食べてみたいと思っ 叱り下さいますな。 た。しる粉屋を出ると、青年と別れて私達三人は、小石川 さんこう の紅梅亭と言う寄席に行った。賀々寿々の新内と、三好の 酔っぱらいに一寸涙ぐましくなっていい気持ちであった。 ( 二月 x 日 ) 思いあまって、夜、森川町の秋声氏のお宅に行ってみ少しばかりの金があれば、こんなにも楽しい思いが出来る しゆくじよ うそ た。国へ帰るのだと嘘を言って金を借りるより仕方がなのだ。まさか紳士と淑女に連れそって来た私が、お茶づけ とぎばなし 。自分の原稿なんか、頼む事はあんまりはずかしい気持を腹いつばい食いたい事にお伽噺のような空想を抱いてい いったい誰が思っているだろう。順子さんは寄席も ちがするし、レモンを輪切りにしたような電気ストーヴがると、 赤く愉しく燃えていて、部屋の中の暖かさは、私の心と五退屈したと言う。三人は細かな雨の降る肴町の裏通りを歩 していた。 百里位は離れている。犀と言う雑誌の同人だと言う、若い 青年がはいって来た。名前を紹介されたけれども、秋声氏「ね、先生 ! 私こんどの xx の小説の題をなんてつけま ちょうだい の声が小さかったので聞きとれなかった。金の話も結局駄しよう ? 考えて見て頂戴な。流れるままには少しチン。フ はな 目になって、後で這入って来た順子さんの華やかな笑い声だから : : : 」 に押されて、青年と私と秋声氏と順子さんと四人は戸外に順子さんがこんな事を言った、団子坂のエビスで紅茶を 散歩に出て行った。 呑んでいると、順子さんは、寒いから、何か寄鍋でもつつ 「ね、先生 ! おしるこでも食べましようよ。」 きたいと言う。 順子さんが夜会巻き風な髪に手をかざして、秋声氏の細「あなた、・ とこか美味いところ知ってらっしやる ? 」 くさり もた い肩に凭れて歩いている。私の心は鎖につながれた犬のよ 秋声氏は子供のように目をしばしばさせて、そうねとお うな感じがしないでもなかったけれど、非常に腹がすいてっしやったきりだった。やがて、私は、お二人に別れた。 こぬかあめ いたし、甘いものへの私の食慾はあさましく大の感じにまニ人に別れて、やがて小糠雨を羽織に浴びながら、団子坂 しか たの よせ ちょっと テーイル おいし さかな よせなべ
174 めかけ 「お君さんの弟かい ! 」 給を妾に引き入れてみたり、家の中は一人の男をめぐっ て、彼女に妾に養母さんと言った不思議な生活だった。彼船乗り上りの年をとったコックが、煙草を吸いながら、 女は、「私、本当に目をおおいたくなる時があってよ。」と子供をみていた。 「ええ私の子供なのよ : : : 」 涙ぐむ時がある。どんなにされても、一人の子供の為めに いくつだい ? よく一人で来られたね。」 働いているお君さんの事を考えると、私の苦しみなんて、 彼女から言えばコッケイな話かも知れない。 歯の皓い少年は、沈黙って侘し気に笑っていた。私たち 三人は手をつなぎあって波止場の山下公園の方へ行ってみ 「電気を消して下さい ! 」 ていはく きっすいせん 独逸人はしまり屋だと言うけれど、マダム・ロアが水色る。赤い吃水線の見える船が、沖にいくつも碇泊してい のぞ あお の夜の着物を着て私達の部屋を覗きにくるのだ。電気の消た。インド人が二人、呆んやり沖を見ている。蒼い四月の とぎ えたせまい部屋の中で、私はまるでお伽話のような蛙の声海は、西瓜のような青い粉をふいて光っていた。 を聞いた。東京の生活の事、お母さんの事、これからさき「ホラ ! お船だよ、よく見ておおき、あれで外国へ行く の事、なかなか眠れない。 んだよ。あれは起重機ね、荷物が空へ上って行ったろう。」 お君さんの説明をきいて、板チョコを頬ばりながら、子 供はかすんだような嬉しい眼をして海を見ている。桟橋か ( 四月 x 日 ) 九つになるお君さんの上の子供が一人でお君さんをたずら下を見ると深い水の色がきれいで、ずるずると足を引っ ねて来た。港では船がはいって来たのか、自動車がしつきばられそうだった。波止場には草屋だの、両替店、待合 所、なんかが並んでいる。 りなしに店の前を走って行く。 「母さん、僕、水のみたい。」 朝。 ひざ小僧を出したお君さんの子供が、白い待合所の水道 マダム・ロアは裏のペンキのはげたポーチで編物をして たもと ちょっと いた。「お菊さんに店をたのんで一寸波止場へ行ってみなの方へ走って行くと、お君さんは袂からハンカチを出して 子供に見せたいのよ。」冷たいス 1 プを呑んでいる子供のそばへ歩いて行く。 私ので、お君さんは長い針を動かせて、子供の肩上げを「さあ、これでお顔をおふきなさい。」 たくし上げては縫ってやっていた。 ああ何と言う美しい風景だろう、その美しい母子風景 かえる しろ だま うれ わび はお
べっていた。ああこんなにも生きる事はむずかしいものなをうたっていた。沈鐘の唄もうたった。なっかしい尾道の こんばい のか : : : 私は身も心も困憊しきっている。潮臭い蒲団はま海はこんなに波が荒くなかった。二人でかぶったマントの たた るで、魚の腸のようにズルズルに汚れていた。風が海を叩中で、マッチをすりあわして、お互に見あった顔、あっけ べつり ついらく いて、波音が高い。 ない別離だった。一直線に墜落した女よ ! と言う最後の たよりを受取ってもう七年にもなる。あの男は、ビカソの からつばの女は私でございます。 ・ : 生きてゆく才もな画を論じ、槐多の詩を愛していた。私は頭を殴りつけてい ければ、生きてゆく富もなければ、生きてゆく美しさもなる強い手の痛さを感じた。どっかで三味線の音がしてい い。さて残ったものは血の気の多い体ばかりだ。私は退屈る。私は然とり、いつまでも口笛を吹いていた。 すると、片方の足を曲げて、鶴のようにキリキリと座敷の 中をまわってみる。長い事文字に親しまない目には、御一 ( 一月 x 日 ) 泊一円よりと壁に張られた文句をひろい読みするばかりだ さあ ! 素手でなにもかもやりなおしだ。市の職業紹介 てんま っこ 0 所の門を出ると、天満行きの電車に乗った。紹介された先 夕方から雪が降って来た。あっちをむいても、こっちをは毛布の問屋で、私は女学校卒業の女事務員です。どんよ まちなみなが むいても旅の空なり。もいちど四国の古里へ逆もどりしより走る街並を眺めながら私は大阪も面白いと思った。誰も うかとも思う。とても淋しい宿だ。「古創や恋のマントに知らない土地で働く事もいいだろう。枯れた河岸の柳の木 たの むかひ酒」お酒でも愉しんでじっとしていたい晩なり。た が、腰をもみながら大風にゆれている。 った一枚のハガキをみつめて、いっからか覚えた俳句をか毛布問屋は案外大きい店だった。奥行の深い 間ロの広 い ~ ・つ きなぐりながら、東京の沢山の友達を思い浮べていた。皆いその店は、何だか貝殻のように暗くて、働いている七八人 あお 記どのひとも自分に忙がしい人ばかりの顔だ。 の店員達は病的に蒼い顔をして忙がしく立ち働いていた。 浪汽笛の音を聞いていると、私は窓を引きあけて雪の夜の随分長い廊下だった。何もかもビカ・ヒカと手入れの行きと 放沈んだ港をながめている。胥い灯をともした船がいくつもどいた、大阪人らしいこのみのこぢんまりした座敷に、私 ねむっている。お前も私もヴァガポンド。雪が降ってい は初めて老いた女主人と向きあって坐った。 る。考えても見た事もない、遠くに去った初恋の男が急に うた 「諌京からどうしてこ 0 ちへお出やしたん ? 」 ちょっと 恋しくなって来た。こんな夜だった。あの男は城ヶ島の唄出鱈目の原籍を東京にしてしまった私は、一寸どう言っ はらわた つる よご ふるき ふとん * ちんしよう しやみせん まぐち
170 プチプチ音をたててゐるではないか 逃げたランチは とあみ 投網のやうに擴がった巡警の船に横切られてしまふと さてもこの小さな島の群れた職工達と逃げたランチの 間は ただ 只一筋の白い水煙に消されてしまふ。 齒を噛み額を地にすりつけても 空はーー・昨日も今日も變りのない平凡な雲の流れだ そこで頭のもげさうな狂人になった職工達は 波に呼びかけ海に吠え うず なだ ドックの破船の中に渦をまいて雪崩れていった。 潮鳴の音を聞いたか ! きようかん 遠い波の叫喚を聞いたか ! 旗を振れツー うんと空高く旗を振れッ 元気な若者達が はだ 光った肌をさらして カララカララカララ 破れた赤い帆の帆綱を力いつばい引きしぼると 海水止の堰を喰ひ破って うな 帆船は風の唸る海へ出て行った せき ひろ それ旗を振れッ うた 勇ましく歌を唄ヘッ 朽ちてはゐるが元氣に風を孕んだ帆船は 白いしぶきを蹴って海へ出てゆく 寒冷な風の吹く荒神山の上で呼んでゐる 波のやうに元氣な叫喚に耳をそばだてよ ! 可哀想な女房や子供達が あんなにも背伸びをして 空高く呼んでゐるではないかー 遠い潮鳴の音を聞いたか ! 波の怒號するのを聞いたか 山の上の枯木の下に 枯木と一緒に雙手を振ってゐる女房子供の目の底には 火の粉のやうに海を走って行く 勇ましい帆船がいつまでも眼に寫ってゐたよ。 宿へ帰ったら、蒼ざめた男の顔が、・ほんやり靏草を吸っ て待っていた。 「宿の小母さんが迎いに来て、ビックリしちゃった。」 しらじら 私は子供のように涙が溢れた。何の涙でもない。白々と もろて あお あふ
てこんななのだろう : ちこんだように、ドロドロしている私である。いやな私な 「フンそんなに浜は不景気かね。」 、牛込の男の下宿に寄ってみる。不在。本箱の上に、お 肌をぬいで、髪に油を塗りながら、お久さんは髪をすい母さんからの手紙が来ていた。男が開いてみたのか、開封 ていた。 してあった。養父の代筆で、 あれが肺病だって言って 「何だよお前さんのその言いかたは 来たが本当か、一番おそろしい病気だから用心してくれ、 お婆さんが台所で釜を洗いながらお久さんに怒ってい たった一人のお前にうつると、皆がどんなに心配するかわ この・ころこんこう た。雨が降っている。うっとうしい四月の雨だ。路地のな からない、お母さんはとても心配して、此頃は金光様をし かの家の前に、雨に濡れながら野菜売りが車を引いて通る。んじんしている、一度かえって来てはどうか、色々話もあ 神様以上の気持ちなのか、お君さんは笑って、八百屋とる。 まあ ! 何と言う事だろう、そんなにまでしなく のんびり話をしていた。 ても別れているのに、古里の私の両親のもとへ、あの男は 「いまは丁度何でも美味しい頃なのね。」と言っている。 自分が病気だからって言ってやったのかしら : : : よけいな まち 雨の中を、夕方、お久さんと御亭主とが街へ仕事に出ておせつかいだと思った。宿の女中の話では、「よく女の方 テープル 行った。婆さんと、子供とお君さんと私と四人で卓子を囲がいらっしてお泊りになるんですよ。」と言っている。・フ んで御飯をたべる。 ドウ酒を買って来た、いままでのなごやかな気持ちが急に 「随分せいせいするよ、おしめりはあるし、二人は出て行くらくらして来る。苦労をしあった人だのに何と言うこと たど ったし。」 だろう。よくもこんなところまで辿って来たものだと思 お婆さんがいかにもせいせいしたようにこんなことを言う。街を吹く五月のすがすがしい風は、秋のように身にし みるなり。 記 夜。 浪 ( 五月 x 日 ) 放新宿の以前いた家へ行ってみた。お由さんだけがのこっ ていて古い女達は皆いなくなってしまっていた。新らしい 女が随分ふえていて、おムさんは病気で二階に臥せ 0 てい た。ーー又明日から私は新宿で働くのだ。まるでに落 ( 五月 x 日 ) っこ 0 はだ やおや ここの子供とかるめらを焼いて遊ぶ。
いいのよ。」 雪の音かしら、窓に何かササササと当っている音がして 「たったこれだけじゃ、心細いわねえ・ : : こ 私は鉛筆のしんでっぺたを突っきながら、つんと鼻の いやにお 「シクラメンって厭な匂いだ。」 高い時ちゃんの顔をこっちに向けて日記をつけた。 まくら 時ちゃんは、枕元のいシクラメンの鉢をそっと押しゃ 「炭はあるの ? 」 かんざしくし 「炭は、階下の小母さんが取りつけの所から月末払いで取ると、簪も櫛も枕元へ抜いて、「さあ寝んねしましよう。」 ってやるって言ったわ。」 と言った。暗い部屋の中では、花の匂いだけが強く私達を 時ちゃんは安心したように、銀杏がえしのびんを細い指なやませた。 で持ち上げて、私の背中に凭れている。 「大丈夫ってばさ、明日からうんと働くから元気を出して ( 二月 x 日 ) あわゆき 勉強してね。浅草を止めて、日比谷あたりのカフェーなら 積る淡雪積ると見れば 通いでいいだろうと思うの、酒の客が多いんだって、あの 消えてあとなき儚なさよ 柳なよかに搖れぬれど 「通いだと二人とも楽しみよねえ、一人じゃ御飯もおいし 春は心のかはたれに : うた くないじゃないの。」 時ちゃんの唄声でふっと目を覚ますと、枕元に白い素足 はぎわら はんざっ 私は煩雑だった今日の日を思った。ーーー萩原さんとこのがならんでいた。 えかき お節ちゃんに、お米も二升もらったり、画描の溝口さん「あら、もう起きたの。」 は、折角北海道から送って来たと言う餅を、風呂敷に分け「雪が降ってるのよ。」 起きると湯もわいていて、窓外の板の上で、御飯がグッ てくれたり、指輪を質屋へ持って行ってくれたりした。 「当分二人で一生懸命働こうね、ほんとに元気を出してグッ白く吹きこ・ほれていた。 「炭はもう来たのかしら ? 」 ぞうしき 「階下の小母さんに借りたのよ。」 「雑色のお母さんのところへは、月に三十円も送ればいし いつも台所をした事のない時ちゃんが、珍らしそうに、 んだから。」 「私も少し位は原稿料がはいるんだから、沈黙 0 て働けば茶碗をふいていた。久し振りに儺の額程の茶・フ台の上で、 した いらよう もち ふろしき